宗右衛門、患いて候 (5)
「こうした症例は診たことが無いわけじゃないよ。こう見えてもかなりの患者を診てきたからね。ただ……」
「……ただ?」
「残念だが治療法はまるで分からない。それどころか、これには正確な病名すら無いのが現実だ」
清兵衛からこれまでのいきさつをすべて聞き、宗右衛門本人の状態もよくよくに確認して後、紅卯は文机のところへ清兵衛を座らせると、向かい合って宗右衛門に関する話をし始めた。
宗右衛門のほうはそのままにしていて勝手に何かされても困るので、紅卯は箪笥の脇に置いていた将棋盤と駒を渡し「ちょっとひとりで遊んでいろ」と言い聞かせて放置している。
「知っての通り、私は辰由先生の弟子だ。先生に付いてよくこんな症状の患者を診たもんさ。先生も腕が良いので評判だっただけに、大名、旗本、御家人といった武家の屋敷にも何度となく足を運んだよ。どこの御家かとか、誰であったかなんてのは口が裂けても言えないがね。で、大抵は普通の病さ。変な言い方だがよく聞く普通の病。風邪や癪や消渇とかだな。こういったものは適切な処置と食事の改善に加え、症状に合わせた薬を吞んで養生していれば大概は治まる。しかしもう分かるとは思うが、こうした例は特別なんだ。身を患った者への対処に比べて、宗右衛門さんみたいに気を患った場合というのは……」
歯切れも悪く話す紅卯の言葉を、それでも清兵衛は黙って聞くとわずかに間を置き、暗然とした面持ちで語り出した。
「……先生のお話、どれも今までに掛かりし医師の誰もが口にせる内容と寸分違わぬものにて……やはり、若様の病は不治にござりまするか……?」
「あー……治らんとは断言できないが、同じくらいに治るとも断言できないとしか私には……」
「若様の病を治さんと今までに五十を超える医師を頼りましたが皆、口を揃えて治療の術無し……回復の見込み無しと……拙者、最後の拠り所にと錚々たる大名家からの信任至大なる辰由先生の御高名にすがりましたるが、その高弟なりし紅卯先生をしてさえも、諦めざるを得ないと……申されまするか……?」
ここまで言われると、紅卯としても無下には出来ない。
例え、ほとんど希望が持てない患者といえど見捨てられないのと同じく、こうも忠義を貫く姿勢を見せられては、下手な対応をすれば清兵衛は腹のひとつも切りかねないと感じ、なおさらに紅卯はどうしたものやらと頭を悩ませる。
ただし、とうの昔に紅卯の腹自体は決まっていた。ゆえに、
その後の話の流れも同じように決まっていたと言えたかもしれない。
うなだれた様子の清兵衛を見据えつつ、紅卯は静かに、しかし明確な口調で語った。
「……清兵衛さん、ひとつだけはっきりさせておきたいことがあるが……」
「……は?」
「宗右衛門さんの病を治せるか治せないかについては断言できないが、他のことならひとつだけ、命を懸けて断言できるよ」
「と……申されますと……?」
「私は絶対に匙を投げないということだ」
「……!」
この一言に、それまで暗く澱んでいた清兵衛の瞳へ、一瞬にして零れんばかりの輝きが宿ったのは言うまでもないだろう。
「そ、それは……それは先生、まことにござりまするか!!」
「命を懸けると言ったのが聞こえなかったか?」
「いえ、いえ、決して……この奥田清兵衛、はっきりとお聞きいたしました!」
「なら本当に決まっている。安心していいよ。私だって医者の端くれ。そうまで懇望されながら治療を断るなぞ、私自身の矜持が許さない。意地でも治療の方途を探してみせるさ」
「おお……おお、紅卯先生、かたじけない……かたじけない……」
言いながら何度も頭を下げる清兵衛に、紅卯はどうにも面映ゆくなってしまい、視線と一緒に話を逸らす。
とは言っても、正確には話を戻したというべきかもしれないが。
「……で、まあさっきは病名も治療法も無いと言いはしたが、まったく当てが無いというわけでもないんだ」
「な、なんと、では……!」
「焦るんじゃないよ清兵衛さん。あくまでも私が言っているのは取っ掛かりがあるというだけの話でしかない。とりあえず順序立てて話していくから落ち着いて聞きな」
「あ……はあ……」
「気の病というと、よく知られているのはふたつほどある。乱心と気鬱さ。宗右衛門さんは相当な数の医者に診られたんだから、そのうちの何人かはこの病名を口にしてたんじゃないかい?」
そう紅卯が問うてみると案の定、清兵衛はやはり心当たりがあったようで首を大きく縦に振り、口を開いた。
「はい、はい、仰る通りで……幾人かの医師がそのようなことを確かに申しておりました。若様の場合、そのどちらともつかないと言って頭を悩ませた様子で……」
「まあ、それなりの医者ならまずそこの可能性から考えるだろうね。けど知っている範囲の知識だけでどうにかしようとすれば手詰まりになるのも已む無しさ。特に経験の浅い医者ではなおさらだ。ほとんどの医者は書物や師から得た知識だけで病を診断する。それ自体は間違いではないが、そうなると師事した医者の知識と、読んできた書物の量によって診断能力に大きな差が出るのは明白。その点、手前味噌だが私は師も優秀なうえ、目にしてきた医学書の数も百は下らない。無論、書物に関しては良書も悪書もあるから数を読んでいれば良いというわけではないが、判断材料は多いのに越したことはないからね」
「なるほど……」
「さて、下らん自慢はこの辺りにして具体的な話に戻るとしようか。私が辰由先生に付いて何人と診てきたこの手の患者や、読み込んできた医学書の知識を総合して思うところの推測なんだが……宗右衛門さんの症状は、その特徴こそかなり特異ではあるが、恐らくは気鬱の一種ではないかと考えている」
「……気鬱……でござりますか?」
「そうだ。清兵衛さんから聞いた事情を含めて考えるに、ほぼ間違い無く」
「や、しかし……若様のご様子は拙者の知る気鬱の有り様と比べると、ひどく違いが多いようにも思えますが……」
途端、軽い反論を打った清兵衛に、またもや冷然とした視線を投げて紅卯が、
「……だから、始めに『特異ではあるが』と断わったろうに……」
言い終わりざま、聞こえよがしの舌打ちを鳴らしてそう答えるのを聞くや、
「あ、これはしたり……拙者如きが、まさしく『釈迦に説法』にござりました……」
清兵衛は慌てて謝意を口にし、身を縮こめる。
やはりこの鈴置紅卯なる仁は、医者としてはともかく、人間としてはいかんせん扱いが難しいと、心中で嘆息しながら。
そんな清兵衛の思いも知らず、紅卯はさらに話を続けた。
「過剰な義務や責任、対人関係による精神的疲労、その他にも様々な要因で蓄積した心労……こうしたものが単一、あるいは複合して発症するのが気鬱の病。まあ、このくらいのことは少々医学を齧った人間ならば誰でも知ってはいるが、今回問題なのはその症状。宗右衛門さんの症状の、特殊性の部分にあるんだ」
「……はあ」
「一般に気鬱の症状の代表例としては頭痛、頭重、上気、眩暈、息切れ、肩の凝り、動悸、健忘、不安、焦燥……少し抜き出しただけでもこれだけの種類がある。そして気鬱の患者はこれらの症状が万遍無く出るというわけではなく、いくつかが軽重の差を持って表出するのが典型。例えば患者によっては重度の頭痛と不安、軽度の動悸といった組み合わせの者もいるし、重度の上気、動悸、焦燥という組み合わせであった場合などは、時として気鬱から乱心に病名が変わることもあるから油断がならない」
「ははあ……これは何とも……気鬱の病ひとつ取っても、これほど奥深いものなのでござりまするか……」
「そういうこと。分かりやすい例を挙げれば、もう何十年も前だったかに取り潰された播磨赤穂藩。あそこの殿さんが乱心して、殿中で吉良の殿さんを斬りつけたとかって事件があったろう?」
「……浅野内匠頭様のことですな……」
「家臣や領民のことも考えず自分勝手で刀を抜くような馬鹿に『様』付けをする必要なんぞ無いよ。世間じゃどうも美談にされてるらしいけどね」
「……」
「あれなんかが、まさに気鬱から乱心へという病状の変異を示す顕著な例さ。そして最悪の例でもある。ただし不幸中の幸いと言ってよいやら迷うけど、宗右衛門さんはこの例には当てはまらない。そこについては安心してくれていいよ」
「……」
「……?」
紅卯としては自分なりに御家大事と思っているだろう清兵衛へ気を遣い、浅野内匠頭の話を例に出したのだが、武士である清兵衛からすると紅卯の悪態は立場的に決して素直にうなずける手合いのものではなかったため、不愉快さから意識せず無言の状態になってしまったのだが、その辺りの心情が掴めない紅卯は奇妙な沈黙にしばし純粋な非理解が原因となり、共に口を閉ざした状態が続くことになる。
こうしたところは、如何にも立場の違いによる価値観の絶対的相違だと言えよう。
とはいえ、互いに黙り込んでいても仕方がないと思う気持ちは同じであったようで、それほど間を置かず再び紅卯から話を再開し、清兵衛もそれに沿う形となった。
「……ともかく、話が少しばかりずれてしまったけど、宗右衛門さんは恐らく珍しい型の気鬱だろうというのが私の見解だ。先に話した通り、気鬱の症状はいくつもあるが、そのどれがどのくらいの割合でどの程度の強さで出るかは個人差がある。そこを思うと、少し極端な憶測が頭に浮かぶんだよ」
「極端な憶測……?」
「本当に極端な話だが、気鬱の症状のひとつである健忘。もしこれだけが症状として現れたとしたら……それも、とてつもなく重度の症状として……そう考えた時、その患者を診た医者は果たしてそれを気鬱だと判断出来るかということなんだ。恐らくは自分に置き換えて考えたのなら十中八九、気鬱でなく耄碌と誤診をしてしまうんではないかと思う」
「耄碌……ああ、確かに表面上の症状が健忘だけでは、そう診断してもおかしくないですな……それどころか、よほどそのほうが正しい診断とも思えます……」
少しばかり解説を挟むと、耄碌とは老いて頭や体の機能が低下することを指し、昔はれっきとした病名として扱われていた。
さらに、ここが重要な点であるが、(老い)という表現が頭にあるものの、実際には何を、どこまでを、どの程度を基準にして(老い)と判断するかが相当に曖昧なのである。
平均寿命の短かった昔は四十路に入ればもう完全に年寄りと見られたし、現代よりもなおのこと(老い)の基準となる歳月が微妙かつ主観的判断に因っていた。
そのため、実際には耄碌は病名であり、症状であるという受け止め方がなされることも多く、(老い)という部分ついては(経年に限らず、その他、何らかの原因による肉体、頭脳の機能低下)といった広義の表現に用いられていたのである。
以上、解説終了。
「そして、これが核心になるわけだが、もっとこの話を突き詰めてゆくと、同じ健忘でも『今さっきのことを忘れる』のか、『何年も前のことを忘れる』のか、あるいはその両方か。もっと言えば『完全に忘れる』のか、『一時的に忘れる』のか。たったひとつの症状の軽重強弱だけでこんなにも差異が出る。だからこそ、宗右衛門さんの病は気鬱だと私は思う。少ないながらも似たような症状の患者を診たことがあるし、まずこの診断で間違い無いだろう。恐らく、心が本能的に回避したのさ。『現実』という地獄を……そうでもしないと、正気を保てない……まあ今の状態だって正気だと言えるかどうか怪しいが、最悪の結末……乱心を回避するため、己で己を壊してまで止めたんだよ。心の働きを壊して。立派なものさね。周囲の人々に迷惑が及ばぬようにと、そこまで徹底的に自分を殺せる人なんてそういない。御家と家臣と弟さんと、全部を背負い込んで潰されたんだろう。潰されると分かっていて背負ったんだろう。ほんと、死人に鞭打つのは趣味じゃないが、生きていたらどこかの馬鹿殿に爪の垢を煎じて吞ませてやりた……」
言い止して、ふと清兵衛に視線を向けた紅卯は絶句した。
つい先ほどまで神妙に話を聞いていたはずの清兵衛が、
泣いていたのである。
しかも男泣きに泣いていた。声を殺し、物音ひとつ立てず、はらはらと涙を流して。
普通に宗右衛門の病について話していた自覚しか無かった紅卯にとってこれは予想外も予想外であったらしく、理由こそ違えど、またもや両者の間を沈黙が流れる。
これもやはり双方の価値観の相違によるところだろう。
清兵衛からすれば、家中の諍いが幼少の砌から見守ってきた宗右衛門をそれほどまでに追い詰めていたこと、辛酸痛苦を与えていたこと、そのうえですべてを抱え、押し潰されてしまったこと。こうした事実を眼前に突き付けられたようなもので、とても感情を抑え切れなかった。
必然の涙と言える。
ではあるが、
紅卯からすれば、泣かれても何が何やら分からなかったし、失礼にも(まさか清兵衛さんも気を病んでいるのか……?)などと勘繰りすらした。
ただ、今は清兵衛の感情が掻き乱されていることに関わるより、先へ話を進めるのが自分の仕事。それ以外のことについては無関係を通したほうが利口だと思い、紅卯はあえて清兵衛の様子を無視して話を続ける。
「……で、だけど……結論からして運の良いことがひとつ。言ったように、宗右衛門さんと似た症状の患者を診た経験がある分、対応策はいくつか考えられること。だが運の悪いこともひとつあるが……」
「は、で、では……様の治療は可能なのでござりまするかっ!?」
しゃくりあげつつ、吉報への喜びも明らかに清兵衛は問いを発したものの、
「都合の良いところだけを聞くものじゃないよ清兵衛さん。私は、対応策があるとは言ったが、一緒に運の悪いこともあると言ったはずだ」
まだ今の段階で変な希望を持たれても困ると、ひとまず清兵衛の抱いた過剰な希望を打ち消すように一言、発してなお紅卯は言葉を継いだ。
「対応策はあるが、それが必ずしも清兵衛さんたちの望むものかは別の話だ。そこがつまり運の悪いこと。誰にとって運が悪いかは、受け取り方によりけりだろうけど」
「え……それは、一体……どういう意味で?」
「私が見てきた患者の中で宗右衛門さんに似た症例への対応策は知る限り、たったの一種類」
「……?」
「座敷牢への押し込め。これ以外の対応は残念ながら見たことが無い」
「座敷牢っ!!」
この紅卯の発言に対する清兵衛の反応が、明らかに座敷牢という単語に対し憤慨する意思から来ていると即座に分かったため、これをなだめすかすのに紅卯は相当の労力を要することになる。
「あー……つまりどこも基本的には御家が第一だからね。常に虎視眈々と諸藩を改易する口実を探している幕府に対して、弱みを見せないためには主君であろうが嫡男であろうが難癖をつけられる要素があれば、まずは安全を考えて座敷牢に押し込める。当人も周囲の人間も気の毒ではあるが、これも仕方がない部分があるのさ。どんなに綺麗ごとを並べたところで、改易されれば困るのは御家に関係する人間すべてなのは事実であるし……臭いものに蓋っていうやり方は私も好きじゃないが、それで路頭に迷わずに済む人間がいるのなら、良いか悪いかは別として正解のひとつと言わざるを得ないと思うんだが……」
「さ、さはさりながら、若様を押し込めるなどっ!!」
「清兵衛さん、あんたの忠義心には感服するよ。これは嫌味でも何でもなくね。けど御家大事も事実だろう。それに……これは私が説明せんでも分かっているはずだが、別に座敷牢への押し込めは死ぬまでと限ったことじゃない。容態が安定したならまた自由の身にしてもいいわけだし、とりあえず症状が安定していない今だけ、万が一のことが無いように先手を打っておくのは決して臣下の道に背くことではないと……」
「已んぬる哉っっ!!」
話の途中であったところを、紅卯は腰を折られた。が、それも仕方が無かったろう。
清兵衛が激して発した一声は、抜き身の一閃が如く紅卯の諭すような話を斬り止めてしまうほどの気迫と、意志を含んでいたのだから。
そして、そこから代わって語り出した清兵衛の言葉も含めるなら、紅卯がここで話を止められたのもひとつの定まった流れであったのかもしれなかった。
「若様に限り、万が一などということは断じてござらん。さればこそ若様は帯刀すらせず……旗本大場家四千六百石の嫡男の身にありながら竹光などを御腰に召されて、それでも……それでもなお不足があると仰いまするなら、万が一をご懸念と仰りますなら、我が一命をもって左様なことは断じて無しと保障仕る。お望みとあらば、すぐにも先生の面前にてこの皺腹を掻っ斬り、後顧の憂い無きを証明致し……」
「あーっ、もうっっ!!」
すわ、脇差に手を掛けて今まさに鯉口を切ろうかとした清兵衛に向かい、今度は逆に紅卯が叫声一句で、話と清兵衛の危うい動作を同時に止める。
瞬間、紅卯は固まった清兵衛に対し、そのまま言葉を継いだ。
「分かった……すべて分かった。私が折れよう。今後も宗右衛門さんは自由なままで結構。そこまで覚悟を決められたのでは、もう私の意見する余地は無いよ……」
「そ……それは……まことで……?」
「侍の清兵衛さんに侍の矜持があるのと同じように、医者の私には医者としての矜持がある。二言が無いのは、お武家さんに限った取り所じゃあないんだよっ!!」
啖呵を切って紅卯は答える。
これを聞いてようやく清兵衛も落ち着きを取り戻し、脇差の柄に掛けていた手を離すと、また姿勢を正して紅卯に相対し、
「……先生……奥田清兵衛この御恩、死んでも……死んでも忘れ申さじ……かたじけない……まことに……かたじけない……」
額を板間に擦り付けんばかりにして清兵衛は繰り返す。
一方、紅卯はというと、
長考熟慮の疲労に加え、清兵衛の重たすぎる忠義心の体現による精神疲労で磨り減らされた神経に大きく溜め息を漏らした。
それから、
「……でもな清兵衛さん。こちらも何から何までお好きなように……とはいかない。とりあえず、ふたつ条件がある。ひとつは、今まで通り刀は竹光のままということ。さらにひとつは、日に一回は私のとこへ顔を出すこと。もちろん、宗右衛門さん本人がね。薬も出すが、とにかく今は手探りだ。慎重に容態を診つつ、色々と試していく必要がある。この二点だけは譲れない。その代り私も必死で治療に当たる。だから、そこだけはよくよくお願いをしておこう……」
気だるそうに言い加えてゆく。
その間、清兵衛は声も出さず、ただただ頭を何度も下げるばかりであった。