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花畑宗右衛門 乱刃録  作者: 花街ナズナ
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宗右衛門、患いて候 (4)

「……竹光……太刀だけじゃなく、脇差まで……?」

宅内に入り、若侍から渡された刀を確かめた紅卯の驚きは相当なものだった。

第一に、武士がその魂とも呼ぶ刀を何の躊躇いも無く、自分に渡してきたこと。

第二に、その刀が大小どちらも竹光であったということ。

しかも小柄すら無い。すなわち刃物と呼べる類は皆無。

この二点だけでも、紅卯の受けた衝撃は並大抵ではなかったと言えよう。

ところで、

紅卯が刀を抜いた抜かないで異常なまでに激怒したのには当然の訳がある。

これは倫理観や道徳観に根差した士道独特の考えであるが、刀をみだりに鞘から抜くことは決して褒められた行為ではない。

俗に刀を人斬り包丁と呼ぶように、鞘から抜かれた本身は武士の魂などという高尚な存在ではなく、単なる殺しの道具へ成り下がるという考えが含まれているのである。

抜き身を晒したがるは、すなわち己が心根の未熟を晒したがるに似たり。

それゆえ、如何な武士といえども刀は手入れや真剣による稽古の際くらいにしか抜く機会など滅多にないし、また、あってはならぬものだとお知り置き願いたい。

と、横道に逸れた話を戻し、

刀を検め終えた紅卯へ、清兵衛は静かに口を開く。

「左様にござります。ゆえに、若様は往来にて白刃を晒してはおりませぬ。その点、ご懸念無用にござりますれば、どうぞご安心下され」

「いや、こちらこそ勝手に抜刀したものだと決めつけて申し訳も無い……特に若様とやらにはひどいことを……」

清兵衛のほうは別段、責めるつもりの言葉でもなかったが、紅卯自身は己の思い込みを恥じて謝罪した。

まず清兵衛に対して首を垂れ、それから若侍に向かい、指をついて深く頭を下げる。

しかし、ここで済んでいれば紅卯としては楽だったものを、そうは問屋が卸さない。

「ううん。せんせえは悪くないの。だって、よおく考えたら勝手に枝を切っちゃったのは私が悪いから。だから、ごめんなさい」

言って、若侍も板間に額をぶつけるような勢いで頭を下げた。

わざわざ紅卯が用意した座布団を退け、紅卯と同じく板間へ直に正座をして。

座布団は四枚あったが、紅卯は清兵衛と若侍にだけ座布団を勧め、自分は遠慮をし、板間の上に正座をしていたものを、若侍の謝罪で結局は御破算である。

「まあ、ともかく若様も先生も頭をお上げになって……まだまだせねばならぬお話がござりますゆえ、この件はこれにて……ということにいたしましょう」

鏡写しのように向かい合って頭を下げた紅卯と若侍に、こう清兵衛が声を掛けてくれなければ、恐らく両者は揃っていつまでも平伏したままであったかもしれない。

特に、何の衒いも無く医者風情、女風情の自分に対し平身低頭する若侍に、慙愧の念が蒸し返され、いたたまれない気持ちが胸を満たしていた紅卯などは。

極端を言って、紅卯はいっそ無礼討ちで斬り捨てられていたほうが気楽だったとさえ思っていた。

医者であるとはいえ、誇りを重んじる武士の胸ぐらを掴みあげるなど、どう考えても許される行為ではない。しかも紅卯は女の身である。

常識的には絶対に許されない真似であるし、紅卯もそれは承知でやったことだった。

是は是、非は非。悪行はそれが如何に身分高き者のしたことでも、躊躇も逡巡も無く喝破し、時には先ほどのように腕尽くにもなる。

(二本差しが怖くて医者が出来るか)と、紅卯は日頃から人にも自らにも言い聞かせているが、これはすべて彼女自身の曲げられない矜持であり、信念であり、生きる上での大前提なのだが、それゆえに自分が間違っていた今回のような場合、己が粗忽に憤懣遣る方無い。慙愧に堪えない。大川まで走っていって跳び込んでしまいたいと、身悶えするほどの恥じ入り様であった。

まあ傍からもそう見えたかは別として。

事実、若侍へ平伏しながらも紅卯は自身の軽率と浅慮に対して湧き上がる怒りから、しきりに舌打ちを漏らしていた。

それでもようやく三人は話し合える体勢に身の位置を改め、少しずつだが会話を進め始める。

「では……色々ごたついて出しそびれてしまったが、どうぞ。ただの白湯だが……」

そう言うと紅卯は当初、奥の間から持って出てきた盆から茶碗を取り、ふたりの前へ差し出した。

「これは有り難い。何分、屋敷から籠を三つも乗り換えてこちらに伺いましたゆえ、ひどく喉が渇いておりました。お気遣い、痛み入りまする」

「見ての通りの貧乏暮しでね。茶のひとつも出せず申し訳ない。だが、病によっては茶が禁忌の場合もある。その辺り、医者の思慮だと受け取ってもらえると有り難い」

こんな調子で双方、相手の出方を見ながら探り探りの会話から始まる。

そして、具体的な話の口火は紅卯が切ることになった。

「ところで、ここまで籠を三つも乗り継いでとなると相当な遠方から来られたものと見受けるが、御国はどこか……差し支えなければ聞かせてもらえんか?」

「この期に及んで隠し立てすることなど何もござりませぬよ。先生にはすべて聞いていただくと決めており申したからな。で、どこからかと申されましたが、実は拙者も若様も向両国の屋敷から参りました」

「……は?」

「勘違いなされておられるようなので訂正いたすが、籠は(乗り継いだ)のでなく、(乗り換えた)のでござる。主家のことを知られぬよう図った一手にて……」

「ははあ、なるほど……しかし、同じ向両国の中にお屋敷があるとは、不思議な縁もあったものだね」

「おかげさまで、逆にこちらへ伺うには難儀をいたしました……まず両国橋を渡って一度両国に赴いてから浅草、汐入を通り過ぎて千住大橋を渡り、再び下総側へ戻って今度は鐘ヶ淵から本所を経て、ぐるりと巡ってやっと向両国は回向院のそばまで帰り着きましたる次第。いやはや……何とも手間の掛かることで……」

「それはまた……聞いただけでもこちらの尻まで痛くなるよ……」

苦笑しながら紅卯はこう言ったが、清兵衛は真剣そのものの顔をまるで崩さない。

恐らくはこれから場の空気が重たくなるような話が始まるのだろうと推察し、少しく緊張が緩めばと、このように冗談めいた返答をしたのだが、どうも効果は無かった。

つまりはそういったものが付け入れないほど、逼迫した話なのだろう。

思って、それをこれから聞かねばならないという事実に紅卯は嘆息しそうになるのを無理に抑え、誤魔化しに咳払いをひとつしてから話を再開した。

「……えーと……で、率直にお聞きするが、清兵衛さんはどこの御家にお仕えかね。ここいらは武家屋敷だらけでまったく見当がつかん。回向院廻りだけでも十や二十はあるし、とても勘では当てられそうにない」

「仰る通り。確かにこの近辺は屋敷がひしめいておりますゆえ、おかげで密かに抜け出すには好都合でござりました」

「でしょうな……」

「さて……長々と遠回りの話をいたしましたが、改めまして……」

言うや、清兵衛は整った形をなおもきちりと正して紅卯に相対し、

今日こんにちは御多忙のところへ押し掛けいたし、まこと失礼千万にて申し訳もござりませぬ。拙者は大場刑部少輔おおば ぎょうぶのしょう様が家臣にて、大場家側用人、名を奥田清兵衛と申する者。以後お見知り置かれて御別懇に願わしう存じます」

今まででも充分すぎるほど丁寧だったものをさらに堅苦しく名乗られたため、紅卯は何やら見えない手で首を絞めつけられているような息苦しさを感じたが、それも一時のこと。すぐに紅卯の頭は清兵衛が口にした名を反芻し、無意識にぶつぶつと呟きを漏らす。

「……大場……大場刑部……?」

瞬間、はっとなった紅卯は目を大きく見開いて、

「江戸町奉行の大場刑部さんかっ!」

叫ぶように言うのを聞き、清兵衛は静かに首を縦に振った。

「如何にも。御賢察、感服つかまつりました」

「や……賢察だの何だのではなくて、名を聞いて知っていたから頭に浮かんだだけのことだよ。それに名を知らなかったとしても順序立てて考えれば察しもつく」

紅卯の説明としてはこうである。

刑部というのは従五位の官位。これを授かる立場となるとまず限られており、およそ大名か大身の旗本と相場が決まっている。

さらにこの官職名からして、大名である確率は極めて低いことも紅卯は察していた。従五位下刑部少輔じゅごいのげ ぎょうぶのしょうとなると、一般には大身旗本が叙せられることが通例。とすれば、

あとは向両国に屋敷を持つ旗本の誰かだとまでは絞り込める。

そこまで読めればもう答えは目と鼻の先。

近年中に家中で病に伏した者がいる旗本を思い出せばいい。

だが、正解に辿り着いても紅卯の疑問が完全に晴れたわけではなかった。

「確か……大場刑部さんというと、次子でありながら家督を継いだとか。それも理由は嫡男が原因不明の病で倒れたためだと……すると、清兵衛さんが先刻から『若様』と呼んでるこの人は、もしや……」

「ご明察にござります」

「……嘘だろう……では病に罹った嫡子って、この……」

清兵衛の声も届いているのか怪しく、紅卯は混乱と当惑の入り混じった感情を露わに顔へ出し、若侍をじっと見つめる。

と、刹那、

紅卯へ混乱と当惑に重ね三つ目、吃驚を感情に加えた。

雰囲気も一変、迫力さえ漂う引き締まった表情に変じて若侍は形を改めて、

「本日、拝謁の栄に浴し、恐悦至極に存じ上げ奉ります。御前に侍りますは、大場家前当主、大場掃部頭久宗(おおば かもんのかみ ひさむね)が嫡男、大場宗右衛門久長(おおば そうえもん ひさなが)に御座ります。昨年来より病を得るに至って御役目を務むるに、不行き届きが有らば是、不忠の極みと存じ、まずは御役目大事と心得、家督を弟、大場刑部少輔宗直(おおば ぎょうぶのしょう むねなお)へ譲り渡し候えば、只今は御覧の通りの不調法。恐懼して、心底よりお詫び仕ります……」

ひと息でこの丁重にも長々とした挨拶を言い切るのを聞き、紅卯は驚愕の隠しようも無く、呆然となって眼前にひれ伏す若侍……宗右衛門をただ見つめるより他に無い。

するとあまりのことに硬直してしまった紅卯の耳へ清兵衛が、

「……上様の御前にいるのだと思っておられるのです。今、若様は……」

「えっ、う、上様って……私のことを将軍さんだと……?」

言ってきたのへ、紅卯は困惑しつつも問いを発したが、その目に入ってきた清兵衛の沈痛な表情を見ただけで、もはや答えは聞く必要も無かった。

そこで紅卯は思い切りをつけ、

「宗右衛門さん!」

伏したままの宗右衛門に呼び掛けてみると、

「……はあい?」

間の抜けた声と一緒に頭を上げた宗右衛門は、もう元の呆けた面相に戻っている。

が、すでに心構えをしていた紅卯はその変わり様を見て一瞬、驚きこそしたがすぐに気を張り直し、

「……これが最後の確認だ。宗右衛門さん、私の顔へ深く息を吸ってから吐きかけてくれないか?」

「いいですけどもお……なんで?」

「いいから!」

決然として言う紅卯の気迫のせいでもなかったろうが、宗右衛門は露の間、目を丸くしたと思うと、言われた通り深く大きく息を吸うや、ゆっくりと紅卯に向かって息を吐きかけた。

途端、

紅卯は(まさか)という思いと、(やはり)という思いを同時に抱き、

「……帯びてない……本当に……酒気をまるで帯びてない……」

「そりゃそですよお。だあって私ゃ、下戸ですもん」

呟くのを聞いた宗右衛門はそう言って、にっこりと微笑んだ。


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