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花畑宗右衛門 乱刃録  作者: 花街ナズナ
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宗右衛門、患いて候 (3)

隅田川を渡るための手段は当時、主に渡し船であり、橋に関しては江戸の防備上から長らく幕府によって千住大橋以外の架橋を認められずにいた。

しかし明暦三年に起きた『明暦の大火』をきっかけに、ようやく架橋が許されたのが両国橋である。

実は始めこそ『大橋』などという誰でも考えつきそうな平凡極まる名であったのが、西を武蔵の国、東を下総の国と跨いでいたことから自然、『両国橋』と呼ばれるようになり、以降元禄六年にまた新たな架橋が隅田川になされ、その橋の名称が新大橋と定まったのを境に、両国橋が正式な名称となった。

また、余談ながら隅田川への架橋がさらに増えてゆくと、吾妻橋より下流は『大川』と呼ばれるようなってゆく。

両国橋は前述したように西が武蔵、東が下総であるが、橋から地名が起きてこの橋の一帯は両国と呼ばれたが、東西どちらも両国では具合が悪いので、橋の西側を両国、東側を東両国もしくは向両国と区別した。ところが現在ではその向両国のほうが両国の名称を残している。何とも奇妙というか、時の流れが地名に及ぼす影響の不可思議さを表した顕著な事例のひとつと言えるかもしれない。

閑話休題。話を戻すこととしよう。

そんな両国橋の東側。すなわち向両国のその裏町、相生町あいきちょう三丁目のさらに裏手へ看板を掲げるひとりの医者がいた。

名を鈴置紅卯すずおき こううと名乗っているが、看板には名を書くでもなく、単にひらがなで『わずらひたれば、おたずねあるべし』とだけ書かれている。

古方派の漢方を学び、三年ほど前からこの場所へ開業しているが、常に台所を火の車が走り回っている有り様で、口さがない町人の一部には、「口に糊する病人がいるとはよく聞くが、向両国には口に糊する医者がいる」などと悪しざまに罵る輩がいるのも確かであった。

だがそれも一部のこと。大半の町人からは大変に評判が良い。

聞かれる話のひとつには、夜中に半狂乱となった母親が蒼ざめた顔でぐったりとした子供を連れて訪れた時、すぐさま戸を開けて招き入れると子供を寝かせて様子を見、何やら薬湯を吞ませてから、夜が明けるまで母親と一緒に一睡もせず、寝ずの看病をしてくれたという。

そうして日も登り始めた頃、子供は血色も回復し、気息奄々としていた当初の様が嘘のように安らかな寝息を立てるのを確認するや、「昼まで寝かせておけば勝手に目を覚ます。そうしたら連れて帰れ。今後はもっときちんと飯を喰わせろ」と強い口調で言ったとか。

さらに昼になって実際、子供が目を覚ますと母親は何度も頭を下げて礼を言ったが、それには聞く耳も持たず「薬礼」と冷淡に言って右手を差し出したものの、手の上へ母親がおずおずと四文銭五枚、一文銭十一枚という、懐の苦しさを物語る少額の金銭を乗せるのを見て、舌打ちをひとつ漏らすや一言、「多すぎだ」と言って一文だけを摘み上げ、残りはそっくり返してしまったという。

ちなみに今でもよく知られる窮民救済を目的とした医療施設『小石川養生所』はこの当時すでに運営はされていたが、皮肉にもその高尚な創設理念がため、実際に治療を受けるのは非常に困難であった。

無償と言えば聞こえはいいが、それゆえ常に満所の状態で、よほど運が良く無ければ入所など出来なかったのが現実である。

それだけにこうした善意の医者を、貧しい傷病人たちがどれほど有り難く感じたかは想像するも容易いだろう。

以来、「口と態度は横柄だが、腕は確かで心根も優しい」と評判になり、訪れる患者は日に日に増えたが、台所はますます火の車が縦横に往来した。

これはひとえに、金の無い患者からはほとんど代金らしき代金を取らなかったことが大きいのだが、さりとて紅卯もそのやり方を断固として改めなかったのだから致し方無いと言える。

おかげで町医者としては町民たちの……特に貧しい人々に愛されることとなったが、当の紅卯からすればそれは自分の首を絞める縄がより太くなるだけでしかなかった。

にもかかわらず、紅卯はいつでもそれらをひっくるめ、舌打ちひとつで済ませていたのは言うまでも無い。

さて、

そんな汲々とした日々を送っていた紅卯のもとに、今日も患者が訪れる。

ただし、後にこの患者がよもや紅卯へ大いなる災いを及ぼすことになろうとは、今は誰ひとりとして知る者はいない。

紅卯も、その患者自身も。

「御免下され」

思えば、その呼び声がすべての始まりである。

紅卯宅の外にはふたりの侍。どちらも見るから仕立ての良い着物と袴に大小を帯び、何とも姿容は立派だが、歳の離れが大きいのは一見して目についた。

ひとりは小太りで背が低く、眉墨を引き間違えたのかと思うほど太く、黒々とした眉とは対照的に、髪は月代を剃る必要も無さそうとばかりに薄くなった年嵩の武士。

頭のてっぺんへ乗った丁髷も小さく、こめかみ辺りの髪は真白く、それ以外の部分もいわゆる胡麻塩頭の体で、寄る年波には勝てぬといった様子である。

対して今ひとりの侍はといえば、ひょろりと背が高く、長身痩躯を文字通り体現したような体格。

首から下の身なりは連れの老侍同様にきちりとしているが、頭のほうの手入れは疎からしく月代が伸びきり、どうにも首と胴の釣り合いが取れていない。

さりながら血色も肌艶も良く、目鼻立ちの整ったその風貌はどことなく人好きのする愛嬌めいた印象を感じさせる変わった人物でもあった。

歳の頃は三十手前といったところだろうか。少なくとも、四十路の声を聞くのはまだ当分の時が必要であるように見える。

玄関で呼び声を張り上げている老侍を気にもせず、紅卯宅の敷地に生えた一本の梅の樹を見上げ、何やらうっとりと枝先のつぼみを見つめていた。

するとしばしして、

「戸は開いてるから勝手に入れ。私は今、ちょっと手が離せないから少しばかり中で待っていろ」

そう答えが戻ってきたもので、老侍は一瞬、(なんと無礼な……)と思ったが、事前にこの紅卯という医者の人物は聞き及んでいたため、ひと息ついて気を落ち着かせると言われた通り、

「では、失礼を致す」

と、形ばかりの返事をして戸を開け、老侍ひとりだけまず宅内へと足を踏み入れた。

外観からおよその間取りは想像していたが、やはり中は特別に広くはない。

だからといって狭いのかと言われればそこまででもない。町医者の宅としては至って普通だというべきだろう。畳も無い板の間だが、八畳ほどの広さは優にある。

そこに畳んだ布団二組と重ねた座布団が四枚、右手に文机がひとつ。

左手の壁側には無数の小さな引き出しを備えた箪笥が二棹あり、その他は奥へと続くらしき板戸があるばかり。昼の時分だというのに窓ひとつ無いせいもあって薄暗く、

お世辞にも居心地が良いとは言えず、どうにも落ち着かないのが難点であろうか。

などと、そぞろな感想を老侍が抱いたのとほぼ同時、

「おや、二本差しかい。これは珍しい患者が来たもんだな」

はたと気付くや、すでに奥の戸を開けて家主が顔を出し、これまた世辞にも丁寧とは言いかねる言葉が飛んできたのへ再び立腹しそうになったものだが、その前からすでに感じ取っていた違和感の正体を知り、老侍は怒りよりもまず驚きが先行した。

見れば、奥から横着にも足でもって板戸を開け、手にふたつ茶碗を載せた盆を持って現れたその人物が、見紛うべくも無く明らかな女人であったからである。

しかも見たところひどく若い。いや、恐ろしく若い。いや、有り得ないほどに若い。

医者といえば普通、師に仕えて長年の修業を経、医学を修めたるを認められて始めて医者として独り立ちが出来る。

平均し、独立開業する医者の年齢はこうした諸事情から若くても四十辺りなら上々といった世界。そこへいくと、

目の前に現れた女の歳はどう大きく見積もっても三十すらほど遠い。

長い黒髪は垂らし、先を輪にして結わえた玉結び。

愛想の欠片も無い表情を除けば肌は抜けるように白く、綺麗な卵型の輪郭に切れ長で黒目がちな双眸と、すらりとした鼻、紅をささずとも薄い茜色を帯びた唇とが整然と配置されたその容貌は、贔屓目など無くとも『器量好し』の部類に入る。

わざわざそのように仕上げたのか、または元からそうなのか、極端に袖の短い濃紺の小袖。それへ白い前掛けを付けている。部屋を含め、紅卯当人も質素というだけで、すべてに洗いや掃除が行き届き、清浄に保たれているのは医者の医者たる所以か。

されど、老侍は前述の理由から、やはり疑問を感ぜずにはいられなかった。

果たして女子おんなごの医者などというものが本当に存在するのかと。

もしかするとこの女子は手伝いの下女か助手ではないのかと。

けれども、

「それで、体のどこら辺りの調子が悪くて訪ねてきたんだね。とりあえず体のどこが痛むだの苦しいだの、なるべく具体的に言ってくれると、こちらとしては診断するに手間の省けて有り難いんだが……」

言いながら運んできた盆を無造作に床へ置きつつ、明らかに観察する眼で自分を見てくるこの女子の存在と態度に、老侍はしばし思考が乱れて言葉を失っていたが、すぐさま雑考を払拭し、

「あ、いや……患いたるは確かなれども、それは拙者ではござらん。実は少々難しき仕儀ゆえ、方々へと手を尽くして良き医師をと調べおりましたるところ、拙者が懇意の知己から鈴置辰由すずおき こうゆうなる御医師を薦められ、お住まいがあると聞いた赤根山近くの人継村へ足を運びましたが、先生はすでにご隠居の身とのことで、ならば誰ぞ他の医師をご紹介願いたいと事情をお話しいたしましたれば、こちらの紅卯先生を推薦されまして、このように紹介状も……」

こう返答しつつ、懐中から一通の書状を取り出したものだが、差し出されるより先に女はそれを老侍の手から取り上げ、表裏に書かれた文字を見るや勝手に中身を開いて読み始めると納得したような調子で、

「なるほど……確かに、このさも『達筆だろう』って自慢げな字は辰由先生のものに間違い無い……にしてもあの人は相変わらず人のことを勝手に紹介なぞして、困ったものだな……」

言って、如何にも忌々しそうな表情を浮かべて小さく舌打ちを漏らす。

この態度にはさしもの老侍も唖然としてしまったが、そこは年の功だろうか。まずは先刻から口にしている内容を考えてもまず間違い無いとは思うが、それでも確認だけはと思い、今さらながら改めて、

「えー……で、江戸でも名高い辰由先生の高弟だと聞き及びまする紅卯先生なる御仁はいずれに……?」

「あからさまに迷いのある問い方をしてくるね。思うに、もう察しはついているが、はっきり答えを聞かんと納得しかねる……と言ったところか?」

「……は?」

問われながらも奪い取った書状になお目を通しつつ、女は声だけで返答した。

「高弟かどうかは知らないが、如何にも私は辰由先生の弟子で名を紅卯という。まあそちらの気持ちは分かるつもりだよ。弟子の私が言うのも何だが、あの名医と名高い辰由先生に紹介された医者が、よもや女だとは思わなかったんだろう?」

「……」

まるで心の内を見透かされたような回答に、思わず老侍は言葉を失う。

言わんとしていたことも言おうかどうか迷っていたことも、双方ひっくるめて一度に代弁されてしまったため、言うべきことが瞬間、途絶えてしまったのである。

「いいさ、気の済むまで驚いててくれ。私は慣れてるから気にしやしない。辰由先生は医者として一流だろうことは弟子の私から見ても疑い無いが、どうも変なところで子供っぽくってね。私を誰ぞに紹介しようという際、何故だか絶対に女だってことを前もって教えないんだ。おかげで私は先生からの紹介でここを訪れる患者の驚く顔を飽きるほど見せられている。毎度毎度の下らん悪戯にはいささか腹も立つが、これも変わり者の師を持った不運だと諦めているよ」

続け、そう紅卯は言ったものだが、言動と行動は必ずしも一致していなかった。

紹介状を開き見た時と同様、またしても言い終わりに舌打ちをひとつ。

どうやらこれは、紅卯が不満や苛立ちを感じた時の癖のようで、当の本人は自覚無く舌を鳴らしているようではあるのだが、聞かされるほうの身からすれば決して気分の良いものではない。

けれども自覚の無さとは恐ろしいもので、今にも嘆息しそうな老侍の苦い表情などは目にも入らぬとばかり、紅卯はなお言葉を継ぐ。

「さて……師からの文も読ませてもらったことだし、改めて名乗っておきますかね。私がこの書状にもあるように鈴置辰由先生が不肖の弟子、鈴置紅卯だよ。腕が評判の辰由先生とは違って口と態度が悪いんで評判のね。まあ説明なぞせんでも、今までの言動から分かってもらえてると思うが……」

「え、い、いや……拙者は左様なことは微塵も……」

取り繕うのも明らかに老侍は本心を押し殺し、なだめすかすように言ったものだが、まだ迷いあるそんな言葉の途中へ紅卯は口調こそこれまで通りであるにも関わらず、急に冷然とした表情で老侍を睨むように見据えながら話し始めた。

「もし感じてないというなら、もうこれ以上話すことは無い。早々にお引き取りを願おう。私はそういう形ばかりで本心を晒さないやり取りが診断の妨げになると思い、あえてこの無作法を貫いている。その程度のことも酌み取ってもらえないようなら、とても正確な見立てをする自信が無いよ」

「……!」

声も無く、老侍が吃驚の声を胸の内で上げたのは、まさに紅卯がすべての事情を話し終えたところであった。

無理も無い。これまでの言に、まさかそのような裏があったなどとは露ほども考えていなかった老侍は愕然とするほかなかったし、本心を明かせば、如何に高名な医師の弟子といえ、女子の身でまともに医術を会得できるものかと無意識、蔑視をしていたかもしれないと思っていたからである。

その証拠に、老侍は瞬時に自分の背中へ冷汗が滲むのをはっきり感じていた。

「それに、私なりにかなりの譲歩はしたつもりさ。本来ならば訪ねてきたそちらから先に名乗るのが筋合いのものを、私は己の主義を曲げてまで自分から名乗った。が、そちらは相変わらず言葉を濁すばかり。名も名乗らん。話もせん。そんな相手を師の紹介だからというだけで診れるほど私は人間が出来ていない。さっさと帰ってそちら好みの医者を探すことだ。他に良い医者なんて江戸にはいくらでも……」

「あいや、しばらく!」

ここまで聞くに及び、堪らず老侍は大声を発し、やにわに形を改めて首を垂れた。

「先刻よりの非礼、平にご容赦を……拙者、名を奥田清兵衛も申しまする。役目柄、人を見定めることが多く、しかも此度は主家の名誉に関わることゆえ、慎重が過ぎてとんだ不調法を致し申した。どうかこの白髪頭に免じ、紅卯先生には大様なる御心をもってどうかご宥恕を乞い願いたく、何卒……何卒……」

言いながら、さらに頭を深く下げる清兵衛へ紅卯は文から視線を移すと、しばらくの間その姿勢のまま直立不動を保つ清兵衛に、ふと小さく笑いを漏らして一言、

「……どうぞ、面をお上げくださいませ」

紅卯が言ったのを聞き、そっと顔を上げた清兵衛はここでもまた驚かされる。

我を通し、無礼な言動と態度を取り続けていた紅卯が、何と板間へきちりと正座し、三つ指をついて深々と頭を下げていた。

「お武家の方にそこまで仰られたのでは是非も無し。これでなお御断りをしては逆に私の主義が許しません。お役に立てるや否や分かりませぬが、この鈴置紅卯、微力を尽くさせていただきます」

先ほどまでとは打って変わり、もはや別人とばかりに折り目正しく言動態度を改めた紅卯の姿に、清兵衛は吃驚と同時、強く感受した。

間違い無く(これは人物だ……)と。

如何に変わり者と呼ばれる人種でも、己の主義をかくも貫き通すのは尋常の気構えで出来ることではない。特に医者とはいえ、若い女の身なればなおさらであろう。

男尊女卑。老尊若卑。これら儒教的思想が世に定着し、それを笠に着て無体を働く者の決して少なくないことは隠れも無い事実だというのに。

ここに至り、清兵衛は紅卯のことを人間的にはさておき、医者としてはまさしく探し求めていた仁だと理解、信憑して、今まで張り詰めていた心が重荷から解き放たれた感覚に久方振りの安堵を享受した。

したところが、である。

「……梅ぇーはー咲いぃたーかぁー♪」

突然、清兵衛の背後……玄関のすぐ外から若い男の唄う声が聞こえてくる。

刹那、弛緩したはずの清兵衛は一瞬のうちに緊張の糸が張り詰めるのを感じ、ざっと顔から血の気が失せた。

そして顔を真っ青にするのと合わせて即座、後ろを振り返って清兵衛は、

「わ、若様、まだ早うござりますっ!」

咄嗟に叫んだが、すぐに己が粗忽を知ることとなる。

表から聞こえた唄に反応して玄関の板戸へ振り向いたはいいが、今度はその背中へ、

「……若様……?」

声の小ささと反比例し、大きな疑問を明白に、加えて聞かれたくなかった部分を端的に紅卯が発するのを耳にして。

そのうえ周章狼狽のあまり、どうしてよいやら分からず、ただ心中だけ慌てるばかりで体は硬直してしまった清兵衛を追い詰めるように、表の唄はなお近づき、

「桜ぁーはぁーまだかいぃーなぁー……♪」

ちょうど板戸の前まで来たかといったところで、

「柳ゃあーなよぉーなあぁーよぉー♪」

外から板戸が開かれたと思うや、

「……風えぇー次第ぃーいぃー♪」

ひょっこりと、そこから顔を玄関へ見せたのは当初、清兵衛と共に紅卯宅を訪れて、ひとり外で庭に生えた梅の樹を眺め、たたずんでいた若い侍であった。

邪気の無い笑みを浮かべ、細めた目に清兵衛を捉えて、

「奥田さぁん、退屈でぇすよお。いい加減でぇ呼んどくれないとお……」

唄っていた時の調子とは少々違うが、やはりどこか節でもつけているのかと聞こえる奇妙な……しかし何とも柔らかな声音で若侍は、

「もう、梅の樹ばかり眺めてるのも飽きっちゃいましたよお」

一層、朗らかに笑って何やら持った右手を差し出してみせる。

見ると、その手に持たれているのは一本の枝。

長さはおよそ一尺。つぼみや葉はついていないが、話の流れを察してまず梅の樹から切り落としたものだろう。

そんな若侍の様子に、清兵衛はまだこれ以上があったのかというほど大いに取り乱したが、それすらなお彼の上限ではなかった。

「……清兵衛さん……」

背後からの声。女人の声。それすなわち、

「い……あ、や、紅卯先生……これはその……」

「まさか……とは思いたいが……」

姿勢良く正座した状態はそのまま、上体だけを起こして真っ直ぐ玄関から顔を見せている若侍をもう初見の時と同じぞんざいな調子へ戻り、しかもえらく不機嫌な表情で睨み据える紅卯。

これへ清兵衛も何とか言い繕わねばと口を動かそうとしたものだが、よもやこうまで極まってしまった自身の困惑を御すること叶わず、継ぐべき言葉も見つからない。

そこへ重ねて、

「よぉく世間じゃー『桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿』なぁんて申しますんで、ひとつ私も剪定とか、しましょおかなぁと思いましてぇ、枝をば一本……ね?」

得意げに若侍は、手に持った枝をぶらぶらと振りながら、何がそんなに楽しいのやら分からないが、満面の笑顔を紅卯へ向け、いまいち何を言いたいのか意味不明なことを口走っている。

これを聞き、紅卯と清兵衛はどちらも揃って眉をひそめたが、両者の感情に共通点が無いことだけは確かだった。

清兵衛は戸惑いから。紅卯は……言わずもがな。

何故なら、

「なあにが、『ね?』なんだこの大馬鹿たれがぁっっ!!」

にわかに紅卯が怒鳴り声を上げながら即座に立ち上がるや、脱兎の勢いで玄関先から顔を出した若侍へと詰め寄り、その胸ぐらを思い切り捩じ上げたからである。

つまりは激怒から。

この行動が紅卯の抱いた感情を言葉よりも如実に示していた。

立場こそまだよく分からないが、最低でも武士であるのには違いない相手へ向かい、女の身で一喝を飛ばしたのだから。よほど腹を立てたのだろうと簡単に見て取れる。

しかもすぐさま相手の胸ぐらを鷲掴み。もうどう見ても激昂してると考えるのが妥当というものだ。

さりとて、感情的になっている人間は何も紅卯だけではない。

一連の流れを見ていた清兵衛も驚きが過ぎて危うく呆然と見ているところだったが、はっと我に返ると、

「お、お控えを、お控え下され先生!!」

慌てて間に入ろうとしたが逆に、

「控えるも何も、控えるのはこの酔っ払いのほうだろうが!!」

紅卯は即、今度は清兵衛へ怒声を発する。

「どうも外に誰か待たせているなと思って様子を見てたが、何なんだこれはっ!!」

「な……何なんだ……と、申しますと……?」

「主家がどうの、若様だの、大仰なことを漏らすから何かと思えば、私に診ろという患者とやらがこれかと言ってるんだよっ!!」

がなり立てつつ、紅卯は胸ぐらを掴んだ手にいっそう力を込めた。

すると、不意に若侍はそれまでの調子から一転、大の男とは思えぬ情けない顔をし、今にも泣きそうな声で、

「せんせえ……痛い……」

言ったものの、紅卯の怒りは収まるどころか火勢を強め、

「やかましいっっ!!」

「だって、ほんとに痛い……」

「その痛いことをされるような真似をしたのは自分だろうにっ!」

「……私ゃ……枝、ちょっと切っただけ……」

「そう、梅の枝を切るのに白昼、道端で白刃を抜くなぞ……素面ならなおさらだが、酔っていたからって、それが言い訳になると思うなよっ!」

頭の芯まで響くほどの大音声で目と鼻の先からどやしつける。

だが、なお続けて紅卯が吼えようとしたその時、

「先生、誤解にござりますっ!」

清兵衛が渾身の力を振るって必死の一声を放った。

さしもの感情に吞まれていた紅卯も、これには気を逸らされ、はっと清兵衛のほうを向き、じっと目を凝らしてみると清兵衛は真剣そのものの顔つきをして言葉を継ぎ、

「わ……若様は、酒など一滴たりと召しておりませぬっ!」

「……え……?」

「加えて言上致さば、若様は刀をご所持なされておりませぬっっ!!」

断固として、揺るがぬ自信をもってそう言い切ったのである。

これを受け、紅卯の頭の中は猛烈に混乱した。というより、清兵衛の言っている意味があまりにも理解不能だったため、ほとんど思考が停止したと言ったほうが正しい。

まず前提として、清兵衛の様子を見るだに庇い立てのための嘘をついているようには到底思えない。そのような生易しい感情で発せられた言だとはとても考えられない。

となると、

酒を吞んでいないなら、この言動態度はどういうことか?

刀を持っていないなら、梅の枝を如何にして切ったのか?

どれも清兵衛の言ったことが真実だとすれば、逆に矛盾だらけ。

されども、

「……かくなる上は一切を隠さず申し上げなん……どうか、御着座を……」

苦渋に満ちた顔で言う清兵衛へ、犯行反論する気は、紅卯には浮かばなかった。


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