羅刹鬼、眼を醒ましおり候 (6)
宗右衛門の言ったことを理解していたのはその場にはひとりだけ。
英四朗、ただひとりだった。
ゆえに、
「お……おい、ひとりでって……あの人、本気で言ってんのか?」
気にならないはずは無い玄馬は聞いてくる。
何やら分かったような顔をしてたたずむ英四朗へ。
「本気ですよ。先生ならそうするだろうとは思ってましたから別に意外でもないですが、関井さんは気になられますか?」
「当たり前だろ。相手は十三人だぞ。しかもその中には鉄正もいる。あいつは人間としては最悪だが、武人としては優秀だ。そんじょそこらの剣客じゃあ、あいつひとりにも歯が立たねえよ。第一、おたくの先生って二本とも竹光なんだろ?」
「そんじょそこらの剣客……ですか。なら、なおさら問題無いですよ。何せ……」
「……は?」
疑問の声を発する玄馬に、英四朗は視線を合わせて一言、
「先生はそんじょそこらのじゃない剣客ですから」
うっすら笑みを浮かべて英四朗は言う。
と、寸時、
やにわに門前から多くの足音が響いてくるのを聞き、玄馬は柄に手を掛けながら叫びを上げた。
「くそっ、あいつら道場に着くまで足音を消してやがったっ!」
そう、鉄正たちは土手から道場まで忍び足を使い、門前まで近づいてから一斉に躍り込んできたのである。
足音の位置からしてすでに庭まで達していておかしくない。
疼く傷の痛みに加え、向両国の時を含めて二度目のひりつく緊張感に、玄馬は手の汗で柄が滑る錯覚を感じて苛立った。そして、
「おい、どうでもいいけどあの先生、引っ込めろっ!」
言ったが、英四朗は平然と、
「何でです?」
聞き返してきた。
「お、お前、見す見すあの人、死なせる気かっっ!!」
これには玄馬も怒声を上げたが、それでも英四朗は落ち着きを崩さず、
「安心して下さい。先生なら大丈夫。というより」
「?」
「……あの状態の先生に下手な加勢なんてしたら、後で怒られますから……」
平然として言ってのけた。
刹那、
まだ口を利こうとしていた玄馬の言葉を掻き消すようにして、ついに、
世正番、残党十三人が、わらわらと大場道場の庭内へと侵入してくる。
そのうち、数人が庭先に立つ宗右衛門に白刃を月明りに照らして斬りつけてきた。
まさしく問答無用。
ただ眼前に立つ宗右衛門を斬り裂かんと、銘々が気合声を上げながら。
もう駄目かと、
玄馬は目を伏せる代わり、両の奥歯を強く噛み締めた。
ところが、である。
彼、玄馬は不思議なものを見た。
宗右衛門が、
竹光しか帯びていない宗右衛門が、何故か、
抜刀の姿勢に入っていたのである。
半身に構え、左足を退き、腰を低く落として。
さりながら、一体それに何の意味があるというのだろうか。
宗右衛門の剣は竹光。真剣どころか木刀とすら勝負になるはずがない。
そう、思ったのとほぼ時を同じく、
広がった目の前の光景に玄馬は、
絶句した。
宗右衛門の目前まで迫っていた侍のうち、ひとりが、
たたらを踏んで宗右衛門の横をかすめていったと思うや、
ずるり、と後ろへその首がずれ落ちたと見えるや、そのまま血飛沫を上げながら首は土の上を毬のように後方へと転がってゆき、残された胴体はおぼつかない足取りで余勢の前進を続け、最後は手近の植込みに突っ込んでようやくその動きを止めた。
まるで夢でも見ているような、とても現実とは思えない光景。
ところがさらに見ていると、
宗右衛門に近づいた侍たちは、誰もが漏れなく首を失い、滝の水が逆に流れるような勢いで上空へ高く、多量の鮮血を撒き散らしつつ、胴体だけになった状態でばらばらと、そちこちの植込みの中へと勝手に倒れ込んでゆく。
しかも、
宗右衛門は一切、動いている様子が無い。
柄に触れた手も、足も、体も、どれひとつとして。
動いたとするなら草履が土を擦る音、着物の袖や裾が風にはためく音、何より、
斬り死にし、植込みの花々に水の代わり、己が血を振る舞っている仲間たちの躯からすれば、
鯉口を切る音、抜刀する音、斬撃する音。
この三つだけは聞こえていなければおかしい。
事実、斬られている者がいる以上は。
刀はその構造上、まず鯉口を切らねば抜くことは出来ないし、抜刀する際に鞘走る刀身は空を裂いて風を鳴らす。
さらに斬撃は肉を斬り、骨を断つからには相応の重く、くぐもった打音が響くもの。
なのに、
彼らには微かに吹く夜風が、庭の草木を揺らす音しか耳に出来なかった。
それが、
実際には、微動だにせず居るだけとしか見えない宗右衛門へ向かっていった侍たちは次々と彼へ近づいた途端、抜き放った剣を振り下ろす暇も無く、瞬く間に首から上を掻き消されたかの如く失うと、間を空けず元は首のあったであろう位置から勢いよく血を噴き出しつつ、いつ自分が首を失ったのか、どこへ自分の首は行ってしまったのかにも気づかぬ風で、しばらく千鳥足に彷徨い、宗右衛門の周囲をゆらゆらと歩き回ってから、揃って紅い血飛沫と青い葉々を夜の闇へと舞い踊らせ、咲ききらぬ花々を抱くように植込みへと突っ伏していく。
この世のものとは思えない。
そう、まさしく。
そこにはこの世ならざる光景が広がっていた。
現実離れした、現実とは思えない、そんな眼前の事態に、残った侍たちは時を置き、身震いをして戦慄する。
気付けば宗右衛門へ近づいた侍八名。
全員が切断された首と、首無しの躯となって転がっている。
暮夜の暗闇がそれらの凄惨さを少しくは誤魔化してくれているとはいえ、夜風に乗って漂う生臭い血の臭気が、残酷な現実を嫌でも直視させた。
だけに、ここへ至って、
ようやく宗右衛門の異質に遅まきながら気づいた五人は、庭の中に狭く散開し、宗右衛門を円を描くように取り囲むと、慎重に距離を取って間合いを計り始める。
数に任せ、無防備に振り被っていた刀を正眼に構え直し、ここまでまるでその動きを見ることができなかった宗右衛門の出方を待ち、攻撃の動作へ入ったところを一気に攻め潰そうと考えて。
普通ならば過剰に過ぎる対策。
とても一対五の勝負でおこなう戦術ではない。
逆に言えば、このような手に出た時点で勝ちは確定したと言ってよい態勢。
あとは落ち着いて対処さえすれば、狭く囲まれて自由が利かぬ状態で出してくるだろう苦しい姿勢での攻撃を往なし、左右と背後から斬り込めば終わる。
そのまま殺すもよし。じわじわとなますに切り刻むもよし。
好き放題に出来る。はず、であったが、
またしても彼らは信じられないものを見ることになる。
いや、正確には、
見ることができなかったのだ。
五人……十個の眼に凝視され、一分の隙すら与えられずに間合いを徐々に詰められていたにも関わらず、宗右衛門は、
突として、
彼らの視界から消えた。
立っていたはずの場所から忽然と。土埃ひとつ立てることも無く。
しかし、
当たり前だが人間は消えたりはしない。
それは冷静でさえあれば、誰しも理解できるはずの事実。
だからこそ、
「上だ、馬鹿どもっっ!!」
闇を貫くように轟いた大喝に、五人は同時、宙を見上げた。
ひとり距離を置き、成り行きを見ていた鉄正の喝破によって欠片程度だが取り戻した落ち着きによって。
だが、
そうすることが彼らにとって何かの意味があったのか。
答えは恐らく、
無意味。
ただし、目にした光景には価値があったかもしれない。
鉄正の声に反射的、見た夜空の中央。
そこへ天狗のように飛翔し、屈めた身を独楽のように回転させる宗右衛門の姿を、最期の時にとはいえ目に出来たことは。
転瞬、
五人の頭上から宗右衛門は羽根の如く、ふわりと柔らかく膝を曲げ、音も無く囲みを飛び越え、庭の土へと着地するや、
いつの間にやら胸元の辺りまで引き出していた鞘ごとの大刀を一瞥し、
「……油断大敵、と……」
つぶやいて、高く空へ抛るように投げ捨てた。
見れば、大刀は中ほどの部分が鞘もろとも脇差で貫かれている。
これすなわち、遠巻きに見ていたおかげで宗右衛門の動きを完全に把握していた鉄正の投げつけたものである。
もっとも、投擲された脇差が鞘を貫通したのは宗右衛門の刀が竹光であったがゆえであり、鉄正もせいぜいは宗右衛門の動きを牽制しようと放った程度だった。
それを宙空では身の自由が利かぬゆえ、すでに抜刀姿勢に入っていたのを利用して、大刀は抜かずに脇差からの護りに使った。
何故か。
何故、竹光でさえ人の首すら切断するほどの技量と剣速がありながら、大刀で脇差を(打ち落とす)のではなく、(受ける)ことを選んだのか。
それは、
どうしたものか、急に宗右衛門の背後で五人が声も上げずに苦しみだし、必死に喉元へ両手を這わせているのを見ようともせず、
ただ右手を、
「それにしても、ひどいことをするもんです。貴方のせいで急に太刀が使えなくなってしまったもので、急いて脇差を使ったものだから……」
根元三寸ばかりを残して折れた、竹光の柄を持った右手を鉄正へ見えるよう、月明かりに映し出して、
「こちらも脇差を使う羽目になってしまった……おかげでご覧の通りですよ。全員、無理にこれで喉笛を斬ったりしたから、死ぬまで時間が掛かるでしょうね……まあ、これまでに犯してきたであろう罪科に比べれば見合った苦しみとも思えませんし、同情する理由も見当たりませんけど……」
言いつつ、宗右衛門は笑い声を漏らす。
まるで樹々の枝と枝とが擦れ合うような、小さく乾いた笑いを。
瞬間、
鉄正は地を蹴るや、凄まじいまでの速さで宗右衛門の懐へと飛び込んできた。
理解したのだ。鉄正は。
自分の目の前に立っているこの男は紛れも無く、
(化け物)だと。
竹光で人の首を刎ねてのける業前。
易々と人の背丈を飛び越え、あまつさえ投げつけた脇差を大刀で受け止めることで、得物を脇差に切り替えて即座、五人へ斬撃を加えた獣の如き身ごなしと機転。
もし、投げつけた脇差をそのまま太刀で打ち落としていたなら、その分でおこなえるはずだった斬撃が不可能になる。
だからあえて大刀は受けに使い、残る右手と脇差をもって五人の喉笛を一瞬のうちに斬り裂いた。
攻防どちらも犠牲にしない選択をあの瞬時に判断し、実行した。
その事実だけで、鉄正の体は宗右衛門へと向かっていたのである。
殺さなければ殺される。
真剣勝負の場にあっては当たり前のことを、今さらながらに実感し、恐怖と焦燥に駆られての結論。
しかも幸運なことに今、宗右衛門はまさしく丸腰。
竹光すらも失っている。
人の身でこの宗右衛門という名の化け物へ挑むとなると、勝機は確かにこの時をおいて他には無いだろう。
そこを思えばこの決断、間違っているわけではない。
間違ってるわけではない。のだが、
ひとつだけ、
鉄正は見逃してしまっていた。
致命的な問題を。
須臾、
距離は詰まる。
門前から駆けて、今や庭にひとり立つ宗右衛門へ鉄正は肉薄しようとしていた。
間合いは充分。
あとは抜刀し、斬り伏せるだけ。
近づいたせいで薄闇の中でも、ぼんやり眼に映るこの不気味な笑みを浮かべた男を、斬り伏せるだけ。
のはずだった。が、
突然、
鉄正の視界が鈍い光を感じたと思うや、すぐさま、
己が右目の視力が失われているのに気が付いた。
焼けた火箸で眼球ごと、眼窩を抉られたような耐え難い激痛を伴って。
これに思わず鉄正は足を止め、喉から漏れだす苦鳴を押し殺しつつ、顔へ無意識、手を這わせる。
すると、
手に何かが当たった感触と同時、さらなる激痛が右の眼窩の辺りを襲った。
外だけではない、頭の内側まで響くその凄まじい痛みに吐気すら覚え、
知ることになる。
自分の右目に何が起こったのか。
自分の手に当たったものは何だったのか。
それは、
折れた竹光の脇差。
いつの間であったかも分からない。
何をされたのかに気づくまでにさえ時を要した。
それほどの早業で宗右衛門は自分に接近してきた鉄正の右目へ、もはや得物としては用を成さなくなったと思われていたそれを、些細な侮り……鉄正自身も無意識の侮りを見逃さず、宗右衛門は痛烈な一撃によって右目を刺し潰したのである。
この予想外の攻撃を受け、さしもの狼狽した鉄正がようやく気づいた時、
すでに目の前からは宗右衛門の姿が消えていた。
咄嗟、鉄正は怒りと痛みなど忘れ、ただ焦りと恐れに導かれるまま、ともかくとばかり腰の刀へと手を伸ばす。
ところが、
帯へ差し込んであったはずの大刀は無い。
なお焦り、腰回りを諸手で探るも、やはりどこにも無い。が、
その時、
「……ここですよ」
突如、背後から掛けられた声を聞いた鉄正は、弾かれたように身を反転させると、
そこに、居る。
振り返った目と鼻の先。
そこに、
鉄正の前に、宗右衛門はいる。
知らぬ間、掠め取られた自分の太刀を持ち、宗右衛門はいる。
「本身は久しぶりですね……どうも竹光に慣れてしまっていたせいか、ひどく重たく感じますが、さて……」
言いながら、宗右衛門は手にした刀を構えた。
奇妙な構え。
横へ寝かせた剣を、左手に鞘、右手に柄を握り、見方によっては刀を差し出しているようにも思える構え。
そうしつつ、
宗右衛門は、かっと双眸を見開き、狂気に歪む口を動かし、
「そろそろ、死にますか?」
一言、つぶやく。
すでに恐怖のため、硬直して動かなくなった己の体を呪いながら、鉄正は滲んで歪んだ視界の中、宗右衛門を見る。
斬られる。その確信だけを抱いて。
体中から汗が噴き出し、涙で視界が霞む。
呼吸はどこまでも速くなっていく。
宗右衛門は動かない。
されど、斬られるという確信は変わらない。
宗右衛門は動かない。
体も。腕も。手も。指先をすら。
瞬刻、
そこにいた紅卯、英四朗、玄馬は皆、
その目に見た。
微動だにせず、音も出さず、触れもせず、
人を斬る者の姿を。
鞘へ収まった剣を構えたまま、
人を斬る者の姿を。
月の光の下に、数瞬前まで人の形をしていた鉄正が、
崩れてゆく。
血煙を上げて。
無数の肉片となり、
斬り分けられた臓腑となり、
頭や手足といった形をひとつとして残さず、
泥が落ちるような音を立てて崩れてゆく。
そうして、
最後は庭の中ほどに、
血と草木の匂いを包む夜風をまとい、ただひとり、
宗右衛門だけがいつまでも佇んでいた。