羅刹鬼、眼を醒ましおり候 (4)
不幸中の幸いとは、もはや言うべきでなかった。
紛れも無く幸運。それもとびきりの。
自分のことを見張っていた者がいたことは不運だったが、その見張りがそれほどの者でなかったのは、やはり幸運。
宗右衛門との繋がりにも気づかれていたなら、とっくに殺されていた。
それどころか、
ここに逃げ込むことも出来なかったろう。
隅田堤の端。大場道場。
玄馬は自分でも驚くことに、向両国から隅田堤まで、人ひとり……紅卯を背負ったまま、逃げてきたのである。
「それにしても……よく逃げてこられましたね。普通なら絶対に殺されてますよ?」
「……んなこたあ言われなくても分かってんだよ……というか、本当なら橋番所へ逃げ込もうと思ってたんだが、ふと途中で、もしあいつらが自棄を起こしたりしたら、関係の無い連中にまで無用な危険が及ぶかもと考えて、こっちに急遽、向かう先を変更したから余計にそう思ってらあな……」
あれだけの修羅場を切り抜けてきた自分自身を褒めたいぐらいの気持ちのところへ、何とも素っ気ない感想を英四朗に言われ、玄馬は不愉快そのもので答えた。
「でも僥倖でしたね。先生との繋がりを知られてなかったおかげで今頃は連中、上総屋の様子を見に行ったり、本所の屋敷から引き揚げてくる頃合いの捕方たちに驚いたりで、この道場へ頭が向くまでには相当時間が掛かるでしょうから」
「……」
これに関しては玄馬は一言も無い。確かに僥倖だったとしか言えない。
もしそうしたことでやつらが足止めを喰っていなければ、ここへ辿り着く前に土手の上で追いつかれていただろう。
「とはいえ、やつらへの足止めもそう長くは持たないでしょう。恐らく、もういつ雪崩れ込んできてもおかしくないと考えるべきですね」
「……だろうな。少なくとも、鉄正の性格を考えれば」
答えつつ、玄馬は借りたサラシをきつく胴へと巻く。
本来なら縫う必要がある深さの傷だが、そんなことをしている暇はまず無い。
しかも紅卯を担いでこれだけの距離を走ってきたため、息も上がっている。
正直、とても戦える状態ではないが、やるしかない。
やらなければ死ぬだけの話だ。
「思うに鉄正の性質を考えると、残った手勢十二人と一緒に、自分もここまで乗り込んで来るはずです。ああいう手合いは何でも自分の手で決着をつけないと気が済まないんですよ。なんというか……相手が馬鹿だと助かります」
「……もう事が済んだみたいに言うんじゃねえよ……問題はこれからだろ?」
言い返す玄馬を見て、英四朗はうなずく。
確かにその通り。始まるのはこれからだ。
思いつ、英四朗は酒瓶を取り出すと、
「何にせよ、目釘を濡らしておいてください。気配はまだですが、まもなく来るのに違いは無いでしょうし」
それを差し出して言う。
と、玄馬は黙って酒瓶に口をつけ、含んだ白湯を勢いよく柄へと吹き掛けた。
途端、玄馬は渋い顔をして口を開く。
「やっぱり、どうも締まらねえな……」
「何がです?」
「……こんな時まで白湯ってよ……」
ほどなく命のやり取りが始まろうというのに、下らないことにこだわる玄馬を英四朗は見て、クスリと笑う。
すると、
「あ、そういやあ……」
「今度は何ですか?」
「あんたが昨日の晩、世正番どもを四人、一気に斬った時のことだけど、何か鍔鳴りみたいな……鍔鳴りじゃあねえみたいな……どうも妙な、甲高い音が聞こえた気がするんだが。気になることが残ってると集中しづれえからさ。どういった理屈だか、差支えが無えなら教えてくれねえか?」
これまた、こんな時に聞くようなことではないのにと思いつつ、英四朗は微笑みつつ説明する。
玄馬は言葉にこそしなかったものの、(聞かずに死んで未練でも残るのは嫌だから)という、その真意を察して。
「何と言いますかね……まあ、あれはある意味では鍔鳴りと言ってもいいでしょう。私が先生から学んだ真元流の居合は、抜刀が異常に早い。なので、鍔の飾り彫りの穴から抜ける風が、笛のような音を立てて鳴るんですよ。だから鍔鳴りなのかと言われれば、一応は鍔鳴りだと言えます」
「……はあ」
説明を聞きはしたものの、いまいち意味が分からず、玄馬は気の無い返事をした。
間抜けなことだが、答えを聞いてようやく今する質問ではなかったことに気が付いたのである。
さて、
英四朗と玄馬がそんな会話している時、
羽目板に背をもたれ、床へ座り込んだ紅卯を、宗右衛門はしきりに気にしていた。
いや、気にしていたというより、
引っ付いたようにその場へ留まり、膝を折ってどこか怪我をしていないかと、舐めるように見ていたというべきか。
おかげで紅卯は気色悪い思いを堪え、宗右衛門に話し掛ける。
「あー……宗右衛門さん……そんなにじろじろ見たって、私からは何にも出てきやしないよ?」
「……」
「聞いてるのかい?」
「……せんせえ……」
「……え?」
「何か……ひどいことされた?」
当てはまる感情が思い当たらない不思議な顔をし、宗右衛門が急にそう言うもので、紅卯も少しばかり混乱し、口ごもりながら言葉を返した。
「あ、や……大丈夫だ。別にどうということも……」
「何か……された?」
思い浮かばないことを繰り返し聞かれるのは色々な意味で気分の良いものではない。
特にこんな差し迫った状況では。
が、やはり返事を返さないわけにもいかないと、またどうにか声を出す。
「え……と、まあ強いてされたとすれば、頬を張られた……ぐらいだが……」
「……口の端……血が出てる……」
「心配いらんよ。こんなもの、放っておけばすぐに治……る……」
言い終わるか、言い終わらぬかのうち、宗右衛門は、すっと立ち上がると静かに庭へ向かった。
「そ……宗右衛門さん……?」
その異様な雰囲気に、紅卯は思わず宗右衛門の背中へ話し掛ける。
しかし、
宗右衛門は何も言わずにひとり、庭へと向かう。
刹那、
「……色宮さん、関井さん」
はっきりした口調で背を向けたまま宗右衛門は、縁側から庭に下り、
「ふたりはここにいて、先生を見ていてください。あの連中は私が……」
門の傍近くまで歩みつつ、言った。
「……殺してきます……」