羅刹鬼、眼を醒ましおり候 (1)
今日もまた紅卯のところで長居をし、結局道場へ戻ってきたのは昼八つ半だった。
稽古場に入ると、壁に浅く釘で書状が留められている。
すぐに英四朗からのものだと察しをつけ、宗右衛門は釘を引き抜くと、折り畳まれた書状に目を通した。
内容はそれほど目新しくは無かったが、いくつか新しい情報もあったため、ひとまずすべてを読み込む。
まず、今日も予定されていたはずの干鰯問屋の寄合が急に中止となったことを上総屋から伝えられたため、今日は用心棒に来なくてよいとの話。
これで英四朗は今晩、他の用事にも動いてもらえるなと思い、宗右衛門はどういった用事を頼むべきかと考えながら先を読み進んだ。
次にめぼしい情報は、世正番の首魁がどうやら判明したというものである。
水戸藩で御用人の職掌に就く、左作鉄正という男。
情報が正しければ、これが世正番の首魁。
水戸藩の藩風に合わず、当世では使い所に困る武人気質の人物らしいが、この言い方も聞こえがいいだけの話だ。
武人気質ということは、何でも力で手に入れんとする手合い。
要するに、聞こえはいいが強盗気質と言ったほうが正しいだろう。
その証拠に、どうやら方々の商人から相当額の金を借り入れていたようだ。
そんな中のひとりが上総屋。そして、
調べがついているだけでも金を用立てさせた商人は二十人を超える。
そのうち、ここ半年の間に押し込み強盗に遭った店は四軒。殺された主は七名。
これだけ偏っていれば疑念が湧くのは当然だろう。
が、それだけではどうにもならない。
というより、もし確証が得られたとしても、ほぼ立件は不可能。
大名家は外様、譜代、親藩とあるが、中でも親藩大名は言葉通り格が違う。
何せ、徳川御三家である。
もし、どうあっても覆らないほどの確たる証拠があったとしても、この威光の前ではまったくの無意味だ。
れっきとした士分にある相手以外なら、ほとんど如何なる無法でも通せる。どんなに悪辣な罪だろうと、無視できる。
それどころか、その事自体を無かったことにすらできてしまう。
立場というものがまるで違い過ぎるのだ
家臣の不行状は藩の面目に関わるため、秘密裏に処理されるのが常である。
どれだけ上手くいっても、水戸藩が面目を保つため鉄正を切腹させるくらいが限度。
ただ、相手を思えばそんな結果すら夢のまた夢だが。
それにしても、首魁である鉄正の浅ましさには、ほとほと呆れる。
憶測でしかないものの、自分の借りた金を踏み倒すだけなら単に知らぬふりをすればいい。
別にこれも褒められたことではないが、こうした踏み倒しは武士の世では日常茶飯事だった。
死人や路頭に迷う者が出ない分、単純に踏み倒すほうがよほど良い。
なのに、鉄正はそうした道を選ばなかった。
恐らくはこの男の性質に深く関わるところであろう。
商人に金を借りている事実を知られて己が家や名に傷がつくのを嫌い、こんな凶行に出たと見るのが自然だ。
元々、鉄正は御用人として千二百石をいただいている。
それぞれの家の内情によって多少の差は出るが、千二百石取りなら普通に生活する分にはそれほど窮乏する身分ではない。
つまり、禄に見合わない華美な生活をしていたということだ。
分不相応な贅沢をするために借り入れた金を返さず、それどころか借り入れの事実を隠蔽するために商人を殺す。店に押し入る。
やはり、ただの強盗だ。
しかしこれが武家の本質とも言える。
何度か記述したと思うが、『斬り取り強盗は武士の手習い』などと言われるように、武士は力尽くで何かを奪うというのが本性としてあるのだ。
まこと、救い難い業である。
さて、
そうは言っても宗右衛門もまた綺麗ごとは言っていられなかった。
どんな手段を取ってでも、これ以上の凶行は阻止する必要がある。
理屈として鉄正は世正番を隠れ蓑にし、無知な平士らを扇動して私腹を肥やしているわけだが、問題はそれを止める手立てだった。
腐っても水戸藩に仕えている者たちである以上、なかなかに手出しは難しい。
頭目たる鉄正をどうにかするどころか、手下として動く平士たちでも大変である。
水戸藩に仕えているということは、水戸藩の屋敷に逃げ込まれればもう手の出しようが無く、さりとて捕らえても決して口は割らないだろう。
そうなると宗右衛門や英四朗のやり口がもっとも効率的でもある。
襲ってきた者を返り討ちにしたなら、今度は立場が逆転するのだ。
身分が高ければ高いほど、自分より低い地位の者に殺されるのは恥となる。
不名誉を恐れ、誰からも遺体を引き取られることもなく、小塚原にでも屍を放られ、腐り果てて名も無い骨と化すのが関の山。
近在の千住回向院で供養のひとつもしてもらえれば、まだ御の字。
とはいえ、無縁仏という扱いに変わりは無い。
そこだけは有利な点。侍相手の喧嘩は、ただ殺すのではなく恥をかかせることが肝。
だからこそに腐心する。
どうやって連中から下らぬ自尊心を引き剥がすか。
どうやって恥と泥にまみれた死に様を与えるのか。
様々な方途を考えているうち、知らぬ間に長く時が過ぎていた。
「先生、只今帰りました」
庭先から英四朗の声がする。
「ああ、ご苦労様。手紙は目を通しましたよ。それで、何か他に新しい話は出てきましたかね?」
庭のほうへ視線を向け、英四朗を視界に捕らえながら宗右衛門は聞く。
「はい、朗報です。それもかなりの」
「と、言うと?」
「実は、刑部様が関井さんと組んで大規模な罠を仕掛けたようです」
「ほお、それは具体的には?」
問うた宗右衛門に、英四朗は聞かされた範囲の計画内容をすべて話した。
すると、
「それはいい……さすが宗直、やはりこうしたことを考えさせたら宗直は私より一枚も二枚も上手ですね……」
語る宗右衛門の声は上擦っている。
理由は英四朗の目からも明らかだった。
興奮している。喜びのあまり。想像する結果を思って興奮している。と、
思わず宗右衛門は、己が袖を噛んだ。
今にも漏れてしまいそうな、笑いを抑えようと。




