玄馬、矢庭に失礼をば致し候 (5)
雀の鳴き声に目を覚ますと、何故かきちんと布団に入っていた。
昨日の記憶は途中で途切れている。
ただ、目まぐるしい一日だったことだけは覚えていた。
朝、ふたりの二本差しが来た。
ひとりは年寄り。
ひとりは若い侍。
しかし、若い侍は酒も呑まずに酔っぱらうという奇病に罹っていた。
どうにか治療法をと、あれこれ試行錯誤はしたものの、世の中には必ずしも治せる病ばかりではない。
それどころか、治せない病のほうがよほどに多いのだ。
そうした場面に直面すると、医者は自分の無力さに嘆き、悲しみ、怒る。
無論、顔では平静を装いながら。
外面似菩薩内心如夜叉。
意味は微妙に違うが、似たようなものだ。
そう、似たようなもの。
はてさて、
その若い侍は何といったか。
宗右衛門。
大場宗右衛門。
大場宗右衛門久長。
確かそんな名だった。
でもそんなことはどうだっていいかもしれない。
どちらかというと、
そいつに連れて行かれた道場の庭。
ああ、近所の人が言っていたっけ。
花さん。
花畑だから、花さん。
ならいっそ、
花畑宗右衛門。
そうだ。
花畑宗右衛門なんて、まるで歌舞伎役者みたいでいいじゃないか。
ただ、
あいつでは名前負けするのが関の山か。
それにしても、
あいつの道場で食わせてもらった七草粥はうまかった。
出汁に昆布まで使うなんて、さすが大身旗本だけあって贅沢なやつだ。
でも、それをほとんど食ったのは私なんだよな。
あいつはほとんど手も付けず、人が食ってるのを見てるだけ。
まともに食ったのは糖粽ぐらい。
一緒に食った糖粽ぐらい。
それはあんなに痩せもする。
食わないんだから。
あいつにはまず食べることの重要性を教えないといけないかもしれない。
薬だけでは治るものも治らない。
きちんと三食、食べるように言わないと。
とはいえ、
人のことを言えた生活をしていないから、説得力に欠けるか。
今朝も食べるものが無い。
台所に行ったって、米粒ひとつもありやしない。
また玄関先に生えてるヨモギでも食べるか。
いや……さすがにもうヨモギには飽きてる。
朝飯代わりにヨモギを食べるなんて、私は卯か。
ん?
ああ、あながち間違ってもいない。
私は紅卯。
卯年の生まれだから紅卯。
なんて短絡的な名前を付けるんだ辰由先生は。
だけど、
辰由先生も辰年の生まれだから辰由にしたんだ。
そういう単純な人に師事した私が悪いんだろう。
ところで、
今はもう何刻だろう。
まあ、いいか。
医者なんてものは患者がいなければ、することなんてない。
患者さえいなければ、いくら寝坊しようと構わない。
なら、もうひと眠りといきましょうか。
思った時、
「おっはよぉうごさぁいまあすっ!」
かまびすしい声を上げ、心張棒も掛けていない玄関の板戸を勢いよく開け、
今日も宗右衛門は紅卯宅を訪れた。
これには眠気も吹き飛んだ紅卯が、慌てて布団を飛び出すとすぐに寝室を出て板間の部屋に向かう。
鰻の寝床は廊下が長い。
というか、正確には廊下ではないのだが。
小さな部屋をふたつ抜け、唯一、閉じている板戸を開けると玄関がある板間に出る。
当然、予想は出来ていたが、玄関には微笑む宗右衛門の姿があった。
朝っぱらから見たくはない顔だ。
「せんせえ、おはよおごさいまぁす」
「……それはもう聞いた。おはよう……」
不機嫌そうに……ではなく、不機嫌に紅卯がそう答えると、宗右衛門は続けて、
「せんせえ、もう朝ご飯は食べっちゃいましたかあ?」
「……食べていない。というより、まだ起きたばかりだ」
「そうでしたらぁ、ちょうどよかったぁでえす」
言うもので、何を言ってるかと思い、
「……何がだ……?」
腫れぼったい目をこすりつつ、そう聞いてみると、宗右衛門は何やら中身の詰まった小さい風呂敷包みを差し出してきた。
「昨日の夜、お家に帰りましたらばぁ、そういえばお粥さんは全部せんせえと私ぃで食べてしまったのんを思い出しったので今度はご飯を炊きましてぇ、おにぎりをば、たあんと握ってきましたあ」
そう聞いた途端、紅卯は急激に自分が空腹である事実を思い出し始める。
悔しいが、『背に腹は代えられぬ』ならぬ、『腹の虫には代えられぬ』だ。
「あ……ああ、すまんな。ここに来るだけでいいというのに、変な気まで遣わせて」
「いえいえ、お構いなくう。こっちに来る最中、ご近所の人からぁ根深の味噌漬けをば、いただいたんのでぇ、よければ一緒に食べるましょおかぁ」
「そりゃ有難いな……まあ、とにかく上がれ。いつもの通りで白湯しか無いが」
そう言って宗右衛門を板間に招き入れると、紅卯は座布団をふたつ置くや、そそくさと台所に白湯を入れに行った。
すると、遠くで時の鐘が鳴る。
台所の窓から差し込む光を眩しく感じつつ、白湯の入った湯吞みふたつを盆に載せ、紅卯は、ぽつりと一言、
「時の鐘……なんだ、まだ卯の刻か……」
言うと、盆を持って握り飯の在り処へと急いだ。




