玄馬、矢庭に失礼をば致し候 (4)
時を遡り、まだ玄馬がいた時の大場道場。
宗右衛門が起き出してきてからのやり取りは次のようなものだった。
「大場……って、まさかおたくがあの、お奉行の兄上……殿……?」
この事実を宗右衛門から聞き、玄馬が大いに狼狽したのは言うまでも無い。
そしてにわかに信じ難かったのも確かであった。
だが、
そんな玄馬の様子に、宗右衛門はやおら懐へ手を突っ込むと、
「本当はあまりこういうものを人様に見せびらかしたりするのは好きじゃないんですけどね。まあ、身の証になりそうなものとなると今、持ち合わせているのはこれぐらしかないもので……上方のほうでこしらえてもらった根付なんですが、生憎と私は印籠や巾着は持ちませんから、こうして懐に仕舞いっ放しなんです。まったく、職人さんは良い仕事をしてくれたというのに、これぞまさしく『宝の持ち腐れ』ですよ」
言って取り出したのは、くすんだ渋い味わいを出す銀製の根付。
刀の鍔を模して作られたと思しきそれは、本物の鍔と比べて半分ほどの大きさをし、細密で見事な梅の樹が表側全体に彫金されており、中央からはこれもひと目で良い物だと分かる紫の組紐が通っている。
まともに買えば五十両は下るまい。
いや、下手をしたらその倍の値でもおかしくはない。
しかし、
玄馬が真に注目したのは、そうした上辺の部分ではなかった。
鍔型の根付の裏。
そこへ克明に彫り込まれた、見覚えのある家紋。
三つ寄せ横見梅の家紋。
紛れも無く、それは、
大身旗本、大場家の家紋。
これを目にするに至り、玄馬の中にあった不審の念は、あらかた消え去った。
無論、偽物という可能性もまだある。
あるのだが、
こうも適時に、それも玄馬に対してしか意味を成さない代物をわざわざ偽造したりするかと考えれば、これはもうほとんど有り得ない話であろう。
しかも三つ寄せ横見梅など、数ある家紋の中でも相当に珍しい。
さすがにここまで来ると、疑うほうがむしろ不自然。
となれば、
これは裏返って信用の材料となる。単純な結論であった。
「その感じだと、ひとまずは信じてくれたみたいですね。腹の底から信用されたりするより、そのくらいのほうがちょうどいい。信頼やら責任なんてものほど、背負いたくない重荷はこの世にありませんから」
どこか斜に構えたような口を利き、宗右衛門は何やら苦笑いをして根付を懐に戻す。
その頃にはもう、玄馬も事情をほとんど察したらしく、少しく狼狽して乱れた心を落ち着けると、再び宗右衛門と相対し、あえて自分からは何も語らず、宗右衛門が言葉を継ぐのを黙して待った。
決して、完全とまでは拭いきれない彼への疑念ゆえに。
ところが、
玄馬がどれだけ彼の口が開くのを待つことになるかを心配するよりも早く、宗右衛門はすかさず話を再開する。
「さて、これですべてを信じてくれたとは思ってもいませんが、一応は言っておきますか。そう、大場刑部は私の弟です。まあ腹違いなんですけど」
「……それで……?」
「それで、とは?」
「おたくがお奉行の兄上だとして、一体、何をしてるのか。そこが知りてえ」
不躾な言い様だった。
言葉遣いの荒さを差し引いても、明らかな敵愾心を含めた口調。
なのに、
宗右衛門は静かな笑みを浮かべると、
「警戒心の出し方が下手ですね玄馬さんは。それじゃあ、ただの喧嘩腰ですよ?」
間も空けず、一瞬で玄馬の内心を見抜いて忠告する。
これにはさしもの、気を張って宗右衛門を見定めようとしていた玄馬も、慌てて自分の顔を撫で、どれほど己の顔が緊張に引きつっていたのかと、どうしていいのか分からないといった表情で、落ち着かない全身の筋肉を緩めようと、必死に落ち着きを取り戻すよう理性へ働きかける。
話を聞く態勢を立て直すのも待たず、さっさと話を再開し始める宗右衛門の声に、またしても慌てながら。
「恐らくは良いほうへ想像された通りのことですよ。世正番……名を呼ぶだけでも腹立たしいですが、それでも連中がれっきとした士分であることに変わりはありませんからね。悲しいかな、町方では武家連中の罪科を裁けない。とはいえ、物事は表もあれば裏もある。まともに裁けないなら、まともじゃない方法で裁けばいい。それで、こんな手の込んだことをして裏から弟の手助けをしてるというわけなんです」
「……え……ちょ、ちょっと待ってくれよ? じゃあ、おたくまさか本気であの世正番どもを、どうにかしようと動いて……」
「ですね。正直、私もこの歳で隠居同然の生活は暇で仕方が無いものですから、宗直の手助けは良い暇潰しなんです。と言って、決して遊び半分でやっているわけではないですよ? 別に私は善人じゃありませんが、それでも欠片くらいは人助けしようなんて気持ちもある。ああいった自分の立場に胡坐をかいて、弱い者いじめに腐心して楽しんでいるような人非人は、武士の恥だの不名誉だのとかは関係無く、ひどく業腹なんですよ。だから、あのふざけた連中だけはどうあろうとも叩き潰してやりたいと思いまして」
これを聞いた玄馬が、直ちに宗右衛門に好意を感じたのは当然であったろう。
そこからは、知る限りの情報を玄馬は洗い浚いに話し出した。
「……まあ、今さら俺が改めて説明するまでも無えとは思うが……世正番ていうのは水戸藩の平士(侍における平社員の身分)たちが徒党を組んで、江戸の商人たちを無差別に狙っちゃあ襲ってる危ねえ連中さ。実際にゃあ、水戸藩に世正番なんて役職は無え。それっぽく聞こえるように手前らで勝手に付けた名だよ。藩の財政が窮乏してるのは、ひとえに商人が富を独占しているからだとかって無茶苦茶な理屈で、江戸の主だった商人や商家を襲っていやがる。ここんとこ江戸のあちこちで辻斬りやら押し込み強盗が急に増えたのは間違い無く連中の仕業だ。まったく……世も末だよな。水戸藩て言やあ、譜代大名なんてもんじゃねえ。れっきとした親藩大名だぜ? そこの家臣どもが罪も無い町人を殺して金を奪って、それで世正……世を正すときたもんだからな。いくらお勤めだと分かっていても、こんな物狂いどもに付き合ってたら、こっちの頭までおかしくなっちまいそうだよ……」
「気持ちはお察しします。私だってその連中のことを最初に聞いた時には眩暈がしたものです。水戸藩の藩風は好学のはずなんですけどね……やはりどこにでもそういう力尽くでしか自分を示せない馬鹿というのは存在するものなんでしょう……」
そう言って思い煩う顔をし、宗右衛門は溜め息を吐く。
「んで、俺が知れた範囲のことだが、構成人数は全部で三十六人。うち三人が昨日の上総屋襲撃時に殺された。さらに今日、四人が英四朗さんに殺された。だから残りは正味二十八人ってこった」
「……ん、二十九人ではなく……?」
「俺を除いてってことさ」
「……除く理由が分かりませんが?」
「簡単さね。俺は水戸藩の人間じゃない。昨日いきなり三人も殺されて手駒が減ったのを補うために臨時で雇われただけの浪人だ。頭数ん中に入れられちゃあ、冗談でも笑えねえ」
「笑えるかどうかはさておき、そう簡単に貴方を無罪放免とはいきませんよ。協力は確かに感謝しますが、叩いて埃が出ないという保証も無いことですし」
「……仕方無えな。ほんとはこれ、ばれたら別のほうできついんだが……」
そう言うと、玄馬はひどく悩ましげな顔をしてから、決然として言葉を継いだ。
「実は俺、南町の隠密廻りなんだよ」
「……隠密廻り?」
「ああ。役目柄、今は十手を持っていねえから身の証は立てられねえけどな」
玄馬の告白に対し宗右衛門が漏らした言葉は、決して玄馬を疑ってのものではない。
それどころか、この一言で宗右衛門は玄馬をほぼ信用した。
声を漏らしたのは驚きからである。
俗に町奉行所の同心の種類は三廻さんまわりと言われ、定廻り、臨時廻り、隠密廻りが存在した。
定廻りと臨時廻りはよく知られている同心そのものだが、隠密廻りは名の通り、町人などに化けて情報収集をするのが主な務めだったとされる。
ただし役目柄が役目柄のため、後世に残された職務の具体的資料は極めて少ない。
裏を返せば、それだけ秘匿性を重視した任務が多かったのだろう。
「だから余計に俺はびっくりしたんだよ。おたくが、あのお奉行の兄上殿だなんて、にわかにゃあ信じられねえからさ。だってお奉行は俺を世正番に潜入させておいて、兄であるあんたにまで協力させてんだもんよ。そんなこと、俺は一言もお奉行からは聞いてねえんだぜ?」
「なるほど……それは自尊心も傷つくでしょうね。私だって聞いていませんでしたから多少、傷つきましたし……ですが、相手は貴方も言ったように親藩大名の家臣たちです。こう言っては悪いですが、貴方だけを頼るより、いくつかまとめて手を打っておいたほうがいいと宗直が考えるのも無理はないと思いますよ?」
「そりゃあ、言われりゃあ確かに理屈ですがね……分かっていても切ねえんですよ。言われた通り、俺にだって矜持がありますから……」
玄馬の言い分も正しいだけに、宗右衛門はそれ以上のことは何も言えなかった。
ところが、
暗い顔をしていた玄馬が、なお顔を暗くして、目を伏せてしまったのに疑問を感じ、宗右衛門は思わず声を掛けようとした。のだが、
「……ほんと、ひでえ話ですよ……」
悲しげな声で玄馬がそう語り出したのを聞き、思わず言葉を吞み込むと、話へと耳を傾ける。
「酷な話ですよ……俺の目の前で、何の罪科も無え町の人たちが殺されてるってえのに、俺は黙ってそれを見てるしかねえんですからね……お奉行も、ひでえ仕事をさせるもんです……」
視線を落とし、肩を落とし、そして、
床板にぽたぽたと涙を落として、玄馬は肩を震わせた。
思えば残酷な仕事である。
自分が救うべき人間たちを見殺しにしてでも下手人を捕らえるための情報を集める。大の虫を生かして小の虫を殺す。
理屈で分かっていても納得できるかは別の話。
玄馬がこれまでに味わった苦しみは想像を絶するものだろう。
それだけに、
宗右衛門は気持ちをより強くした。
何としてでも世正番と名乗る悪辣非道の奴原に報いを受けさせると。
正義感などという甘い感情からではなく、実に純粋な、
焼けつくように胸に湧く、義憤から。
「……玄馬さん、宗直が酷な仕事を貴方に与えたこと、私からお詫びします。ですがこれだけは忘れないで下さい」
「……」
「私たちは決して、貴方がもたらしてくれたものを無駄にはしません。それが、犠牲となった人々への、せめてもの……いえ、唯一の供養だと思いますので」
変わらず、玄馬は無言のままである。
しかし、
伏せたその目に、再び力が戻りつつあるのを、宗右衛門は見逃さなかった。
「さて……と、それではそろそろやつらの根城に戻ってください。貴方が怪しまれたなら、今までに払ってきた犠牲が無意味になってしまう。大丈夫、もうすぐ終わりますよ。大丈夫……」
宗右衛門の言葉に、玄馬は小さく、小さくうなずいた。




