玄馬、矢庭に失礼をば致し候 (1)
夜の外出時、用心棒として彦六の伴をするということに当たって、英四朗はひとつの注文を出していた。
それは、よほどの理由が無い限りは自分以外の人間を伴に連れないこと。
守るのが彦六だけなら、相手や場所にもよるが英四朗はほぼ守り切れる自信がある。
しかし他にも伴などがいた場合、そこにまで気を配る余裕は無いとも思っていた。
無論、守るべき対象は彦六だけの条件ではあるが、とはいえ罪科も無い人間がむざむざ殺されるのを無視しきれるかといえば、英四朗はその点に関して自信が無かったのである。
ゆえに無用な犠牲を出さないためと、気を散らされないため、原則的に彦六には自分以外の伴は連れないようにと言い聞かせていた。
そのため、普通は連れの者に持たせるはずの提灯も、彦六が持つことになる。
当然だろう。用心棒である英四朗はいつでも戦える態勢でいる必要があるのだから。
提灯など悠長にぶら下げているわけにはいかない。
そうしたわけで、
彦六が夜の町中を歩くその姿は、傍目にも珍しい様子となった。
江戸でも指折りの大店である上総屋の当主が自分で提灯を持ち、その後ろを用心棒の英四朗が歩くという、あべこべにしか見えそうもない形を取っている。
「まあ、私が言うのも変な話ですが、恐らく今晩は辻斬りに遭うなんてことは無いと思いますよ。昨日と同じ料亭、昨日と同じ時刻、昨日と同じ道。これで辻斬りまでが同じく出てきたりしたら、昨日の今日にもほどというものがありますからね」
昨晩と同じ場所。向両国は元町の裏手通り。
といって、両国橋にも近いこの一帯は深夜でも決して治安の悪い場所ではない。
ただし、それは他の地域の治安がより悪いだけという見方も出来るが。
当然の如く、英四朗と彦六は表通りを目指して進む。
昨晩と同じ、本来は人目に付く可能性を恐れて辻斬りなど出ないはずの道を。
「……そうでございますね。それに、昨日の辻斬りたちは花畑様が……」
言い止し、彦六は口をつぐんだ。
自分で話し出したものの、やはり思い出して楽しいものではない。
そう思い、話を止めた。
そこへ英四朗は、
「思い出して胸が悪くなりましたか……無理も無いですよ。抜き身なんてものは自分で持っていても怖いと感じることがあるというのに、それを他人に向けられるなんていうのは、町人の方に耐えられるものではないでしょう。心中、お察しします」
「お気遣い、ありがとうございます……ただ、私は辻斬りに向けられた白刃よりも、よほど花畑様の……」
また言い止す。
ただ、今度は昨晩のことを思い出して止めたのではない。
英四朗が手で合図し、止めさせたのである。
何故か。一瞬はそう思った。だが、
すぐに己で気付く。英四朗が合図を送ってきた。それにはひとつしか理由が無い。
途端、彦六の顔に冷汗が滲んだ。と、同時に、
「邪魔だっ!!」
「構わん、一緒に斬ってしまえっっ!!」
左右の細い脇道から躍り出てきた侍たちが、英四朗と彦六とを目掛け、早、抜刀して飛び掛かってきた。
昨晩の襲撃とは明らかに違う。
初手から即座に斬り殺そうとしている。
暗がりの中、うっすら灯る彦六が掲げた提灯の灯りに、数本の白刃が橙色に染まって英四朗と彦六へ一瞬にして迫った。
が、刹那、
ぴぃん、と奇妙な金切り音が小さく響く。
と、同時、
英四朗と彦六の周りに、ばっと鮮血が飛んだ。
思うや、ばたばたと力無く人の倒れ込む音が重なるように四つ。
恐ろしさでほとんど目をつむり、身を縮こめていた彦六だったが、侍たちの叫び声が途絶えてしばし、
「……大丈夫です上総屋さん。とりあえず片付きましたよ」
英四朗の声がはっきりとした声で言ったもので、そろりと目を開けてみると、
唖然とした。
その光景に。
英四朗と彦六を取り囲むように抜刀した侍が右にふたり、左にふたり、揃って全員が土埃を立てて地面に倒れ込んでいる。
ひとりはまだ息のあるようで、微かに体を痙攣させているが、傷がどこなのか、深手か浅手かも皆目見当がつかない。
提灯ひとつの灯り程度では、見えるのはせいぜい侍が四人、自分の周りに倒れていることぐらいであった。
「まさか本当に昨日の今日とは驚きましたが、それと同じくらいこの四人の盆暗ぶりには驚きましたね。四人で一斉に突き込んできたのなら、まだ勝ちの目もあったかも知れませんが、四人が四人、大上段に構えて走り込んでくるとは……剣術をまともに習った人間だとしたら、これはあまりにお粗末ですよ」
「……」
彦六は昨晩に続き、またしても斬り殺されるところだった事実と、昨晩に見た宗右衛門の凄まじさとはまた違う凄さを見せつけられ、絶句していた。
噴き出した冷汗が額から眉を抜けて目に入り、そのまま流れて落ちる。
傍からは泣いているようにも見えただろうが、もし泣いていたとしてもさして不思議な状況ではない。
二晩、続けて殺されかけたのだ。大の男でも腰を抜かしたとて誰が笑えようか。
ただ、そこは思ったより彦六の肝が据わっていたため、その場にへたり込んだりなどはせずに済んだ。
とはいえ、依然として満足にしゃべることも出来ない状態ではあったが。
一旦、舞い上がった土煙が血煙に変わる。すぐさま、生々しい血の臭気が鼻を突き、彦六は吐気を催したものの、それでも耐えられないほどではなかったのは、恐らく今回は英四朗が始めからいたことによる精神的余裕のおかげであろう。
「さ、御六の始末は勝手にしてもらえるでしょうし、我々はさっさと帰ることにしましょう。御用聞きなどが駆けつけてくると面倒ですしね」
まるで普通にひと仕事でも終えたような口調で……まあ、用心棒という立場から考えれば実際、そうなのだが……さらりと英四朗は言うと、彦六の肩を軽く押して歩みを催促する。
無論、彦六はこれに黙って従った。
ちなみに、
御六というのはこの時代における死体の俗称である。
三途の川の渡し賃は六文だという話から、遺体を埋葬する際には当時、六文銭を身に持たせたことから死体を御六と呼ぶようになったらしい。
さて、
やっとで落ち着きを取り戻し始め、そろりと足を進め出した彦六を見つつ、英四朗は歩調を合わせてついてゆき、ほどなく裏道を出た。
ここもまだ人通りは無いが、彦六はようよう胸を撫でおろし、取り出した手拭いで汗を拭いている。
無論、冷汗である。
「帰ったらすぐ湯を使われるといいでしょう。汗で冷えた体も温まるでしょうし、漂って染み付いてきた血の匂いを洗い流せば、少しは気もほぐれます」
気遣い自体は有り難いが、あまりにも平然としている英四朗の様子に、彦六が不気味な感覚を抱いたのも無理からぬことだろう。
それでも、ひとしきり顔の汗が引いたところで、
「……そうでございますね。はい、私も湯に……あと、酒を……先ほどのですっかり酔いが醒めてしまいましたので、少しばかり吞み直さないと……今夜は寝付けそうにもありません……」
必死に答えたものだが、そんな彦六の声は明らかに震えていた。
とはいえ助かったのだから、まずはよしである。
思って、彦六は提灯の柄を握り直した。
すると英四朗は急に、
「……しかし、どうしたものですかね。いくら大店の店主とはいえ、帯刀もしてない町人の方に侍が五人掛かり……どうも釈然としません。上総屋さんには失礼ですが、確かに商人の方は商売柄、敵も多いでしょう。しかしここまで普通するでしょうか。その辺り……」
そこまで言うや、ふと後ろを振り返り、
「どういうことなのか教えていただけると助かるんですけど、聞かせてもらうわけにいきませんか?」
背後に広がる闇に向かい、呼び掛ける。と、
露の間を空けて闇の中から一声、
「お見事!!」
大声ではないが、よく通る男の太い声が英四朗たちへ飛んできた。
すわ、何事か。
思って彦六は再び身を縮めたが、そんなことには構いもせず、英四朗は闇の先を、じっと見つめている。
そこにまた一声。
「いや、大したもんだ。たったひとりで四人を一瞬で屠った手並みといい、隠れてた俺のことまで見破った。いや、まことにお見事!!」
聞こえてきた声とともに、英四朗の見つめる闇の中を人影が、ぬっと出てきた。
夜の暗さもあってそれほど判然とはしないが、
歳は英四朗と大差無いだろうか。身の丈は五尺から五尺半。着流しを尻端折り、露出した腿やふくらはぎの肉置きからして、相当な筋肉質と察せられる。
髪は月代をいつ剃ったか分からぬほどの蓬髪で、藪から覗くように髷の先端が申し訳程度に見えた。
日に焼けているのか、薄汚れているのか、顔は黒く、いかつい印象を受けたが、よく見ると目だけは黒目がちで大きく、童子のように、きらきらと光らせている。
腰には大刀一本。典型的な浪人の形といえた。
「……褒めても何も出ませんよ。特に斬り取り強盗相手には。大体、命を狙ってきた相手に親切心を出すほど、私は酔狂じゃありません」
言いながら、英四朗はゆっくりと刀の柄へと手を伸ばす。
ところが、闇から出てきた侍はぴたりと足を止め、手で制しながら、
「ちょっと待った。言っとくが俺はおたくとやり合う気は無え。勝てる見込みも無い相手に挑みかかるほど、俺も命知らずじゃあないんでね」
これを聞き、英四朗は進めていた手を止め、ぶらりと手を下ろした。
「……やっぱりすげえな……柄から手を引いたのに、それでもまったく隙が無えや。誘うつもりで手を引いたんだろうが、やなこったよ。俺はまだ死にたかねえやな」
「だとしたら……やっていることがおかしいですね。そんなに命が惜しいなら、何故に私が四人を斬り捨てたところで逃げなかったんです? それとも、私に隙が出来るとでも思いましたか?」
「全然。俺もこの道は長いが、おたくみたいな手合いは寝ながら人を斬り殺せる部類のお人だ。隙なんて死ぬまで見てても出してやくれないだろうぜ」
「分かっているなら余計に妙です。私に気付かれているのが分かっていたなら、早々に逃げていれば何事も無く済んだはずでしょう。なのにわざわざ顔を出した。どうにも貴方の考えてることが分かりません……」
「……ま、俺も俺で色々と考えてることがあんのさ」
そう言うと、男は止めていた足を再び進め、英四朗の間合いぎりぎりまで来ると、
「俺は関井玄馬ってんだ。おたくは?」
「……色宮英四朗……ですが、それが何か?」
名乗り、名乗られて、玄馬はしげしげと英四朗を見て、
「英四朗さん、おたく聞く耳はあるほうかい?」
確かめるような目をして英四朗の顔を覗き込む。
「自分では、あるほうだと思ってますよ。これでもみだりに刀を抜くのは好きではないほうでして……と言っても、先ほどのあれを見た後では信じ難いでしょうけど」
「そこはお互い様だ。おたくも俺を、腹から信用するなんて出来ねえだろ?」
この言葉には、どうやら何か英四朗も感じるところがあったらしく、小さくうなずくような様子を見せ、無言で玄馬が言葉を継ぐのを待った。
そんな雰囲気を察してか、玄馬もすぐに話を続ける。
「……実のところさ、おたくの言ってた通りで、上総屋さんにゃあ色々と事情があってね。いや、上総屋さんが何か良からぬことをしたとかって話じゃない。何というかこう、込み入ってんだよ話が。分かるだろ……?」
探るように言った玄馬の言葉に露の間、英四朗は何か思い巡らせたようであったが、次の瞬間、
「……来ますか?」
ふっと当たり前のように背を向け、英四朗は玄馬に問う。
「……番所に突き出すってえんじゃあないなら……な」
「それで私に何か得があるならそうしますが、差し当たってその心配は無用です」
答えるのと同時、英四朗は背を向けて歩き出した。