英四朗、罷り越しまして候 (6)
英四朗に言われるまま、家の奥へと引っ込んだ紅卯と宗右衛門は、聞き耳を立てたりなどは考えもせず、奥にある紅卯の寝室へ素直に座り込んでいた。
畳敷きの六畳間。
家具と呼べるようなものは布団一組ぐらいで座布団すらも無いため、ふたりとも畳へ直に座っている。
「一体、何の話だろうな……英四朗さん、わざわざふたりきりでなんて……」
思った疑問を紅卯は誰に言うで無しに声へ出した。
手持無沙汰でやることが無い時、独り言をつぶやくのは一般によくある癖のひとつである。
「大丈夫でぇすよお。色宮さぁんは、おつむが良いのですから、何か考えているんのだと思いますからあ」
これを聞いて、紅卯は(誰もあんたに話し掛けた覚えはないよ)と言いそうになるのを、ぐっと堪えて部屋の中を移動し、畳んだ布団にもたれて天井を見つめた。
時刻は暮六つ近い。
そろそろ行燈を用意せねばと、頭では考えるが体がもうだるい。
今日も大したことをしたわけではないが、大場道場で粥を空きっ腹に詰め込めるだけ詰め込み、そのうえ糖粽まで食後の菓子に食べたものだから、どうしても眠気が滾々と湧き出てくる。
腹が満たされると睡魔が寄ってくるのは避けようの無いことではあるが、少なくとも英四朗と彦六の話が終わるまでは眠るに眠れない。
などと、朦朧としてきた頭をそぞろに動かしていると、
「にぃしてもお……」
不意にまた宗右衛門が何やら口にしたもので、何だろうかと視線だけを向け、黙って継がれる言葉を待つ。
すると、悩ましげに宗右衛門は一言、
「このお家、奥が広くって玄関が狭いんのでぇすねえ……」
言ったものだが、紅卯は苛ついた口調で、
「……悪かったな。鰻の寝床で……」
そう返答するのが精いっぱいだった。
今の紅卯に、もう宗右衛門の足を蹴飛ばす気力は残っていない。
一方その頃、
英四朗と彦六は深く話し込んでいた。
始めこそ彦六は口を濁して本音を吐こうとしなかったが、紅卯と宗右衛門が帰宅した時、彦六の雰囲気が急に変わったことを見抜いていた英四朗が、万事お見通しという風で鎌を掛けたところ、やっとで堅い口を開き出したのである。
「干鰯問屋というと、確か魚肥を扱っているんでしたか……聞くところによると当世は物価も高騰して不景気な中、なかなかに繁盛しているそうですね」
「はい、おかげさまで順調に商いをさせていただいております。特に上総国から江戸へ出てきてからは怖いほどに順調でして……それだけに先だっての出来事が、何かの因縁なのではと、思い出すだに輪を掛けて恐ろしく……」
徐々にではあるが、気を許し始めた彦六の話はなお続いた。
「まあ、辻斬りに出会っただけでも町人の方には大変な恐怖だったでしょう。しかも上総屋さんは三人相手。白刃を突きつけられもしている。言い方は悪いが、今この場に生きているのが不思議に思えます」
「いえ、それは手前自身も同じ思いでございます。いやはや……あの一件でつくづく思い知らされました。『命あっての物種』という言葉の意味を。どんなに精を出して儲けたところで、殺されてしまったら仕舞いです。わずかな銭を惜しんで命を落としたのでは本末転倒。よく分かりました。金というのは、ある程度までは『貯める』ことのみ考えてやっておればよいのですが、そこから先になったなら、今度は『守る』ということも考えなければならないと。守銭奴などという言葉がございますが、これは嘲り言葉ではなく真理でございますな」
しみじみと、彦六は嘆息するようにそう語る。
すると、
「で、もうそんな思いをするのも殺されるのも御免だと、先生を用心棒に雇いたいと考えたわけですか」
穏やかに、だが内容は断言するような言葉を発し、英四朗は静かに彦六を見据えた。
途端、
それまで平静が崩れ、泡を喰った顔をした彦六を、なおも英四朗は無言で視線だけを向ける。すべてを見透かしているような目を。
ここに至ってついに彦六は半ば思惑を言い当てられたことで観念した。
実際には英四朗に確信があるわけでなく、単なる憶測でしかなかったのだが、見事にそれが的中したわけである。
「お気持ちはよく分かりますよ。私だって長いのを差してるとはいえ、本音を言えば斬った張ったなんて恐ろしいと感じます。ただ、慣れのせいで町人の方よりは幾分、そうしたことにも冷静な気持ちで当たれるだけです」
「……御武家様でも……そんなお気持ちになられることがあるのですか……」
「もちろんです。もし私が貴方の立場であったなら、同じく用心棒を雇いたいと思うはずでしょうね」
「え、や……手前は何もそのような……」
「ですが、雇うとしたら身銭を切る行為。そう軽々しくは雇えません。いざという時に必ず役に立つ人でなければ困ります。威勢だけ良くて金ばかり食う、見掛け倒しの用心棒など雇っても金と命を両方捨てるだけですからね」
「……」
「そこを思うと上総屋さん、貴方はどこかで不幸中の幸いだと思っているでしょう。その目で直接に見たがゆえ、腕は確かだと分かる人がいる。本当に腕が立つ人というのは実際に探すのは大変です。何せ、『剣術は見世物ではない』などと言われてしまえば、もう腕前の知りようも無い。さらに失礼だが、商人の用心棒となると、れっきとした侍は難しい。いくら食い詰めていようとも、『商人に雇われるなど、家名に傷がつく』と断わられる場合も多い。まあ口入屋に相応の額を積めば、それでもそれなりの家柄で身元もはっきりした方は雇えるでしょうが、これまた先に言った通りで腕が分からない。そうなると、うってつけは腕前のほどが分かっている方がよろしい。そこでうちの先生ですね。『花畑』などと呼ばれ、界隈の侍連中からは武士の面汚しだと嫌われていますが、町人の方たちにはお人柄のせいもあって好かれていらっしゃいます。だからある程度の特徴を話し探しただけで、先生の名や住いなどを知ることができたんでしょう」
こうまで具体的に話をされては、彦六ももう否定の言葉を持ち合わせなかった。
そして、
「かくして、身元が分かったなら後は行動。隅田堤の道場にはいないのが分かると、また所在探し。するとここへ入っていったと籠屋に聞いた。貴方ほどの大店の主なら籠屋との付き合いも多いでしょうから、簡単にここを突きとめられた。そしてまさに今、貴方はここにいる。そんなところですかね……」
差し挟む言葉も無いほど、一気に語り上げた英四朗に対し、もはや彦六に隠し立てをしようという気力は失せている。
改まり、彦六は得心したようにひとつうなずくと、真っ直ぐに英四朗と目を合わせ、迷いの無い声音で話し始めた。
「……お見逸れをいたしました。色宮様ほどのお方に手前などが隠し立てなど、愚かの極み……正直を申し上げれば、何もかも仰る通りにございます……」
腹を決め、言った彦六に英四朗は溜め息をひとつ吐き、
「やっと本心を明かしてくれましたか。いえ、素直に話していただければ何も問題は無かったんですよ。恐らく、断られるのが怖くて慎重に過ぎたようですね」
「その通りで……私の知る限り、花畑様ほどのお方は見たことがございません。我々商人というのは強欲でございまして、欲しいと思ったものは是が非でも手に入れたいと思ってしまうのです。ために、このような回り道をし、さぞ御不興を買ったことでしょう……まことに不徳の至り……」
「そう何度も謝らないで下さい。その気持ちもまた分かりますから。『善は急げ』も真理ですが、『急いては事を仕損じる』とも言います。ただ……ひとつ残念なことを伝えねばなりません」
「……は?」
「何と無くはお察しかもと思いますが、先生がここ……医者を訪れたのは他でもない理由。ああ見えて実は先生は病なんです。弟子の私が言うのも何ですが、確かに先生の腕前は並大抵ではありません。が、病を押してまで用心棒をとなると、やはり不安があります。それに、弟子として私も患っている先生に用心棒などをさせるわけにはいかないとご理解ください」
「……ああ……そんな……」
せっかく、すべてを吐露したというのに。何としても自分の用心棒にと、願っていたのに。彦六の落胆は見るだに大きかった。
ところが、
「しかし上総屋さん、そこまで落胆せずともよいかもしれません。要は上総屋さんが求めているのは間違い無く腕が立つと分かる用心棒。それも身元がしっかりした。せっかく用心棒をと雇ってみたら、『斬り取り強盗は武士の嗜み』なんて手のひら返しをされたら元も子もありませんからね。が、繰り返しますがそうだからこそ、身元も腕も確かな者を雇えるのなら、何も先生に固執する必要は無いんでしょう?」
視線を落とし、血の気さえ引いたように見える彦六へ対し、英四朗はすらりと言ったものである。
と、生気を失っていた彦六にわずかだが力が戻り、ふと顔を上げて英四朗を見、口を開いた。
「え……そ、それは一体どういうことで……?」
「これまた私が言うのも何ですが、その用心棒の役目、私が先生の代わりにやるのはいかがですか?」
これに対して彦六は、
無言になる。
口を閉じたのにも理由はあった。考ることが色々とありすぎたのだ。
英四朗はうまいことを言って、用心棒の役目を師から奪い取ろうとしているのでは?
そうではないとしても、この英四朗なる侍の腕が宗右衛門より上とも思えない。
だが本当に腕利きだとしたら……いや、しかしそれを見定める手段が無い。
等々、露の間にいくつものことを思い巡らし、何とも苦悩に満ちた表情を浮かべる。
が、そこに一声、
「心配の種なら察しがつきますよ。私の腕がどれほどか。それが引っ掛かっているんでしょう。当然です。私が貴方の立場でも、この話の流れで素直に私を代わりにするはずがない。何といっても先生の腕前は御承知でしょうが、私の腕前は御存じ無い。そんな状態で話が通るなんて私も考えていません。ですので……」
「……?」
「私の腕前をお見せします。そのうえで、雇うか雇わないかを決めて下されば結構。そういうことなら如何です?」
「は……あ、はい、御手前さえ見せていただけるなら……ですが、もし……」
「分かってます。上総屋さんの眼鏡に適わなければ、この話は無かったということで構いません。さて……それでは出来るだけ簡単で分かりやすい方法を……」
そう言うと、英四朗はふと床に落ちている一尺ほどある樹の枝に気付き、それを拾い上げて見た。
つぼみや葉といったものはついていないが、どうやら梅の樹の枝らしい。
切られてそれほど時が経っていないのか、まだ切り口は瑞々しいが、それより気にかかったのはその切り口の、異常なまでの鋭利さであった。
鉋で丁寧に仕上げたのかと見紛うほどに平坦で、どこにも抵抗が無く、まさしく一刀のもとに切断されたろうことが分かる。
切り取られた枝の断面ですら、下手に端へでも触れれば指を切りそうなほどのその鋭い切り口に、英四朗はひとりで何やら納得した顔をすると、おもむろにそれを彦六に手渡した。
「上総屋さん、ちょっとお手間を掛けますが、この樹の枝を私に向かって投げつけていただけますか?」
「え……?」
「据え物ならば刀さえ良ければ誰でも斬れます。動きませんからね。ですから、腕を見るにはこれが一番良い方法だと思うんです」
「なるほど……ですが、私はいつ投げれば……?」
「それが分かっていたら腕試しになりませんよ。彦六さんが好きな時に、好きなように投げてください。何をどうするか、何がどうなるかは、見てのお楽しみということでお願いします」
言ったかと思うと、英四朗は両手を正座した自分の膝上へ置く。
それから、
彦六は自分の用心棒を選ぶのに手抜かりがあってはいけないと、時間を掛け、じっと英四朗に枝を投げつける間を計った。
出来るだけ避けづらいように、出来るだけ手出ししにくいように。
どのくらいの時が経ったろうか。
湯が沸くまでの時間か。それとも井戸の水が桶に溜まるまでの時間か。
ともかく、間を慎重に計っていた彦六は、枝を持ったままで一計を案じた。
もうすぐ暮六つ。日もほとんど落ちている。
夕日の灯りが徐々に弱まり、視界は暗くなってゆくばかり。そこで、
日が落ちきったところを狙うだろうという英四朗の考えを予想し、わずか、
日が落ちきるよりもわずかに前、彦六は枝を英四朗へ目掛けて投げつけた。
瞬間、
彦六は信じ難いものを目にする。
英四朗は動いていない。
微動だにしなかった。
いや、そう見えただけなのか。ともかく、
英四朗が動いたのを、彦六の目はまったく捉えられなかったし、動いた形跡も無い。
なのに、
投げつけた枝は目の前に落ちている。
一本が二本になって。
刀を抜く素振りなど見えなかった。
柄に手が掛かるのも見えなかった。
唯一、耳鳴りのような音。ぴぃん、と金物でも弾いたような音。それだけを残して。
されど、確かに枝は二本に切断されている。
少なくとも目に見ることも出来なかった速さで一太刀。
自分で自分の目を疑う。だが、
「……彦六さん。私が刀を抜くところ、振るところ、鞘に収めるところ、このどれかひとつでも見えましたか?」
彦六はまたしても無言。ただし、今度の無言は意味が違った。
声も出なかったのである。
声を出そうにも、喉が動かない。
ただ、冷や汗だけが頬から顎へと伝い、ぽたりと床へ落ちる。
「どうでしょう、こんなもので合格は貰えますか?」
何も無かったかのように静かな声で英四朗は問う。
その問いへ彦六は口もきけずに何度もうなずいた。
気がつけば、部屋の中は完全に闇へ呑まれている。
遠く、暮六つを告げる鐘の音が微かに響いてきた。