表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花畑宗右衛門 乱刃録  作者: 花街ナズナ
10/24

英四朗、罷り越しまして候 (5)

成り行き上……という言い方が正しいかは難しいが、ともかく宗右衛門の道場で粥を腹いっぱいになるまで馳走になった紅卯は、これまでの経緯などすっかり忘れたように機嫌も良くなり、隅田堤をゆるりゆるりと歩き抜けて自宅近くの相生町まで戻ってきていた。

自分でも幾分、食べ過ぎた感が強かったが、宗右衛門の道場からはそれなりの距離があったため腹ごなしにはちょうど良い具合で、帰り着いた頃には腹八分目の心地良い塩梅となり、鼻歌交じりで道を行く。

時刻は夕七つ半。日も少しずつ暮れ始めていた。

「帰ったぞ、英四朗さん」

「色宮さぁん、帰ってきましたぁよお」

ほぼふたり揃って声を掛け、玄関の板戸を開ける。

するとすぐさま、

「おかえりなさい先生、そして女先生。さっそくですがもう半刻ほど前からお客さんがいらしてますが、この家にはお茶も無いんですね。正直、困りましたよ」

留守番の英四朗、帰宅して開口一番がこれだった。

もちろんこれには紅卯が即座、

「なっ、び、病人かっ!」

慌てて切り返して眼前を塞ぐ宗右衛門を押し退け、家の中へと駆け込もうとする。

ところが、

「あ、知っている人」

押し遣ろうとしたものの、びくともしないで立ち尽くす宗右衛門が突然、まっとうな声を上げた。

これには今まで妙な抑揚のついた彼の声しか聞いていなかった紅卯は、口にした言葉の意味も含め、はっと驚いて宗右衛門の体を迂回し、素早く家の中へ入る。

と、目にしたのは、

文机を背にして座る英四朗と、そんな彼と相対して座る見知らぬ男の姿だった。

五十も中ほどか。小柄で、地味だが整った良い身なりをしている。

座っている身の傍らへ、刀ではなく脱いだ羽織が置かれているのを見るに、どうやら商家の人間らしい。

髪の量に比べると結われた髷は小さく、少し横を向いている。

これも町人特有のものであるし、まずもってどこかに店の一軒も構える旦那だと見て間違い無いだろうと紅卯は見た。

そしてその読みの正しさは時を待たず、当の人物から語られることになる。

宗右衛門の存在に気付くや男は、はっとなって座ったまま玄関に立つ宗右衛門に向き直ると、小さく体をまとめるように三つ指をつき、

「ああ、あ……花畑様……過日の晩はまことに……まことに有難う存じました……」

何やら感極まった様子でそう言うと、ゆっくり深く、宗右衛門に頭を下げた。

「昨日の晩、橋近くの元町で料亭から店に帰る途中、辻斬りの一団に襲われたところを先生に助けられたと伺いました。まったく、『吞まない、打たない、買わない』で有名な先生が、何を酔狂に夜の町なんかを出歩くんです。下手をしたら、逆に辻斬りの下手人と間違われて面倒になるとこですよ」

憎まれ口を叩く英四朗の顔は、やはり能面のようなままであったが、言葉の最後へ溜め息をひとつついたところに、かろうじて英四朗が抱く感情の一端を窺える。

そこへようやく静かに顔を上げた男が、芝居の口上かと思う長い自己紹介を始めた。「鈴置先生には、お宅へ勝手に上がり込みまして大変失礼をいたしました。そして、花畑様には重ねて昨晩のお礼を。申し遅れましたが手前、両国は横山町で干鰯問屋を営みおります上総屋彦六と申します。実はこちらに花畑様がいらしておられると聞き及びまして、本日こうしてまかり越しました次第でございます。昨晩はまだお名前も知らず、その場にてお礼も申し上げられませんでしたこと、まことにあいすみませんでした……」

聞き終わって腹の中、紅卯は(またこんな手合いか……清兵衛さんといい、年寄りは何でこうもいちいちと話が長いかな……長い話は噺家だけで充分だろうに……)などと、言葉は漏らさず舌打ち漏らして様子見に徹していたが、

やにわに玄関から中へ入った宗右衛門が、彦六の前にぺたりと座り、肩をぽんぽんと優しく叩くと、柔和に微笑んで、

「ううん、いいのいいの。だあってあいつら偉そうで、なんか頭に来たから。お唄を唄ってるのぉ邪魔とかされたしぃ。だあから懲らしめっただけだから。でも怪我とかしなくって良かったねえ。刀なんかでぇ斬られちゃったら、痛いもん」

「……あ……? はあ……」

そう言って体を左右に揺らす。このただならぬ宗右衛門の有り様に明らか、面喰った表情を彦六は浮かべたが、無理はない。

宗右衛門の立ち居振る舞いは、普通の人間が見れば百人が百人、酒に酔っているようにしか見えないのだから。

実は思案があって宗右衛門を訪ねたものの、これではまともに話も出来ないと、困る彦六の心情も計り知れる。

が、そこに紅卯がいたことで話が変わった。

紅卯は医者として、宗右衛門が決して明るいうちから酒に酔うような仁ではないと、知らせることへ使命感を燃やしていたからである。

そのため、誤解が固まってしまう前に手を打とうと、すでにかなりおかしげな空気の漂っているふたりの間へ、紅卯は少しく強引に割って入った。

「上総屋さん……と、言ったかね。ふたりで話しているところに邪魔をして悪いとは思うんだが……少し、話をいいかい?」

「……え、ああ……そんな、ご遠慮無く。何か手前にお話でございましたら、喜んでお聞かせ願います」

丁重には答えてきたが、上総屋の抱いたであろう疑問と混乱は紅卯自身も通ってきた道だけに嫌でも伝わってくる。

それゆえ、紅卯の誤魔化しは必死そのものだった。

「初見の人は大抵、驚いてしまうんだが、宗右衛門さんは二本差しのくせに変わったお人でね。驚くほど気さくな人なんだよ。それでこうして砕けた態度を務めて取る。だからあまり畏まると宗右衛門さんのほうが逆に遠慮してしまうから、堅苦しい話はその辺にして……」

「や、そういうことだったんでございましたか……いえ、命をお助け下さったうえに何も仰らず立ち去られたその御様子から、寛仁大度なお人だろうとはお察しいたしておりましたが、まさかこれほどまでのお人柄とは……改めて、畏れ入りましてございます……」

「いや、だから……宗右衛門さんにはそういうのがよろしくないと……」

「あ、これはまた……あいすみません。長らく商人をしていますと、こうしたものが身に染み付いてしまいまして……」

言ってはいるものの、彦六がどの程度自分の話を信じたか、紅卯は不安を隠せない。

特に相手は商人。人を見る目は確かなはずだろう。しかし、

相手が病となるとその慧眼も濁るのでは?

事実、自分も始めて宗右衛門を見た際、人のことをいえぬ誤解をしている。

加えて、病というものは医に通じていない人間へ理解させることが難しい。

そのため、紅卯はあえて真実を語るのでなく、虚偽を用いた。

さは、さりながら、

嘘の上に嘘を重ねると、なおさらに真実は疑われてしまう。

もしもこの虚偽を彦六が怪しんだとすれば、もう次に打てる手立ては無くなる。

(もしや私は余計なことをしてしまったのでは……?)と、紅卯は心中複雑になって胃の痛む思いがしたが、そこに意外な救いの手が差し伸べられた。

「……随分と、お話が弾んでいるようで……不思議ですね。上総屋さんは私とふたりの時にはろくに言葉も発していなかったように思いますが……」

英四朗である。

不思議なことに、何故か彦六は英四朗のこの問いをきっかけ、沈黙した。

と、英四朗は静かな調子こそ崩さなかったが、畳み掛けるようにして、

「人の考えを読むという点に関しては、侍と商人は似た部分があります。侍は刀で、商人は銭で。得物は違いますが、命のやり取りをするわけです。となると自然、目が鍛えられます。真実を見抜く目が。で、ここが本題ですが……上総屋さん、貴方と私とでは、どちらの目がより鋭いと思いますか?」

言うのを聞き、上総屋の額にわずかだが汗が滲む。

それを見て取ると、英四朗は溜め息交じりに、

「……おふたりとも」

一言、発した。

「お帰りになったばかりのところをまことに勝手ながら、出来ましたら今少しの間、私と上総屋さんだけにしていただきたいのですが……?」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ