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花畑宗右衛門 乱刃録  作者: 花街ナズナ
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宗右衛門、患いて候 (1)

草木も眠る丑三つ時とは、何かにつけよく使われる語句である。

厳密にその時刻というわけでなくとも、誰もが寝静まる深夜などを指して。

しかし実際には子の刻にでもなればもう起きている者などそうはいない。

暮六つ過ぎて亥の刻には、いかに日のあるうちは盛況繁華する江戸の町とはいえど、花街や吞み屋、番所といった類を除けば、まさしくどこもかしこも火を落とし、老若男女の別無く、眠りにつくのが常。

心にも懐にも余裕のある御仁ならいざ知らず、好き好んで真っ暗闇の夜を楽しむ酔狂はそう多くない。

そうでなくとも昨今は油の値段も高騰しており、何もわざわざ自分の懐を軽くしてまで油問屋を儲けさせてやろうなどという豪気な人間は少なくなった。

江戸っ子は宵越しの銭を持たぬと言うが、そうした見栄も飢え死にしては笑い話にもならない。あくまで明日喰う飯の心配が無くて始めてこうした見栄も張れる。

所詮は人間、見栄を張るにも何をするにも、まずもって先立つ物が必要というのは、なんとも皮肉な話である。

などと、横道に逸れた話はこの辺りにし、本筋へと戻すとしよう。

夜の帳が下りる頃になると自然、外を出歩く人間の種類は限られる。

夜番が拍子木を鳴らしつつ「火の用心、さっしゃりましょう」と、声もかまびすしく歩き、酔った者が千鳥足で家路を急ぎ、不審者を見つけた場合には番所に詰めていた人間が不審者を追って走ったりと、およそこの三通り……いや、不審者を含めるなら四通りといった程度のものだろう。

が、当然ながらこれに当てはまらない者も存在する。特に月の明るい晩には。

不審者ではなく、純然たる犯罪者。つまりは盗賊や辻斬りの類である。

特に辻斬りなど、犯罪者が武士である場合、しかもそれなりの地位にある武士である場合は厄介このうえない。

冷静に考えれば分かることだが、犯罪を取り締まる町奉行は武士である。さらにその奉行の下で働く与力、同心といった人間もまた武士の身分である。

これがどういった含みのものであるかは、推して知るべしとのみ述べておこう。

加えて八百八町などと言われ、その広大複雑さを喩えられるほどの大都市であるにもかかわらず、江戸の市中を巡回する廻同心は臨時の者を含めてもわずかに二十四名。

もちろん、これではどう考えても人手か足りないので、同心たちは身銭を切って御用聞きという使い走りを雇っていたが、これですら焼け石に水と言わざるを得ない。

人員の絶対的不足は犯罪の検挙率を落とすばかりではない。より深刻である。

犯罪の立件をすら困難にするため、事件そのもの、つまりは犯罪があった事実自体が無かったことになってしまうことも日常的と言ってよい有り様。それが江戸の現実。

確固たる身分制度が存在している以上、これは必然。別に取り立てて言うほどのことですらない。

そして今夜も、そんな闇に埋もれる事件が起きる。

ただし、それは陰惨さにおいては類似の事件と合致するものではあったが、他の部分において……特に結果だけを見れば極めて特異な事件であった。

事の起こりは子の刻も深まり丑の刻が近づいた頃。両国で干鰯問屋ほしかどいやを営む商人の上総屋彦六かずさや ひころくが同業者を集め、江戸で商売の版図を如何にして広げたものかと、馴染の料亭で密かに話し合って後に帰途へ就いていたところを三人の頭巾で顔を隠した侍が突如、斬りかかってきたのが始まりである。

伴をしていた手代もろとも斬って捨てられるところ、必死の思いでどうにか遁走し、四町ほど逃げ走ったのだが、とうとう息も上がって力尽き、彦六は道の真ん中辺りにへたり込んでしまった。

途中、早々に手代は主人を見捨てて自分だけどこぞへ逃げ隠れてしまったが、これを軽々に責めるのもまた酷というものだろう。

誰しも、いざとなれば自分の命が何より惜しい。従者が主人を庇って……などという美談は当事者ではないから好き勝手を言えるわけであって、実際に自分がその立場になったならとてもではないがそんな余裕など無い。

とはいえ、置き去られた彦六の不幸は素直に気の毒ではある。

淡い月明りだけを頼りに、まさしく尻を絡げて死に物狂いに逃げたものの、齢五十も近い体では所詮ここが限界。

哀れや彦六、すぐさま追いついた侍三人に取り囲まれ、這いつくばったままで虚しい命乞いをするのがやっとであった。

「お、お待ち……お待ちくださいませ……どうか、どうかご勘弁を……」

気息奄々としなから、そう言いつつ自分を囲む侍のうち、ひとりの足下へすがろうとしたが、その侍は冷淡に一笑して彦六を足蹴にするや、悪し様に語る。

「ええい、男のくせをして意気地の無いやつめ。これだから商人などという輩はろくなものではないのだ。人から銭を取ることしか考えられぬ守銭奴が!」

これに合わせ、さらに他の侍たちも、

「そうだそうだ。どうせ生かしておいてもためにならん。世のためにもかようなダニは早う殺したがよい」

「いかにも。せめて我らの刀にかかって死ねることを有り難く思うのだな」

それぞれに手前勝手な理屈を並べながら刀の柄に手を掛ける。

理屈といっても文字通りの屁理屈。それ自体には特に意味は無い。

単に彼らが彼ら自身を正当化することさえできれば良いわけで、そこに第三者の視点など始めから想定されていないのだ。

無法を働く時でさえ体裁を整えようとするのは、武士が重んじてきた誇りという文化が長い時間を掛けて腐食した結果、見る影も無く変質した悪しき形骸のようなものであろうか。

何にせよ、彦六にとってはそれすらどうでもよいことである。

彼にとって重要なのは今、まさに自分が殺されようとしている事実だけなのだから。

三方から迫られ、逃げようにも逃げ道は無く、腰は半ば抜けている。そして侍たちは三人ともすでに白刃を晒していた。

悠々と間を詰めながら、三人が三人の思い思いに、どう斬ったものか、どこを斬ったものかと考えつつ歩を進めてくる。

彦六のほうはといえばもはやこれまでと諦念し、ただ一心に(せめて一太刀であの世へ行けますように……)と、悲愴な願いを頭の中で繰り返していた。

ところが、

いよいよ侍たちの凶刃が彦六へ振り下ろされようとしたその時、

ふと、その場にいる四人……すなわち三人の侍と彦六の耳に、誰かがひとり、唄う声が響いてきた。

しかもそれは近づいてきている。

唄が少しずつ明瞭になってくることからも、それは確かだった。

「……千里ぃー走るよぉなー……♪」

妙に機嫌の良い、若い男の声。聞きようによっては酔っているようにも聞こえる。

そうでなくても、酒が入っていると思わせるには充分な要素があった。

唄っているのが、茶屋や座敷で遊ぶ『とらとら』だったというのが大きい。

まともに考えて、このような深夜に酒も入っていない人間が歩きながら唄うにしては興が勝ち過ぎている。

だが、侍たちからすれば逆に興を殺がれた恰好であった。

せっかく血に酔おうとしていたところにこれでは気分も何も無い。ゆえに腹立たしさが先行した彼らは、取るべき行動を即座に決っする。

「……くそっ、やっとこれからという時に酔客か……どうする?」

「いや、むしろ好都合かもしれんぞ。こいつの伴をしていたやつは取り逃がしたが、これでまた斬れる人数が増えたと考えれば……」

「なるほど……よし、ならばまずこの不愉快な唄を止めてくれよう。俺が問答無用に斬り伏せてやる」

「よし、ではそっちはお前に任せよう。だがもし手強そうなら……」

「分かっている。その時は無理せず、お前らの助けを借りるさ」

「そうしてくれ。万が一にも正体が知れたら、ただでは済まなくなる。慎重にな」

言い交わし、三人組からひとりの侍が唄の近づく路地に向かって駆けていった。

この時点で、彦六はどこぞの酔いどれが斬り殺されるまでの一時的な身の安全を確保することが出来たという安堵と同時、逆にこうも生殺しな状態に置かれるぐらいなら覚悟が鈍らぬうちに殺されたほうが楽なのではという、相反するふたつの感情で心をひどく掻き乱されることになったが、結論から言うと彦六のこれらの思いは取り越し苦労に終わる。

と言っても、決して悪い意味での取り越し苦労ではなかった。

畢竟、この後に訪れた結果の重さに比するならば、それより前のあらゆる物事が軽く受け止められるという意味においてである。

さて、その異変に気付くまで残ったふたりの侍も彦六も少なからぬ時間を要した。

「藪のなぁーかを皆さん覗いてごろうじまーせぇー……♪」

唄は近づく。それへ向かった侍の姿はもう路地を曲がり、見ることは出来ない。

「金ーのぉー鉢巻襷はちまきだすきに和っ藤内がぁーえんやらやっとぉ……♪」

しかし奇怪なことに、駆けていった侍の足音と、唄の聞こえてくる辺りがおおよその見当で重なったかと思われた瞬間、露の間の静寂を挟んで、

「……捕らえしけだものは……♪」

足音は途切れ、唄は続く。

ここですでに侍ふたりも彦六も、相当の違和感を感じてはいた。何より音が重なった時点で一瞬の沈黙があったのも気掛かりであるし、それ以上に鉢合わせたはずである侍の足音だけが消えたことの合点がいかない。

ただ、世の中は必ずしも当て推量で物事を承知しなければならぬという法など無い。時によってはそんなことをせずとも、目にする事実だけで何が起きたかを理解すればよいこともある。

足音は途切れ、唄は続く。それもより近づきながら。

「とらとぉーら、とぉーらとら……♪」

声はもはや先ほど侍が駆けていった辻の角まで迫っている。

「とらとぉーら、とぉーらとら……♪」

もう唄の聞こえる位置から考えれば、件の酔客と思しき人間は辻の角まで達しているはずなのは、ふたりの侍も彦六も共通する認識であったが、どうにもここから彼らは三人して奇怪な事態を揃い、感じることとなった。

おかしなことに、今度は唄が止まる。ちょうど角の辺りで。ぴたりと、先ほど走って向かった侍の足音が突然に消えたように。

が、刹那、

「……とらとぉーら、とぉーらとぉら……♪」

ひょいと唄い終わりに合わせ、まさしく『とらとら』で遊んでいるように角から人影が姿を現す。

頼りは月明りのみ。距離も少しばかり離れている。

そのため始めは三人とも、やおら角を出てきた人影を正確には確認できなかった。

見て取れたのは影の形だけ。そこから分かったことは、

わずかに背を屈め、前に伸ばした首をこちらへ向け、どうやらあちらからもこちらの様子を見ているらしきこと。

腰の辺りに二本の影があるのを見るに、恐らくは武士であるということ。

加え、人影がなお一歩、踏み出してくれたおかげで少しはっきりとしたその姿を見、さらにひとつの事実を知る。

その人影の足下。そこへ、

後ろ襟を掴まれたもうひとつの人影が地面に引き摺られていた。

影の差した加減のせいか、こちらはその姿が立っている人影より明瞭に見える。

そうして、その明瞭さゆえ今この目の前で起きている事実を三人は愕然として見た。

引き摺られていた人影。それは頭巾こそ剥ぎ取られてはいたが、紛れも無く唄を頼りに酔客と思しき何者かを斬りに走った侍だった。

無論、彦六はこの侍の顔を知らない。さりながら着物や体格、帯びていた刀の細工や鞘は目にしている。

如何に暗がりといえど、こうした特徴までは見逃さない。これをさすがは商人だと、かかる事態に遭っても確かな彦六の観察眼を感心すべきかもしれないが、当の彦六にとってそのようなことはどうでもよく思っていただろう。

残ったふたりの侍もまた然り。

現状、彼らが気に掛けるべきは唯一、月明りに姿を現した人物についてである。

ただし、そうした行為も尋常の事態に限ってしか意味を成さない。

では今は?

答えは単純明快。何も出来はしない。見ている以外の何も。

人影は動く。ゆっくり。掴んでいた侍の襟を放し、どさりと力無く侍の体を地面へと落として。

転瞬、

人影は動く。やにわに。瞬時のことで知る間も無いほどの速さで彦六とふたりの侍の眼前へと。

途端、闇を抜けて空に浮かぶ月明りに映し出されたその人影は、とても人とは思えぬ目をぎらつかせ、歪めて笑う口元から白い歯を牙が如く覗かせた。


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