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「よう」
放課後。いつも少し目を向けるだけでさっさと帰ることにしていた俺は、彼女に声をかけていた。
「……また来た」
彼女は興味なさげに呟く。鬱陶しく思われてるというわけでもないようだが、この「無関心」の視線もこれはこれでなんとなく堪えるものがあるな。
「花、見てたんだな」
「…………」
彼女はふいっと顔を背ける。その先には、やっぱりあの花壇があった。肯定と取っていいのだろう。
「これ、何の花だ?」
近づいて見てみる。青くて小さな花が、球状に密集していた。
「……アジサイ」
「アジサイだったのか、これ」
花の知識など全く無い俺は、そんなポピュラーな花でさえ見た目と名前が一致していなかった。なるほど、これがアジサイ……。
「……そんな毎日雨の中見てるほど好きなのか?」
「……私の勝手」
「またそれか……」
いい加減うんざりだったが、これも彼女の性格なのだろうと自分を納得させ、苛立ちを口にしそうになるのをグッと堪える。どうしてそんな風に彼女を気遣ったのかは自分でもよくわからないが。
「せめて一緒に見る友達とかいないのか」
「……私の勝手」
「まさか、友達いないんじゃないだろうな?」
「…………」
図星らしかった。
「そりゃ、なんだ……。気の毒に」
「……みんな、雨女の私とは関わりたくないから」
「いや、それとはまた別問題な気がするが……」
彼女の容姿を改めて見る。
長すぎる髪。見えない顔。これじゃあまり積極的に関わろうってやつもいないだろう……。
「……お前さ、せめて髪切ったら?」
「……嫌」
「なんでだよ。正直不気味だぞ、それ?」
「…………」
率直に述べてやると、彼女は俯く。それから、少しためらいがちに、前髪に手をかけた。
「……じゃあ、貴方にだけ、見せてあげる」
「は?」
「……しつこいから。本当は、嫌……だけど」
「いや……」
無理にとは言わない、と続けるより先に、彼女はほんの少しだけ前髪を除け、ちらりとその瞳をのぞかせる。
「あ……」
そこにあったのは、暗く悲しげに細められている目。……しかしそれは、意外な物。
「碧眼……」
その名をそのまま口にすると、彼女はすぐ前髪で目を隠し、顔をそむけた。
「……これのせいで、中学では友達がいなかった」
「はあ、なるほどな」
高校生も偉そうに言えた立場じゃないが、中学生ってのは幼稚だ。「特定の誰かを除け者にする」という目的さえあれば、手段はどうだっていいのだろう。
いかにも日本人的な黒髪。その中にある、碧眼。吊し上げにするには十分な「異色」だ。
「って、じゃあ別に雨女は関係ないんじゃないか?」
「……高校では、目を見せたこと、ない」
舌足らずな説明だ。仕方なく俺は、そこから自分で解釈する。
「つまり、なんだ? 目が隠せても雨女だから友達がいないと」
首肯が返ってくる。
なんというか、友達がいないことの言い訳みたいにしか聞こえないが……。まあ、これ以上言及しても仕方ないだろう。
「……まあそれじゃ仕方ないが、何もこんな雨の中見てなくたっていいだろ」
「……今しか咲かないから」
「あ、そうなのか……」
話を変えるための問いかけは、俺の一般常識の欠如を無情に知らせてきた。そういえばよくそんな話を聞くような……。
「アジサイ……。漢字で書くと、紫の陽の花って書くのか」
よく見るとプレートが立ててあった。セイヨウアジサイという品種らしい。
それにしても、この時期……梅雨時にしか咲かないのに、「陽」の花、ね。
「俺はこんな物より本物の陽が見たいな。さっさと梅雨が明ければいいんだ」
「……そう」
返って来たつぶやきは、他のものよりかなり冷たかった。……そういえばこいつ、「この時期は救われる」とか言ってたか。だとすると少し悪いことを言ったかもしれない。
「……なあ。朝言ってた、『この時期は救われる』ってどういう意味なんだ?」
「……関係ない」
やっぱり突き放すか。なるほど、じゃあこっちから推理してやろう。
……といっても、既に大体の予想はついていたが。
「そうだな……。ずっと雨が降ってるから」
わざと遠回りして聞いてみる。
「……関係ないわけではない」
ほう。
「雨が降ってて、雨女とか気にしなくて済むから、だな?」
「……30点」
赤点ギリギリだった。……つまり、大半はこれってことか。
「じゃあ……これだろ」
「……っ」
紫陽花の花壇を指さしてやる。
「紫陽花が咲いてるから、だろ?」
「……は、80点」
あれ、まだ満点じゃないのか。
……じゃあ、あれか。こんなやつに限って、まさかとは思うが。
「……紫の、『陽』の、花……?」
「……っ!」
強調して言ってやると、彼女はビクンッと体を震わせた。わかりやすいやつだ。
「なるほど。いつも雨ばっかりな私でも見ることのできる、雨空の下に昇る太陽、私の救い……って感じか?」
「……100点」
諦めたように呟く彼女。ほう、地味で暗いだけのやつだと思っていたが……。
「意外とロマンチストなんだな、お前」
「……わ、私の勝手」
前髪から僅かに覗く顔を赤くして、そっぽを向いしまった。意外と可愛いところがあるな、こいつも。
「……だから、救われる。紫陽花が咲くから、梅雨は好き」
完全に諦めきったのか、自ら告白する雨女。意味不明だと思っていたこいつを、少しだけ理解できた気がした。
……って、理解してどうする気なんだ、俺は。
「す、好きなんだったらもっと近づいてみたらどうだ? そんな離れてないで」
「…………」
誤魔化すようにそんな提案をしてみるが、彼女は赤くしていた顔をすっといつもの暗い肌色に戻し、俯いてしまう。
「……このくらいが、ちょうどいい」
「はあ?」
「……紫陽花は、綺麗。花も、名前も」
「ま、まあ、そうだな」
いきなり何を言い出すんだろうか。
そんな俺の疑問も他所に、彼女は淡々と、しかし少し悲しみに傾いている気のする声で呟き続けた。
「……だけど、毒がある」
「へえ……って、ええ!?」
慌てて花壇から離れる。
「……別に見ているだけで死にはしない」
「そ、そうか……」
「……葉を食べたりしなければ、平気」
「へ、へぇ……」
好きな花というだけあって、色々詳しいようだ。
「って、じゃあなんで離れてるんだ?」
「……心の、問題」
「心の?」
彼女は小さく首肯する。そして、饒舌に語り始めた。
「……私は雨女だから。休みの日に出かけることを楽しみにしてると、雨が降って、落胆する。楽しみにしてるほど、それは大きい」
「はあ……」
「……それと同じ。期待しすぎると、傷つく。……私は太陽なんて期待しちゃいけない。だから紫陽花だって、必要以上に愛しちゃいけない。近づき過ぎると、毒に犯されて、傷つくから」
「…………」
なるほど。本当に、予想以上のロマンチストらしいな、こいつは。
彼女はふと顔を上げると、酷く不器用な笑みを浮かべた。
「……だから、こうして見ているだけで満足。見える所に『陽』があると、いつもよりは、救われた気持ちになるから」
「だから梅雨は好きってか」
「…………」
首肯。その顔には、切って貼ったような不自然な笑み。
……なんだか、その顔が酷く不愉快だった。どうしてかは分からないが、この雨と同じような、不快感を感じる。
「……俺は嫌いだがな。梅雨も、雨も」
それを吐き出すように不満を口にする。
「ジメジメしてて薄暗くって、気持ち悪いったらありゃしないっての」
「…………」
彼女は作り物じみた笑みを貼りつけたまま、無言を返してきた。
……何をやってるんだかな、俺は。
「……梅雨なんて、さっさと明ければいいんだ」
俺は最後にそう吐き捨てて、彼女に背を向け、歩き出した。
途中で一度だけ振り向くと、彼女はまだ俺を見ていた。笑みを貼りつけて、あの紫陽花を眺めるように、遠く距離を保ったままで。