仮想空間で暮らす君とともに
『エターナル・ワールド』が発売されてから、三か月が経っていた。
フルダイブ型VRMMORPG。
専用のヘッドギアを装着して横になれば、意識だけがゲームの世界へと入り込むことができる。
剣を握れば、まるで本物の剣を手にしているような重みと感触があり、草原を歩けば頬を撫でる爽やかな風を感じ、街へ足を運べば、焼きたてのパンの香ばしい匂いまで漂ってくる。
世界中のプレイヤーが同じ世界に集まり、冒険者となってモンスターを倒し、ダンジョンを攻略し、さまざまなクエストをこなしていく。
俺──佐倉悠真もまた、この世界でそれなりの冒険者になっていた。
「レベル四十八か……」
ランキング上位に名を連ねるような廃人プレイヤーには遠く及ばないが、一般的なプレイヤーの中では、まあまあ強いほうだろう。
「今日もクエストを一つ終わらせたら、ログアウトするか」
そう呟いた、そのときだった。
「……ねえ」
背後から、突然声がした。
「ん?」
振り返る。
そこに、一人の少女が立っていた。
銀色の髪に、白いローブ。
右手には一本の杖を持っていて、見た目は十六、七歳くらいに見える。
少女はじっと俺を見つめていた。
「私を、連れていってくれない?」
「……え?」
「冒険に」
あまりにも唐突な申し出に、俺は思わず目を瞬かせた。
「君、プレイヤー?」
「違うよ」
少女は小さく笑った。
「私は、この世界に住む者。ノン・プレイヤー・キャラクターよ」
「……NPCってこと?」
このゲームには、NPCを仲間として連れて歩けるシステムが存在する。
他のプレイヤーとの交流を好まない人や、自分のペースで冒険を楽しみたいプレイヤーのために用意されたシステムで、街の酒場や冒険者ギルドなどで出会ったNPCに一定の条件を満たして話しかければ、仲間としてパーティーに加えることができる。
ただし──
「変わったNPCだな」
普通のNPCなら、こんな場所に一人で立っていることはない。それに、NPCのほうからプレイヤーへ話しかけてくるなんて聞いたこともなかった。
「名前は?」
「ソニアよ」
「ソニア……か」
「うん」
俺は少し考えた。
一人でのプレイにも、そろそろ限界を感じ始めていた。
他のプレイヤーとパーティーを組めば効率は上がる。しかし、それには相手の都合やペースにも合わせなければならず、気軽に遊びたい俺にとっては、少々面倒でもあった。
その点、NPCなら気を遣う必要がない。俺の好きなタイミングでクエストを受け、俺の好きなペースで冒険できる。
「……まあ、いいか」
そう考えた俺は、少女に手を差し出した。
「俺はユーマ。よろしくな、ソニア」
「うん!」
ソニアは嬉しそうに笑い、その手を取った。
それが、俺とソニアの出会いだった。
◇
最初の頃は、ただの便利な仲間だと思っていた。
俺が前衛に立ってモンスターを引きつけ、その隙にソニアが魔法を撃つ。俺がダメージを受けて危なくなれば、すぐさま回復魔法を使ってくれる。
NPCとして、ソニアはかなり優秀だった。
特に便利だったのが、彼女だけが持っている特殊スキル《神の啓示》だ。
このスキルを使うと、通常では発見できない隠しアイテムの存在を感知できたり、クエストを最短で攻略するための道筋を知ることができたりする。
攻略サイトにも載っていない、俺だけのとっておきのNPC。
俺はソニアを連れて高難易度のクエストへ挑むようになり、気がつけば一人の頃よりも、ずっと速いペースでレベルが上がっていた。
けれども、ソニアと一緒に過ごす時間が長くなるにつれて、俺は少しずつ彼女に違和感を覚えるようになった。
焼きたてのパンを食べれば「美味しい」と微笑み、雨が降れば嫌そうな顔をする。
モンスターとの戦闘で俺が怪我をすれば、本気で心配そうな顔をするし、俺がくだらない冗談を言えば声を上げて笑う。
そんな時間を積み重ねるうちに、俺はいつしか、ソニアを単なるNPCとして見られなくなっていた。
彼女と一緒にいることが楽しい。
ソニアに会えることが楽しみになっていった。
ゲームをするというより、ソニアに会うためにログインしている感覚すらあった。
ある日。
いつものようにログアウトしようとしていると、ソニアが俺の顔をじっと見つめてきた。
「もう、帰るの?」
「ああ。明日も仕事だからな」
「……明日も来る?」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
「もちろん」
「約束?」
「ああ、約束だ」
俺は笑って答えた。
「必ず、明日も来る」
「……うん」
すると、ソニアは安心したように微笑む。
その笑顔を見て、俺も自然と笑みを返した。
◇
翌日。
「バカヤロー!! お前、三年目にもなって何をやってんだ!!」
オフィスに、上司の怒号が響き渡った。
「す、すみません!」
俺が取引先へ提出した資料に、大量のデータミスが見つかったのだ。
「すみませんじゃない! 今日中に全部修正して、明日の朝には先方へ提出できる状態にしろ!」
「今日中ですか……?」
時計を見る。
時刻は、すでに十六時を過ぎている。
資料には膨大な量のデータがあり、一つ一つ確認して修正していかなければならない。どう考えても数時間では終わらない作業。下手をすれば終電にすら間に合わないだろう。
「当たり前だろ! 自分の仕事には責任を持て!」
「……はい」
反論できる状況ではなかった。
俺は自分の席へ戻ると、パソコンの画面を開き直した。
今日は会社に泊まることになりそうだ。
深いため息を吐きながら、俺は心の中でソニアに謝った。
ソニア、ごめん。
今日はログインできそうにない。
でも、ゲームの世界なら時間は進まない。明日ログインすれば、昨日ログアウトしたところから始まる。
明日、仕事を終わらせて、急いでログインしよう。
ソニアには時間の経過は分からない……。でも、ちゃんと謝らなければ。
◇
異変が起きたのは、翌日、ログインしたときだった。
「ログアウトがない……?」
何度メニューを開いても、ログアウトの項目だけが表示されない。
「不具合か?」
再起動もできない。ヘッドギアを外そうとしても、身体が動かなかった。
嫌な汗が流れる。
「どうしたの……?」
振り返ると、ソニアが立っていた。
「ソニア……。ログアウトできなくなったんだ。何か知らないか?」
ソニアは一瞬、ニヤリと笑った。
「え……?」
だが、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「もしかしたら、バグかもしれないね。《神の啓示》で調べてみるよ」
「……ああ。頼む」
気のせい……か?
俺はそう思うことにした。
「ユーマ、分かったよ。ここから東にある洞窟に、バグを起こしている根源がいる」
「いる……? モンスターってことか?」
「そう。東の洞窟には、強いモンスターはいないはず……だけど、強い悪の気配を感じる。通常の『エターナル・ワールド』では存在しないモンスターが、洞窟の奥にいるみたい」
「分かった……。東の洞窟へ向かおう!」
東の洞窟に出現するのは、低レベルのモンスターばかり。そのため、最深部までたどり着くのは難しくなかった。
しかし、最深部で待ち構えていたモンスターは、これまでとは桁違いの強さだった。
「くっ……強い……!」
激しい攻防が続き、戦闘は長時間に及んだ。
「ソニア! 回復を頼む!」
俺が叫ぶ。だが、返事がない。
「……ソニア?」
モンスターから目を離すことができず、もう一度呼びかける。
「ソニア!」
その瞬間だった。
グサッ!
「がっ……!」
背中に鋭い痛みが走った。
力が抜け、俺はその場に倒れ込む。
「な……に……?」
必死に顔を上げた俺の目に映ったのは──
血に濡れたナイフを握る、ソニアの姿だった。
「な……ん……で……」
俺はその言葉を最後に、意識を失った。
◇
目が覚めると、俺はベッドの上にいた。
しかし、現実の俺の部屋ではない。
壁も、床も、天井も、何もかもが白一色の部屋だった。
「ここは……一体……?」
「起きた?」
声が聞こえた。
「ソニア!」
俺は飛び起き、身構える。
「そんなに警戒しないで……」
ソニアは悲しそうに微笑んでいた。
「なぜ……俺を刺した?」
俺はソニアを睨みつける。
「ごめんなさい……。でも、あなたを救いたかったの」
「俺を……救う?」
「そう……」
ソニアは俯き、静かに言葉を続けた。
「あなたはいつも、辛そうな顔でログインしてきた。だから……私は、あなたをそんな顔にさせる現実世界が嫌いだったの」
「……」
「そんなに辛い場所なら、もう戻らなくていい。ユーマにはずっと、この世界にいてほしい。私のそばにいてほしい……」
その言葉を聞いて、俺は何も言えなかった。
確かに、現実では嫌なことばかりだった。
仕事で失敗すれば上司に怒鳴られ、毎日同じような日々を繰り返す。ソニアと出会う前の俺が、このゲームにのめり込んだのだって、現実から逃げたかったからだ。
「プレイヤーとしてのあなたは、もう死んだの……」
ソニアが静かに告げる。
「今のあなたは、私と同じNPC」
「俺が……NPC?」
「そう。だから、もう現実世界に戻る必要はないよ。ログアウトも、できないの」
「……そうか」
ショックだった。
もう二度と現実には戻れない。
そう考えれば、恐ろしいはず。
でも──
どこか安堵している自分がいた。
辛い現実に戻らなくていい。
この世界で生きていけばいい。
ソニアと一緒に、ずっと、この世界で。
「……そっか」
俺は小さく呟き、ほんの少しだけ笑う。
「ここに……ソニアのそばにいるよ。ずっと……」
その言葉を聞いた瞬間、ソニアが俺に抱きついてきた。
「ほんと? ずっと、ずっと一緒だよ……」
「ああ……ずっと一緒にいる……」
ソニアの身体を抱きしめる。
もう現実に戻ることはできない。
しかし、不思議と後悔はない。
俺にはソニアがいる。
この世界で、彼女と一緒に生きていけばいい。
このとき俺は知らなかった。
ソニアが、この世界のバグであるということを──。
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