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この世界がRPGだったと気が付いた俺の悲喜交交

作者: 青木十

 出会いは、兄とともに父に連れられて騎士団を訪問した時のことだった。

 晴れ渡った青空の下、騎士団の練兵場には騎士たちが集い鍛錬をしている。そこにその人はいた。


 立派な体格、見上げる長躯、厚い胸板。引き締まった筋肉を纏い、黒褐色の髪は短めに切り揃えられているが、後ろに一房だけ尾のように長かった。落ち着いた佇まいで、周りに指示を出している。黒を基調とした騎士団の制服、それに黒縁の眼鏡がとても似合っていた。

 当時の俺の――ったって今でもたかが知れているけど――語彙力じゃうまく言い表せられないほど恰好よく、いろんな感情どストライクな見た目で、ひと目見た俺は胸が高まった。


 騎士たちを前に父が挨拶をし、次に兄と俺を紹介してくれる。

 父は昔騎士団で要職についていたが、祖父の持っていた爵位の一つを継ぐことになり、騎士団を抜けることになったらしい。その際、騎士団での功績をたたえられ、子爵だったはずがあれよあれよという間に、領土は小さいが伯爵になった。それからは領地を見つつ王城に勤めている。

 兄が大きくなり、父のように若い頃は騎士として国に仕えたいと考えているらしく、騎士団の見学に来たんだったと記憶している。


 皆、久々に訪れたらしい父と、おまけの俺たちを歓迎してくれた。まだ十になったばかりの小さい俺からは、騎士たちは皆大きく、制服姿も相まって同じように見えていた。


 そこへ現れたのが、当時、十九の若さで小隊長の立場を務めていたその人で、彼だけは輝いて見えた。

 小さい俺に合わせて膝を突き、挨拶をしてくれる。間近に見えた瞳は、落ち着いた舛花色でとても大人びて見えた。


「マテウス殿、私はアルノルト・ハイデルベルクと申します」


 俺は膝から崩れ落ちた。

 低くて耳通りよく穏やかな、むっちゃくちゃいい声だった。

 その声があまりにもよくて、俺は腰が砕けたのだ。


 その人は、手早く俺を助け起こしながら「怯えさせてしまったかな」と少し困ったような微笑ましいものを見るような顔で、柔らかく笑っていた。

 助けてくれる優しさも、柔らかな笑みもとても素敵で、俺の胸はぎゅううっとするほどだった。ドサクサに紛れて抱きついた胸板はとても温かくしっかりしていた。


 ひとしきりして回復した俺は、父たちと騎士団の訓練を見学した。その人はとても強く訓練でも負けなし、皆にも慕われているのが分かった。

 特に、見事な剣技とともに氷の魔法を使って戦うさまは恰好いいわ、美しいわで、見ている俺は歓声ばかりを上げていた。

 キラキラと破片が舞い、それらに反射した陽光を受けて輝く彼の姿は、確かに俺の中に憧憬を刻み込んだ。


 この時、俺の心は「スクショ撮らせろ!」と謎の言葉を叫んでいた。

 スクショってなんだろと一瞬思ったが、彼の姿を見守る方が忙しくて、すぐに忘れてしまった。


 ちなみに父も参加し、久々に剣を手にしたようで楽しそうだった。もし祖父から爵位を継がなかったら、父はまだ騎士団にいたかもしれないなと思ったし、普段の様子からは考えられない程強くて、俺も兄も父のことを更に尊敬した日だった。


 帰り際、騎士の皆が見送ってくれる。

 その人も訓練を止めて来てくれて、俺たちと握手してくれた。


 その時、俺の胸は、一つの感情でいっぱいだった。



 こんな男になりたい!

 この人みたいな男になりたい!



 そう思って俺は、ペコリと頭を下げならが叫んだ。


「僕を、弟子にしてください!」


 呆気にとられた父と兄の脇で、彼はまた困ったように微笑んだ。


「弟子……は取る予定はないですね」

「なら、今予定を立ててください! 僕が弟子1号です!」


 俺の勢いに圧される彼に父が耳打ちする。俺には聞こえない声で数言交わした後、その人はまた膝を突いて俺に話しかけた。


「ずっとは見れませんけれど、たまになら構いませんよ。それでもよろしいですか?」

「もちろんです!」

「私は厳しいですよ?」

「どんとこいです!」


 俺の様子に、彼は眉尻を下げながら楽しそうに破顔する。こういう人を美丈夫っていうんだろうなって、俺は笑顔にやられながらもぼんやり思っていた。

 騎士団の皆が微笑ましそうに見守ってくれる中、彼は「分かった」と確かに頷いてくれたのだった。



 こうしてアルノルト師匠の弟子になれた俺は、決められた日に兄に付いて騎士団を訪問し、師匠から剣と魔法を習った。通えない日は一人鍛錬を繰り返し、一歩でも彼に近づくべく努力した。

 子供の割に……ではあるが、着実に強くなっていった。


 ――しかし。


 なんというか、俺は薄かった。……胸板が。腕も細かったし、身長もそこそこで止まってしまった。ちゃんと肉体を鍛えるべく体を動かしたし、食事にも気を遣った。動く、食う、寝るを十分に果たしたはずだった。


 にも拘わらず、体は鍛えられず、ぺらっぺらに育ってしまった。


 兄はすっかり逞しい騎士然とした体躯になっていたのに。

 師匠のような、立派で安心感のある胸板にはなれないのか。


 それでも諦めるものかと、俺は日々鍛錬し訓練し、堅実に評価を得、着実に成果を見せ始めていた。

 そんなある日のことだった。


 とんでもない、夢を見たのは。



 上司に呼ばれた俺は、ディスプレイから顔を上げて、はーいと返事をする。


 席へ向かえば「脇役の立ち絵が何体か必要になったんだけど、追加発注が難しいらしいから、代わりに描いてもらっていい?」と説明を受ける。

 このクソ忙しいのに何言ってんだと内心毒づきつつ「いや、俺、今データチェックとスケジュール調整で忙しいんですけど……」とボヤけば、上司はニコニコとしながら「好きに描いていいらしいからさ。頼むよー」と折れる気配もない。

 まあ、メインのキャラクターデザインは有名なイラストレーターの先生にお願いしていて、追加は難しいってのは理解できる。期間的にも予算的にも。仕方ない理由は理解できる。

 渋々ながら受理した俺は、クソ忙しい進行の合間を縫って、設定が書かれた企画書を眺めつつ脇役の絵を描いたのだ。


 むちゃくちゃ自分好みに。


 しっかり自分の欲を詰め込みつつ頑張って描いたそれらは、無事に採用された。

 なまじデータ管理や進行管理ができたばかりに、それらばかりさせられていた俺が、初めて我を出せた仕事。嬉しさは言葉では表せられなかった。



 ――そういう風な夢。

 起きてもはっきりと覚えている夢を見た日の朝、眠い頭で考える。


 なんのゲームを作っていたのかはっきり覚えていないし、夢でも言及がなかったが、つまりなんだ。

 俺はその世界に転生してたってこと、なのかな。


 そんな漫画みたいなこと、いやもしかしたら小説? みたいなことあるんだなぁと、首を傾げつつも欠伸を一つ。


 ぼんやりと湧き出てきたいろんな記憶を辿ってみる。


 その何人かいた脇役の一人が「騎士団の魔法剣士部隊の隊長をしている、侯爵家の次男。攻略対象⑤の歳の離れた次兄」だ。


 才能があって剣術にも魔法にも長けているため隊長を任されており、攻略対象⑤は彼を尊敬しつつもコンプレックスを抱いているって内容だった。


 ヒョロっちょくて日本人男性の平均程度の身長しかなかった俺は、背が高くがっしりした男になりたかった。身長は諦めたものの筋トレは欠かさなかった。さっぱり筋肉がつかなかったのは納得がいかなかったけれど。

 俺の中でのコンプレックスってこれだなって考えたんだっけ。


 理想の塊のような兄に憧れ、そうなれない自分が嫌になる。憧憬と諦観の綯い交ぜ。攻略対象⑤の感情って、そんなんなんだろうと思ったんだ。

 それに、男である攻略対象⑤から見て恰好いいってのは大事だろうと思った。⑤も細かったし。


 その「こんな男になりたかったなぁ」って気持ちと、男の自分から見て「こういうキャラ恰好いいなぁ」って気持ちを詰め込んでキャラクターのデザインラフを描き上げた。

 立派な体躯、艷やかな黒髪、得意な魔法は弟と同じ氷属性。でも美人って感じではなく、男が恰好いいって思える男前な美形に寄せたつもりだ。

 ラフを出す時に無駄に熱弁したらオーケーが出て、そのデザインが採用されたんだっけか。


 それがとどのつまり――



 師匠だってこと。



 ……そりゃあ、師匠のこと恰好いいって思うわけだわな。

 そんな風にすとんと腑に落ちた。

 ついでに前世って概念も。そういうのを散々読んだような記憶も、薄っすらあるし。


 問題は、それ以外ほっとんど覚えてないことだ。

 師匠の弟、攻略対象⑤だって、どんな奴だったか記憶にない。俺が覚えているのは、黒髪で細身の顔がいいってくらいの何となくな外見と、奴の通し番号が「05」という管理データ上のファイル番号くらいだ。基本の立ち絵は、たしか学校の制服を着ていた。で基本の表情は、無表情っぽいが微妙にむすっとしてたな。


 ……笑顔が爽やかな師匠とは大違いだ。


 師匠は、出逢った頃の小隊長から昇進して、確かに隊長を任されている。そう考えると、ゲームの設定に近づいているのかもしれない。


 けれど、学園で何かある……ようなのは耳にしないなぁ。


 俺は、今は王立学園の二年生で、もうすぐ三年生になる。最終学年だ。

 卒業したら騎士団に入ることが決まっていて、今は時間を見て騎士団に通っている。少しだが給金も出ていて、アルバイトみたいなもんだな。師匠の仕事を手伝ったり、訓練に参加したり。内容的には従騎士ってやつが近いのかも。

 ちなみに、コルネリウス兄さんは、去年卒業して、正式に騎士団に入った。俺も早く追いつきたい。


 師匠の弟はいくつなんだろ。そういやきちんと聞いたことなかったな。


 ここがゲームの世界ってんなら、クライマックスが来た時、もしかして何かあるのだろうか。

 魔王とか出るのか? 確かにこの世界は魔物もいるし、魔法もある。でもそういう言い伝えみたいなのは、聞いたことがなかった。もしかして、国を護る機構みたいなのが壊れそうになる、とか? そんなことも聞いたことないな。


 やべぇ、何も覚えてないから、逆に不安になってきた。


 そう思いながら、服を着替え始める。騎士団に入ったら身の回りのことは自分でやる必要があるから、弟子入りしたあの時より自分でできることは自分でやってきた。

 シャツを羽織りながら鏡を覗く。あまり焼けない肌、細い首、腕、脚だってそうだ。師匠のように逞しくならなかったなぁと溜息が出た。

 ここで俺はハッとする。


「…………俺の体が育たなかったのって、前世からのなんかなのか?」


 思い至った考えに、不安も疑問も霧散して、もしかしたらこのまま、ずうっとヒョロっちょいままかもしれないということに全てが上書きされてしまった。


 もしかしなくてもこれは……。


 俺は師匠みたいに恰好よくなれないってことなのか?


 師匠の弟子になって七年。

 十七歳の俺が、世界に絶望した日だった。




 絶望に打ちひしがれた日の夕刻。

 俺は、思い出された基本立ち絵と同じ制服を身に纏い、騎士団の詰め所にいた。

 紺色のジャケットに、明るいグレージュのスラックス、これに好きなシャツとタイを合わせる、それが学園の制服だ。二年生のタイは緑であれば形状は自由になっている。俺のものはネクタイ型の緑に黒と薄紺のストライプだ。進級祝いに師匠が贈ってくれたもの。

 そのタイをしっかりと締めて、俺は書類整理の手伝いをしていた。


「今日は随分と元気がないな」


 心配そうに声をかけてくれたのは、ディートリヒさん。近衛である第一隊を率いている隊長さんだ。

 澄んだ碧の瞳と、さらりとした金髪を後ろで結わえた美貌の人で、筆頭近衛騎士だ。立ち姿は美しく、剣を手に取れば様になり、戦う姿はそれはもう絵画のごとくだ。もちろん当たり前のように強い。

 彼は柔和な表情で俺を覗き込んだ。優しげな色をした髪が一房、さらっと耳から外れ落ちた。


「あれだろ、お師匠がいないから」


 その横で笑うのは、第二隊のユルク隊長。がしがしと俺の頭をかき回すように撫でてくる。

 こちらは、燃えるような赤い髪を後ろに撫でつけた偉丈夫だ。公爵家の三男で、こういうところでは気さくな人だけど、所作がとても美しくさすが最高位貴族といったところ。

 第二隊は有事の対応や荒事の解決を主な任務としていて、とにかく戦いに強い人が集められている。ユルクさんもその一人というわけだ。身の丈より長いハルバードを勇ましく振るう姿は、令嬢たちからも大人気だ。


 ユルクさんの言葉に、ディートリヒさんは納得するように頷いた。


「あぁそうか。アルノルトは団長のところだ。じきに戻ってくるだろうから、心配しなくていい」

「マテウスは、お師匠大好きだもんな」


 ユルクさんが肩を揺らして笑う。ディートリヒさんは微笑ましそうにこちらを見ていた。

 むず痒い……。二人とは、あの弟子入りの時からの付き合いだから、俺の悲喜こもごもを十二分に知られているのだ。


「もうそんな年ではありません。来年は卒業も控えているし、その後は正式に入団するんですから」


 俺がキリリとして言えば、ディートリヒさんがしかと頷いてくれる。


「もうすぐだな。正式入団、楽しみにしている。おそらく第三隊に配属されるだろうから……」

「ほんとうですか!」


 ディートリヒさんの言葉に思わず声が大きくなる。


「師匠の隊! やったー!」


 師匠の隊なんて嬉しすぎる!

 喜びの勢いのまま、ディートリヒさんにひしっと抱き付く。俺の喜びを共有してほしくて。

 うわぁ、本当か! 入団した後、師匠と別れたらどうしようかと思っていたけど、第三隊に入れるんだ。入団しても、師匠と一緒! 嬉しいに決まっている!

 ディートリヒさんに抱き付くなんて多くのご令嬢に刺されそうだけど、許してくれ! 俺は今それくらいに感動してるんだ!


「嬉しい! ディートリヒさん、ありがとうございますっ!」


 下からディートリヒさんの顔を見上げて、にししと笑う。ディートリヒさんは一つ肩をすくめた後に、微笑みながら俺の頭を撫でてくれた。


「何をしているんだ」


 扉の方から、低くていい声がかかる。


「師匠!」


 俺は、ばっとディートリヒさんから離れて、扉の方へ駆け出した。


「師匠、おかえりなさい!」


 眼の前には、戻ってきたばかりの師匠の姿。今日も黒の制服が恰好いい! 前にも増して体は逞しく引き締まっているし、眼福だ。

 俺は上機嫌のまま、師匠の前で捲し立てる。


「俺、入団したら、師匠の隊に入れるって本当ですか?」


 自分でも分かるくらいにキラキラした瞳で、師匠を見上げる。

 師匠は何故か少し眉根を寄せていたが、俺の言葉にあぁと頷いてくれた。


「マテウスには、魔法を併用しての剣技を教えてきたつもりだ。だから入団するなら、第三隊に所属するのが一番力が発揮できるだろう。今はそのように調整を進めている」

「なるほど! そういう風に考えていただけるの、とても光栄です」


 師匠のようになるにはまだまだだけど、俺のことをきちんと評価してくれてる。すごく嬉しいことだ。師匠は、無理くりやれとか無茶も言わないし、丸投げもしない。ちゃーんと気にかけてくれている。どこかの上司には見習ってほしいもんだな。

 なんか誇らしい気持ちになって、自然と顔が緩んでいく。


「普通は、学園を卒業してから入団試験を受けるからな。入団してから配属を決めるのが常なんだが、お前は早々に試験を突破しちまったからなぁ」

「そりゃそうですよ。学園卒業前に入団試験を受けちゃいけないって注意事項に書いてありませんでしたから」


 後方でユルクさんが嘆息しながら言うものだから、俺は不満げに言い返した。


 通例、入団試験は卒業後の春先に受けることになっている。他の宮廷職も同様だ。大体が自領を継いだり、縁戚を頼ったツテがあったりと将来が決まっている人が多いから、職に就くってのが重要視されていないのかもと思うけど。ちなみに受からなかったら、年間通して定期的に試験はあるからそれを受けることはできる。

 でも学園生は受けちゃいけないってなっているのかなと不思議に思って調べたら、特に記載してなかったんだ。

 なので、俺は一年の夏に早々に受けたんだよな。一回で受かるとも限らないし、就職先が分かってる方が気持ちも楽だし、授業の選択もし易いと思ったんだよ。もちろん申請時に説明はしたし、了承を得て受験しているぞ。

 運が良かったのか一発合格した俺は、将来の心配を一つ解消して、気楽な学生生活を送っている。二年までに必要なものは取ってしまえる予定だから、来年は必須の科目以外は特に授業はなくなる予定なんだ。前世で言うところの大学生の単位みたいな感じだな。その間は、騎士団に来るつもりでいる。ふふふー、今から楽しみだ。


「こういう目敏いところが、子供のくせにで片付けられないんだよな」

「でも今回のケースは、優秀な人材の早期獲得に関して良い事例になったと思うよ。元々そういう前提だったのだと考えられるしね」


 ユルクさんのぼやきにディートリヒさんがそう言えば、ユルクさんも師匠も確かにと首肯した。


「少なくとも、マテウスが他にすっぱ抜かれることがなくてよかった。来年からラインヴァルト殿下が入学するだろ」

「そうだね、修学が順調で来年には自由が効くというのもありがたい話だ」

「ラインヴァルト殿下ですか」


 ユルクさんとディートリヒさんの話に、俺は首を傾げる。

 ラインヴァルト殿下とは、この国の第二王子のことだ。何か問題があるのだろうか。


「あー、お前は子供の頃、お友達候補に呼ばれなかったんだっけ」

「マヌグス殿は中立だからね」

「なるほどな。……いやな、ラインヴァルト殿下は結構性格が人を選ぶんだよ。それに、お眼鏡に適うようなことがあれば、権謀術数渦巻く宮廷で生きなきゃならないんだぞ?」

「それは嫌ですね……」


 マヌグスとは父の名だ。つまり政治派閥の話だなこれはと、気がついて真面目な顔をする。

 たしか第一王子殿下と第二王子殿下の仲は良いものの、それぞれのお母上である第一王妃様、第二王妃様の後ろ盾を中心に派閥ができているんじゃなかったっけ。第一王妃殿下は隣国の王女様で隣国と親しい貴族たちが支持している。片や第二王妃殿下は国内の歴史ある公爵家の出で、自国内を優先したい貴族たちが支持しているわけだ。そんなに仲がよくなるわけがないよな。

 第一王子のジークヴァルト様は、昨年学園を卒業しているが、立太子はしていない。第二王子殿下の成長を踏まえて、どちらを王太子とするか。陛下は、それを見定めるために第二王子殿下の卒業を待っていると言われていた。

 それにはおそらく、自分の周りをどのような人材で固めるのかってことも、含まれているんだろう。俺がお眼鏡に適う云々は難しそうだけど、側近になりたい人は多そうだし、来年は騒々しくなりそうだな。


「それで? なんでディートリヒに抱きついていたんだ」


 師匠が話をぶった斬るように尋ねた。なんか不機嫌そうだ。団長との話で何かあったのかな?

 俺は、師匠へと向き直り、慌てて事情を説明する。


「俺、入団したら師匠の隊に入れるって聞いて! 俺の喜びを共有してもらってました!」


 師匠は黒縁眼鏡越しに目を細めて、ふーんと言った後、


「俺とは? 俺とは共有しないのか?」


と、ぼそっと言い放った。

 え、いいの? 師匠もよいことだと思ってくれてるの?

 そう判断した俺は、即答する。


「します! してほしいです!」

「じゃあ、ほら」


 師匠が僅かに笑んで両手を広げた。声もすごく優しい。俺が第三隊に入ることを喜んでくれてるんだ。

 嬉しくなった俺は、その胸板にぴょいっと飛び込む。そしてぎゅーっと師匠に抱きついた。師匠と一緒にいられる嬉しさと胸の中の安心感とで、勝手に表情が溶けていく。にへへと笑みが零れた。

 師匠の胸板は、彼のストイックな鍛錬のお陰で、初めて会った時より更に厚くしっかりとしていた。がっしりしてるけど、柔らかい。師匠自身のようだ。抱きつくとすごく安心するから、ついつい抱きついてしまう。


 ぎゅうぎゅうと抱きつきながら、ふと思った。

 簡単に安心してしまう単純な俺は、まだまだ子供なんだなって思う。肉体的にも精神的にも。

 だったら、望みはあるんじゃないか? 鍛えたらいけるって、希望を捨てなくていいのかもしれない。朝の夢というか、湧いて出た記憶というか、それに流される必要はないな。これからも、しっかり鍛えよう!


 新たな希望に機嫌良くなった俺は、朝の絶望を頭の隅に追いやって師匠の胸を堪能していた。

 師匠は「ちゃんと学んで無事に卒業するんだぞ」と俺の頭を撫でてくれる。温かい大きな手が気持ちよかった。ちょっといつもより長くくっついてしまったけれど、仕方がない。そうそう、しかたがないなぁ、くふふ。


 俺の様子はそんなもんだったから、ディートリヒさんやユルクさん、そして師匠がどんな顔をして俺のことを見ていたのか、自分自身にはさっぱり分からなかった。




 それから暫く経って、俺は無事三年生に進級した。

 単位も問題なく、三年の必須科目を落とさなければきちんと卒業できる見込みだ。よかったよかった。

 進級したので、タイの色は青になった。今年も師匠がプレゼントしてくれて、落ち着いた青色ベースに黒と銀のストライプのネクタイだ。

 そう言えば、登場する学生のキャラクターの何人かは赤から始まって緑、青とタイの色違い差分があったような気がするから、三年間あったんじゃなかったっけ……とうっすら思い出したけれど、なんの足しにもならない知識だった。


 そんなちっぽけな情報よりも重要なことを思い出したからだ。


 そう、噂のラインヴァルト殿下が入学してきたのだ。

 在学生の俺も入学式には出るので、姿を見る機会があった。彼が壇上に上がって、入学の抱負を語り、皆もともに頑張ろうと身を乗り出すように宣言したんだ。


 その姿を見て、俺は驚愕する。


 金色の髪に襟足にはインナーカラーの褐色が入っていて、こっくりした黄金色の少しきつめな猫目。ちょっとだけ可愛さもあるが、気の強そうな凛々しい顔立ち。話し方はさすが王子、堂に入っていて居丈高ではあるものの皆の憧れの眼差しを一身に受けていた。

 いやぁ、うん見たことある、見たことあるぞ、このシーン。入学式で主人公が初めて王子の姿を見る時のイベントシーンだわ。


 あれだ……。


 王子は、攻略対象③って奴だ。


 この姿を見た途端に、いろんな情報が蘇った。

 殿下の管理番号は「03」で、俺はいつも「ゼロさん」って呼んでた。王子なのに①じゃないんだってのが逆に親しみ深くて、勝手に愛称をつけてたんだ。番号の並びや、名前のライはレイって書くし零だからゼロねって。それがプロジェクト内でも広まって、彼はみんなからもゼロさんだった。


 そう、①じゃないんだ。


 攻略対象①は、赤い髪の主人公の幼馴染で爽やかそうな男だったと思い出した。確か王都から離れた領地の嫡男だったんじゃなかったっけか。

 んでもって②は、薄紫がかった銀の髪をした伯爵家の子女で、ゲーム開始時に男にするか女にするか選べるんだよな。それで入学してから親友になるんだ、たしか。もう片方は、その双子って扱いだったかな。隠しキャラみたいになってたような……。


 それを思い出したら、頭の中にイメージが浮かんでいく。内容からして前世の記憶だと俺は思った。夢のような、いやもしかしたら白昼夢とかいうやつなのかもな。



 ――彼らは今流行りの攻略対象じゃないんだよなぁ。


 隣りに座ってる先輩が言ってた。俺と同じように管理能力を買われて、進行管理をしていた先輩。俺が会社に入った時から面倒を見てくれていた。


 俺はデータの確認をする手を止めて、先輩の方を見て尋ねた。


 ――昔はなんて呼んでたんです?


 俺の問いに先輩も、スケジュールのチャートを触る手を止めてこちらを見た。


 ――好感度が上がるキャラ、なんじゃないかなぁ。女の子相手なら、普通にヒロインだよ。みーんなヒロイン。男は今ならヒーローっていうのかな。

 ――昔は攻略対象なんて言わなかった。まあ、攻略するって言い方はあったけど。

 ――好感度ってのは誰にだってある気持ちだろ。だから攻略って言葉より好感度って言葉のほうが、俺は好きだな。


 先輩が懐かしそうに話していて、ああそういうのいいなって思ったんだ。



 ……そうだ、このゲームのことを少し思い出してきたぞ。


 これは恋愛をメインにしたものじゃなくて、主人公が学園で勉強しながら、時には商売、時には冒険をして、ステータスを上げたり資金を貯めたりするゲームだ。確か傾いた貴族家の跡取りだから家を立て直すために都会に出て、これからの将来を決めていくような内容だった。

 卒業する時に何かになるっていうのを目標に、能力値を上げイベントもこなしておくんだ。それによってエンディングが変化する。

 攻略対象たちは、早い話が仲良くなれるNPCで、男女問わず恋人エンド、結婚エンド、友人エンドなんかがあったりするんだよな、たしか。でも結構しっかりと個別のストーリーや、好感度のパラメーターが存在してるから、流行りも踏まえ敢えて攻略対象と呼んだほうがいいだろうってことになったんじゃなかったっけ。たしか自分と恋愛するだけじゃなくて、仲を取り持つことになる展開もあった気がする。


 そうしたらあれだな、主人公がいるはずだ。

 たしか、茶色の髪でちょっとふんわりした感じの、少々地味だがだいたいの人が好きになりそうな……。男女は選べるんだったな。

 主人公がレベルとステータスをどう上げたか、どんなイベントをこなしたかで、卒業後、領地を豊かにして名領主になったり、騎士になったり宮廷魔術師になったり、冒険者や商人で名を揚げたり、商会主や錬金術師として自分の店を持ったり、といろんなエンディングを迎えられるんだよな。能力値がへっぽこだと、留年したり、恋人のヒモになったり、貴族の愛人とかも匂わせである。もちろん、攻略対象たちとの親密さに合わせて、途中のイベントも変化する。

 店経営にすると他にもゲームがあるけど、自己鍛錬要素に絞るなら被らないし、ステータス上げはRPGやシミュレーションにも似てるし大丈夫だろうってことで、なんだっけ、『自分を磨いて未来を掴むRPG』に決まったんだっけか。


 先輩が「店経営にすると他所と被るもんな。昔、娘を立派に育てたり、先生になって生徒たちを無事送り出したりするゲームがあったから、すげぇ懐かしいよ」とか言ってた。

「店経営のゲームならやってました」って話したら、「新しいやつだろ? 最近のってどうなってるんだ?」とかって、打鍵音響かせながら話してたっけ。


 先輩は「拾った娘を立派に育てて嫁にやるつもりが、押しかけ女房になった時は、どうしようかと思ったよ」って笑ってて、昔のゲームすげえなって、俺も笑った。でも「そりゃ一番長く一緒にいるんだから、自分への好感度が一番高いでしょうよ」と言い返せば、確かになぁと頷きつつ「でも親としては良い旦那のところに嫁に出したかったんだよ」と本当に父親のような顔をして言っていた。

 先輩は「今思うとハマり過ぎてたな」と我に返って苦笑いしたけど、それくらい楽しく遊んだゲームなんだなって俺は思った。今作っているこれが同じように楽しめるものにできたらいいのに、とそんな風に感じたんだ。

 先輩との話、懐かしいな。


 そんなことを考えている間に入学式は終わって、各教室へ向かった。そして、先生から新学年の挨拶と注意事項なんかを聞いて、一人ひとり軽く自己紹介をして、その日は終了。一年二年と同じクラスの奴もいれば、初めて一緒になる奴もいる。でも皆顔くらいは知ってるもんな。

 俺はというと、一年から一緒だったオスカーがまた同じクラスだったので、帰る時にまた一緒だなと互いに喜びあった。オスカーも、朽葉色の瞳を細めながら喜んでくれた。

 そうして、ゼロさんの姿を思い出しつつも三年生の俺には関係ない話だなぁとか、ぼんやり考えつつ帰路についた。




 師匠ぅー、そう思っていたのは、俺だけだったようですぅ。


「二人とも、準備はいいか?」


 ラインヴァルト殿下が中央に立ち、左右にいる俺たちの顔を交互に見る。金色の瞳がたいへん凛々しい。

 俺は、不安な気持ちを隠しつつ首肯した。


 俺は刃を潰した訓練用の剣を構える。

 眼前に立つは、細身の黒髪の青年。


 その名は、レオナルト・ハイデルベルク。

 とどのつまり――師匠の弟だ。


 いや、うん、どうしてこうなった。


 俺は手合わせの合図を待ちながら、ここまでの経緯を思い出す。



 事の起こりは、入学式から数日後の今日、午後の授業が終わって放課後になった時だ。

 本日の最後の授業は剣術で、俺も参加していた。本当は受けなくても良かったんだけど、授業で習うことは一通り理解しておきたかったんだ。これが終われば、騎士団の詰め所に向かう予定だった。


「マテウス・オーベルシュタットは、いるか」


 訓練場に響く通る声に、片付け中の皆が振り返った。

 そこには、ゼロさん殿下とそのお友達たちがいた。

 のんきに考えていた俺の希望的観測は藻屑と消え、早々に殿下と顔を合わせることになってしまった。しかも名指し。そりゃユルクさんに注意しとけと言われるわけだ。そう思いながら、俺は一つ小さな溜息をついた。


 俺はこそこそと皆の影に隠れようとしたが、海の割れるが如く、殿下から俺への道は出来上がってしまった。

 横にいたオスカーに視線を送れば既に数歩向こうにいて、許さんと口パクすればごめんよと肩を竦め舌を出していた。……長いものには巻かれる、よなぁやっぱり。


 俺は心の中でまた溜息を零した後、殿下の前で礼を執った。といっても、略式のものであり、もちろん礼を失するようなものでもない。うっかり騎士団での敬礼が出そうになったが、ちゃんと貴族風の礼が執れたはず。


「マヌグス・オーベルシュタットが次子、マテウスでございます」

「お前がそうか。堅苦しくしなくていい、楽にしてくれ」


 殿下の声を受けて顔を上げる。

 アーモンド型の猫目が俺を見上げていた。大人にばかり囲まれているからか、新鮮な気がする。まだ俺より小さいんだな。でも、あと一年もすれば抜いちゃうんでしょう? 俺、ゼロさんが背高いって知ってるぞ。

 そんな不敬なことを脳内で考えつつも、穏やかな笑みを浮かべて反応を待つ。何の用なんだろう。


「王国騎士団第三隊隊長アルノルト・ハイデルベルク卿に師事しているそうだな。一度手合わせがしてみたいと思って、訪ねてきたのだ」


 殿下の言葉に周りがざわめく。

 俺は思わず目を細めた。

 やめてもらえます、その話? あまり人に伝えてないので……。学園じゃ、先生方と親しい友人にしか話していない。先生方には、師匠から連絡が入るかもしれないから説明してある。友人達には、師匠の恰好良さを語りたくて話してしまった。でもそれくらいだったのに。


「その件に関しましては、まだまだ修行中の身なれば、吹聴するには至りません故に」


 だから内緒にしてくれと言外に伝えてみる。


「ふむ、ならば皆、この話はここだけとしてくれ」


 お、なんだ、話がわかるじゃないか。ユルクさんが性格が人を選ぶと言っていたし、どうなのかなと思ってたけど。

 ゼロさんがシナリオでどんな感じだったか、記憶が曖昧だったんだ。全部思い出しましたとか都合の良い事などなく、所々を思い出しただけの俺は、登場人物の性格はもちろん、そもそも誰がそうだったのかも一部しか認識できていない。

 俺は殿下を観察するように見つめる。居丈高だとは思うが、別にわがままってわけじゃないんだな。高圧的な感じはなくはないけど、偉い人だから腰を低くするわけにもいかないだろうし。


 俺の視線に気が付いた殿下が、こちらへ顔を向ける。


「それで、手合わせはしてくれるのか?」

「え! あ、いやその」


 あーこれは。

 高圧的ではないし、わがままではないが……。

 殿下は、よい笑顔で言葉を続けた。


「アルノルトと同じく強いのだろう?」


 き、キラキラしてるぅ。ピュアオーラが眩しい! 素直さが俺の目や耳に突き刺さる。純真さ、期待や好奇心、そういったものが俺をザクザクと突き刺した。

 そうか、たしかにこれは人を選ぶぞ。俺は、年下とは交流がなかったから尚更だ。


「ラインヴァルト殿下」


 殿下の様子に慄いていると、彼の脇から一人の青年が歩み出る。

 俺はひと目見て理解した。

 きれいに整えられた黒髪、落ち着いた青い瞳、そして目鼻立ちも、立ち姿だって! 似ている、とても似ている。こいつが師匠の弟か。俺が絶対になれない立場を独占している奴か!

 腹の中は、一方的で身勝手な闘争心が滾るものの、表面上は大人しく至極丁寧に礼を執った。相手の方が家格が上だもんな。


「手合わせは、俺にさせていただけませんか」


 師匠の弟がそう名乗り出る。

 しないという選択肢はないのか! と声を荒らげたいが、相手は王子に高位貴族、俺は黙れる偉い弟子だ。周りの奴らだって偉いところのお坊ちゃんたちなんだろう? つけ入る隙を与えるかっての。


「お待ち下さい。私は到底未熟です。王子殿下の御前でお見せするには至りません」


 辞すべく一歩下がり礼を摂る。

 勘弁してほしい。師匠からも学校では本気を出すなと言われているんだ。なのに、師匠に師事していると言われた上に、手合わせしろだ? 無理な相談だぞ。

 俯いているから顔が見えないのをよいことに、思いっきり眉間にシワを寄せる。


「謙遜が過ぎるのはよくないな。アルノルトはお前を随分と評価していると聞く。ならばその剣技、ぜひ私に見せてはくれないか」


 一向に引く気配がない。

 これがまだ昼休憩なら「食事がー」「午後の準備がー」と言えるのだが、もう終業時間だ。皆帰路につくだけ、俺だって騎士団の詰め所に向かうだけだ。


 正直なところ、ゼロさんの純真さに応えないというのもつらい。悪意があるならともかく、興味というか好奇心というかある意味好意の表れなのだろう。もちろん、俺が期待に添えないようなことがあれば、何かしらの感情に変化するかもしれないが、今の段階で邪険に扱うのも体裁が悪い。

 そう、王子殿下の頼みを断る度胸など、俺にはない。


「だめだろうか?」


 追う言葉にそろりと面を上げれば、伺うように金の瞳が俺を見つめている。蜂蜜色よりも澄んだ、琥珀色よりも煌めくそれは、じぃっと俺の瞳を、そしてその中を覗いているようだった。

 ゾクリとする何かを感じ取る。


 はは、なるほど、気をつけろってこういうことか。

 ただ可愛らしい新入生なわけがなかった。王位継承権二位であるべく育てられた王族なのだ。俺から見て単純に理解などできるわけがない。声をかけた、いや声をかける前から俺は見られていただろうし今だって試されている。発言のすべてを、一挙手一投足を。


 腹をくくった俺は、人の良さそうな笑みを貼り付けて一つ首肯した。


「お受けいたします」


 それからは殿下の主導で、手際よく手合わせの準備が進められていく。殿下のお友達は、見目よく出来そうだが一癖ありそうな印象で、もしかしたら好感度があるのかもしれないなぁとぼんやり考えつつ、俺は銀髪の青年から模擬戦用の剣を受け取った。


 師匠の弟と一定の距離を取って向かい合う。

 さっさと終わらせて詰め所に行きたい。泣き言を心で呟きつつ、剣を握りしめる。


 そんな経緯で俺は彼と相対していた。


 落ち着いた色の瞳がこちらを見つめている。師匠よりも若干明るいそれは、じっと俺を見据えているが、何かしらの感情がうまく読み取れない。悪意や敵意などではないが、かと言って好意とも受け取れない。対抗心、反骨心のようなものが、青の波間にちらついているように感じてならない。

 俺に?

 まさか。師匠相手じゃあるまいし、それほど大きく捉えてはいないだろう。学生同士の軽い手合わせだ。俺だって互いに怪我をしない程度に力を見せ合えればよいと思っていた。


「先に申しあげたいのですが」


 そう言えばと思いたち、殿下に声をかける。視線を送れば、こくりと頷きが返ってきた。


「ハイデルベルク殿が勝たれた時は、彼の実力が私よりも勝っていたということです。そして私が勝った場合は、ただ私が彼よりも二年早く生まれていただけのこと。よろしいですね」


 そう言って俺は、剣を構えた。


 いや、偉そうに言い過ぎかなぁとは思うけどね。でも剣士たるもの、負けた場合は単純に劣っていただけだし、勝ったとしたってそれまでの何かしらがあるからだ。俺が勝てるのは当たり前。負けたら俺がへっぽこってわけだ。

 それに、加減はすれども手を抜くわけにもいかないからな。俺は師匠の弟子だ。師匠の顔に泥を塗るわけにはいかない。


 ラインヴァルト殿下は、少しばかり思案するかのような間を経て、同意を示すように頷いた。


 それから俺と弟くんは、互いに正しく向き合って暫しの間。


「始めっ!」


 掛け声とともに、殿下が腕を振り上げた。


 互いにすぐには動かなかった。向こうも様子を探っているのが分かる。

 魔法は自分からは控えておこうか。でも真面目にやっていることは伝えないとな。


 俺は、すぅっと瞳を細めて意識を相手に集中する。自分の周りの気温が少し下がった気配がした。それに伴い、気持ちも意識も研ぎ澄まされていく。

 俺の魔力が一帯へ伸びていくように広がるのが分かる。俺と弟くんを囲うように魔力を張り巡らせた。これで外からのちょっかいは届かないだろう。何かがあれば俺も気がつくし、俺より強い奴じゃないと突破できないはずだ。まあ、隊長クラスの人たちは軽々と突破してくるから、強い人からしたら紙っぺらみたいなものなんだけど。


 それでも、邪魔されるよりは何よりもマシだ。


 魔力の流れに気がついたのか、弟くんがこちらに強い視線を送る。え、これは悪い魔力じゃないよ。そう伝えたくて見返すけれど、視線だけでどう伝えたらいいんだ。

 ふるふると頭を振ろうとしたところで、弟くんが踏み込んできた。


「防御壁を張るなど、随分と余裕ですねっ!」


 吐き捨てるような言葉とともに大きく振り込まれた剣を、潰れた刃でいなす。


「そんなつもりはない。何かに邪魔されるようなことがあれば、嫌な気になる。それは誰だってそうでしょう」


 それにどこまで役に立つか分からないペラさだからな。

 そう小さくこぼしながら、一撃二撃と鋭い音を響かせながら弾き返した。手が引き戻されたタイミングで、一歩踏み込む。同じく二回斬りつけた後、大きく振り上げた。刃と刃が擦れ合って高くて濁った金属音が辺りに響いた。


「本来なら、外の者が張るべきだ。これでは平等性に欠けるでしょう!」

「ならば私が判断を見誤っただけのこと。それ以上でもそれ以下でもない」


 そう伝えれば、彼は端正な眉根を寄せて睨みつけてくる。

 そ、そんなに怒られるようなことしてないはずなんだけどなぁ? 内心汗だくになりながら俺は、首を振った。


「それでもしておかねば、何かあった時に悔しい思いをするでしょう。備えは大事ですし、それで私が負けたのであれば、私の技量が足りないだけ。何も変わらない」

「それが余裕というんだ! そんなもの吹き飛ばしてやる!」


 怒気に近い気迫とともに魔力が放出される。それはあっという間に俺たちを取り囲んだ。


 俺は思わず出そうになった情けない声をしっかりと飲み込んだ。

 弟くんってこんなに短気だったんだっけ?

 慌てて記憶を漁ってみる。何か、何かないのか。ごちゃごちゃしたまま放ったらかしの記憶の中から、破片を見つけ出して拾い上げる。


 クールで無感情を通している彼だが、パーソナルストーリーの中盤、師匠が関わる話で、随分と苛烈な一面が垣間見れる。師匠への色々な感情が溢れ出す、本人の意志とは関係なくだ。

 たしかそれを恥じ入る彼を、主人公が励ますんだよな。それから、前向きに鍛錬して、卒業前に師匠と手合わせする機会を得て……ちゃんと成長してると勝つことができるんだ。それでコンプレックスを克服して兄を超える、そんなんだったような……。


 今目の前にいる彼は、正しく苛烈。氷のような冷静さや涼やかさは微塵も残っていない。焦り、苛立ち、そういった荒ぶる感情が青い瞳を支配している。

 そして、その奥に僅かな自信と誇りが昇華しきれず燻っていた。


 え、なんで俺相手にこんななんだ? お兄さんである師匠に対してじゃなかったの?


 俺のマジ引きに気が付かない彼は、左手で水平に空を切った。

 それを合図として彼の周りに魔力が収束していく。一本、二本、三本……数える暇など与えてくれない。

 氷で形作られた微細な装飾の剣が数多に姿を現した。


 傾きながらもまだまだ輝かしい陽の光を反射し、美しく煌めいている。

 恐ろしいほどに澄んだそれは、膨大で練度の高い魔力から作り出されたものだとひと目で理解できる。

 周りに輝く氷の破片は、キラキラと舞って彼を美しく神々しく引き立てた。


 俺の中にある情景がしかと引きずり出され、じわじわと侵食されていく。


 思わずゴクリと音が鳴りそうなくらいに喉が動いた。総毛立つのも分かった。

 悔しいが俺はあの域には一生かかっても到達できないだろう。

 さすがハイデルベルクと呼ぶべきか。

 その血を継いでいる。ただその事実だけでも見上げるばかりの壁となるのか。

 眇めたこの目は、何を見てなのだろう。陽光の反射か、氷刃の煌めきか、それとも――。


 己の感情の流れに気がついて、俺は一つ瞬いた。


 湧き上がる仄暗い何かを、その一つで葬り去る。

 あの逞しい後ろ姿が思い起こされた。

 嫉妬など抱いてなるものか。

 俺が見てきた、今も見据える背中はもっと大きいのだから。


 その背に感謝し、しっかりと息を吐き空気を吸い込む。氷の魔力に当てられた冷たさが心地よかった。

 これよりも冷たいものを知っている。これよりも輝くものを、煌めくものを、美しいものを――超えられないほどに大きなものを俺は知っている。

 そう理解すれば、それ以外に惑わされる余地などなかった。


 周りに揺蕩う魔力に干渉すれば、俺の周りにも氷の剣が現れる。合わせて三本、たった三本しかないが、たしかに俺が出せる氷の剣だ。


「三本で凌げるとでも!」


 俺の剣を認めた弟くんが、間合いを詰めた。その剣撃は勢いのままに見えるが、的確な軌跡を描いて攻めたててくる。周りの氷剣のいくつもが降り注ぎ、行く先々に立ちふさがった。

 それらを回避しながら、鋭刃を外へ払い、内へ往なし、体をひねって躱して、懐へと入り込む。そうして、大きく踏み出すように思いきり肩をぶつけた。続いて前腕で体を押しやっていく。

 俺の体は騎士団の中では小柄だが、攻撃の隙を縫った体術はそれなりに効果がある。弟くんは細身とは言え、師匠と同じく上背も筋肉もある。それでもまだ成長期の只中、俺にも分があるというわけだ。


 数歩たたらを踏んだ後、ぐらりと傾いだ体を利き足で踏み止まらせて、弟くんは体勢を整えた。

 悔しいが踏み込みが甘かったらしい。人相手には難しいな。


「体術など、卑怯だぞ!」


 噛みつくような非難にくすりとする。若いなぁと思ってしまうな。


「そうかな。君は魔物相手にもそう言うのかな」


 切っ先を向けるように構えながら、言葉を返す。

 パーソナルストーリーで師匠に煽られて冷静さを失っていた。その苛烈さを利用させてもらう。そういう小手先だって大事なのだ。


 実際、魔物相手にずるいだのずるくないだのってのはないものな。あいつらは本能だか闘争心だかに駆られていて、手段なんてものを用いない。自身に備わったすべてを駆使してくるのみだ。

 俺も騎士団では然程難しくない討伐に参加していたが、中で一番小さな俺を平気で狙ってくる。あいつらにとっては、卑怯なことではなく、仕留めるために必要な判断なんだ。あいつらと俺たちの間には、生き死にしか存在していない。

 騎士の正当性など、魔物相手に意味を為さないんだ。


 彼が魔物と戦ったことがあるかは知らない。

 学園の授業では野外演習を行う科目もある。騎士や兵士、冒険者を目指す者はそれを受けるだろう。しかし一年生になったばかりの彼は、まだその演習を受けていない。自らそのような場に身を置かねばあり得ないことだ。ましてや高位貴族であれば殊更。


 俺の挑発はそれを嘲るものだ。学生の剣技など子供の戯れ合いだと、ただ鍛錬だけした剣術魔術など机上の空論でしかないのだと。

 周辺諸国との関係が良好なこの国では人同士の戦争とは、ひとまず無縁。騎士が戦う相手は、国内の荒くれ者や盗賊の類、そして魔物たち。彼らが騎士の礼儀に乗っ取るのか? そんなこと、万に一つもあるわけがない。


「ならば加減は無用ということか!」


 弟くんが間合いを詰めて斬りかかる。空中の剣は瞬く間に本数を増やした。いい感じにカチンと来てくれたのなら、こっちの思惑通りだ。

 しかし、加減してくれてたのか。できればそのまま続けてくれれば俺も嬉しかったんだけど。俺は心の中で溜め息をこぼした。

 彼の氷剣は純度が高くとても硬い。正直、俺程度の氷の剣じゃ太刀打ちなど無謀もいいところだ。今顕現している剣たちも、そろそろ限界が来るだろう。


 なら他の方法で打開するしかない。


 そんなことを考えている間に、俺の氷には無数の小さなヒビが入り始めていた。自身よりも硬度のある氷剣を受け続けたのだ。持ってくれた方だと思う。


 彼の苛烈さに呼応するように、鋭い斬撃が迫りくる。氷の刃が降りそそぎ、訓練場には氷の花が咲き乱れる。砕けた氷片は辺りを漂い、陽の光を受けてキラキラと輝いていた。

 このような状況でなければ、美しいとさえ思えただろう。


 ふぅと一息つけば、白くなった呼気がふわりと霧散した。


 氷剣の顕現時点で大差のある俺は、確実に追い詰められていた。往なせども弾けども、純度の高い氷の魔力で作られた剣はほとんどの本数が減らせず、弟くん自身の剣技もなかなかのもので、ジリ貧に追い込まれていく。

 分かってはいても物量で押されれば、四本の剣では限界があった。それでも少しでも長く維持するため、次々と繰り出される熾烈な攻撃を捌きながら、ゆったりと這うように魔力を展開させる。


 パキンと高い音を立てて、俺の操る氷剣に大きなヒビが入った。そろそろか、たった三本でも十二分に耐えてくれた。

 後退により開いた間合いを詰めるように、俺は前へと走り出した。視界の端で一本目が砕け散る。右から迫りくる氷剣を三本往なして、二本目が粉々になった。


「残り一本!」


 そう叫びながら俺を狙う弟くんの剣の軌道を読んで、最後の一本が割り入った。


 金属音とも砕氷音ともつかない高音が響き渡り、氷の欠片がキラキラと一帯に舞ったのは、あと一歩近づけば互いの切っ先が喉元に届くだろうという時だった。

 互いにとって最後の一撃を繰り出したその時、あと一歩のところで互いの動きが止まる。唇から漏れる呼気と身体から昇る熱気のみが白くゆらゆらと揺れていた。


「……参りました」


 絞り出すように言った彼の周辺には、無数の氷片を氷で繋いで出来上がった歪な氷の剣が鋭利な刃を突きつけるように迫っていた。飛び散った俺の氷剣の欠片、そして弟くんの氷剣すら取り込んで。

 それが飛びかかってくるようなことはない。しかし、一帯に広がった俺の魔力――姿を顕わにした魔力でできた水が氷と氷の間を縫い、氷の魔力と冷たさを取り込んで鋭く形作って、彼の身体を取り囲んだのだ。その水に取り込まれ纏わりつかれ、全て力尽くで抑えつけられ、動くものは一つもなかった。


 更には俺の剣から延びる氷の切っ先。


 それは足りないあと一歩を補って、彼の喉元をしっかりと捉えていた。


「そこまで」


 殿下の声が響き渡る。

 それでも彼以外は身動ぎもせず、固唾を呑んで見守るばかりだった。



 俺は剣を下ろし、力を抜いた。一帯を支えていた氷たちも、パシャリと水になって崩れ落ちた。一緒に氷の剣も転がり落ちる。


 俺の得意な魔法は、実のところ水魔法だ。

 本当は師匠と同じ氷魔法を使いたかったのだけど、それは無理な相談だった。だから実際は水魔法を化学の知識で魔改造して擬似的な氷を再現しているだけ。水の分子をどう扱うかで液体みず固体こおり、そして気体をうまく使い分けているのだ。

 今回の魔法は、水から作り上げた気体を一帯に拡散させ、周りの氷を触媒に一気に氷へと変化させたものだ。今回は弟くんの質の良い氷があったため、気温も水自体の温度も低くなっていた。そのお陰で変化させやすかったことも、勝利の助けになっただろう。


 俺はふうと息を吐いた。下がった気温の影響か、まだ白さが残っていた。


 前を見やれば、剣を握り締め静かに膝を突く弟くん。

 自身の影を見つめるように、ただ俯いたまま。顔色は伺えない。


 まだ十五歳の少年が、既に才覚を現し突き進む兄に追いつくべく、小さな頃より努力を重ねてきた。その努力が如何ほどであるか、十の頃から師匠の元で剣を振るってきた俺には分かる。それよりも前から、師匠の凄さを身近で見てきたはずだ。それであれば十年以上、その強さ、大きさ、立ちはだかる壁の高さを肌で感じていたことだろう。


 それを兄だけでなく、そこら辺にいるモブの俺なんかに阻まれている。その事実は、彼には重く伸し掛かり苛んでいくだろう。


 俺は、それが許せなかった。

 俺はゆっくりと近づいて膝を突き、彼をそっと抱き寄せた。驚きからか息を呑んだのが伝わってくる。後頭部を優しく撫でた。


「君は技術も魔力もあるし、剣術も魔法もセンスがある。今日はいろいろな要因が重なって俺が勝ちを得たけれど、今まで君が積み重ねてきたことを諦めずに続ければ、俺にあるただ二年早く生まれただけのアドバンテージは、直ぐに消え去ってしまうだろうね。

 君は確かにそう思わせる努力をし、それに見合う力を身に付けている」


 そう彼に語りかけると、心地よい拍手が響いた。

 顔を上げそちらを向けば、ゼロさん殿下――じゃなかったラインヴァルト殿下が惜しみない拍手をしていた。穏やかな笑顔でただ一心に。彼は彼なりに思うところがあったのだろうと察することができた。

 その拍手に釣られて皆がバラバラと拍手を始め、やがて一体となって俺達を包んだ。


 俺はゆったりと立ち上がり、弟くんへと手を差し出した。


「手合わせありがとうございます。お互い……頑張りましたね」


 そう言ってぐっと手を引き立たせた後、またハグをした。労うように称えるように。命の取り合いではないのだ。ならどちらも良かった、それが最良の結果だと俺は思う。

 弟くんは、最初は驚きからか固まっていたけれど、そろりと両腕を俺の背に回してくれた。それに応えるようにポンポンと背を優しく叩く。彼の身体から力が抜けたような気がした。


 ふうと一息ついて周りを見回すと、そりゃあもう随分ひどい状況だった。氷剣がそこかしこに突き刺さり、ぶちまけられた水で地面はぐちょぐちょ、訓練場は何もかもがボロボロだった。これを直すのか……と今度は違う溜め息が出た。せめてもの救いは、俺が張った防御壁のお陰で、被害がその範囲内に収まっていたことかな。

 周囲を見守っている人垣からオスカーを探し出す。あいつは土魔法が得意なので、場を整えるのを手伝って貰おう。というか、あいつ、俺を売ったしな……少しは手伝ってもらわないと俺の腹の虫は治まらない。


「オスカー、手伝ってくれ」


 片手を上げ歩き出したタイミングで、身体がぐらりと傾げた。何だと思った時には、ぐいっと腕を引かれその方向へと倒れ込む。

 ぽんっと当たったのはしっかりした胸筋で、そのまま逞しい両腕に抱え込まれた。

 見上げれば俺が尊敬してやまないその人で。


「師匠……」

「随分と派手にやったな」


 呆れたような声だが、大きな手で背を撫でられる。その温かさに驚いた。すっかり身体が冷えていたようだ。


「殿下、お戯れが過ぎます」


 師匠が苦い顔で殿下に物申す。


 いや違うでしょ、師匠。

 師匠が言うべきはそんなことじゃないはず。


 俺は、じいっと師匠の舛花色の瞳を見つめた。

 灰色がかった縹色の瞳は暫し俺を見返していたが、やがてそっと視線を逸らした。逸らしたってことは、分からないまでも察したってことだろう。俺はむっとした顔で師匠の騎士服をくいくいと引っ張ってみせた。

 視線を戻した師匠は、僅かに片眉を上げ口端を歪ませた。どうも観念したということなのだろう。子供みたいな素振りに、俺は声を出さずに笑った。


 師匠は俺を抱えながら、弟くんを見やる。


「レオナルト、見事だった。()()は騎士団の中では期待の新人だ。まだ十五のお前が比肩するとは俺も思っていなかった。これからも励め」


 弟くんは僅かに瞠目した後、胸に手を当て一つ礼を摂った。上がった彼の顔はとても晴れやかで、まるで憑き物が取れたように見えた。今の師匠の言葉が彼の中で何かへ昇華されたのなら、俺も嬉しい。


「次はお前だな」


 ぼそりと師匠の声が聞こえたかと思うと、ひょいと抱え上げられる。俺を小脇に抱えた師匠は、連れてきていた騎士のみんなにこの場の整理の指示を出して、そのまま歩き始めた。


「師匠、自分で歩けます」

「黙っていろ、舌を噛むぞ」


 師匠に従って黙りつつも、身を捩って訓練場を振り返れば、騎士団の皆が粛々と整地作業をしてくれていた。先輩方、ありがとうございます。俺は心の中でお礼を言った。



 そのまま医務室へと連れ去られた俺は、ベッドへと転がされる。後ろ手に閉められるカーテン。


「まだ出仕しないからおかしいと思っていたんだ。殿下には気をつけろと含めていただろうに」


 ぎしりとベッドに乗り上げながら師匠は苦言を呈す。苛立ち半分、呆れ半分といった様子だ。


「そうは言っても、無視するわけにもいかないじゃないですか」


 そう、王族である王子が頼んできたのだ。断るにも手間を要すると俺は思うんだよな。

 うーんと他にいい方法はなかったかと思案していると、師匠は俺の頬をそっと撫でた。温かさが心地よくて、なんだかホッとしてしまう。

 その温かさに甘えてだんまりしていると、師匠は俺の顔を覗きながら呟いた。


「顔色が悪い。お前の魔法は特殊過ぎる。魔力の使用は注意するように言ってあっただろう」


 確かにと俺は理解した。さっきのふらつきは魔力不足からくる目眩か。軽い貧血みたいな症状だろう。

 師匠は俺の顎を掬うように掴むと、頬を指で押さえて口を開かせる。


「舌を見せてみろ」


 んべっと舌を出せば、目を眇めながら溜め息が零された。


「舌の色は大丈夫だな」


 舌は白くなってなかったみたい。まあ、普段が貧血ぎみってわけじゃないからなぁ。今だって魔力減少からの一時的なものだろうし。

 舌をしまい忘れたままぼんやり考えていると、更に頬をつままれる。


「ひひょう、なにひゅるんれすか」

「黙ってろ」

「ろういう――」


 どういうことかと尋ねる俺の言葉は口の中に引っ込んでしまった。

 上体に伸し掛かられ押し倒される。そうして強く貪るように合わせられた唇に、俺の声は飲み込まれていった。


 温かい体に抱きしめられる。俺の唇に熱い唇が覆いかぶさり、口全体を食べられてしまいそうだ。

 はみ出ていた舌を喰まれ吸われ、ぞくりとしたので急いで引っ込める。顎を掴む師匠の手から逃れようと藻掻いてみるも、俺の手の力では緩めるのが精一杯だった。抵抗したのが気に入らないのか、師匠はもう片方の手で俺の後頭部を押さえた。

 頭を固定されてしまえば、目前には師匠の整った顔。閉じられた瞳からは意図は察せず、長い睫毛の繊細さにどきりとする。一本一本が分かるくらい近かった。

 角度を変えて与えられる口づけはとても熱くて。

 頬が火照り、鼓動は早くなって、段々と思考を鈍くしていく。意識の端の端っこにいる自分が、随分と冷静に、そして他人事のようにそれを見ていた。

 しかしそんな自分も、あっという間に流される。突然の事態と唆される快感に、混乱して何も判断がつかなかった。唇が、そしてその内部も押し入られて俺の中が侵されていく。まともな呼吸もできず、拙く吐き出した呼気と共に唾液が口元を汚していく。

 息苦しさとくすぐったさに似た心地よさで、思わず口端から声が漏れた。その甘ったるさに自分でも驚いて、思わず逃げるように身を捩った。逃さんとばかりに伸し掛かるように追い詰められ、今度は鼻の奥で甘く鳴いた。


 ムズムズとした快感がうなじから背筋を降りてきて、体に熱が溜まっていく。羞恥から思わず膝を寄せ合わせようとしたが、既に師匠に先回りされていた。まるで縋るように師匠の膝を挟んでしまう。

 合わさった唇の端ではふはふと呼吸をしながら、俺は必死に師匠へしがみついた。師匠の身体は温かくて逞しくて、こんなシチュエーションでなければいつもと同じように戯れついていただろう。でもそんな余裕は俺にはなかった。

 師匠からの執拗な刺激で、先ほどとは違う目眩が俺を襲う。両腕は大きな体を押し返そうともがいたものの、どう考えても服を握った程度の力しか込められなかった。


 ただ俺の藻掻きが伝わったのか、一度口を離した師匠は、俺の顔を覗き込んで名を呼んだ。


「マテウス」


 温かい手で頭を撫でられる。優しく撫でられていつもの師匠を感じるのに、俺を見つめるその瞳には危うい光が宿っていた。


「し……ししょうぅ……」


 どうしてこんなことをと尋ねたかったが、師匠を呼ぶしかできなかった。それはとても甘えるような呼び声で。恥ずかしくて顔が熱い。


「お前な……」


 師匠は僅かに眉根を寄せた後、また唇を合わせてきた。今度は触れるように、ちゅっちゅっと数回啄んだ後、また強く深く重ねられる。


 なんで。

 どうして。

 なぜこんなことに。


 そう考えようとしても唇から広がる快感に溺れて何も分からない。何かを伝えようとしても、言葉はすべて鼻にかかったような悩ましげな音にしかならなかった。頭も体も、熱と快感に蹂躙されていく。

 俺は、与えられる刺激と熱に冒されたように、ただ夢中で師匠に縋り続けた。



 長い長い口付けを経てやっと解放された頃には、俺はすっかり蕩けてしまってベッドの上でぐったりするしかできなかった。


「魔力、少しは回復したか」


 そういう問題じゃない。

 ぼうっとした頭で文句を言おうと思いはしたが、俺の身体はただはぁはぁと荒い呼吸を繰り返すばかりだ。魔力を譲渡するだけなら、手を繋いだってできるじゃないか。


 ……なんで? なんで師匠とキスしてたんだ???


 ぼんやりした頭はまったく働く気配はない。頭の中では、次々とはてなマークが生まれていく。


 え? なんで?


「これ以上は流石に許されないからな」


 許されないってどういうこと?

 許されないっていったい誰に?

 それに……これ以上って?


 ぼんやり見上げる俺はすっかり置いてけぼりだ。

 師匠は俺の額に一つ唇を落とし、体を起こした。手際よく俺の寝床を整える。


「少し寝ろ。訓練場を見てくる。日が暮れる前には送っていこう」


 そう言うと、何もなかったかのように立ち上がって、僅かに落ちた前髪と服のよれを直してから医務室を出ていった。


 静かになった医務室では、なーんも分からず取り残された俺が一人、天井を眺めていた。



 その日の出仕はなくなり、師匠が家まで送ってくれた。騎士団で手配した馬車の中、向かいの座席には師匠が座っていた……はず。

 俺はその間もその後もずっと上の空で、何を話したかも何をしたのかも覚えておらず、ただ師匠の唇が温かかったことだけ覚えていた。

 ただ思い出すと、とても恥ずかしくて居た堪れない。俺は一人枕に顔を埋めて悶えた。




 ――この日から、俺の生活に少しずつ変化が訪れた。



「マテウス殿!」


 遠くから俺を見つけた弟くん――レオナルトが駆けてくる。キラキラした明るい青の瞳が俺を見つめている。そうしてさも当然のように、俺の隣へ。


「今日の昼はどちらで」

「きょ、今日も食堂だよ」

「そうですか、一緒に行きましょう」


 とてもにこにこしながら、俺と歩き出す。


「なあ、ゼロさん……じゃなかったラインヴァルト殿下を置いてけぼりにしたら、いけないと思うけど」


 彼の来た方向を見やれば、肩を竦めながらこちらへ歩いて来る殿下と攻略対象④――先日思い出した――の銀髪くんの姿が。

 殿下は、呆れ半分楽しさ……いや面白さ半分といった表情だ。どういう気持ちでそういう表情なのかは、俺には分からない。でもまあ、そういう含みもゼロさんらしいと俺は思うな。

 銀髪くんはとにかく無表情。彼は元々そういう設定だったような気がする。


 そんな設定じゃなかったのは、レオナルトだ。こんなににこやかに俺と歩くような奴じゃない。

 先日の手合わせで本当に憑き物が落ちたらしく、驚くほど明るい少年になってしまった。しかもどうやら俺のことが気に入ったようで、よく声をかけてくるのだ。礼節を守りながら親しげに話しかけてこられては、正直邪険にしづらい。向こうの方が家の爵位は上だし。

 ちょっと親しくしすぎなんじゃないだろうか。そもそも俺は、ゲームの登場キャラクターですらないのにな。


「大丈夫です。殿下、早くいらしてください」

「分かったから少し落ち着け」

「のんびりしていたら直ぐに午後になってしまいますよ」


 二人は楽しげに話しながら、俺を含め四人で食堂へと向かった。そうして、一緒にテーブルを囲み食事を摂る。

 きれいな所作で料理を口へと運ぶレオナルト。俺が彼を見やれば、人懐っこい笑顔を向けてくる。眩しいくらいで、目がしばしばする。お前そんなキャラじゃなかっただろ……。

 なんだか釈然としないものの、かと言って無視するわけにもいかず、彼らとは曖昧ながら連れ立って歩く仲になった。


 この変化が、俺の学園生活残り一年をがらりと変えてしまうとは思いもしなかった。

 ただそんなことは、今の段階で分かるはずもない。今の俺は、昼食の肉を一口サイズに切って頬張りながら、なんでこうなったんだろうなぁと考えるので精一杯だった。



 んでもって、俺に起きた大事件――()()以降の師匠との関係はというと。


 師匠の顔を見るとあの時のことを思い出してしまうので、俺は少しだけ距離を取っていた。

 二人きりにはならない、抱きつくなどのスキンシップはしない――などを徹底している。騎士団の仕事はちゃんとしてるから、問題はないと思う。


 ……俺はそう思っていたんだけど、俺の預かり知らないところでは、そうはいかなかった。


 ある日の午後、庭先から轟音が響き渡った。

 部屋でゴロゴロしていた俺が慌てて庭に出てみると、庭師が大泣きしそうなほど荒れ果てていた。

 大岩が花壇を突き上げ、一帯は水浸し、母が気に入っている可愛らしい動物の像は転がされ、その脇では水が噴水のように吹き出ている。吹き出た水がキラキラ輝き、小さな虹が浮かび上がっていた。吹き飛んだ花々は空からはらりはらりと舞い散っていて、こんな状況にも拘らずなんだかとても美しかった。


 そこに立つは我が家の当主――マヌグス・オーベルシュタット。その姿は悪鬼羅刹の如くで、普段の温厚さはどこへやら。様子を見に来た使用人たちも庭先で怯えている。

 その視線の先で膝を突くのは、我が師――アルノルト・ハイデルベルク。すっかりズタボロで、肩で息をするほど疲弊していた。

 後から聞いた話では、師匠はどうやら父に呼び出されたらしい。師匠を避ける俺の噂を耳にしたコルネリウス兄さんが、父に何かしらを報告したらしい。


「何してるんですか、父さま!」


 俺が駆けていくと、雰囲気は先程のまま、けれど表情はいつもの優しげな笑みに戻して俺の名を呼ぶ父の姿。そのチグハグさが更に恐ろしさを感じさせる。


「やあ、マテウス? どうにもこうにも、この男は約束を守らなかったみたいだからね?」

「約束って?」

「マテウスは知らなくて大丈夫だよ。この男さえ理解できていればね」


 父は鋭い眼差しで師匠を睨めつける。

 俺は慌てて二人の間に割り込んだ。


「お前もこの男を避けているだろう。嫌なことをされたのではないか?」

「ちっ違います、俺は今も今までも師匠を尊敬しています!」


 俺は師匠の近くに膝を突いて、頭を抱えるように抱きしめた。


「じゃあ、なんでこの男を避けてるんだい?」


 父の言葉にあの時のことを思い出す。

 二人きりの医務室。師匠の大きな体、温かい手、熱い唇……。あの時の熱がじわりと滲み出てきた。俺は自分の頬が赤くなるのを自覚する。


「ほら見なさい、息子にこんな顔をさせて。そういうことは許可した覚えはないよ」


 周辺の魔力が静かに揺れる。こんなに怒りを顕わにした父は見たことがない。顔に張り付いた笑顔が逆に怖い。

 子供の頃は、父のことは騎士団にいたらしいくらいしか知らなかった。でもこの年になれば嫌でも父の逸話は耳に入る。魔の森との境の辺境でどれだけ腕を鳴らしたか、国内のならず者たちが父の名を聞いただけでどうして膝を突くのか、思い出したらとてもじゃないが時間が足りない。

 でも思い出している暇などない。今は目の前の父こそ、どうにかしなくちゃいけないので。


「そういうことって……どういうことですか! 俺は、えと……ちょっとほっぺにちゅーしちゃっただけです! これくらいです!」


 そう言って、俺は師匠の頬へ唇をくっつけた。もうこうなりゃ自棄なのである。これ以上、師匠も庭もボロボロにできないよ。父さま……嘘ついてごめん……!


 父は暫し訝しげな顔をしていたが、大きなため息を吐いて肩を竦めた。

 この仕草は知っている。兄さんや俺が子供の頃、仕方無しに許してくれる時のやつだ。


「わかったよ、今回はマテウスに免じて許すとしよう。ただし、次はないからね。マテウスが嫌がることはしない。あと……やましいことはしない。絶対だよ?」


 師匠は、俺の腕の中で静かに頷いた。

 やましいことってなんだよ……とは思ったけれど、すでにちょっとやましいことをしてしまっている俺としても、気恥ずかしさに背を押されて一緒に頷いた。


 立ち去る父を見送った俺たちは、俺の部屋へと移動した。

 屋敷に入る途中で、血相を変えた庭師たちとすれ違う。大変だとは思うけど、後は頼んだ。


 庭で濡れネズミになった俺たちは、ひとまず布で頭を拭いた。ソファに腰掛けた師匠の頭も、なぜか俺が拭いている。師匠には兄さんの服を貸してもらって着替えて貰った。ちょっと胸元がぱつんとしてるけれど、許容範囲だ、たぶん。

 続いて傷の手当てをする。父は恐らく手加減をしてくれていたのだろう、各所に痣や切り傷はあるものの、骨が折れたりヒビが入ったりはしていなかった。怒ってはいたけれど、まだ理性的ではあったのかな。それに気がついて、俺は小さく溜め息を吐いた。


 顔を上げれば、師匠が手当をする俺の手元をじっと見ていた。彼は今、何考えているのだろうか。


「……師匠」

「なんだ」


 師匠を呼んだものの、二の句が続かず無言の時間が続く。師匠の傷に薬を塗ったり、痣に湿布を貼ったりしていった。もちろん手当てが終われば、気まずい沈黙が待っていた。


 ちらりを師匠を見やると、ばちりと視線が交差する。


 気恥ずかしくなった俺は、視線を逸らして明後日の方向を見やる。



 ――そりゃ一番長く一緒にいるんだから、自分への好感度が一番高いでしょうよ。



 前世の記憶。

 俺が先輩に言った言葉。


 その言葉が、俺に返ってくる。


 この俺の人生において、一番長く一緒にいるのは――。


 ハッとして師匠を見やれば、舛花色の瞳が俺を見ていた。

 そこに宿るのは、俺の語彙力じゃうまく言い表せられないほど、熱くて狂おしい何かだった。



 師匠の、俺に対する好感度がなぜ高いのか。

 あの時、どうして医務室であんなキスをしたのか。

 父とどういう約束をしていたのか。


 俺が迎えるエンディングでは、師匠とどういう関係に至るのか。



 ――すべてを俺が知るのは、もっともっと先の話だ。




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