喫茶店の君
本作は、武 頼庵(藤谷 K介)様主催『第3回 初恋・恋愛企画』参加作品です。
また、武 頼庵(藤谷 K介)様ご主催の『繋がる絆企画』参加作品です。
私には"行きつけの喫茶店"があります。
二十歳になった記念に、お父さんが"何か買ってやろう"と言うので、一緒に買い物に行くことになりました。
ええっ!この歳になってお父さんと一緒に買い物って。これでも一応大人の女性なんだけどな。
なんて思っていましたが、せっかく買ってくれるのなら、と一緒に出かけたのです。
ふふふお父様とデート。なんて思っていませんよ、色々強請るつもりです。ブランド品やブランド品とかブランド品など...
いろいろと買ってもらって、ホクホクしていると"お父さんの行きつけの喫茶店があるから行こう"と連れて行かれました。そう、カフェじやなくて喫茶店。
法律ではカフェと喫茶店の違いはないのですが、店のイメージの違いです。
お父さんによると"昭和の喫茶店"と言うらしい。
それなら"平成の喫茶店もあるの?"と聞こうとしましたが、間違いなく突っ込まれるので、やめておきました。
その喫茶店は、メインストリートから外れた、少し寂しいところにありました。
辺りは小さな工場や倉庫、事務所のような建物などあまり人気のない場所でした。
これがいわゆる隠れ家的な店なのかなぁ...なんて考えていると、割と立派な木が喫茶店の隣にありました。他に比べる木がないから立派に見えるだけかもしれませんが...
ポツンと1本の木が立っているのを眺めていると"あれは桜の木だ"とお父さんに教えられました。
"かららん"とドアベルを鳴らしながら店内に入りました。よし!このベルは"昭和のベル"と名付けよう。
店内に他のお客さんはいませんでした。
4人がけのテーブルが4つと、カウンター席が数席。お父さんはドアのすぐ右手にある4人がけのテーブル席に迷わず座りました。おそらく"いつも"の席なのだろう。
店内を見渡すと、うん"昭和の喫茶店"だ。
いやいや、考えを放棄したわけではなくて、それ以外に形容のしようがないのよ。
でも、清潔なうえ、私には価値もさっぱり分かりませんが、高そうなアンティークがさり気なく置かれています。さらにいかにも、きちんと手入れがされ、何時でも使えそうなコーヒーミルがあったり...
無駄なものが一切ないという感じかしら。第一印象は高評価ですね。
しかし、いきなり最大のピンチに陥りました。
"メニューにはコーヒーしかない"
そう、私はコーヒーが苦手、というか飲めないのです。
どうしようか迷っていると、注文を受けに来たウエイトレスさんが来て、さらに追い詰められました。
お父さんを見ていると"いつもの"とさっさと注文をしていました。私の気持ちも知らずに先に行ってしまいました。薄情なお父様め!
うんうんと悩んで、素直に"できるだけ苦くないもの"という抽象的な注文をしました。
"かしこまりました"と言っていたので通じたのだろう。こういう時には知ったかぶりをするのは一番いけないことなのです。
以前高そうなバーで知ったかぶりをしてすごく恥ずかしい思いをしたことがあるのです。
私は学びました。"知ったかぶりをすること"は"知らないこと"より愚かな事なのです。
カウンターの向こうでマスターが作業を始めたようです。
なんだか理科の実験器具のようなものを使っています。
何だろうと気になってお父さんに聞いてみたら"サイフォン"というコーヒーをドリップする道具だそうです。
コポコポとまるで魔女が謎の液体を作ってるかのような様子を、私はじっと見ていました。
ちなみに"魔女"というのは女性に限定したものではないそうです。最初に翻訳した人が悪かったのだとか...
しばらくすると、ウェイトレスさんがコーヒーを運んできました。
目の前に置かれた可愛らしいコーヒーカップとソーサーに驚きました。明らかにお父さんのとは違う事にも。
なんでも"ボーンチャイナ"というもので、普通のの磁器よりも強度があって扱いやすいそうです。
ふ〜んとしか言いようがないけど、こういうものにも拘っているのね。
お父さんが何やらウェイトレスさんとコソコソ喋っていたので訝しんでいると。
私のコーヒーのはコロンビア産のもので"フルーティーな香りと濃厚な甘み、マイルドでコクのバランスがいい"と。ふむふむ。で?
あれ?
いや、だから興味のないことを言われても。コーヒーにはたくさんの種類があることくらいは知っているけど。
無反応な私にキョトンとされてもね。"できるだけ苦くないもの"という注文をしたからかな。
でも、一生懸命説明してくれたから"ありがとう"と言っておきました。
しかし何だこれ...
なみなみと注がれたコーヒーを見てがっくりとしてしまいました。
"ミルクが入らない"
ぎりぎり表面張力で溢れないってかんじ。
どうしてこんなに入っているのか聞いてみると、なんでもこの店は"外国式"にしているとの事。
外国の方からすると、日本のカフェなどでサーブされたコーヒーが6〜7割程度しか入っていないのを見ると"お金払っているのに、ケチなことするな。それにあんな少ししか入ってなかったら、すぐ冷めてしまう"と思うそうです。
もし、外国でコーヒーにミルクを入れたい場合は、その旨をウエイトレスさんに伝えれば、その分コーヒーの量を減らしてくれる、との事でした。
まぁそれはどうでもいいんだけどさ、どうすんだ、これ。
仕方がないので、テーブルにのせたまま口を近づけて、ふーふーしてからズズっと。"ぎぇ"
はぁはぁもうダメかと思ったわ。
あのね、苦いとかそういうレベルじゃないのよね。"これ本当に飲み物?"というレベルなの。
"でも本当にどうしよう"と思いながら悩んでいると、テーブルの隅に可愛いシュガーポットがあることに気づきました。
私だってカフェだけでなく、少ないけど喫茶店に入ったことはあります。でも、コーヒーは飲んだ事がなかったので気づかないのも仕方のない事なのです。
でも、とりあえず"砂糖を入ればなんとかなるかも"という希望が見えてきました。
シュガーポットについているスプーンで3杯砂糖を入れてくるくると撹拌しました。
覚悟を決めてズズっ。
あれ?
飲める。
おそらく初めの無糖で飲んだ衝撃で、舌が鈍感になっているせいもあるのでしょう。
覚悟を決めて決意した割にはあっさりと第一関門を突破しました。
お父さんがその光景を見ていて、心の中で爆笑していたことを私は知る由もないのでした。
"かららん"とドアベルを鳴らしながら新たにお客さんが入ってきました。
その新たなお客さんを見て、私は強烈な雷に打たれました。
"かっこいい..."
年は私と同じか、少し上だろうか。
それは、私にとってドストライクの男性でした。
私は恋愛経験はほとんどありませんが、かといってミーハーというわけでもありません。
なので、"イケメン"だから、という理由で男性を意識したことはありません。
だから、その男性がいわゆる"イケメン"なのかは分かりません。
体中が沸騰するくらい熱くなりました。おそらく顔も真っ赤でしょう。
これが、まさにこれが"一目惚れ"というものでしょう。
彼は、ドアから見て左側、つまり私たちとドアを挟んで対面するテーブルに座りました。
"ああ、どうしょう"
お父さんは彼に背を向けた状態です。だから、お父さんがいなければ、私と彼は向かい合わせとなるのです。
音が聞こえるのでは、と思うくらいドキドキと胸の鼓動が大きく、激しくなっています。
それでも彼から目が離せませんでした。
しばらくして、少し落ち着いてきました。
彼は常連さんでしょう。慣れた感じで"いつもの"と注文していました。
お父さんが不思議そうな顔をしていますが、そんな事はどうでもいいんです。
彼の一挙手一投足も見逃してはなりません。
彼の注文したコーヒーが届けられ、流れるような動作で、まず一口。
やっぱり無糖だ。
当たり前ですね。メニューにコーヒーしかないようなお店に来る方が砂糖など入れるわけがない。
そう思っていると、自分がとても恥ずかしくなりました。
その後、どうやって家に帰ったのか、よく覚えていません。
ただ、お父さんに甘えていた事はなんとなく覚えていて、普段はもちろん手も繋いだこともないのに、お父さんの腕に絡みついていたように思います。
それからは、暇さえあれば"昭和の喫茶店"に通っていました。もちろん彼に会うために。
あ、そうそう、彼のことは珈琲の先輩として"喫茶店の君"と呼んでいます。
珈琲の勉強も始めましたが、すぐに無意味だとわかり、やめました。
作る側ならまだしも、飲む側ですからね。でも、彼と話す事があれば全く無知というわけにもいかないので、"珈琲の世間話"が出来る程度にしておきました。"珈琲の世間話"がどの程度、なのかは分かりませんが。
私は週に2〜3回。多い時は4〜5回は通っています。もちろん無糖も飲めるようになりました。むしろ今では、"砂糖を入れる方がおかしい"と思うようになっています。
彼とはうまくいけば週に1回。おおよそ2週間に1回会っています。
"会話?"いえいえ、ただお互い最初に出会った席で向かい合って珈琲を飲んでいるだけです。
私はかつてないほど幸せでした。そこに言葉がなくても。
彼の佇まい、仕草、匂い...
私が"一目惚れ"したのは顔だけなんかじゃない、彼の存在そのもの。
さらに、珈琲の苦味、酸味、甘味、コクが私たちに彩りを添えてくれます。
それは、この"昭和の喫茶店"という空間も、そう思わせるもののひとつかもしれません。
もちろん私の妄想です。"笑いたきゃ笑え"です。
あれから数ヶ月。
季節は春。"昭和の喫茶店"の横の桜が五分咲きになった頃。
私は彼と一緒に珈琲を飲んでいます。もちろん前と同じ席で。
おそらく彼は私と会っている、とは思ってもいないでしょう。私だけの脳内デートです。
彼の方が先に席を立ちました。
そして"昭和のベル"を鳴らしながら出る瞬間の事です。
まだ少し肌寒い風と共に、開いたドアから桜の花びらが私のテーブルに。
その時、私は運命を感じて、気がつくと彼を追いかけていました。
しかし、見失ってしまいました。
その日はがっくりと肩を落として家に帰りました。
"今度こそ彼に話しかけよう"と決意して、"昭和の喫茶店"に着くと。
"閉店しました"との張り紙がドアに...
"いや、諦めるのはまだ早い"
"昭和の喫茶店"の横の桜の木は待ち合わせ場所のようになっていました。
根拠なんてありませんが、そこに行けば会えると思うのです。
そして、同じように暇さえあれば、その桜の木に通いました。
桜が満開を少し過ぎた頃...
"見つけた"
彼がその桜の木の下に居たのです。
きっかけを作るのに珈琲を買おうとしましたが、この辺りにはそのようなお店はありません。
仕方がないので、急いで近くにあった自動販売機で缶珈琲を2本買って彼のところに向かいました。
ドキドキしながらも彼に近づき、声をかけました。
彼も私を覚えていたようで、挨拶を返してくれました。
どうやら誰かと待ち合わせをしているようでした。
しばらくすると、メインストリートの方から可愛い女性がこちらに向かってきました。
明らかに彼に手を振っていました。
私は持っていた缶珈琲をむりやり彼に渡し、その場から逃げるように立ち去りました。
こうして、私の恋は春と共に終わりを告げました。
次の年の春。桜が満開の頃。ふっと思いついて"昭和の喫茶店"があった場所に来ていました。
すると、後ろから声をかけられて振り向くと、そこには"喫茶店の君"が居たのです。
あの時の女性は妹さんだったそうです。
それからは、私と同じように此処に通っていたそうです。
"私を探して"
彼も私と同じ気持ちだったそうです。
彼から"行きつけの喫茶店"に行きませんか?と誘われましたが、答えは決まっています。
初めて"喫茶店の君"と一緒に飲んだ珈琲は、一番苦いものを頼んだ筈なのに、とっても甘かったのです。
おわり
最後までお読みいただき、ありがとうございました。