□第1話 勇者の息子
"虹"の勇者・アカネ様、ご懐妊――
5年前にこの世界に"召喚"され、冒険の中で戦う術を学び、そして、暴虐の限りを尽くしていた魔王を討伐した、生ける伝説の片割れ。
ありとあらゆる属性の魔法を使いこなして華麗に戦う姿は、全世界の女冒険者の憧れだ。
そんなアカネ様が身籠ったというビッグニュースは、瞬く間に大陸全土を駆け巡った。
お相手はもちろん、"光"の勇者・ヨシト。
アカネと同時に召喚された彼は、光属性の魔力を剣のみならず全身に纏わせ、魔王に連なる悪を両断した、まさに現代の英雄である。
* * *
そして、季節は巡り、あっという間に十月十日が経ち。
シストリア王国・王都セルダの一角……いや、中央で、新たな命が産まれようとしていた。
「んっ……」
王城の一室で、女性が唸る。
歯をぐっと食いしばり、眉間に皺を寄せ、こめかみに汗を浮かべてなお、彼女は美しかった。
"虹"の勇者、アカネ・ド・オクムラ。魔王討伐の功によってオクムラ家は公爵位を授けられたので、アカネは公爵夫人ということになる。
彼女ほどの魔法の技量があれば、自分自身に部分麻酔をかけて無痛分娩を行うことすら可能だというのに、アカネは自分に魔法をかけることを拒んだ。
「ちゃんと、私が産んだんだって、証が欲しいの」
「でも、もし、うまくいかなかったら……」
「それに――何かあったって、義人が回復してくれるでしょう?」
"光"の勇者、ヨシトが得意なのは、もちろん光属性。回復魔法なんてお茶の子さいさいである。
それでもヨシトは、できるだけ苦しまずに産んでほしいと思ったのだが――かわいいかわいい想い人のウインクには弱かったらしい。
戦闘では剣を握ってぎったんばったんと魔族をなぎ倒していた勇者様も、お産となってしまってはできることはほとんどない。アカネの傍らでその手をぎゅっとやさしく握り、ときおり顔の汗を拭いている。
ヨシト以外にも、幾人か、この出産に立ち会う者があった。
「アカネ様……」
じっと、天に祈るように手を組んでアカネを見つめるのは、ブランシュ王女。現シストリア国王の長女である。
その傍らに立つ男性は、アカネが結婚する前の姓で彼女のことを呼んだ。
「大島……」
シストリアの標準よりはだいぶ濃い肌の色に、平たい顔、そして黒い髪。そう。彼もまた日本人であった。
勇者ふたりがこの世界に召喚されてくる際、たまたま近くにいたために「巻き込まれて」しまい、彼らについて世界を冒険することになってしまった人物で、名をヒロキ・ハシモトという。
勇者たちの世界の高校ではその担任を務めていたという彼は、今では勇者の旅を助けた功績から、王家に婿入りをしている。
「もう少しですよ、アカネ様!」
「頭が出てきました!」
産婆とメイドがアカネを励まし、ヨシトがアカネの手を一層強く握る。
アカネは陣痛をこらえ、声にならない悲鳴を上げている。
そして。
「オギャー!」
部屋中に、元気な泣き声が響き渡った。
「産まれましたよ! おめでとうございます、男の子です!」
さっと産婆が赤子を取り上げ、清潔な白い布で体を拭く。
「朱音……!」
「義人……!」
ヨシトは、いてもたってもいられずに妻に抱き着いた。
アカネの顔は、汗と、痛みをこらえた涙と、そして嬉し涙でぐちゃぐちゃだった。
「それじゃ、勇者様がた。その辺にしていただいて。ご子息のへその緒を切りますよ……あら?」
出血を抑えるためにひもで2箇所を縛り、その間にハサミを入れた産婆が首を捻る。
握っても握っても、いくら力を入れても、へその緒を挟んだハサミの刃が、動かないのだ。まるで、透明な障壁がそこにあるかのように、びくとも動かない。
おかしい。どうすればいい。
産婆は、駆け出しの頃に師匠から聞いた与太話を思い出していた。
「昔な、どうしてもへその緒が切れない赤子が居てな」
「なまくらなハサミ使うからですよ」
「わたしゃ仕事道具の手入れを欠かしたことはないよ。あれは大貴族様同士の間の子だった」
「お貴族様関係あるんですか」
「あるよ。魔力さ、魔力。生まれながらにして、たくさんの魔力を持ってるもんだからね、漏れ出た魔力が邪魔して刃が通らなかったのさ」
もしかして、これも。
腕の中の赤子は、"虹"の勇者様と"光"の勇者様の間に生まれた子である。そりゃあ、その魔力量といったら、凄まじいものがあるだろう。
師匠の話を信じて、ハサミになけなしの魔力を流し込む。産婆は、生活魔法をやっと使える程度の魔術の才しかなかった。
そして――
今度はハサミの刃が弾け飛んで、天井と床に突き刺さった。
魔力同士が干渉すると、たまにこういった不可思議な現象が起きることがある。
「え……?」
祝福ムードに満ちていた部屋の空気が、一瞬で凍り付いた。
「えっと?」
状況を把握していない様子で、ヨシトがぱちぱちまばたきをする。アカネは顔をぐしゃぐしゃにしていたことも忘れて、真顔になっている。
赤ちゃんは、何事もなかったかのようにえんえん元気に泣いている。
「その、へその緒が、切れませんでした」
「えっと、切れないとやばいんですか?」
深刻そうな顔で、ヨシトが問う。
「はい、あの、えっと」
愛する妻と、その妻が産んだ子供の状況が、何やらよくないらしい。
そう聞いて冷静でいられるほど、ヨシトは年齢を重ねていなかった。
「別に命に別条があるわけでは」
産婆がやっとこう答えた時には、空間収納から自らの愛剣を取り出して、魔力を纏わせ始めていた。
"光"の勇者という二つ名の通りに、魔力が光り輝き、パチパチと音を立てる。もちろん、産婆の小さい声など、既に彼の耳には入っていない。
「ヨシト様!?」
「ちょ、奥村!? お前、何を」
ブランシュ王女とハシモトが制止の声を上げるが、それももはや聞こえていない。
アカネはというと、ヨシトにこういうところがあるのは知っているので、黙っていた。どうせ、最後には回復魔法でなんとかなるので。戦乱の鎮まった今、魔力量には余裕があるのだ。魔力があればなんでもできる。
魔族を切って切って切りまくった剣が今、自らの子のへその緒を切るためだけに振るわれる。
戦が終わってなお、ヨシトの剣の技量は衰えを知らない。狙い過たず、赤ちゃんも、アカネも傷つけずに、へその緒だけを見事切断した。
一瞬の静寂の後、赤子が、大きく息を吸い込む。
「エ゛ーン!!」
自分を囲っていた魔力が破られる、初めての感触に戸惑った勇者の息子は、全力で泣き出した。
そう。全力で。
ただでさえ大きいのに、風属性の魔力までたっぷり乗せたその泣き声は、ろくに耐性を持たないメイドと産婆、そして王女の意識を瞬く間に刈り取った。
あっという間に、部屋の過半数が意識不明の重体である。
そして、この惨状を引き起こした赤子本人もまた、電池が切れたようにすやすや眠り出す。
後に残されたのは、日本人3人。
「奥村、正座」
こめかみに青筋を立てて、ハシモトが勇者ヨシトに命令する。
世界広しといえども、この英雄に命令できるのは彼くらいである。
「は、はい」
あいにく畳はないので、絨毯の上に正座する。
「やりすぎだ」
「はい」
「責任もって回復させろよ」
「それはもう、はい。先生。わかっております」
ヨシトが片手を振ると、部屋全体を暖かい光が包んだ。
範囲内の全ての人間の体力を回復させるもので、お産で消耗したアカネにとっても好ましいものだった。
あとはひとりひとり抱き起してやれば、すぐに意識が戻るだろう。
「まあ、なんにせよ。ちゃんと健康体で産まれてきてくれて、よかったわ」
慣れ親しんだ回復魔法の波動に包まれて、アカネは早くもリラックスしていた。
* * *
「史上最強の人間」として知られる、"光"の勇者ヨシトと"虹"の勇者アカネの息子・ケント。
彼の誕生は、以上のようなものだったと伝えられている。