何度でも 1
物心がついた頃にはもうそういう意識はあった。毎日長時間目の前に立ち、ただ淡々と技を教える師は父であり、そして自分自身でもあった。この男のクローンである、それはずっと聞かされてきたことなので知っている。薬の力で意識を操られている木戸百零から全てを学び終えたのは14歳の時だった。その後は別の流派の暗殺術などを学びつつ裏社会に出て政府の命令のままに行動している人形だ。それはそれで問題ない。胎児以前の状態の際に遺伝子をいじくられた結果、そういう風にプログラミングされているからだろう。ただ目の前の仕事をこなす。そこに歪みも汚れも感じず、ただ達成感しか感じない。筋力も骨も、反射神経も常人の3倍を誇る自分に勝てる人間などおらず、そんな自分をフォローする3人の能力者もいて、まさに自分たち最強無敵のユニットが日本を裏から守っていると思っていた。なのに、その意識だけははっきりと自覚出来ている。
『宗家の抹殺と血を1つに』
百零からの修行の中で、ただ1つ心を通わせたのはその思いなのかもしれない。もっとも、百零に意識はなく、ただ淡々と技を伝授するマシーンでしかなかった。なのに、その意志だけは感じられた。木戸無双流の悲願を達成せよと。だから自分は迷っている。今現在、自分たちに害の無い木戸宗家の血筋に興味などない。中国や韓国といった他国の裏組織の動向の方がよっぽど興味がある。なのに、何故かこうして木戸兄妹のデータを眺めている自分がいる。簡単な仕事だ。木戸周人、木戸天都、木戸源斗、木戸天海を抹殺し、木戸天音との間に子をもうける。たったそれだけのこと。今の自分には容易く、そして完璧に遂行できるミッションでしかない。だから興味が無い、はずだった。それなのに血が騒ぐ、意識の奥底で何かが訴えている。それは何度も、何度も繰り返しながら、自分の意識を乗っ取るように。
*
取り壊される予定の雑居ビル群は再開発のためというのがその口実だが、実はそうではない。政府がここにとある施設を地下に建造するための、いわば青田買いなのだ。施設は極秘で作られる予定で、来年から本格的に始動するために今はただの無人廃墟だ。その施設は政府官僚のシェルター的な意味あいを持つが、もちろんそれだけではない。地震や津波、大規模火災にも耐えうる地下32階層にも及ぶ日本の第二の緊急向け首都である。皇族の住まいや大量の食料や水を生み出す施設、国会議事堂に相当するもの、いわばコロニーとして機能するのだ。選ばれた人民だけが生き残れるその現代の『ノアの方舟』は数年後に予知されている首都圏を襲う超直下型地震に向けての施設であり、そしてその混乱に際して他国のマフィアなどがなだれ込んでくるのを抑制する施設にもなっていた。自衛隊の屯所や警察機構もあって、日本という国を守るための極秘の施設という巨大プロジェクトは『ゴッド』も噛んでいる。何も知らない住民は再開発された居住区の下にそんなものがあるとは知らずに暮らしていくのだろう。そう説明した金髪の美女ウラヌスは廃棄されて久しいビルの一角に腰を下ろしていた。朽ち果てたその部屋には何もない。かつての都営住宅はまた再度復活する。ただ、とんでもない施設の真上に建つのみ。既に取り壊しの工事は始まっており、半壊したここはウラヌスにとっても格好の場所になっていた。地下の施設建造を悟られないための隠ぺい装置、いわゆる妨害電波の類があって上空の監視衛星のみならず地上からの監視機器もただの再開発地区にしか見えないように細工されているのだ。つまり、組織の人間であろうとも容易く自分を発見することは出来ない。ウラヌス自身に発信器もなく、その行動は自由が認められている。今回の下村親子との接触もまた独断であった。理由は、ただ1つ。
「自由を手にしたい」
ウラヌスは住人が残していった木の椅子に腰かけて腕組みをしている下村麟に視線を向けていた。かつて組織に所属し、遺伝子工学で世界的にも有名だった麟は完全なる人間のクローン化、そしてその個体の遺伝子を改良するために尽力してきた。自分の研究を好きにできる、ただそれが喜びだった。今はもう後悔しかないが。
「君がどういう条件下で生まれてきたかを知りたい。そしてプロト・ゼロ、ザ・ワンのことも」
完全なる完成された個体『ザ・ワン』の完成を見ることなく組織を抜けていた燐にとって、その後の話を全て聞く必要がある。目の前の美女の出自を知ればおのずとそれらも見えてくるだろう。全てを知った上で対策を練るのが研究者として当然の心理だ。だからウラヌスは頷いた。うなだれたままの明斗には目もくれずに燐を見据えたままで。
「ザ・ワンこと『ゴッド』は完成されている。けれど私たちは違う。不完全だ」
そう前置きをして自分のことを語り始めた。かつて右手だけが重力を自由に操る能力を持っていた変異種からその能力だけを抜き出し、その上で研究員の女性の卵子を使って遺伝子操作を行った結果の誕生だった。遺伝子改良によって重力は全身で操ることが出来るようになり、さっきのように半径3メートル以内の物体は自由に操作できるとのことだ。ただ、そのことが原因か不完全な人間となり、週に何回か特殊な細胞維持液の中に全身を浸からせないと生命を維持できない体になっていた。それはウラヌスだけでなく、セイタンやプルートといった『ゴッド』を補佐する者たち全員も同じである。つまり、完全なる個体は『ゴッド』こと木戸左右千、そして目の前にいる下村明斗だけになっている。
「能力を移植され、そこまで完璧に使っている中で体に異常はないのか?」
興味本位ではなく、忘れていたはずの研究者としての記憶がその質問を投げていた。あれから17年、もう遺伝子関連の仕事から離れてしまっているし、本や研究資料は全て捨ててしまっている。それなのに知識は錆びていないようだ。
「ない。全開にしても問題ない」
「任務中に異変もないのか?」
頷くウラヌスを見て燐は何やらブツブツ言いながら顔を伏せた。封印されていた博士としての知識が一気に噴き出してきている。それらを頭の中で整理しつつ、専門的な質問をいくつか投げ、ウラヌスはそれにきちんと回答していく。遺伝子などの知識は乏しいが、自分の体に関する専門用語などは把握しているせいか、明斗をおいてけぼりにして会話は進んでいった。
「その状態を維持しておきながら細胞崩壊はありえないな」
「だが現にそういうデータもある」
「・・・・・なら、もしそれがねつ造だったとしたら?」
「ねつ造?」
「お前たちを縛りつけておく、つまりは反逆させないための処置」
その言葉にウラヌスは少し目を伏せて何かを考え込むようにしてみせた。細胞の崩壊など痛みも感じないし自覚もない。そう言われていたからそうなのだと思っていたし、そういう事象が存在することも知っている。だが、もしそんな症状などなかったとしたら、それならば自分の望んだ自由が手に入るかもしれない。人間になれるのかもしれない。
「調べてみる」
ウラヌスは感情のない声でそう言い、頷く麟を見つめていた。その燐の目が好奇心の輝きを持ったことに気付きながら。
「何故、君は人間になりたいと言ったのかね?君は人間だろう?」
「変な能力を有し、感情すらない。自分すら持てない私は人間じゃなく人形だ」
「その人形が何故人間に憧れる?」
ピノキオの物語が頭をよぎった。人形が人間になった話は童話や絵本でいくらでもある。だが、彼女は人間だ。たとえ遺伝子的に改良された特殊な変異種であっても。
「自分がそういう人間だと疑わずに生きてきた。人を殺し、国や民を守ることをして生きている、ただそれ以外の感情などなかった。だが、キド・アマトと出会った」
その名を聞いた明斗がピクリと反応する。
「監視対象ランクBの雑魚・・・その男に恐怖した。いや、恐怖などという感情は排除されているし、あいつに恐怖を感じるようなものもない。なのに、私は恐怖した。だから興味を持ち、接触をした」
それがあの日だ。たまたま他の監視対象者を追い、問題ないことを見届けた際に天都を見かけた。その瞬間に感じたのが恐怖だ。初めて知る恐怖という感情、そしてただ歩いているだけの天都に何故恐怖を感じたのかを知りたくて接触をした。ただの男子高校生でしかないのに、何故か惹かれてしまった。理由などない。仲良さそうな一緒にいた少女にも少し惹かれた。自分もこんな人生の選択肢があればと思ったのがきっかけだった。だから祭にも強引に参加してひと時の楽しさを味わった。喜怒哀楽の感情を排除されているはずの自分が楽しいと思えたのが不思議だった。だから思ったのだ、人間になれるのではないかと。ただ自分は組織から抜けられない。細胞の崩壊は死を意味するからだ。
「だからお前に接触している天空を知り、私もそうした。人間になるために」
「そうか」
「ミントが羨ましいとさえ思える・・・私も助け出して欲しかった、そう思えるほどに」
その言葉に麟は苦い顔をする。自分が組織を抜けてからウラヌスたちは生み出されたのだ。もし時期が重なっていたとしても同じことができたかは疑問だ。あの時は運が良かった、ただそれだけのこと。
「私の言うことを調査できるのなら、君を人間に出来るかもしれない。リスクは大きいが・・・」
「やろう」
決意などない、ただそうするだけだという目をしている。そんなウラヌスに苦笑して燐はあれこれと指示を出した。なるべく危険を避けるようにと助言を残して。
「危険だと判断したら全てを破棄しろ。特に天空は危険だ」
「了解」
ウラヌスは感情のない声でそう言うとうなだれたままの明斗の前に立った。明斗はほんの少しだけ顔を上げるがそっちを見ようとはしない。そんな明斗を見下ろすウラヌスは冷たい目を向けるのみだった。
「人間であることが不満か?」
ピクリと反応を見せるが、明斗は動かない。燐は苦い顔をしたまま2人のやり取りを見つめるしかなかった。
「お前は人間だろう?」
「作られた、な」
ボソリとそう言う明斗の声は低い。作られた、それも遺伝子を操作された人間だ。生来の頭の良さも運動神経の良さも、全ては人を超えた能力を有していたただの基礎能力にすぎない。努力したのが馬鹿らしいとさえ思える状態だ。
「たとえそうでも、お前は自由に生きている。私とは違う」
「やっかみか?それでも俺は自分を否定するけどな」
「何故だ?」
「人を好きになったのも、遺伝子が求めた結果なんだぞ?木戸なんたらの意志が、遺伝子がそうさせた結果だ!俺自身に何の意味もないんだ」
「馬鹿なんだな、お前は」
鼻でため息をつくウラヌスのその言葉に感情を爆発させた明斗が掴みにかかるが、相手はプロの殺し屋であり、能力者だ。たちまち周囲の重力をコントロールされて身動きが取れなくなった。通常の2倍の重量が体を押しつぶそうと襲いかかり、明斗は埃まみれの床に両手両膝をついて苦しみ悶える。
「遺伝子が全てを決めるなら、私は人間になりたいなどと思わない。もしそうなら、私は淡々と人を殺す。それしかないのだから」
「それでも・・・・・俺は・・・・」
苦しげな明斗を見下ろすウラヌスの目から感情が完全に消えた。だが能力はそのままなために明斗は床に倒れこんで動けなくなる。
「遺伝子なんてものが全てを決めるなら生きていく価値などないし、感情も何もいらない。人格さえも」
そこで能力を停止させた。大きく肩で息をする明斗は立ち上がる力もなくただ埃まみれになりながら呼吸を整えるしかない。
「お前の気持ちが何であれ、相手の気持ちはどうなる?」
明斗はハッとなって黙り込んだ。息ももう苦しくない。
「みんながみんなそうなら、お前の好きな相手もそうだというのか?」
天音の笑顔が思い出される。照れた顔で海に連れて行けと言った時の表情も。あれも天音の遺伝子がそうさせたのだろうか、いや、そうではないはずだ。
「お前は人間だろう?」
ウラヌスはそう言うと自分と下村親子を空中に舞い上がらせ、そのままビルの1階に着地させる。ウラヌスはそのまま急上昇して消えた。やれやれと思う麟は上手く天空をやり過ごしてウラヌスと接触し続ける方法を模索しつつ歩き始めた。その後ろをのろのろとした動きで明斗がついてくる。確かに木戸の遺伝子が宗家の血を求めているのかもしれないと思う。だが、明斗はそうではないはずだ。何の訓練も受けず、技も何も知らない。そんな明斗の中にある遺伝子が発現するなどありえないだろう。可能性があるとすれば木戸左右千ただ1人か。データを見ないと分からないが、もし左右千が超人であるならば、勝ち目はない。ウラヌスたちの遺伝子には左右千及び組織の人間に対して反逆できないような操作がしてあるはずだ。
「問題は山積みだが、賭ける意味はある」
そう呟き、麟は覚悟を決めた。逃げるのではなく、攻める覚悟を。
*
夜中から早朝までは荒れた天気だった。ひどい風に豪雨のせいで窓に雨粒が当たる音も酷かったほどに。それも日の出と同時くらいには完全に消え去っていたこともあって、天都はのっそりとベッドから起き上がった。軽井沢から帰ってきたと同時に三葉と自分のスマホが音を奏でてラインの受信を告げたのは午後7時頃だ。ラインを見つつファミレスに入った2人は今日のことやこの間のプールの事などを話していった。帰りの電車で寝てしまったことを何度も謝る三葉が可愛く思え、そして天都はファミレスにいる間はずっと三葉の言動に注意していた。やはり自然というか、ごく普通の状態でしかない。親密になった感じもなければ照れて困った感じもなかった。昨日までと全く変化はなかった。だから、今日もまたプールへ行こうというさっきのラインに2人そろってOKの返事をし、待ち合わせもしたのだ。三葉を知りたいから。結局、七星はプールに来ないようで、不参加の意志を表したラインが来ていた。天都は少し複雑に思いながらもどこかホッとしている自分がいることに気付く。振られたことを引きずっている部分もあったが、あの祭の夜の七星の言葉と表情がずっと心に残っていたからだ。だから会うのが怖かった。三葉の笑顔に救われている、そんな自分に苦笑しつつ背伸びをして着替えを済ませると部屋を出た。昨日のラインでは天音は不参加になっている。部活のせいかと思い気にもしていなかったが、リビングに行けばそこにはくつろいだ状態の天音がいたので驚く。基本的に午前中はいつも部活だ。今は午前8時半であり、とっくに部活が始まっている時間でもあったからだ。
「あれ?部活は?」
「夜の雨でグラウンドが水浸しだってさ」
「ああ」
納得した天都はそれならとプールに誘うが、今日は用事が出来たからと素っ気ない返事をもらってしまった。この間の明斗とのデートを知っているだけにまたかと思うものの何も言わず、自分は出かける準備を進めていく。約束の時間は10時なため、まだ時間に余裕はあった。だからリビングのソファに腰かけてスマホでゲームを楽しんでいた。
「七星と、なんかあったんだ?」
唐突にそう言われてドキッとするが、隠していても仕方がないために頷いて見せる。
「やっぱね・・・振られたか」
「まぁね」
否定しない天都へと顔を向けた天音が不思議そうにしているのが気になる。天都は逆にそんな天音に不思議そうな顔をしてみせた。
「なんだよ?」
「いや、祭の日からずっと様子がおかしかったからそうなんだろうなって思ってたけど・・・なんかもう吹っ切れた?」
「・・・吹っ切れたってか、どうしようもないし」
「その割にはなんか・・・普通だよね。特に今日は」
昨日までの天都は確かに様子がおかしかったし、常に暗いオーラを身に纏っていた。あの日の様子からして振られたと推測できたものの、かといってこんなに早く立ち直るとも思っていなかったのだ。七星を想ってきた年月の割にはあっさりしすぎている。
「昨日、瀬尾さんと出かけてそっちが好きになったとか?」
「さぁ、どうだろうね」
煽ったはずの天音が動揺するその回答を口にする天都は普通すぎた。七星のこと、三葉のこと、全てもう整理出来ているような口ぶりだ。そんな天都はスマホをポケットにしまうとキッチンに方に体を向けた。
「七星ちゃんとのことは、とりあえず吹っ切れかけているよ。瀬尾さんに関しては、彼女のことをもっと知りたいって思ってる。好きとかそういうんじゃなくて、彼女がどういう子なのか知りたいから」
そう言ってキッチンに行く天都の背中を見つめるしかない天音はその変化に戸惑いを隠せない。いつもの、この間までの天都とは違いすぎているからだ。確かに失恋したダメージは負っている、それはわかっている。なのに全てを受け入れたようなその表情は羨ましいとさえ思えるほどだ。そうしているとアイスを手に戻ってきた天都が天音の分も差し出す。天音は礼を言ってそれを受け取るが、呆けたような表情はそのままだ。だから天都は眉を曇らせながらソファに腰かけた。
「なに?」
「え?いや・・・別に・・・」
アイスを一かじりしながらもチラチラと自分を見やる天音の視線を感じつつ、天都は前を向いたままでテレビのワイドショーを眺めていた。
「きょ、今日って人数少ないんだね?」
会話がない状況が何故か苦しく感じる天音が少し上擦った声を出す。天都はそんな天音へと目を向け、アイスをかじりながら頷いて見せた。
「連絡が昨日の今日だからね」
「5人でしょ?」
「僕と瀬尾さん、笠松と・・・・バカップル」
最後だけ嫌そうに言った天都に苦笑し、頷いた。野乃花と南はアイドルのイベントに行くと言っていたし、メロディは家の用事という返事が来ていた。明斗は返事もなく放置しているようで、天音はそこが気になっていたがそれを口にはしない。七星と天都の様子からしてそれ絡みだと判断できるのもあったからだ。
「天音はどうするの?」
「・・・・・のんびり、かな」
それは嘘だ。天都が来るつい数分前に意外な人物を誘ってOKされたことは口が裂けても言えない。その目的も、その相手の名も。
「あっそう。たまにはいいかもね」
「まぁね」
そう言い、天音は平静を装っているつもりでいた。天都にはその不自然さがバレバレで何かあると分かっていながらも何も聞かない。それは優しさであり、気遣いだった。
*
食卓テーブルに肘をついている行儀の悪さを指摘された天音だが、文句を言わずに言うとおりに従う。父親の周人は怒らせない限りは優しいが、母親の由衣はやはり母親だけあって何かと口うるさい上にお仕置きがあるのもあって従わざるを得ないのだった。幼い頃からそうしてきているせいか、もう体に染みついた習慣のようなものである。程よく焼かれた食パンとスクランブルエッグ、そしてアイスティーを並べた由衣は椅子に座るなり大きなため息をついた。
「朝からどうしたの?」
天音はアイスティーにシロップを入れながらそう言うとじとっとした目をする由衣から視線を外した。こういう目をする時の由衣は怖い、それを理解しているからだ。
「どうしたのって・・・洗濯もあるし、みー君は起きないし・・・天都はさっさと出かけるし・・・いいわよねぇ、学生は夏休みがさってさぁ」
ようするに家事がめんどくさく、お気楽な天都や自分が羨ましいということか。
「母さんだってそういう時期、あったでしょ?」
「戻りたいわぁ」
「父さんとラブラブだったころに?」
「今でもラブラブだけどね」
そう言って微笑む由衣が羨ましい。結婚して20年近く経つのにこの夫婦はずっと円満でラブラブだ。自分もそういう人に巡り合いたいと思い、何故かまたそこで明斗の顔が浮かんだために大きくパンをかじった。
「あんたも天都も、最近なんかあったでしょ?恋愛絡み、かな?」
思わず吹き出しそうになるのを堪えて平静を装うが、由衣の目はやらしい具合に笑っている。恋愛絡みで何かあったのはもうみえみえだったからだ。
「別に」
「相談してくれていいけどね。このワタクシに」
「母さんって恋愛経験乏しいじゃん」
「そうでもないよ?告白された数はもう、あんたより遥かに多いし、何よりモテモテだったし」
ニヤニヤしつつアイスミルクティーを飲む由衣を見た天音はため息しか出なかった。確かにモテモテだったのは知っている。中学の頃に通っていた塾での伝説などは有名だし、何より今通っている桜ヶ丘高校の40人切りの告白お断り伝説もまた有名だったからだ。それも全て周人を好きでいるという証拠にしかならない。つまり、話を聞く限りは由衣の恋愛経験はただ1つのみだ。
「父さんしか好きにならなかったくせにさ」
「まぁそうだけど・・・でも、んー、恋愛に近い感じの憧れはあったけどね」
「憧れ?」
恋と何が違うのかと思う。その人に恋をして憧れて、その先に恋人同士が待っているはずだ。
「中学の頃、父さんに出会う前に塾の講師に恋してた。正確には憧れてたんだよね」
そう言い、由衣は珍しく自分から昔話をしていく。お金と容姿でしか男性を見ず、当時イケメンでいい車に乗っていたその人に恋をしていた。いや、彼女になりたいという憧れをもっていたのだ。その人は塾の女子生徒たちからモテモテだったし、自分が彼女になることでそういう女子を蹴散らしたいというステータスも手に入ると思っていたからだ。だが本人は本気の恋、だと思っていた。そう周人に出会い、助けられるまでは。
「父さんに助けられて、それまで大嫌いだった父さんを見るようになった。嫌いだったせいか、もう、いいところしか見えなくなって・・・で、その講師に告白した。自分の気持ちを確かめるために」
くるくるとコップに突き刺さったストローを回しながらそう言う由衣の目はどこか遠い。青春だったあの頃を思い出しているという風に。
「で?」
「もちろん振られたけど、ショックはなかったなぁ・・・で、その人が言ったのよ、それは憧れで、父さんへの気持ちが本当の恋だって。でも、その時はまだはっきりとした自覚はなかったけど」
「憧れ・・・か」
「ああなれたらいいなって想像の中にその人を当てはめていただけ。でも恋は突然。あんなに好きだと思っていたその人よりも父さんが気になって仕方がなかったもの・・・それもただの興味だと思ってたし。若いって、感情が一定じゃないから、だから錯覚、っていうか疑似恋愛してた」
由衣はミルクティーを飲んでスクランブルエッグにパクついた。我ながら程よい美味しさを作り上げたと得意げな顔をしながら。天音はじっと食パンを握ったままそれを見つめる。今日、自分がしようとしているのも同じなのかもしれない。今日、自分は翔をデートに誘ったのだ。遊びに連れて行ってほしいとメールし、すぐにOKをもらっている。今の自分の気持ちを確かめたい。翔への気持ちがなんなのか、明斗への気持ちがなんなのか。翔への想いが憧れなのかどうかはわからない。ただ、以前ほどドキドキしていないのもまた事実だった。そんな天音を見て微笑み、由衣も食パンをかじる。そんな由衣がハッとなってあわてて振り返るとカレンダーを見て青ざめた。両手を頬に当て、そわそわし始めたの何故だろう。
「やばい!来週じゃぁん!」
「何が?」
「さくら塾の塾長、じゃないや、元塾長が同窓会しようって・・・その人も来るんだよね。エステ予約しなくっちゃ!あと美容院も・・・おばあちゃんにみー君のことを頼むの忘れてる!」
打診があったのはもう一か月以上も前だった。元塾長の大山康男から連絡を受け、現塾長である三宅浩二とその奥さんである恵、かつてのバイト講師である新城直哉とその奥さんであるかすみを呼んで軽い同窓会をしようということになっていた。あわてる由衣が行儀悪く朝食を済ませ、すぐにリビングに向かうのを見て自分の母親だと実感した。焦った時の自分に動きがそっくりだったからだ。由衣に似てきたと言われるが、こういうところまで似てきたのかと思うと少し落ち込んでしまう。何より似ているのは今日、翔への気持ちを確かめようとしているところかもしれない。好きなのか、憧れなのかを確かめるために。




