君に届け 3
ベッドの上で膝を抱えた天音は窓に叩きつけるように降っている雨の音も耳に入っていなかった。目の前にはちょこんと置かれたスマートフォンがある。それを電気も点いていない部屋でただ眺めているだけだ。そうしていると消えていた画面に光が灯り、天音の体がビクッとなる。ラインの受信を告げる音と画面表示に困った顔をしつつ、そっと、ゆっくりとスマホを手に取った。
『明後日でいいかな?』
簡潔な文章にも反応せず、天音はそのまま5分ほど固まった。そうしてどうにか指を動かして返事を送る。
「いいよ」
たったそれだけの文章を打つことしか出来ない。するとすぐに返事がやって来た。
『じゃぁ、明後日、プラネタリウムで』
「了解」
それを送信し、スマホを持っている手がプルプルと震える。緊張で死にそうになりつつもスマホをベッドに置き、大きく息を吐きながらベッドに寝転がった。これにてデートが成立だ。どこに行きたいかのリクエストにどこでもいいと返事をしておきながら、明斗からのそのリクエストに応えたのはたまたま漫画の中のカップルがプラネタリウムに行ったシーンを読んでいたせいである。結果、それで了承されたのだ。これにより天音の初デートは明後日になり、その記念すべき相手は明斗になった。なんとも言えない気持ちに戸惑いつつ、どっと出た疲れに汗を拭いながら風呂場へと向かった。夕方から降りしきる雨は午後9時現在でも止むことをしない。ものの10分ほどのやりとりでこんなに疲れたのは初めてのことだ。
「あら?遅いお風呂ね?」
リビングでくつろいでいた由衣にそう言われても返事もせず、ただ夢遊病者のように風呂場に消えた天音に首を傾げるしかない。
「変なの」
そう言いながらせんべいを食べる由衣の元にトイレから戻ってきた周人が横に腰かけつつ何とも言えない表情を作ってみせる。
「なに?」
その顔を見た由衣にそう言われ、周人は深々とため息をついた。
「こんな時間にそんなの食ったら太るぞ?」
「平気平気!」
「あっそ」
呆れたようにそう言いながら周人もせんべいを取ってばりっとひとかじりする。
「例の副社長の件な・・・・・明日、受けるって返事するよ」
「受けるんだ?」
「いろいろ考えての結果、だけどな。もちろん家庭との両立が第一」
「父さんの思うとおりに、どうぞ」
そう言いながらぴたりと夫に寄り添う。仕事や会社の事に関して由衣はいつも何も言わない。全て周人の好きにさせていた。浮気の心配もなく、お金の心配もない。家庭を大事に、そう、ただ家族を大事にしているのを知っているからだ。
「副社長夫人か・・・・うん、悪くない響きね」
そう言う由衣に苦笑し、周人はお茶を入れにキッチンへと向かうのだった。
*
お洒落なそのパスタの店はこの近辺のみらず、県規模で有名な店であった。朝の情報番組で特集されて以来客足が途絶えることがないほどに。だから、2人がここに入れたのはタイミングが良かっただけのことだ。入店から5分ですぐ満席となり、店員が慌ただしく動き回る中で優雅に食事が取れるのは嬉しいことである。向い合せの2人席だが、テーブルが大きめのせいか窮屈さは感じない。照明器具1つ取っても洒落たそのインテリアは女性客の心を掴んで離さないせいか、高級感溢れる空間での食事は自分がセレブにでもなった気分にさせられる。だが、2人ともただの教員でしかない。片や高校教師、片や幼稚園の先生だ。大学時代からの親友であるこの2人はこうして定期的に会うようにしていた。
「でも珍しいね、心の方から会いたいなんてさ」
そう言いながらパスタとドリアのセットを目の前に、フォークにパスタを絡める志保美苺が目の前に座ってスープを飲んでいる大崎心に微笑んだ。大抵、会いたいと打診するのは苺の方で、彼氏とあまり会えていない寂しさを紛らわすためにそう持ちかけていたのだ。かといって苺には心以外に友達がいないわけでもないが、高校時代からの親友夫婦は子供もいてなにかと時間が取れず、もう1組の親友カップルはこの春から長野県にいるせいかなかなか会うことが出来ない状態にあった。あとは神社の経営者夫婦ぐらいだが、こちらは心ほどではないが結構な頻度で会っていた。とはいえ少し離れている場所だけに、やはりすぐに会える心の存在がありがたい。
「まぁ、いろいろあってね」
そう言う心が珍しい。いつもはきはきした心にしては口に物を含んだ言い方だったからである。苺はパスタを頬張りながら首を傾げ、それを見た心は両手に持ったスープの器をくるくる回しながら小さなため息をついた。
「苺は結婚、来年春だよね?」
「うん、その予定。まだ彼の仕事の都合とかあるし」
「弁護士かぁ・・・いいなぁ・・・・イケメンだし、高収入だし、優しいし」
苺の婚約者とももちろん面識がある。クールで無感情な印象を受けるが、苺に対する優しい目はそんな印象を覆すほどに愛情に満ちている。2人は小さい頃からの幼馴染なのだ、お互いのことも十分に理解しあえているのも大きいのだろう。
「弁護士ってもなり立てだし、高収入でもないよ」
「いずれはなるでしょ?有能だって話だしね」
「彼は、努力家だからね」
「・・・・・羨ましい」
そう言い、一口スープを飲んだ。パスタはもう平らげており、セットのグラタンが残っているテーブルを見つめる心を見た苺は彼氏がいない現状を気にしているのかと思っていた。
「彼氏、出来ないの?」
その言葉にビクッとなった心を見た苺もビクッとなる。
「彼氏はいないけど・・・好きな人は、いる」
か細い声でそう言う心ににんまり微笑んだ苺はオレンジジュースを飲みながらうんうんとうなずいて見せた。大学時代からモテていた心は2人程度と付き合ったが長くは続かなかった。結婚相手にしか体を許さない、そんな固い貞操観念を持っていたせいだと言われているが、実際にそうなのだ。かといって好きになる人も問題のある男ばかりで、既婚者や彼女がいる人という風に親友の苺が心配になるほどだった。
「既婚者とかじゃないよね?」
だからあえてそう聞いた。高校教師となれば独身男性よりも既婚男性の方が多いというようなイメージを持っていた苺にすれば当然の質問だ。その質問に首を横に振り、心はじっと空になったパスタの皿を見つめている状態にあった。
「んじゃぁ・・・・彼女がいる人、とか?」
過去の男性遍歴からそう聞くが、これまた首を横に振った。もうわけがわからない苺はドリアをひとすくいし、それから心に顔を向けた。
「まさかと思うけど、生徒だったり?」
その瞬間、心の体が大きくビクつき、何とも言えない困ったような動揺したような表情になって汗をかく。冗談とは思えないその反応に、苺はドリアを口に入れてその味を噛み締めてからゆっくりと口を開いた。
「ドラマみたいだ」
「そう、だね」
「・・・生徒に恋、しちゃんたんだ?」
「うん・・・・・・でも、仕方ないよ・・・苺でもきっと、そうなる」
「ん?」
どういう意味かと首を傾げる。ずっと小さい頃から幼馴染だった婚約者を好きでいた苺に今の心の心理はわからない。子供の頃からただ一途に好きだったため、恋に落ちるシチュエーションがわからないのだ。そんな苺の表情を見た心は説明を始めた。わけのわからない連中の車に無理矢理入れられて連れ去らわれそうになったこと。それを助けてくれたのが生徒だったということ。そしてその生徒に甘え、依存し、恋をしてしまったことをかいつまんで。終止困った顔をしている心を見れば、自分がいけないことをしているという自覚はあるようだ。だからか、全てを聞き終えた苺は小さなため息をついた後で再度ドリアを食べ、それから口を開いた。
「まぁ、うん・・・・理解できる。好きになっちゃうよね」
自分も小学2年生の時に暴漢に襲われた経験があるのでわかる。あの時は幼馴染が助けてくれようとして逆にやられてしまい、通りすがりの男性に救われた。かといってその男性に恋をしたわけではない。一生懸命に立ち向かってくれた幼馴染にあらためて恋をしたのだから。依存するのもわかる。恐怖を体験し、それを救ってくれた相手にしかその恐怖を拭ってもらえないと錯覚をするからだ。だが、どうやら心の恋は本気なようで、応援していいものかどうか悩むところである。
「イケメン?」
何故そう質問を投げたか自分でもわからない。
「じゃない、と思う」
これまた素直に返事をする。
「頭いいとか?」
「はっきりいうと普通以下・・・教えた英語はいい感じだったから、勉強が嫌いなだけで要領さえ掴めばいい方だと思うけど」
救われたから好きになったと言えばそれまでだが、苺はその男子生徒に魅力を感じない。だから苺はドリアを平らげてジュースを飲み、テーブルに肘をついて顎を乗せると深いため息をついた。
「大人っぽい?」
もうそれしか聞くことがない。しかし、その質問に関しては心の反応は良かった。頷くのもどこか力強さを感じるほどに。
「顔は童顔で小学生か中学生って感じだけど、17歳にしては大人っぽいよ」
「心は子供っぽいところもあるからね」
「それ、苺だけには言われたくないけどね」
ここでようやくいつもの心に戻った感じがした苺は微笑み、心も微笑み返した。
「顔は子供なのに大人っぽくて、リードしてくれる」
「相手も心を好きなの?」
「わかんない・・・でも、そうじゃないと思う。同情なんだよ、きっと。でも、凄くいい人」
恋をしている女性の雰囲気を全開にしつつそう言う心を応援したくなる。倫理的には間違っているし、7つの歳の差ははっきりいって大きい。女性が7つ年上となれば付き合っても色々な問題も出てくるはずだ。だが、それでも応援したい。
「頑張れって応援してる。だから、悩んだりしたら相談して」
にこやかにそう言う苺に頷きつつも、心はどこか不満げだ。だからか、苺はその顔を曇らせてストローを咥え、それから小首を傾げて見せた。
「あんたに上から目線でそう言われると、なんか複雑」
完全にいつもの心に戻ったせいか、そう言いながらも笑っている。だから苺も微笑んだ。問題は山積みだろうが、それでも心を応援したい。多分、この恋は自分の知る限り一番純粋な恋なのだろうから。
*
もう何度目になるのだろうか。姿見の前で服装のチェックをし、前髪をそっといじる。約束の時間は午前10時半に駅なのだが、もうかれこれ8時過ぎから1時間もこの状態だ。どんな時でもこんなに緊張しなかった。なのに今はもう心臓が壊れそうなほどに高鳴り、緊張がありありと全身から出ていた。生まれて初めてのデート、その相手があの明斗なのだからこうまで気合を入れなくていいと思うものの、やはりデートという響きが普段の天音を掻き消してしまっていた。あの男勝りな天音が何度も何度も服装と髪形をチェックしているなど誰が信じようか。それほどまでに天音は何故か追い込まれていた。明斗でこうなのだから本命の翔が相手だと死んでしまうかもしれない。そう考え、天音は鏡に映る自分をじっと見つめた。何故こんなに浮かれているのだろう。好きでもない相手とデートだというのに。
「バッカみたい」
そう言いながらも目で服装をチェックしている自分に気づいて勝手に赤面した。
「もう」
そう言うとベッドに腰掛けた。ゆったりした袖のない服にショートパンツの出で立ちは丈の短いワンピース姿にも見えるようだ。短い髪は前髪だけを少し斜めに流すようにしている。ピンクのリップまで塗った自分に再度赤面しつつ、お気に入りのバッグの中身を再度チェックしていった。そうしていると時間になり、玄関に降りればこちらも普段より小奇麗な格好をした天都がまだ数回しか履いていないスニーカーを取り出している所だった。
「珍しい恰好ね」
「お前にだけは言われたくないよ」
そう言い、お洒落した天音を細い目で見やった。上半身は可愛らしく、下半身は健康的なその格好も見慣れないが、何よりリップまでした気合の入れようはどこか異様でしかない。恥ずかしいのか天都を押しのけてサンダルを履く天音は顔が赤いことを悟られないようにするのが精いっぱいだ。
「もしかしてデートとか?」
その言葉にぴたっと動きが止まる。そのまま錆びた機械のような、それこそギギギという音が出る感じでゆっくりと天都を振り返った。
「んなわけないじゃん。野乃花たちと遊ぶだけ」
「あっそ」
「そ」
そうとだけ言い、さっさと出て行った。事情を知っている天都は苦笑しつつも、あんなに女の子らしい格好をしていた天音に記憶がないせいか、ますます苦笑を濃くした。なんだかんだで明斗を気に入っている、そんな風に解釈できたからである。頑張ってデートに誘った明斗もさぞ満足するだろう、そう思う天都もスニーカーを履いて玄関を出れば、今日も暑い日差しがジリジリと照りつけてくるのだった。




