君に届け 2
とんでもない話を聞いてしまったせいか、そそくさとその場を離れた天都は無意識的に自動販売機でジュースを購入していた。普通にそれを飲んでさっき聞いた会話を頭の中で繰り返す。明斗が天音をデートに誘い、条件をクリアできれば天音は明斗とデートをする。天音を好きな明斗がこんなに早く行動を起こしたことも驚きだが、条件をクリアすればデートをするといった天音の言葉にも驚かされた。あの天音が、翔を好きな天音が了承したことが驚きを超えた感情を自覚させている。何より、あのはっきりした性格の天音が戸惑っていたこともまた驚きだった。けれど、明斗はちゃんと行動に移したのだ。天音を好きだと宣言してから一週間ほどで。だから自分も頑張ろうと思う。そう約束したのだから。けれど明斗ほど行動力などない。自分が想いを寄せている結城七星をデートに誘うなど出来るはずもなく、またOKされるはずもないからだ。気弱な自分にそんな行動力があるはずもないが、このままでいいとも思えない。だから、勝手ながら天都は一つの賭けに出た。本当に明斗が新記録を樹立して見事に天音とデートできることになったのならば、自分も勇気を振り絞って七星をデートに誘おうというふうに。そういうきっかけがないと行動できない自分が情けないが、それでもその決意に揺るぎがない。新記録を出してほしいと思う自分とそうでない自分がいる中、男子短距離走決勝進出者に集合のアナウンスが流れた。天都はそのまま控室の方に向かうと、ちょうど部屋から出てきた明斗に出くわして軽く片手を挙げて挨拶をする。
「よぉ、頑張れよ」
「ああ。頑張る」
微笑む明斗を見送り、軽くハイタッチをした。そのまま控室に入ると椅子に座ってぼーっとしている天音に声をかけた。
「明斗の試合、見に行くぞ」
兄らしい台詞などほとんど口にしたことがない。双子だから、兄だの妹だのは形式的なものでしかないからだ。だがこの時の天都の言葉は兄という気持ちがこもっていた。だからか、天音は素直に頷いて立ち上がる。
「あいつの優勝するとこ、見よう」
「そうだね」
どこか元気のない天音にも普段通りに接し、先に天都が歩き出す。そしてその後ろから天音が付いてくる形で二階に位置する観客席に出た二人はスタート位置に近い場所のすぐ前に潜り込むことに成功していた。明斗は少し離れた場所で品川と何やら話をしている。周囲の女子からいろんな選手に黄色い声援が飛ぶのを見つつ、ただじっと明斗を見つめている天音の横顔をチラッと見た天都はその心境を図りかねていた。翔が好きな天音が出した条件を明斗がクリアした場合、本当にデートするのだろうか。その際、明斗は告白をするのだろうかなど、いろんなことが頭を巡る。そしてそれは天音も同じだ。何故さっさと断らなかったのか、そればかりが頭の中をぐるぐる回っている。何故ああまでドキドキしたのかも謎だ。品川が明斗から離れ、軽いストレッチをこなしていく。8人で走る中、優勝候補であり、前年度王者の明斗は最も警戒されている人物だろう。その明斗に緊張は見られない。そんな明斗を見つつ、今はもう消えたドキドキを思い出しながら天音はただその勝利を願っている。明斗の雄姿を見るのはこれが最後だから。それもあって自分はデートのことを了承したと思いたい天音はスタート位置に向かう明斗を見つめていた。そんな明斗に緊張の色が見え隠れし始める。やはりスタート前はどんなに肝が据わった人間でも多少の緊張はするものだから。それは天音にも経験がある。
「下村明斗ぉ!」
不意にそう叫んだ天音のせいで、周囲の人間も天都もかなり驚いてしまった。だが、その大声に明斗がこちらを向いた。
「勝てよ!絶対に!最速で!」
そう言い、ぐっと親指を突き出した右腕を天に伸ばした。それを見た明斗が微笑みを浮かべて片手を挙げる。緊張の色はもうない。あるのは勝利への執念だけだ。手すりに手を置いて身を乗り出すようにした天音の横顔を見つつ、天都は明斗の勝利を願うのみだ。やがて選手紹介のアナウンスがされ、それぞれがスタート位置につく。明斗はちょうど真ん中のレーンでスタートの構えを取ってじっと赤い地面を見つめた。もう邪念もなく、ただ前へ進むのみ。最速で勝つ、それしか頭になかった。やがて係員の声が耳に届く。明斗はぐっと足を踏ん張って頭を下げた。力を込める足を支える手に少しの力を加え、あとはただ足の筋肉に神経を注ぐのみだ。
「パン」
乾いたピストルの音がこだました瞬間だった。反射神経の凄さなのか、既に明斗は誰よりも前に出ている。ライバルに勝とうとか、そう意識も働かない。ただ前に進む、それだけだった。それだけで体の全てが円滑に循環していく。そしてそのままゴールに突入した。一瞬でしかないその時間を全力で駆け抜けた結果を振り返れば、電光表示されたタイムに会場からどよめきが巻き起こっている。10秒を切っていた。自己最速の高校記録は10秒ジャスト。それを0.3秒も更新したその記録は日本人としてありえない記録でもある。息の切れた体を起こし、観客席にいる天音を振り返る。スタート位置から百メートル以上離れているせいか表情は見えないものの、これで条件はクリアできたと心から喜んでいる自分がいる。人生において最後の競技、最後の走りでこの記録は悔いなど残るはずもなかった。群がってくるマスコミや大会関係者に引っ張られて行く明斗を見つつ、天都はただただ感心するのみだ。とんでもない男と友達なんだと改めて思う反面、これで天音とのデートも決まりだなと微笑んでいる自分もいる。だからこそ自分も頑張ろうと思う。
「勝っちゃった・・・・・・しかもとんでもないタイムで・・・」
驚くしかない天音はそのタイムの凄さを素直に驚いているだけのようだ。そんな天音の肩にポンと手を置いた天都の方を見れば、何やらよからぬ笑みを浮かべているではないか。
「良かったな。初デートおめでとう」
その言葉に赤面し、俯く天音を可愛いと思う。だが、それは間違いだ。照れた赤面と怒りの赤面が混ざったそれを見抜けなかったのだから。予備動作も殺気もなく繰り出された拳を回避できるはずもなく、腹部に受けた内臓に響く衝撃に天都は両膝をついて崩れ落ちた。
「聞いてたんだ・・・サイテーだ!もう、サイアク!」
顔を真っ赤にしたままその場を立ち去る天音を追うことも出来ず悶絶する天都は周囲の女子生徒たちから冷たい目を浴びせられてもどうすることもできない自分を恨むのだった。
*
多くのマスコミが明斗を囲み、フラッシュの明滅が断続的に浴びせられる。日本陸上界に歴史的な記録を樹立したヒーローの誕生はこの上ないニュースなのだから。だが、明斗から出た次の言葉はそんなニュースを吹き飛ばすほどのインパクトを持っていた。
「今大会をもって陸上は辞めます」
その一言にどよめきが巻き起こり、何も聞かされていなかった品川は顎が外れるほど口を開いたまま動かなくなるほどに動揺していた。その後も淡々と語る明斗は陸上部を辞めること、オリンピックには元々出るつもりはなかったことなどを語ったが、肝心の辞める理由については言及しなかった。故障は否定しつつも肝心な部分をぼかしたままでインタビューは終了し、そのまま控室に戻って行く。品川がどんなに説得しても、理由を聞いても何も答えず、明斗はただ満足感に浸っている状態にあった。突然駆け巡ったそのニュースに驚く天都だったが、それでもそれは明斗らしいとどこか納得していた。明斗にとって、陸上は自己鍛錬の1つでしかなかったのだろう、そう思えたからだ。満足のいく結果、そして条件をクリアしてのデートという結果からしてその引退宣言は必然的に思えたからである。そのまま天都は視線をトラックに向ける。そこには天音がいて、数分後の女子短距離走決勝の準備に余念がなかった。明斗の爆弾発言ですっかり放置されている天音だが、品川のアドバイスなど必要としていないせいか走ることに集中できている。ただ頭を過るのは明斗とのデートが成立したことだけ。それはどこか憂鬱で、どこか浮かれている。
「なんで、あいつなんかと」
そう言いながらもまんざらでもない表情が引き締まった。集合の合図があったからだ。そのまま一番外側のレーンに向かい、スタート器具をチェックする。もう明斗のことは頭の中から消した。こういう切り替えが出来るのが天音の強みでもある。自分も最高の成績で一番になる、それしか頭になかった。
「あいつだけにいい顔させたくないしね」
スタート位置につきながらそう言う天音の顔は晴れ渡っている。もう恐れも緊張もない。ただ前に進むだけだ。そうしてスターターが手にしたピストルを頭上に掲げながらその時を待った。天音はぐっと足に力を込めて頭を下げつつ重心を取って最善の態勢を取った。そして乾いたピストルの音が響くと同時に天音が駆け出した。明斗並みの反応で一気に前に出る。全身の全てが上手く繋がった初めての感覚にただ前に出ることだけに意識を送り続けた。由衣と周人の絶叫や、興奮して夫である秀雄の太ももをバシバシ叩く実那子、興奮して立ち上がる源斗の横で冷静に見つめ続ける静佳が見守る中、天音はそのままトップでゴールに突入した。息を切らせながらもガッツポーズをし、電光表示を振り返る。自己ベストを更新したその記録を見て天高く腕を振り上げる天音は念願の優勝に涙すら流して喜ぶのだった。
*
その夜は家族で焼き肉を食べ、大祝勝会となっていた。天音は念願の優勝、高校ナンバーワンになったことを喜びながらも明斗の引退に少なからず同情心を持っていた。親の都合で陸上を辞める、その本心はデートの際にでも聞けばいいと思う反面、どういうデートをする気なのかも気になっている。それでも今はただ勝利の美酒に酔いしれていたかった。進や翔たちにはもう連絡済であり、メールとはいえ心からの祝福を受けている。幸せな気分に浸っている天音だが、その一方、明斗はただ静かに父子だけのささやかな祝勝会を行っていた。ステーキハウスで上物の肉を食べながらもあまり会話はない。自分の都合、いや、息子の未来のために陸上を辞めさせた負い目もあるせいか、父親の麟はいつになく無口だ。そしていつかはその出自も話さなくてはならないと思っているせいか、その表情も暗い。
「陸上は辞める。またやりたことを探すよ。地味な何かを」
「そうか・・・そうだな」
目立つことはしてはいけないと言った燐の言葉を受けての宣言だが、燐は愛想笑いをするしかない。木戸天空に、プロト・ゼロに気付かれた今、おそらくはどこに逃げても無駄だろうし、何をしてもマークされるのは間違いないのだから。ただ監視対象ランクが何になるかで全てが決まるが、天空が誰にも言うつもりはないと言っていたことが気になる。自分はともかく、何故明斗が彼にとっての切り札になるのかがわからないからだ。これからは慎重に生きていく必要がある。そう思う麟の表情を見た明斗は小さく微笑んでみせた。
「悔いはないよ。全てを出しきったから」
「そうか」
ここでようやく笑った父親を見て明斗も笑顔になる。その後はごく自然に会話も弾み、なんとなしに恋愛関係の話題になった。
「そういえば、お前は好きな子とかいないのか?」
ステーキを食べ終わり、デザートが運ばれてきたタイミングでの会話に明斗が少し困った顔をしてみせた。こういう話題など口にしたことがないからだ。学校での事柄などは話すものの、お互いのプライベートに踏み込むような会話は今まで全くなかった。それもあって明斗は動揺していたのだ。
「まぁ、いるけど」
呟くようなその言い方に苦笑が漏れる。明斗も年頃なのだと思い知らされたからだ。そういう感情に疎いと思っていた。ひょっとしたら無いのかもしれないと思っていたほどだ。完璧な人間だと思われたが、可能性としてそういう部分的な感情の欠落があるとは予測されていた。だが、明斗は完全な人間だ。クローンだが、それでも完全なる人間なのだ。
「同じ学校、だよな?」
塾にも行っていない明斗が接触できる女子は学校に限定される。だから明斗も頷いた。
「はぁ・・・・まぁ、正直に言うと、今日の女子短距離の優勝者だよ」
その言葉を聞いた麟は一瞬だけ怪訝な顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。明斗はその怪訝な顔を天音の顔を思い出せなかったせいだと思ったが、実際は違う。あの木戸天音だったからだ。
「そうか・・・可愛い子だったな。頑張れ」
そうと言い、燐は席を立ってトイレに向かった。そうして個室に入り、閉じた扉にもたれかかる。
「よりもよって木戸、か・・・・・遺伝子が引き合うのか?それとも、そういう運命なのか?」
うなだれるようにそう言い、麟は薄く笑った。
「戦うべき遺伝子、1つに戻りたいと願う遺伝子・・・結局、血の宿縁には逆らえない、か」
遺伝子が運命を決める、そういう考えからそっちの分野に進んだ麟にとって、明斗と天音の恋の行く末はその結論に至るものを持っているのかもしれない。だが、それを認めたくはなかった。息子の人生を遺伝子というものだけで決めつけたくはないのだから。
「因縁が、すべてを解決してくれることを願おう」
そう言い、運命に全てを託した。だから燐も腹を括る。陸上という未来は奪ったが、明斗そのものの未来を守るために。
*
明斗と天音の優勝という偉業の裏で明斗が突然の引退宣言をし、品川はもうどうしていいかわからない状態だった。2年連続で男女共にインターハイ出場者を2名輩出したその手腕はかなり評価されていたが、明斗の引退の意志を感じ取れなかったことは学校から大いに失望されている。出世とかに興味はないが、給料が減るのは勘弁してほしい。勿論、減るはずもないのだが、それでも監督としての評価は落ちてきていた。だから昼間からビールを飲み、ただゴロゴロする日々。夏休みとはいえ仕事はあるが、今はする気になれなかった。
「大崎先生をデートに誘うはずだったのになぁ」
2人の優勝を餌にデートに誘う予定だったが、その気力もない。ため息しか出ない品川はなくなったビールを買うためにいそいそと着替えをすませると近くのスーパーに向かおうとしてその足を止めた。
「どうせなら、他にも買うか」
ボーナスも手つかずで残っているため、ここは憂さ晴らしに買い物しようと家に戻って小奇麗な格好に着替えて近くのショッピングモールへと向かうのだった。そんな自分を離れた場所から見つめる目があることに気付くこともなく。
*
優勝したのがそんなに偉いのかと思うが、偉いのだろう。祝いにケーキを買って来いと言われ、指名されたケーキは天音が気に入っている瀬尾三葉の母親が経営している店のものだった。電車を乗り継いでまで買いに行く必要があるのかと思いながらも、久々に三葉に会いたいと思っている自分もいた。浮かれている、そういう自覚をしかけた矢先に背後から声をかけられた天都はゆっくりと振り向いた。
「どこ行くの?」
可愛い笑顔がそこにあった。白いワンピースを着て、小さめの麦わら帽子を被ったその姿は天使のように思える。ただ、それは自分の知っている結城七星とは少し違った印象を受けている。その違和感の元に気付いた天都の顔がみるみる驚きに変化していった。あの長かった髪が肩の上で切られており、かなり短くなっていたからだ。色も黒だったのに濃い茶色になっている。その表情と視線から恥ずかしそうにした七星は切った髪に触れつつはにかんだような笑みを浮かべて見せた。
「あ、これね、暑いし、気分転換に切ったの」
「気分転換?」
ずっと、出会った時から長い黒髪だったのを、今になって何故気分転換で切れるのか不思議だ。そんな顔をしている天都に困った表情を浮かべ、七星はそっと天都に体を寄せた。いい香りにぼーっとなりつつも、周囲を窺うようにしている七星を見る。
「ちょっと時間、いいかな?」
すぐ近くでそんな可愛い声でそっと囁かれては頷くしかない。ケーキは夕方までに買えばいいと、天都と七星は駅前のドーナツ店に入った。飲み物とドーナツを買って席に着くが、七星の意向でトイレの前の一番奥に座った。どうやらあまり他人に聞かれたくないような話らしい。これで薄々感付いてはいた。だが何も言わずにもじもじした七星から話すのを待ち、アイスコーヒーを一口飲んだ。
「あの、ね・・・・・実はね、下村君にね・・・・告白、したんだ」
言いにくそうにしながら、それでもちゃんとそう言う七星は少し赤い顔をしている。それを聞いた天都は分かっていても、その内容にコーヒーを噴き出しそうになった。それをどうにか堪え、口の中のコーヒーをゴクリと大きく飲みこんで平静を装う感じで頷くだけ。実際は心臓がバクバクと大きな音を立てていた。
「返事はね、その、ダメでした」
言いづらいことなのに、それでもがんばって笑みを浮かべながら話す七星が愛おしいと思う。七星はプールの帰りに告白したこと、振られたことを天都に話して聞かせた。その勇気に感心しつつ、それでいてフリーになった七星に内心で歓喜している自分も自覚する。最低だとわかっていながら。
「そっか」
「応援してくれたのに、ゴメンね?」
そう言って謝る七星を見て胸が痛んだ。自分は何もできていない。応援なんて出来なかったからだ。なのにきちんと報告して謝る七星にただただ胸が痛む。七星は薄い笑みを浮かべて愛らしい口でドーナツを食べる。そんな七星を見た天都は明斗の言葉を思い出した。
『俺も頑張るからお前も頑張れ』
確かに明斗は頑張った。天音をデートに誘い、そしてその条件をクリアして見事にデートに漕ぎ着けたのだから。だから自分も頑張りたい。明斗が優勝した時にデートに誘うと決意したのだから。いや、それよりもただ今は七星の気分転換に全力を注ぎたい。
「どっか行こうよ。明日か明後日か」
「え?」
「夏だし、気分転換しよう?僕、応援するって言って何もできなかったし、せめてそれぐらいはしたいから」
「で、でも・・・」
「七星ちゃんの行きたいところ、行こうよ!」
その言葉と優しい笑みに七星は困った顔をしつつ頷いた。
「行きたいところ、決まったら行こう?それでいいからさ」
「うん・・・・・じゃぁ、そうしよっか」
「ラインくれたら、いいから」
「うん」
七星のアドレスは知っていても自分からラインをすることもなく、七星から来ることもなかった。だからか、こういう接点が持てたことは素直に嬉しいと思う。ただ、それも七星が明斗に振られた結果だと思うと複雑ではあったが。とにかく、デートの約束が出来たことが嬉しい。
「じゃぁ、明後日で。場所は明日までにラインするから、ね?」
そう言って微笑む顔が可愛いと思う。何より、その短めの髪形もよく似合っていると思えた。その後は天音の優勝や、明斗の突然の部活終了宣言について話し合った。家庭の事情、そうとしか説明されておらず、新聞でもその才能を惜しむ声、バッシング、同情的な意見と分かれているようだ。
「でも、天音ちゃん、凄いよね」
中学時代は3年間、空手の女子王者として君臨し、高校では陸上で頂点を極めている。その才能も世間ではかなり認められており、雑誌などで特集が組まれるほどの人気になっていた。なにより運動が出来て美人という点で男子からの人気がうなぎ上りのようだ。もっとも、同じ学校の男子はあの性格を知っているために多少の人気の上昇がある程度で落ち着いているが。
「運動バカだからね」
「天都君も運動すればよかったのに」
「僕は、そういうの苦手だし」
「でも本当は凄く強いんだよね?」
その言葉にコーヒーに伸ばしかけた手が止まる。それを見た七星は左手を口に添えてしまったというような顔をしたが、もう言ってしまったことは覆らないためにそのままの状態でそっと目だけを逸らした。
「前に天音ちゃんから聞いたの・・・・天都君は強かったって。でも、今はもう、強くないって」
「そっか」
そう言って何とか微笑むのが精いっぱいだ。
「どうして弱くなったの?練習はしてるって、そう言ってたけど」
天音からその理由は聞いている、だが、天都の口からはっきりと聞きたかった。そうしないと、自分の中のしこりが解消されない気がしていた。
「・・・・技は使う人の心で強くも弱くもなるんだ。自分がどんなに強くても、相手が弱くても、戦うことを怖がった状態で戦っても勝てないのと同じ」
「そう・・・なんだ」
今一つ理解できないが、ニュアンスは伝わった。
「僕は、人を傷つけたくない。たとえそれがどんな悪人でも。だから僕は弱いんだよ」
そう言って微笑む天都に困った顔をするしかない。だから自分を助けなかったのかと思い、かといって天音がいなければ助けてくれたのだろうと思う。だから心のしこりが少し大きくなるのを感じる。その理由は明白だ。
「瀬尾さんは・・・・瀬尾さんの時は?」
「え?」
「相手を傷つけたの?」
意地悪だと自分でも思う。三葉は助けて自分は助けなかった、その事実がまだ七星の中でしこりとなって残っているからだろう。大きくなってきたそのしこりをどうにかしたい、だから意地悪と分かっていてもそう口にしてしまう自分がいる。
「まぁ、そうなるね・・・必要最低限だったけど、それでも・・・・・・・嫌な気分だった」
その一言に重みを感じる。だから七星はテーブルに頭が着く勢いで謝罪をする。
「ご、ごめんなさい・・・・私、意地悪で・・・・ごめんなさい」
その震える言葉にハッとなり、天都はあわてて立ち上がると七星に顔を上げさせる。
「こっちこそ・・・・七星ちゃんを助けなくてごめん」
「ううん」
少し涙ぐんだ七星を見て苦笑し、そっとその頭に手を置いて優しく撫でるようにしてみせた。無意識的にそうしていたせいか、ハッとなってすぐに止めたものの細かい髪の感触はずっと右手に残っている。
「今度は助けるよ、絶対に、何があっても」
「うん」
少しだけ笑顔を見せてくれたことにホッとし、天都は席についた。その後は宿題の事などを話してから店を出る。結局1時間ほど話し込んでいたようで、店を出るころには暑さのピークを迎えていた。麦わら帽子を被り、笑顔になった七星がそっと天都の二の腕を掴んだ。
「じゃぁ、明日には連絡するね?」
「うん、待ってる」
まるで付き合っているかのような錯覚すら覚える中、七星は笑みをそのままにそっと腕を離した。抱きしめたくなる衝動を何とか抑え、天都もまた笑顔になった。
「じゃぁね」
「うん、ばいばい」
七星は可愛い笑顔を残し、手を小さく振って去って行く。その可愛い後ろ姿を見つつ、いつかは自分の想いを届けたいと思うものの失恋して間もない彼女にそれはまだ酷かなと思う。でも必ずいつかは伝えたい。この好きな気持ちを。
*
「相変わらずの人気、だなぁ」
店には列が出来ている。平日の午後3時だというのになんでこの店はこうまで人気があるのだろうか。確かに美味しく、甘さも程よくバランスがいいと思う。天音などはここのケーキ以外は食べたくないと言ったほどだ。だからといってこうまで繁盛する理由がわからなかった。テレビや雑誌で紹介されたわけでもないのに。そう思いながらも最後尾に並び、それから汗を腕で拭った。とりあえず七星とのデートは確約され、気分は上々だ。とにかく彼女の気持ちを癒す、それだけを考えようと思うものの、やはり年頃の男子だけによからぬ妄想も止まらない。そのため、進んだ列に気付かない状態だった。
「先輩、前、詰めてください」
その言葉にハッとなり、意識が現実に引き戻された。妄想の中で七星とはキス以上のことまでしていたところで引き戻されたせいか、天都の頭はまだぼうっとしている。
「ヤらしい目です」
そう言われて完全に覚醒した意識の中、腰に手を当ててじっと自分を睨むようにしている三葉に愛想笑いをするのが精いっぱいだった。
「せ、瀬尾さん・・・・あの・・・」
「詰めてくださいっ!」
ずいっと顔を近づけてそう言う三葉の口調はきつい。天都は素直にそれに従い、店の入り口まで進んだ。どうやら順番は次のようで幸いにも後ろには誰も並んでいなかった。
「なんか変な妄想してましたよね?」
「え?いや、どうだろ」
「してましたぁっ!」
「・・・・はい、してました」
がっくりとうなだれてそう言う天都に三葉が笑った。
「暑さでどうにかなったのかと思いましたよ」
「それもあるかも」
「嘘だ」
「・・・・・嘘、かも?」
「疑問形は変です」
そう言ってくすくす笑う三葉が可愛く見えた。ついさっき七星に会ってときめいたところでこれだ。自分で自分がダメだと思った。そうしていると順番がやってきたためにカウンターの前に立った。
「あ、来たな、少年!」
「木戸先輩です!」
三葉の訂正に苦笑し、パティシエ姿の母親、京子は肩をすくめてみせた。そんな京子に笑みを返し、ケーキを5つ頼む。どれも美味しそうで、新作もその中に入れた。
「そういえば、天音先輩優勝でしたね?」
三葉がケーキを箱に詰めながらそう言い、天都は黙って頷く。
「優勝?」
「陸上の100メートル走でインターハイに出て優勝したんだよ!凄いよね!」
まるで自分のことのように嬉しそうにそう言う三葉に笑みを返し、京子はレジを済ませた。ケーキを詰めた箱に保冷剤を入れる三葉を見つつ、京子は娘の左手の小指を見て、それから天都の左手の小指を見やる。そうしてにんまりと微笑んで腕組みをしてみせた。
「少年、いやキッド・・・来週の12日は暇かい?」
「キッド?」
三葉がそう言い、天都も怪訝な顔をしている。
「木戸だからキッド。で、どうなの?」
どういうあだ名だと思うが何も言わず、ただ頷くだけの天都を見やった京子は満足げに頷いて見せた。
「じつはこの子が長野の知人の家までお使いに行くんだが、1人じゃどうにも心配でね。キッドは強いみたいだし、ボディガードにどうかと思って」
「1人で行けるって!」
その提案を無視するようにそう言う三葉を見ず、京子はただじっと天都を見つめている。
「別にいいですけど」
「おお!さすがキッド!旅費はこっちが持つからさ」
「いいんですか?」
「いいって!」
豪快にそう言う京子に苦笑し、それから三葉を見ればどこか困ったような不満そうな顔をして2人を睨むようにしている。
「1人で、行けるのに」
そこには複雑な乙女心が覗いているが、天都はそれに気づいていない。結局、詳細は三葉経由でということになり、次のお客さんが来たために天都は礼を言ってから外に出た。暑い気温だが、空にはどんよりと灰色の雲が全体的に広がっていた。さっきまでは晴れていたのに。
「夕立、来そうですね」
「そうだね」
「じゃ、長野の件、よろしくお願いします」
そう言って小さく頭を下げる三葉の表情ははにかんだものに変化している。思わずドキッとした天都だが、こちらこそと笑顔を返した。
「ケーキ、また買いにくるよ」
「はいっ!是非っ!」
そう言って手を振る三葉に手を振り返し、天都は少し速足で駅へと向かう。徐々に浸食してきた黒い雲が今にも豪快に夕立を降らせそうだからだ。そんな天都を見送り、出ていくお客にありがとうございましたと声をかけて店内に戻った三葉は自分を見てニヤニヤしている京子を無視してレジの前に立った。
「余計なことした?」
半笑いの言い方がムカッときたが、三葉は何も言わずにただ前を向いていた。
「素直になればいいのに」
「素直に1人で行けます」
「一緒の方がいいじゃん?」
「届け物ぐらいでボディガードとか・・・・」
「あんたの気持ちも届けてきなよ」
その言葉に赤面した顔を京子に向けたが、京子はニヤニヤしたまま奥に引っ込んでしまった。自分の気持ちを見透かされていることも腹立たしいが、かといって余計なおせっかいも腹立たしい。
「届かない想いなのに・・・・できるわけない」
そう小さく呟く声は、急に降り出した雨の音の中でもはっきりと京子に聞こえていた。
「障害が多いほど、恋は燃える、か」
そう言い、京子は自分の左手の小指を見つめる。そこにあるのは途切れた赤い糸だ。だからか、京子は苦笑して仕事に戻った。途切れてもなお残るその赤い糸を大事にしつつ。




