天使のウィンク 5
明斗との邂逅を経て、30分でプールを後にした。ここはやはり危険だと判断し、心の運転で少し離れた場所にあるカフェテラスへと移動したのだ。まだ乾ききっていない髪が可愛く思える。進は助手席に座りながら、そんな心の横顔を見つめていた。
「なぁに?」
その視線を受けて心が目だけを動かし、恥ずかしそうにそう言った。
「先生ってさ、なんか可愛いよな」
思わずハンドル操作を間違いそうになるほど動揺するが、嬉しくもある。だからか、心は赤信号で停止してから深呼吸をし、それから進を睨むようにしてみせた。
「もぅ!大人をからかって!」
「どこが大人だよ・・・俺がいなきゃ夜中にトイレに行けないくせにさ」
「そんなわけないでしょう!」
「例えだよ、例え!」
「どういう例えよ、もぅ!」
頬を膨らませる心のどこが大人だと思いながら、進は青信号を指差して車を進めるよう促す。心はそんな進を睨みながらも運転に集中するよう意識を向けた。そうしてろくな会話もなくテラス近くの駐車場に車を止めて歩いた。そっと進の腕を掴みかけた手を戻すのを見た進が小さく微笑みを浮かべて見せる。
「腕組めばいいのに」
「さすがに、なんか・・・・抵抗が」
「何をいまさら」
夏の暑さではない顔の赤らみを見た進は心の手を握る。あわてる心を無視して進はうねうねと指を動かし、いわゆる恋人繋ぎに変形させていった。
「誰かに見られたらどうするの?」
「誰かって?」
「生徒とか、先生とか・・・保護者とか」
「まぁ、普通に先生が解雇になるだろうね」
「それは困るよ」
「そうだな」
本気で困る心にそう言う進は悪戯好きの小学生のように笑った。童顔なせいか、本当に小学生に見える。困りながらも嬉しい自分が情けないものの、かといって振りほどく勇気もない。
「今日だけはこれでいいじゃん」
「今日だけか・・・」
落ち込んでいいのかはわからないが、少し落胆した声に進が笑った。どんなに好きでも報われない天音よりも自分を好いてくれる人に心が動いた結果なのかと思う。いや、確かに天音を好きだった、それは間違いない。なのに今は違うとはっきり言えた。頼られているからか、弱ったところを見られたせいかはわからない。それでも、自分は心といることが楽しいと自覚出来ていた。だったら、自分はこのまま楽しい方でいいと思う。
「さすがに休日にこうしてデートする場合は偶然居合わせたようにしてればいいよ。でも、近場じゃなかったら、それはそれでこうしてればいいんじゃない?」
そう言い、繋いでいる手を軽く持ち上げて見せる。心はそんな進の言葉に素直な笑みを浮かべて見せた。本当のことを言えば、今日でこういう関係はおしまいにしようと思っていた。ただ、それを言い出す勇気がもてなかっただけだ。7つも年上の自分が進をずっと拘束出来ないと分かっている。自分が30歳になった時、進はまだ23歳なのだから。
「デート、してくれるの?」
「そのつもりだけど、嫌なんだ?」
これまた悪戯っ子ではなく、いじめっ子のような笑みを浮かべた進に体を密着させた心が満面の笑みを浮かべて見せる。
「嫌じゃないもーん!」
心のこういう子供っぽいところを好きになったのかもしれないと思う。だが、まだその気持ちは口にしない。何故ならば、自分の中でまだ天音が好きだという気持ちがわずかに残っているからだ。それが完全に消えた時、告白すればいいと思っている。今はただこの気持ちに正直に生きようと思っていた。そしてそれは心も同じである。生徒を好きになるというありえない状況だが、今はこの関係を保ちたいと願っている。真夏の入道雲が青い空に真っ白な存在感を見せつけている。この夏は特別な夏だと思う2人はそのままくだらない言い合いをしつつカフェの中に入って行くのだった。
*
午後3時になり、プールから上がることになった面々は流れるプールのゾーンから通常のプールのゾーンへ移動する。天都は七星や三葉と話しながら歩き、明斗は野乃花たちと並んで歩きつつも相槌を打つ程度だった。時雄は里奈とイチャついていて周囲からは浮いている状態だ。そうして更衣室まで移動して着替えていく。
「時雄はあの山下って子と付き合うの?」
天都がTシャツに着替えつつそう聞けば、水に濡れた髪を掻き上げる明斗もまた目だけで時雄を見ていた。その時雄は鼻を膨らませながら得意げな表情を浮かべ、上半身裸にジーパン姿のまま腕組みをしてみせた。部活での日焼けのせいか、白いTシャツを着ているように見えるのがどこか可笑しかったが。
「もう付き合った。あんな可愛い子が俺に夢中なんだぜ?付き合わないわけないじゃん!」
高らかにそう宣言する時雄に対し、明斗は何も言わずただ黙々と髪の毛を拭いている。天都も濡れた水着をビニール袋に入れて帰り支度を進めていった。そんな2人を見下すような顔をする時雄。
「おいおい嫉妬かよ・・・・まぁ、存分にしろよな」
友達の縁を切りたくなる発言だが、舞い上がっているのもわかる。だからあえて無視をしたのだ。そうして3人は着替えを終えて更衣室を出る。そして着替えの遅い女子を待ちつつ、外の日陰にあるベンチに腰かけてジュースを飲んだ。浮かれて鼻歌を歌う時雄を横目で見ていた明斗が持っていたジュースを飲み干して、それから顔を時雄へと向けた。
「木戸さんは、もういいのか?」
珍しく感情のこもった声に天都もそっちを見やる。いつも無感情な明斗にしては、恋愛関係の話に食いついてくるのが珍しすぎたからだ。
「脈ないしな・・・それに、あいつには好きな人がいる。だから俺は友達なんだよ、ずっと。里奈に告られて、それで付き合ったわけだけど、だけど、いっぱい考えたことの結果なんだ」
そう言い、時雄は天都に天音の調査結果を聞いてからのことを話し始めた。部活で時々話す中で、それなりにアピールはしていた。そして夏休みを一週間前に控えた日、天音は話の流れでこう言ったそうだ。
「あんたとは話していると面白いけど、それ以上の関係は期待しないで。私は好きな人いるしね」
黙り込んだ時雄に少し小さめの笑みを見せ、それから時雄に右手を差し出したのだという。
「でも、友達だから・・・あんたを結構気に入ってる、友達としてね」
そう言い、天音はウィンクをしたそうだ。その可愛い顔に惚れ直しつつ、だからこそ告白をした。ずっと好きだったと、でも諦めると。
「ありがとう」
そうとだけ言い、はにかんだ笑みを見せた天音に時雄は笑顔になれたのだそうだ。好きでよかった、そう思える笑顔だった。
「だから俺はもう吹っ切れた。ま、今日も多少はぐらついていたけどさ、でも、だからこそ里奈と付き合う。忘れるためじゃない、あいつが俺を好きにならなかったことを後悔さすためにな」
そう強がって言う時雄がどこか大人っぽく見える。しかしそれは一瞬のことで、プールの出入り口から出てきた里奈を見てとろけそうな顔をしてスキップをする時雄に苦笑を禁じ得ない。だが、ちゃんと答えを出してから次に進んだ時雄を尊敬してしまう。七星は明斗が好きで、自分は七星が好きだ。三葉からは好意を寄せられていて、それを理解していながら宙ぶらりんの状態にしている自分とは違うのだ。
「あいつを少しだけ見直したよ」
そう言って微笑む明斗を見ず、天都は頷いていた。だからこそ、はっきりさせなくてはならないのだろう。今の現状を、これからのことを。
「明斗はさ、七星ちゃんのこと、どう思ってるの?」
時雄と里奈を見て苦笑している三葉を見つつそう口にする。答えなどわかっているが、だからこそ本人の口から直接聞きたい。
「ただの同級生だ」
「そっか」
「お前はどうするんだ?」
その言葉の意味を知り、天都は口元の笑みを消した。
「僕は七星ちゃんが好きだよ・・・・・でも、瀬尾さんに好かれて喜んでいる自分もいるんだ」
素直に心情をそう口にした天都に好感を得たのか、明斗の口元に優しい笑みが浮かんだ。
「七星ちゃんに振られたから、瀬尾さんにってのは間違ってるもんね」
時雄のお尻を蹴りあげる天音を見つつそう言う天都の方を見て、それから自分も同じ方へと顔を向ける。
「俺は多分、お前の妹に恋をしている」
「うん」
それらしいことを聞いていたせいか、分かっている。だからといって天音の気持ちは翔にあり、いくら明斗がイケメンで成績優秀、運動神経抜群でも敵わない相手だろう。それほどまでに佐々木翔という男は完璧なのだから。
「俺も頑張るから、だから、お前も頑張れ」
意外な言葉に目を丸くし、その顔を明斗に向けた。明斗は優しく微笑みをたたえたままで天都を見やる。
「無駄な努力はしない性質なんだが、木戸天音に対する気持ちは好意だと自覚した。殺意めいた気持ちもあるけど、それは恋の裏返しなのかもしれない。人を好きになったのは初めてのことだからな」
「そっか・・・・・お前が義理の弟になる未来は正直キモいけど、でも、僕も頑張るよ」
そう言って微笑む天都に、笑顔のままの明斗の目が悪戯っ子のように光っていた。
「どっちに、だ?」
「え?」
「7か、3か」
近づいてくる女子たちを見たせいか暗号めいた言葉になる。その意図を読み取っている天都は苦笑し、それからベンチを立った。
「どっちも、かな」
「贅沢なヤツ」
「自分の気持ちも、7:3なんだよ」
そう言って笑う天都に明斗も笑った。そんな明斗を見て頬を赤らめる七星だが、今日告白する勇気は溜めこんでおり、この後でそれを実行できるように頑張ろうと意志を固めたのだった。
*
その後はゲームセンターでひとしきり遊んだせいか、もう先輩後輩もなく皆が仲良くなっていた。泳いだせいかお腹も空いていたので5時半に早めの夕食となってファミレスに入る。わいわい騒ぐ中で里奈と時雄が遅すぎる交際宣言をして冷ややかな拍手をもらうなどしたが、それなりに盛り上がっていた。天都は隣に座っている七星からするいい香りにクラクラしつつも頑張って会話を弾ませる。勿論、斜め前に座った三葉とも盛り上がっていた。七星は離れた位置に座る明斗をチラチラ見つつ、今も勇気を溜めこんでいる。そうして食事も終わって解散となった。駅で別れたが、違う路線となるメンバーと別れて残ったのは木戸兄妹、明斗、七星、そして三葉の5人だ。そうして駅のホームに降りたところで天音が天都の肘をつっついた。
「あんたは七星を送って行きなさいよね」
「あ、うん」
珍しく気を利かせる天音に驚く天都だが、次の明斗の発言にもっと驚いてしまった。
「俺が送って行くから、お前は瀬尾さんを」
全員の目が点になる。あの明斗の言葉とは思えなかったからだ。だが天都には分かっている。明斗はけじめをつけるのだろう。七星の気持ちを断ち切ろうとしているのだ。そして七星もまたチャンスだと思っていた。溜めに溜めた勇気を使う時がきたのだから。三葉も嬉しいような複雑な気持ちだ。送ってもらえるのは嬉しいけれど、それは天都にとって七星の代わりにすぎないのだから。
「じゃぁ、私は誰が送ってくれるわけぇ?」
おどけたようにそう言う天音に、明斗が真顔を向けた。
「送って行く理由がないけど?」
「一応女の子だし、暴漢とか痴漢に遭うかもしんないじゃん」
「それは心配だな、暴漢やら痴漢やらの命が」
珍しい明斗の冗談に目が点になってしまう。けれど天音は小さく微笑むとずいっと明斗に迫った。
「初めてだよ、あんたに好感を得たのは」
「光栄だね」
そう言って不敵に微笑む2人がどこか怖いが、明斗は明斗なりに頑張っているのだろう。だから、自分も頑張ろうと思う。天都は自分を見ている三葉に送って行くよと言い、三葉は黙って頷くのみ。天音はそんな2組の男女を見つつ、どこか複雑な心境を抱えたままでホームに入って来た電車の方へと頭を巡らせるのだった。
*
駅を出ればすぐにそのマンションが目につくせいか、三葉はマンションの入り口まで送ると言った天都に遠慮していた。だがいつもよりやや強引に押した天都に根負けし、三葉はその好意に甘えることにしたのだった。
「偶然とはいえ、楽しかったね?」
「そうですね、ビックリしましたけど」
そう言って屈託なく笑う三葉を可愛いと思う。こんな子が自分を好いているなど、他人からすれば羨ましい限りだろう。だが、自分はその好意をどうしていいかわからない。助けたことの事実すら曖昧にしているのに、それで自分を好きになった三葉に対して申し訳ないと思っているからだ。
「でも時雄には参ったね」
「里奈もあんなに男の子嫌いだったのに、なんかもう驚くばかりでしたよ」
苦笑するしかない2人だが、三葉は正直言って里奈が羨ましかった。好きになったら全力で突き進むその行動力が欲しいほどに。自分は天都を好きでいながら天都の気持ちを尊重している。プールで七星と滑り台に行くことを勧めた件といい、自分の気持ちとは裏腹な行動は心が痛んでいた。
「僕も、ああなれたらなって、そう思うよ」
「結城先輩、いい人ですよね」
七星の名前にドキッとしつつ、やはり筒抜けかと思う。プールでのあの発言とウィンクからして、それが分かっていたからだ。
「そうだね」
「応援しますよ?」
どうしてそう言えるのかと思うが、自分もそうだったと苦笑した。そんな天都の苦笑を見て暗い顔になった三葉が黙り込み、少し顔を伏せがちになった。
「応援はいいよ・・・でも、自分の気持ちがどうなのか、はっきり見極めたい」
その言葉に三葉が顔を上げた。微笑む天都に戸惑うしかない。
「僕は七星ちゃんが好きなんだ」
そうはっきり言われた三葉は微笑むが、それは顔がそう形を作っただけの状態である。心は笑っておらず、むしろ泣いている。
「でもね、瀬尾さんのことも気になってる自分がいるんだよ」
心の泣き顔が止まった。今、天都は何と言ったのか。そんな間抜け面をしている三葉に微笑みを強くした天都は素直な気持ちを口にした。それが三葉に対して失礼なのはわかっている。けれど、本人を前にそう言わなければずっと前には進めないからだ。
「自分でもよくわからない。七星ちゃんには好きな人がいる。僕じゃ敵わないような人だからね。でも、だからって諦めたくはない、はずだった。瀬尾さんと仲良くなるまでは」
「え・・・」
どう言っていいかわからず混乱するばかりの三葉の足が止まった。天都も立ち止まり、そんな三葉を見つめる。
「瀬尾さんに出会って、仲良くなって、凄く居心地がいいんだよね。僕と合うっていうかさ。だからこそ、ちゃんとしなきゃって・・・僕はどうすればいいのか。さっさと七星ちゃんに告白して振られるのがいいんだけど、だからってすぐに瀬尾さんにってのも違うと思う」
真面目な天都らしいと思う三葉の表情が緩んでいく。
「だから、はっきりさせなきゃなって」
微笑む天都に自然に笑みがこぼれる。そんな三葉は、そっと天都のTシャツをつまんだ。
「待ってますから、ちゃんと答え出るまで待ってます。それがそんな結果であっても、絶対に伝えてください。先輩の口から、先輩の言葉で」
その顔が可愛くて思わず抱きしめそうになるが、そう出来ないのが天都だ。
「うん」
そう言う天都に微笑み、三葉はつまんでいた手を離した。そうして残り少ない距離を無言で歩く。きっと自分は振られてしまう、そんな予感があった。今日一日見ていてわかったのは、七星の気持ちが揺れているということだ。だから、尚の事そう感じていた。それでも、それを天都の口から告げられるその日まではこうして仲良くしていたい。積極的にならず、今まで通りに。それでいい、そう思う三葉を夏の夜の優しい風が吹き付け、その短めの髪を揺らすのだった。
*
夢のようだと思う。いや、実際に夢や妄想の中でこうして一緒に並んで歩いていたことはあった。だが今は現実だ。好きな人が自分を送ってくれている、それが無性に嬉しかったけれどその反面、これからの告白のことを考えてますます緊張してしまった。でも神様がくれたこのチャンスを生かしたいと思う。たとえ振られる結果でも、自分に自信をつけたかった。自分の気持ちをはっきりさせたかった。高級住宅街であるこの辺は治安も行き届いているし、自警団も頻繁に見回りしていた。数年前に空き巣が連続していたためだが、以降はめっきりその数も減らし、今では平穏だった。だから七星はいつもこうして1人で夜道を歩いていても平気なのだ。防犯ブザーも持っている。静かな夜道を歩く2人に会話はない。いや、会話はこれから始まるのだ。
「あの、さ」
か細い声でそう言うが、周囲が静かなために明斗は七星の方へと顔を向けた。それを見た七星は顔を真っ赤にし、俯いてしまう。心の中で頑張れと何度も自分を奮い立たせ、七星は少しだけ顔を上げて立ち止まった。それに呼応する形で明斗も立ち止まる。
「ずっと、下村君のことが好きでした」
心臓の鼓動に押される形でそう告げる。吐きそうになりつつ、それとは裏腹に冷静な自分もいたが気にしない。
「入学式の時に、一目惚れして、それからずっと・・・・」
頑張って明斗を見つめてそう言った。明斗はただの一度も目を逸らさずにそれを受け止める。眩暈がしそうな中、顔が真っ赤な七星は震える足でどうにか立つことが出来ている状態だった。
「そうか・・・・でも、ゴメン」
予想通りの言葉とはいえ、やはり心が痛んだ。その心が悲鳴を上げていると同時に足の震えが大きくなっていく。知らず知らずのうちに涙が流れていた。それを何度も何度も拭い、それから再度明斗を見やった。
「だよね・・・わかってた。でも、言いたかったの」
そう言いながら微笑む七星の顔は涙でぐしゃぐしゃだ。明斗はポケットからハンカチを出すとそっとそれを差し出した。七星はためらいながらもそれを受け取り、それから涙を拭いていく。その間も黙ったまま待っている明斗を見やった七星の顔はどこかすっきりしたようにも見えた。
「ありがとう。好きになられてこうして何度も告白されたことはあったけど、ここまで気持ちが入った告白は初めてだったら、嬉しいと思ってる。気持ちには応えられないけど、な」
困った顔をしつつはっきりとそう言われた七星の頬を涙が伝った。それをハンカチで拭うと、七星はそのハンカチをぎゅっと握った。
「このハンカチ、もらってもいい?」
「ああ、いいよ」
「ありがとう」
七星は笑っていた。それは素直な笑みだ。だからか、明斗も少しだけ微笑みを浮かべる。そんな明斗を見た七星の口から自然と言葉が出ていた。
「天音ちゃんが好きなの?」
ずっと明斗を見ていたからこそわかる。それでも確信は持てなかった。だからそう聞いたのだ。口にした七星も驚いたが、明斗もまた驚いている。だが、しっかりと頷いている明斗を見て微笑みが濃くなった。
「多分、好きだと思う・・・・今までこんな感情持てなかったから、よくわからないけど、俺は多分、彼女に恋をしている」
「え?今まで好きになったこと、ないの?」
「薄いのかもしれない、そういう感情が」
「そっか、初恋が天音ちゃんかぁ」
「初恋は実らないって言うが、頑張ってみようと思ってる」
苦笑する明斗に優しく微笑み、そして七星はハンカチを握った。
「応援はできないよ?」
「俺を好きだと言ってくれた人にそうさせるほど、俺は鬼畜じゃないよ」
困ったようにそう言う明斗を見てくすくす笑う七星に、明斗も小さく微笑んだ。そうして再び歩き出す。緊張もなく、ショックはあれどどこか気持ちは晴れていた。家の前まで来た明斗は七星の家の大きさに再度圧倒される。やはりお嬢様なのだと実感し、天都とは不釣り合いだと思ってしまうほどに。
「送ってくれてありがと」
「いや」
「じゃぁ、これからも友達でいいよね?」
「変な話、友達だとも思ってなかった・・・・でも、今日からは友達だから、話もするけどいい?」
友達未満だったのかと落ち込むが、それを正直に口にした明斗が好きだった。友達以上の関係にはもうなれないだろうが、それでもいいと思う。
「うん、よろしく」
そう言う七星が右手を差し出し、明斗がそれを握って握手をした。微笑み、そしてお別れを言って明斗はその場を立ち去った。角を曲がるまで手を振った七星の頬を自然と涙が流れ落ちる。明斗のハンカチでそれを拭い、深呼吸してから家に入った七星は今夜だけだと決めて、ベッドに転がって泣いたのだった。
*
今日も残業で遅くなる。毎日毎日、夜9時まで働いても体を壊したことがないのが自慢だった。その反面、息子の明斗に苦労をかけているという負い目もある。小さなラーメン屋で夕食を済ませて自宅のアパートに向かう下村麟は不意にその足を止めた。電柱にもたれて腕組みをしている男から発せられる異様な気配を感じたからである。一瞬、オヤジ狩りかと思ったが、そういう気配でもない。警戒しつつ歩みを再開した麟の前に立ちふさがる形で立つその男は月光の下で不敵に微笑んでいた。
「初めまして、かな?下村さん」
「誰だね?」
「俺は木戸天空、今はそう名乗ってるんですよ・・・下村博士」
その言葉全てに戦慄が走った。自分を博士と呼ぶ人間は政府側の手の者しかいない。今は製薬会社の開発者でしかなく、博士ではない。そして何より驚いたのはその名前だ。木戸という苗字、そして自分を博士と呼ぶこの男は自分にとって危険な存在でしかない。そう、明斗にとっても。
「いや、あんた的にはこう名乗った方が分かりやすいかなぁ?」
そう言い、一歩進んだ天空に身構えるが、次の言葉を聞いてその構えは砕け散った。
「プロト・ゼロ」
ドクンと心臓が大きく跳ねる。それほどまでに衝撃的な言葉だ。もう20年近く前になる忌まわしい記憶が鮮明に蘇ってきた。
「ああ、それと息子さんも見ましたよ・・・・アレ、確か・・・・『プロト・ワン』ですよね?」
体が自然と震えていた。もうすべてが終わったと思う。これまでの平穏だった日々もこれで終了なのだと覚悟を決めた矢先、天空は小さく微笑んでさらに麟に近づく。それでも明斗だけは守らなければと思考をこらすものの、光りは見えてこない。それほどまでに巨大な組織が敵なのだ。
「破棄されたはずの『プロト・ワン』が息子ですかぁ・・・・ああ、でも、これ、今はまだ俺しか知りませんよ?」
その言葉が本当かどうかはわからない。だが、麟の震えは止まった。
「息子の名は明斗だ。そんな名前じゃない!」
「そうですよね。わかってますよ・・・・全部、ね」
含んだ言い方に嫌悪感を禁じ得ない。だが、この天空の話を聞くだけ聞こうと心に決めたせいか、どうにか頭も冴えてきた。
「全部?」
「俺は人のクローンが作れるかどうかの実験体だ。通常、かつて実験的に生み出されたクローンに生殖機能はなく、それを実現させるための試作0号人間、プロト・ゼロ」
この男は自分の出自を知っている、それが麟には恐ろしい。なら、彼は知っているのだろう、自分に待つ運命の末路を。
「寿命も恐ろしく短いし、細胞も不安定・・・・でも、息子さんは人間だ。完璧なクローン人間」
麟は座った目で天空を見据え、それから腕を組んだ。全てを知っているならば、何故、今になって自分に接触してきたのかを考える。細胞を安定させる薬が欲しいのか、それとも成功例である明斗を殺しに来たのか。はたまた不完全な自分を生み出した自分への復讐か。
「あいつは完全な人間・・・ただ知能と運動能力を超人にした以外は普通の人間だ」
「それが政府の望んだことだったからな」
「そう、あんたはそれに従って俺を生み、息子さんを生んだ。破棄されるはずの俺や、息子さんを救って」
実験体は廃棄が決まっていた。だが燐はそれをせず、『プロト・ゼロ』にある処置をして残し、『プロト・ワン』を連れて逃げた。いや、匿ったのだ。その死を偽装して、役目を終えて今に至る。ひっそりと生きているのもそのためであり、明斗は戸籍を操作して養子としたのだ。完璧な人間だから殺させたくなかった。神を冒涜しつつ、それでいて偽善的行為に走った結果だった。
「俺は独自に強くなった・・・・木戸百零に技を教わったのは、何も左右千だけじゃない」
戦慄の名前に恐怖する。遺伝子工学の権威だった自分は政府の特務機関に所属し、『リジェネレイト計画』の中枢に携わった博士だった。だがその計画も木戸百零こと『ゼロ』によって破壊され、その『ゼロ』は『魔獣』たちに敗れ去って回収されている。そして隔離され、薬物で洗脳された木戸百零はクローンたちの父親になった。実質は分身であるともいえるが、当時の試作型を作り上げるにはヒトの精子と卵子を必要としたために父という表現が当てはまるだろう。そう、卵子を必要とせずに細胞から生み出された完全体である『ザ・ワン』以外は。
「そうせん?そいつが・・・・『ザ・ワン』?」
「木戸左右千・・・・『ゴッド』と呼ばれる超人だ。木戸周人より強く、木戸百零よりも残忍。そして、『キング』並みの精神力・・・全部あんたが与えたものだよね?」
『プロト・ゼロ』、『プロト・ワン』を経て、卵子を必要としない完全なるクローンは完成した。それは肉体的には木戸百零であり、魂はまた別の存在だ。さらには生殖機能を持ち、遺伝子的に改良を加えた強靭な肉体と高い知能を併せ持った究極の人類としての存在。そして木戸無双流の技を持つ超人類でもある。
「私を連れ戻すのか?」
燐はもう覚悟を決めたのか、毅然とした態度を取る。そんな燐を馬鹿にしたように笑う天空はさっさと背を向けてしまった。
「今のあんたたちのことを知るのは俺だけだ。切り札にするために、誰にも言ってないよ」
「切り札?」
「左右千ではなく、俺が日本を裏から支配する。それにヤツらはアジアのチンピラ程度を倒してご満悦だからな、どのみち気づいても何もしないさ」
「明斗は守る、命に代えても」
「博士は俺にとっても恩人だ、悪いようにはしない・・・・もちろん、弟も」
そう言うと天空は高らかに笑って去って行った。今はもう彼の言うことを信じるしか道はない。引っ越そうにも必ず嗅ぎつけてくるだろうしそういう動きはかえって刺激になりかねない。政府の裏機関はそれこそあらゆる情報網を持っている。自分はもう用済みの存在でしかなく、だからこそ自由にさせてもらっているのだ。『ザ・ワン』を、ただ1つの成功例を生み出したその見返りとして。それでもひっそりと生きているのは明斗の存在を知られたくないからだ。
「明斗・・・」
せっかく人として生きている明斗を不幸にしたくはない。ただ、もう目立った行動を取らせることもないだろう。気の毒だがインターハイも辞退してもらおうと思う。話題になれば自分の元にも取材は来る。今は全て断っているし、学校側にもそれは徹底してもらっている。明斗にも真相は伏せている。しかしオリンピックに出場ともなればそうもいかない。存在してはならないもう1人の成功例などあってはならないのだから。明斗が納得しないなら、その出自を明かしてでも安全を確保する必要があるからだ。
「木戸の血め・・・・忌々しい」
吐き捨てるようにそう言い、燐はとぼとぼと自宅に戻る。こういう日が来るとは思っていたが、いざ来たら来たでこうまで決心が揺らぐのかと情けなくなりつつ、最悪の事態を考えて工場から薬品を調達することを決めた。息子を守るために、ただそれだけを胸に。




