セラミックガール 3
地区予選の結果は、まさに圧倒的だった。明斗も天音も他を寄せ付けない速さで完勝し、明日の県予選への切符をあっさり手に入れていた。特に明斗に至っては自身の打ち立てた高校記録を更新しての優勝だ。マスコミなどが群がる様子を遠くから見つつ、天都は同じように取材を受けている天音の方を見やった。体調も万全であり、明日の県大会もまず間違いなく突破するはずだ。地元のそこそこ大きな競技場の客席を立った天都はそこでふと見慣れた顔を見て顔を伏せた。どうにも苦手なその人物に関わらないように、天都はそそくさと出口に向かって歩いた。だがその人物はずり落ちる眼鏡を戻そうともせず天都を追い抜くと立ち塞がるようにして立つ。すり鉢状になった競技場の一番上、客席の通路になったそこに天都と眼鏡の女子、笠松紅葉が立っているがさして誰も気に留めなかった。女子が苦手で、特に紅葉のような性格の女は嫌いなせいか、天都は挙動不審のままおろおろした態度を見せる。何故自分に絡んでくるのかと思うものの、それすら口に出せなかった。そんな態度を見せる天都に対し、不敵な笑みを浮かべた紅葉はずり落ちた眼鏡を直しつつ、腕組みをして仁王立ちになった。天都はどうすることもできずただ俯くしかない。
「こんな遠くから見てないで、近くに行けばいいじゃない」
わざわざそんなことを言うために通せんぼをしたのかと思う。くだらない、そう思いつつもそう言えない自分が歯がゆかった。
「もう帰るし、応援ってわけじゃないし」
か細い声でそう言うのが精いっぱいだった。七星や三葉とは普通に会話できるのに、他の女子だとこうなってしまう。昔からそうだった。紅葉はそんな天都を知っているが、だからこそイライラする。こういうタイプの男が一番嫌いだからだ。勿論、天音が気に入らないこともその要因となっていた。なんでも自分の上を行く天音の出来損ないの兄、それに八つ当たりしているのだから。腕組みしたままの紅葉は侮蔑の視線を浴びせつつ、腕組みを止めて腰に手をやり、威圧的に一歩前に出た。
「あんたってば本当にキモいよね?」
そう言われても何も言えず、天都は顔を完全に伏せてしまった。
「あー、キモい」
天都はこの場からどう立ち去るかを考えつつ、何故自分が紅葉に絡まれているのかを悩んだ。接点といえば中学時代に通っていた塾が同じだった程度でしかない。話もほとんどしたことがない上に、天音とも仲が良くないこともあって疎遠だったからだ。
「あんたみたいなのが結城と普通に話せるってのがキモいよね・・・好きなの丸出し」
そう言われて泣きたくなった。反論できない自分が歯がゆい。
「だいたい瀬尾も瀬尾よね・・・こいつが女を助けられるわけないじゃん。妄想癖でもあるのかね?それともマジ助けたとか?ありえないっしょ、お前が助けるって・・・瀬尾も瀬尾だし、妄想クソ女だね。考えりゃわかるでしょ、こいつにその能力がないことぐらい。よそでやってよね、妄想ごっこは」
その言葉を終えた瞬間、紅葉に芯が凍りつくほどの怒気が全身を覆っていた。いや、それは怒気なのか。殺気も混ざり、鬼気ともいえる気配が目の前の天都からにじみ出ている。顔は伏せたままの天都に恐怖を感じている自分を疑った。相変わらず顔は伏せたままとはいえ、出ている気配がまるで別人だ。恐怖を感じる紅葉はずり落ちた眼鏡を直す余裕すらなく、ただ身震いを抑えるように自分を抱くようにしてみせた。
「僕のことはどう言われてもいい・・・キモいのも事実だと思うから」
いつもの天都の口調だが、声に感情が無い。何よりさっきよりも強い鬼気に夏の暑さからくるものとは違う種類の汗が全身に流れていくのを感じた。怖い、そう心底思える。
「でも、瀬尾さんは関係ない。彼女を助けた助けてないは関係ないよ・・・彼女を侮辱する権利は君にない」
顔を上げた天都の表情は無かった。ただ無表情で無感情なだけ、それが何よりも怖い。恐怖が加速していく中、紅葉は足が震えているのを我慢しながらそっと天都から視線を外した。それでも恐怖は収まる気配を見せなかった。
「彼女は素直でいい子なんだ。だから、今後、あのことで彼女を侮辱するような発言があったら、僕は君を許さない」
無表情のまま天都は紅葉を横に見つつ歩いて行った。そのまま出入り口に消えた天都を振り返ることも出来ない紅葉はふらふらと近くのベンチに座り込むのが精いっぱいだ。同時に心臓の鼓動が激しく鳴り響く。それは恐怖から来たものか、それともそれ以外のものから来たのかは紅葉にもわからない。ただ、今まで男子にあんな風に言われたことがないだけに、特に天都のあんな部分を見たことがなかっただけにドギマギしている自分がいた。あの天都がああまで感情を見せたのは幸か不幸か、紅葉は高鳴る鼓動に顔を赤くしていた。
「な、なによ、木戸のくせに・・・・あんな・・・・かっこいいなんて」
普段とは違う部分、とりわけ嫌っていた男子の意外な部分を見たせいか、紅葉の中の何かが変に動いてしまったようだ。恐怖も忘れたのか、ただ天都に対する新たな認識をしつつ、紅葉はここでようやくずり落ちた眼鏡を元に戻したのだった。
*
翌日の日曜日に行われた県予選大会でも無敵の強さを発揮した明斗はぶっちぎりの優勝となっていた。対する天音も優勝したものの、こちらのタイムは自己ベストには遠い状態になっていた。かといって悪い成績ではない。これで桜ヶ丘高校陸上部の男女エースが揃ってインターハイに出場を決め、あとはその結果次第でオリンピックも視野に入ることだろう。とりあえず天音は休養期間として7月中の部活は休みにしていた。帰省するのもあるが、それでも自主練習は欠かさない天音の性格を汲んでの品川の許可だった。その品川も予選の間は陸上部に集中できていたが、それ以外ではどうにも落ち着かない私生活を送っている。原因は同僚教師の心のことだ。想いを寄せている心がここ最近は進と急接近とあって気が気でない。勿論、学校で怪しい雰囲気もないために噂すら立つことがなかったものの、品川自身はかなり怪しいと睨んでいた。心の変化は些細な面でしかない。進を見つめる視線など、心という女性に恋をしている品川だから気づく面もなっただろう。だからこそ許せない。生徒になど好意を抱くなど、教師としてはあってはならないと思う。だが証拠もなく、それは品川の勝手な思い込みでしかない。しかし的外れではないその思い込みは鋭いとも言えよう。心が進を好いている証拠もなければ、そういった素振りすらない以上はこちらからどうこう出来るものではない。それこそ心に嫌われてしまっては意味がないのだから。だから、夏休み前の終業式後にある打ち上げでどうにか接近しようと考えていた品川だったが、月曜日に登校した際、用があるので今日の打ち上げは不参加だと心から聞かされ、激しく落ち込む反面、夏休みでどうにか動こうと野心を見せる。だが、これからはインターハイへ向けての準備などで多忙になるため、その野心もすぐに消えてなくなってしまうのだった。
*
天都はかなりいい成績だったが、天音は普通の成績に終わった一学期だった。それでも1年生の時に比べれば成績も伸びており、2年連続でインターハイに出場を決めたこともあって終業式の日は外食となった。子供たちのリクエストは焼き肉となり、周人と由衣は近所にある店ではなく、桜ノ宮にある高級な店に予約を入れていた。年に2度、夏と年末にはこうして家族で外食をし、いい物を食べるのが風習となっている。美味しいお肉に満足し、由衣は天海の面倒を2人が見てくれるためにゆっくりとした食事を取れていた。こういう時、母親に楽をさせてくれる天都と天音には感謝しかなかった。
「地元の新聞でも大々的に載ってたぞ、『鋼鉄の疾風少女』ってな見出しで」
周人はビールを飲みながらそう言い、嬉しそうに微笑む。その言葉にムッとした顔をした天音にその笑みを苦笑に変え、由衣がお皿に入れてくれた肉を口へと運んだ。
「もうちょっといい見出しにして欲しかったなぁ」
「まぁ、可愛げはないなぁ、確かに」
「疾風少女はかっこいいじゃない?」
天音の言葉に賛同する周人とは違い、由衣はそのフレーズを気に入っていた。
「でもあの写真、凄く生意気そうだった」
天海にジュースを渡しつつそう言う天都を睨む天音だが、パクパクとお肉を食べることは忘れていない。
「でもあの写真は母さんの中学時代にそっくりだった・・・驚いたよ」
「私、あんな生意気そうな顔してませんけどね」
由衣はそう言うとウーロン茶のおかわりをオーダーする。よく食べる天海を褒めつつ、天音はそんな由衣の顔をまじまじと見やった。進の母親のミカに比べれば劣るものの、それでも年よりも随分と若く見える。スタイルも保ちつつ、かといって化粧っ気もほとんどないのにも関わらず、由衣はその美貌を保っていた。娘としても自慢の母親であるが、そのために近所の男性から性的な目で見られていることは我慢ならない。
「俺を嫌っていた頃の母さんに、だよ」
その言葉に天音と天都が顔を見合す。今でも変わらずラブラブで、月に1度は2人だけでデートをしているこの夫婦の仲はずっと円満だ。それこそ、両方の祖父母からずっと仲が良かった話も聞かされている。だが、中学時代に通っていたさくら塾の元塾長が話す『美女と魔獣』の話では、2人の出会いは最悪だったことになっていた。勿論、その物語の主人公が両親だと知っているものの、それを口にはしない。恥ずかしいからだ。
「あんな顔してたかなぁ」
「してた」
険悪なムードもなくそう言い、周人は当時を思い出して優しく微笑む。由衣もまたそうしたのか苦笑し、和やかに食事は進んでいった。
「でも、天音は本当に母さんに似てきたよ」
「そっかな?そうは見えないけど」
「ふふん、なら将来は安定ね」
「なんで?」
「そりゃ母さんに似たらモテモテだもの」
「母さん、モテモテの前に父さんと付き合っていたんでしょ?」
「そうね・・・でもま、色々言い寄られたりはしたんだよ」
「そう」
興味がないのか天音の反応は薄い。だが実際は違った。2人の馴れ初めや、いろんな出来事は『美女と野獣』の話で知っている。だからか、天音の理想は両親だった。この両親のような家庭を持つことが天音の夢だった。勿論、夫は翔以外にない。そこでふと頭を過ったのが明斗の顔だった。何故ここで明斗なのかと頭を振り、それを振り払うために肉を頬張る。
「なんであいつが・・・」
ぶつくさ言う天音を見つつ、そこであることを思い出した周人はまだ由衣にも言ってなかったことを話し出した。みんなの意見を聞く絶好の機会と捉えてのことだ。
「あのさ、ちょっと話いいか?」
そう切り出した周人に天海以外の全員が頷く。天海はキャベツをバリバリと頬張っていた。
「父さんな、来年の人事で副社長にって話が来てる」
その言葉に全員が驚いた顔をしてみせる。学校でも父親がカムイの工場長というだけで、そこそこエリートだと思われていたからだ。それが一気に副社長となれば、そのステータスはさらに上昇する。
「断る気でいたんだが、押しが強くてね・・・常務の肩書も裏に回している俺だけど、悩んでる」
「え?父さんってカムイの常務なの?」
驚く天音に由衣が苦笑した。
「知らなかったの?」
「聞いてないし!」
工場長と常務では物凄い違いがある。天都はそういう肩書に興味がないのか、肉を食べることに集中していた。
「もし副社長になったら、通勤の都合もあって家にいる時間が少なくなる。最悪は会社の寮に入ることにもなりかねない。家は家、仕事は仕事で分けたい俺としては、ちょっと、な」
「なるべきっ!なってよし!」
立ち上がりそうな勢いの天音に苦笑し、それから天都を見やった。
「天都は?」
「父さんの好きにすればいいんじゃないかな?父さんなら上手く両方をやってくれそうだし」
「そうそう!副社長だよ副社長!私、カムイの副社長の娘ですって言いたいもんっ!」
インターハイで優勝し、来年はさらにいい成績を残す。それこそオリンピックに出ればそういうことも取材などで言えるだろう。想像しただけで胸が熱くなる。かといってオリンピックに出る気などなかったが。
「天音の肩書じゃん、それじゃ」
天都がそう言い、天音が睨む。そんな様子を見つつ、横に座っている由衣を見た。
「母さんは?」
そう振られ、由衣はカルビを焼きつつ夫の方へと顔を向けた。
「父さんの思うとおりにすればいいよ。いつもそうして、正しかった。私は父さんの意志を尊重するし、父さんを信じてる」
愛情が溢れた目がそこにある。いつでも由衣は周人を信頼してきた。喧嘩もしたが、それでも周人を信じている。これこそが天音が理想とする夫婦なのだ。周人はそう言われて腕組みをした。それから、もう少し考えると口にして食事を再開した。
「そういえば、田舎には進たちと行くの?」
話題を変えたのは天都だ。
「ああ、この間テツとも話したが、そうしようってことになった」
「十夜たちも来るんでしょ?」
「十夜と千輝は来るが、戎家と水原家の子供は用があって来ないそうだ。部活だサークルだ、仕事だ、色々忙しいみたいだ」
「拓也たちは来ないのかぁ」
天都のゲーム仲間である水原拓也はサバイバルゲームもする大学生だ。何より、天都がゲームオタクになったきっかけの存在であり、年は2つ違いだが親友の関係にある。ここ最近は大学で忙しいのか、連絡もあまり取り合っていなかった。
「里穂も来ないとか最悪ぅ」
戎里穂とは馬が合うせいか、天音とは仲が良かった。最近は彼氏ができたせいで疎遠になっているものの、それでもちょくちょくメールのやりとりはしている。
「里穂が来ないなら健人も来ないわなぁ」
戎健人は高校を出て働いている。親が経営している運送会社を継ぐためにと、他の会社に就職して頑張っているのだった。
「十夜と千輝だけか・・・・」
「不満なのか?」
天都の言葉に周人が反応するが、天都は首を横に振る。
「別にいいけど、あいつら好戦的だから」
「両親に似たんだ、仕方ない」
苦笑交じりの言葉に由衣も笑った。確かに好戦的なのは両親の遺伝子のせいだと思う。
「私もママ会に行こうかなぁ」
「ダァメッ!あんたママじゃないでしょ?」
「・・・・どういう話してんのか気になるんだよね」
「気にしない、ただの悪口だから」
「誰の?」
「本人を前にして言えません」
その言葉を聞いて周人、天都、天音が顔を見合わせた。自分の悪口だと思いたくないものの、思い当たる節も多いために黙り込んだ。
「みーくん、ご飯、おかーりぃ!」
大きな声でそう宣言する天海に全員が笑顔になり、天音が頭を撫ででやりながら店員にライスの小を注文するのだった。
*
終業式を終えてついに夏休みに突入した。初日の夜、天都は明斗や陣内時雄という親友たちとインターネットを通じたゲームに熱中し、天音は七星たちとラインをしたりとそれぞれの時間を満喫している。そんな木戸家の近所に住んでいる佐々木家では、長男の翔と二男の進が道場にたたずんでいた。2人とも道着姿であり、これは定例の組手だった。進としては気が乗らないとはいえ、天音との差を大きくしたくないのが目的なためにこれには参加していた。
「では時間は10分」
「よろしくお願いします」
そう言い、2人は礼をした。ここでは師範である翔の指導を受ける、そういう形を取っているものの、はっきりいって翔の強さは怪物級だ。あの天音ですら足元に及ばずに完敗するその実力は全盛時の父親を超えている。体内にある『気』の力で傷を治す養しの気功、外部の『気』の力で攻撃力や防御力を上昇させる外取気功の方を扱える貴重な存在でもあった。父親の哲生は外取気功に長けており、攻撃的な力に優れていた。祖父である哲也は養しの気功に優れ、傷を癒す力に長けていた。その2人の長所を見事に受け継いだ翔は気功の天才児でもあり、またその戦闘能力は超天才の域にあった。対する進は全く『気』が使えない。どんなに力をこめようとも、微塵も発動しなかった。技は華麗で強さも申し分ないが、自分でも血統的にはダメな人間だと思っている。そんな兄弟が構えを取った。翔は何の『気』も発せず、進からは闘志がにじみ出ていた。そしてじりじりとした動きで間合いを詰めると一気に翔の腕を取りに行った。だが翔は一瞬で体を入れ替え、進の右側に位置を取ると素早くその腕を掴んで投げた。それと同時に蹴りが舞うが、進は床に手をついて態勢を変つつその蹴りを片腕でブロックした。その後も攻める進を翔がいなすという攻防が続く。それでもどこかトリッキーな動きを混ぜる進のせいか、徐々に正統派の攻撃をしていた翔が押されだした。だが、それでも進は表情を引き締めたままでフェイントを混ぜた攻撃を続けていた。真っ向勝負では話にならないからだ。腕を上げた、そう思う翔の表情が変化したと同時に、その攻撃が加速度的に早くなった。何よりも骨に響く。薄く微笑む翔が怖かったものの、それでも攻撃の手を休めなかった。徐々に押され気味になるものの、終止進優位で展開が続いた時だった。翔の蹴りが進の顔面に舞う。それをのけ反ってかわしつつ一歩前に出た進は瞬時に再度顔を反らせる。先ほどの蹴りが舞い戻って来たのだ。勘が働かなければ後頭部を蹴られていただろう。背中にぞくりとした寒さを感じつつ、進は再度前に出ようとして、しかし足が止まった。相手の蹴りはまだ空中にあった。それなのに腹部に膝が入ったのだ。右足で後頭部を狙いつつ、同時に左の膝を腹部に喰らわすそれは左右同時の蹴りの変形だ。翔が対木戸無明流に編み出した技に、ついに進の体が沈んだ。だが同時に足払いを放つ。着地を決めようとしたその足元を狙ったが、翔は上半身を折り曲げてそのタイミングを逃しつつ進の道着の襟を掴んだ。しまったと思う進が体を捻ったが間に合わずに額に頭突きを喰らってしまった。痛みでクラクラし、一瞬視界がゼロになる。脳への衝撃のせいだろうが、それでも進は翔の手を取って捻りあげるようにした。翔はそのままされるがままに宙を舞うが、どんな柔軟性を持っているのか片手を床に着いただけで態勢を元に戻して立つ。素早く起き上がろうとする進だったが、電光石火の動きを見せた翔の蹴りがその顔面を捉えた、その時だった。置いていた携帯からピピピという電子音が鳴り響いた。鼻先2ミリ手前で静止した翔の足の甲を見つつ、進はごくりと唾を飲みこむことしかできなかった。どうやら時間になったらしい。
「では今日はここまで」
「ありがとうございました」
フラフラと立ち上がった進は一礼し、青い顔でそう言うのが精いっぱいだった。自分は全力だった。本気で倒しにかかったのだ。だが翔は違う。本気になどなっていなかった。自分の知る翔の本気はこんなものではないからだ。
「強くなったな」
兄のその言葉は本心だ。それをわかっているものの、それでも兄の足元にも及ばないのが悔しい。
「相変わらず『気』は練れない、けどな」
この組手では『気』を練ることは禁じている。それが出来ない進との差が大きくなるからだ。それでも進は常に『気』を練ろうとしていた。だが、やはり何も発動しなかった。
「お前の心の何かが欠けているんだ」
「何かって・・・何?」
「お前がわからないのに俺にわかるはずもないだろ?」
苦笑混じりのその言葉にため息をつき、進は道場の壁にもたれるように座り込んだ。
「何が足りないってんだ?」
つぶやく進は電気が消えて月光の明かりだけになった道場を見やる。心が落ち着く代わりに自分のふがいなさを実感していた。
「覚悟、かもな」
道場を出ようとした翔のその言葉にそっちに顔を向ける。男とも女とも見えるその顔に、意味ありげな笑みが浮かんでいるのが気に入らない。同じ血を分けた兄弟なのに、片や中世的な綺麗な顔立ち、片や童顔で幼い顔立ち。神様は不公平だとしか思えなかった。
「何の覚悟だよ?」
不貞腐れた進を見ず、翔は窓の外に見えている半月へと目をやった。
「死ぬ覚悟」
「何だよ、それ」
「相手を殺すかもしれない恐怖、相手に殺されるかもしれない恐怖・・・俺の場合は後者が大きい」
この最強レベルの翔を殺せる者などごく限られている。それこそ、進が知る限り1人だけだ。
「全ての『気』は生命の力だ。だから、生きるということを強く意識すればいい」
「死にたくないって思うのか?」
「死ねない、でもいい」
翔はそう言い、それから腕組みをした。実際、翔自身は物心つく前から自然と『気』を練れていた。意識せずとも生命の力を使いこなせていたのだ。だが、それを昇華させたのは間違いなく生きたいと思う心だった。強敵と戦い、死を意識して初めてそれが芽生えたのだから。同時に、自分の中にいる強大な獣、鬼といったものも。
「いつか、いつか必ず、兄貴の中の鬼を目覚めさせてやるから」
「寝かしておきたいのにな、俺は」
「定期的に闘争本能に飢えて起きてくるくせに」
「それは向こうも同じ、だろ?」
それが誰のことを指すのかは理解している。強大な獣を内側に棲まわせている人間などそうはいないからだ。
翔は進の熱い視線を受けつつも道場を後にした。今の自分では翔には到底及ばない。だがそれは天音も同じはずだ。だから負けられないと思う。惚れた女よりも強くありたい、それが進の戦う理由だからだ。だが、不意に違うことが頭を過った。それがあの夜、心を助けた時の光景だ。怯えた心と一緒にいた夜。あの時、進の中で何かが変わった気がした。守ってやりたい、そう心底思ったことを思い出す。
「大崎先生」
何故か自然とそう呟いた進はため息と共に立ち上がる。毎日、心とはメールと電話を続けていた。それが自然となっている。学校ではもちろん教師と生徒なのだが、夜のメールなどではその垣根はなかった。進自身に自覚などなかったものの、それは明らかに恋人同士のそれだ。そして道場を出て翔の後に風呂に入る。そして今夜も定期連絡の電話がかかってくる。今日も他愛ない会話を楽しみつつ、それに違和感すら覚えない進は嬉しそうに心との会話を弾ませるのだった。




