シーソーゲーム 5
テスト前だというのに中学時代の友達とボウリングに行った進はテストなどどうとでもなるという感覚だった。いつも適当に勉強をして適当にテストを受ければそれなりの成績を取れていたからだ。同じようにテストなどくそ喰らえな友達と別れて鼻歌混じりに駅へと向かう中、何気なしに携帯をチェックすれば怒りに燃える母親からのメールの受信が5通。進からの返事がないため、その5通目の怒りは相当なものだった。あわてた進は人通りのない暗めの道へと入って走り出す。童顔でおっとりした母親のミカだが、その雷は凄まじいものだった。幼馴染だったという父親ですら、子供が生まれてからのミカの怒り方は大きく変化したようで怯えているほどだ。ヤバイヤバイと心の中で連呼した時だった。前方に止まった黒いワゴン車の後部ドアから女性の足が見えている。目をこらせば、2人の男が女性を車に無理矢理連れ込んだところのようだ。
「ったく・・・この非常時に!」
毒づきながらも加速し、足を速めた進が車に向かった。それに気づいた1人がぎょっとした顔を見せたが、手にしたナイフを見せつけるようにした時だった。急ブレーキをかけた進がその手首を握ると軽く捻りあげる。すると男が軽々と空中を舞い、背中から地面に叩きつけられた。するともう1人が日本語ではない言葉で何かを叫びつつ殴りかかってくる。進はその拳を受け止めるとさっと男に背中を向けて一本背負いを極めた。同時に自身も飛んで相手の身体の上に落下するというおまけ付きの投げだったが。悶絶する男をよそに素早く立ち上がり、1人目が起き上がったその顔面に蹴りを入れた。すると反対側からやって来た2人の男の攻撃を難なくかわし、1人の膝を蹴りつける。瞬時に態勢が崩れたその男のTシャツの襟を掴むと、そこを引きつつ顎に膝を入れた。そしてすぐに4人目の男の腹部に蹴りを入れ、追加で胸を蹴りつけて吹き飛ばすと見せかけ、咄嗟に手首を掴んで飛ぶ方向とは逆に引っ張りつつ投げを放った。受け身すら取れず叩きつけられたせいで息もままならない。倒れこむ4人がすぐに動けないことを確認した進はそのまま車内に上半身を潜り込ませた。気になるのは男たちの動きが鈍かったことと、明らかに最近つけられた傷か怪我の跡があったことだった。
「大丈夫ですか?」
そう言い、女性の顔を見た進が固まる。化粧も落ちるほどの泣き顔だが、口に結えられたタオルのような物で声が出ないようにされていた。スカートはめくれあがり、下着が見えていたが、進はその女性、英語教師の大崎心に動揺しつつも抱き起すとタオルを取ってやる。怯えきった目だったが、進だと認識して途端に泣き崩れる心を背負うようにした進は急いで車を出ると追ってくる様子を見せない4人をそのままに駆け出した。そうして近くの公園に入ると心をベンチに座らせ、警察に電話しようとスマホを取り出した時だった。
「警察は止めて!お願いっ!」
あわててその手を掴む心を見た進が困った顔をする。あの手口はおそらく常習犯だろう。かといって怯えきっている今の心をさらし者にはしたくない。悩みに悩んでいた進はおもむろにどこかへ電話をかけ始めた。
「兄貴に電話するだけ、遅くなるって」
優しくそう言い、進は電話をした。その間ずっと心は進の右手を握っている。震える手をぎゅっと握り返しながら進は笑みを絶やさなかった。
「兄貴、今、どこ?」
そういうやりとりをした後、電話を切った進が怯えたままの心をそっと抱き寄せた。
「5分ほどで兄貴が来るから、あいつらはどうにかする。先生のことは言わないからさ、な?」
童顔の進は子供のようだ。そんな進の胸に顔を埋めてわんわん泣く心の背中を優しくさする進はあの状況でも気が練れなかった自分の能力の無さを嘆きつつも、心を救えたことにホッとするのだった。
*
しばらくの間、心を抱きしめていた進の耳にパトカーのサイレンが聞こえてきた。それを聞いてさらに怯える心をなだめつつ様子を伺うが、やはりさっきの場所でパトカーは停止したらしい。それと同時に携帯が鳴り、心を支えたまま進は器用に電話に出た。
「兄貴?」
『通りかかったってことで通報しといた。お前は?』
「近くの公園」
『なら、すぐに離れておけ。先生を家まで送って行くんだぞ?』
「うん。でも、かなり動転してるから・・・」
『多少遅くなってもいい、母さんには上手く言っておくから』
その言葉でさっきのメールを思い出して急激に青ざめる。
「あ、兄貴!母さんから怒りのメールが・・・」
『わかってる。安心しろ、フォローしてやるから』
「頼むぜ?マジで」
『ああ。それよりも先生をフォローしてやれ』
「OK」
そこで電話を切ってホッとする。翔が大丈夫だと言えば大丈夫だろう。両親の信頼も厚いし、父親は理解もある。心が心配そうに見上げる中で今のやりとりを説明し、怯えて震えたままの心を抱えるようにして歩き出した。すぐ近くのコンビニに入って化粧を直させている間、進は雑誌を手にしつつ周囲の様子を探っていた。野次馬の動きはあれど、それだけのようだ。ホッとして立ち読みに集中すること20分、ようやく心がトイレから出てきた。化粧は薄くなり、服装も直っている。それでもまだ恐怖を残した表情を見た進は優しく微笑むと腕にしがみつくようにしてくる心をそっと引き寄せた。
「家まで送ります」
「・・・うん」
消え入りそうなその声を聞き、進はどうケアしていいかを悩む。未遂に終わったとはいえ、その恐怖は心に大きな傷を与えたのは間違いない。寄り添う2人はどこか異様に見える。例えるなら若い母親と子供か。進は大きな胸が腕に当たっているにも関わらず何も感じない自分を正常だと認めた。この状況で邪な考えを抱くようでは人間として終わっているからだ。2人はそのまま路地を行き、そこでようやく大きな道に出た。どうやらこの道沿いの5階建てマンションが心の家らしい。エレベーターを使わずに階段で2階へ上がるとすぐそこの部屋の前に立った。まだ震えているせいか、上手く鍵が取り出せない心に代わって進が鍵を出してドアを開けた。綺麗な2DKの部屋の電気を点けてベッドに座らせる。了解を得て冷蔵庫を開けて飲み物を出すとそれを手渡した。進は部屋を見渡しながらも心の様子をうかがうのみだ。
「先生、大丈夫か?」
立ったままそう言った瞬間、不意に立ち上がった心が抱き着いてきた。それを受け止め、ドギマギしながらもそっと背中に手を回す。フローリングの床にペットボトルのお茶がこぼれるのもお構いなしに。
「怖かった!急に連れ込まれて!体中触られてっ!怖かったのっ!怖かったぁっ!」
ずっと我慢していたのか、それともようやく少し冷静になれたのか叫ぶようにそう喚いて泣き続けた。進はそんな心をぎゅっと抱きしめながらも背中や頭を撫でてやる。大丈夫だと何度も囁き続けながら。床にこぼれるお茶など気にならず、心は長いこと泣き続けた。そうしてようやく落ち着いたのか、俯いたまま進から離れる。そして涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「佐々木君・・・ありがとう」
「無事でよかったね?」
「ありがとう、ありがとう」
そう言い、今度はそっと抱き着く。いい香りに当てられながらも、進はもう一度優しく心を抱きしめた。
「・・・・・・・・・今日、このまま一緒にいて欲しい」
「いやいや、さすがにそれはマズイでしょ?」
「いてくれるだけでいい」
胸に顔を埋めたままのせいか、声が鈍く聞こえている。体の震えも止まらないようで進は少々困ってしまった。
「教師の言葉じゃないですね」
だが、進は抱いている手に力を込めた。心もそうするが、やはりまだ震えている。
「シャワーでも浴びておいで。スッキリするかも」
「・・・うん」
「エロい意味じゃないから」
「うん」
ここでようやく少し微笑む。それを見てホッとした進を残し、フラフラと浴室に向かった心を見送った後、ヘナヘナとベッドに座り込んだ。
「まさか朝まで一緒にいろってか?」
かといってやらしい妄想もない。あれだけ怯えた心を見た後でそういう気持ちになるはずもなかった。とりあえず浴室まで近づくと、しばらくしてシャワーの音が聞こえてくる。それを確認してからスマホで翔に連絡を取るのだった。
*
翔によって両親への事件の説明があり、進は電話を代わった哲生の進言通り心のケアを最優先するように言われた。もちろん絶対に手を出さないことを条件に。当たり前だと叫ぶ息子に頷きつつ、とにかくケアをと連呼した哲生の気持ちも理解できているせいか、シャワーを終えた心が落ち着くためにと場所を聞いてミルクティーを作ってあげた。それを両手で持ちながらも不安そうな顔をした心の横に腰かけた進はどうすればいいケアになるのかを考えた。
「佐々木君が来てくれなかったら・・・私、酷い目に遭ってたんだよね?」
頷くだけの進だが、酷い目だけでは済まなかっただろう。それこそ、身も心もぼろ雑巾のようにされていたはずだ。翔の情報によれば彼らは常習犯で、この近辺どころか多方面で女性を拉致して暴行していたらしい。2人の日本人と2人のアジア人による犯行ということだった。翔も進も知らないことだが、七星を襲ったのもまた彼らだったのだから。
「もう、ダメだと思った」
またもじわりと涙目になる。進はそっと心の肩を抱き、心はそんな進の肩に顔を埋めるようにしてみせた。
「私、初めてがあんな連中にって思ったり・・・とにかく怖かった」
思わぬカミングアウトにドキッとしたが、進はそれを表に出さなかった。
「ありがとう」
今は震えが止まっている心はそっと顔を上げた。
「佐々木君は私の騎士だね」
そう言って微笑む心に照れた笑みを見せ、進はそっと彼女を解放した。
「先生が落ち着くまで一緒にいるからさ、だから、もう大丈夫だから」
「じゃぁ、明日まで、いい?」
「さすがにそれは・・・」
「・・・・いて欲しい」
「あ・・・うん」
うるうるさせた瞳、可愛い顔、進は理性を保ちつつ頷くしかなかった。
「佐々木君もシャワーしておいでよ」
「晩飯どうするの?」
「・・・どうしよう」
「何か買ってくるよ。待ってて」
「ヤだ!一緒に行く!」
怯えた目に戻った心の心の傷の深さをまざまざと見せつけられた進は表情を引き締め、そのまま心を伴って目の前の弁当屋に入った。何をするにも童顔の進にくっついたままの心を怪しんでいるかのような店員の目を受けつつ、長い夜になりそうだと思う進だが、心の傷を少しでも癒してあげたいと思うのだった。
*
帰宅した明斗は玄関の鍵を開ける。すると珍しく、この時間に父親が帰っているのを見て少々驚いた。薬品会社に勤務している明斗の父親の麟は毎日帰りが遅いからだ。なのに今日は早い帰宅だった。
「おかえり」
「ただいま・・・早いんだね」
「ああ、ようやく一段落でな」
そう言って微笑む麟に笑みを返し、鞄を机の上に置いた。古いアパートで2人暮らしだが、不自由さはない。
「遊んできたのか?」
「勉強会だよ」
その言葉に驚きながらも、どこか嬉しそうだった。
「人間嫌いのお前が勉強会とは・・・友達ができたのか?」
「友達っていうか・・・まぁ、女子たちに強引にね」
それを聞いてますます驚く麟だが、同時にもっと嬉しくなった。どんな時でも1人だった明斗に友達はいなかった。成績優秀で美形、運動も出来る明斗は憧れの存在であると同時に妬ましい存在でもあったからだ。イジメも受けたがそれらを一切無視した結果、空気のように扱われてきた。それでも、それでいいと思う明斗のせいか、麟はなにも言えなかったのだ。
「女子か・・・恋でもしたか?」
「ないよ・・・・・・でも、似たような気持ちを抱く子はいるけどね」
家での明斗はよく話す。あまり接点がない父親とはよく会話をしてお互いの近況を知り合うようにしているのだ。それが下村家の在り方だ。
「驚きの連続だ・・・で、可愛いのか?」
すぐに容姿のことを聞いてきた父親に苦笑が漏れる。
「うん。でも男っぽい」
「ほぉ・・・ちなみに名前は?」
「木戸さん」
その名前に少し反応した麟だったが、顔には出さない。だが少し変わった雰囲気にちらっと麟を見た明斗はそのまますぐ傍のキッチンへと向かった。夕食は明斗の担当だからだ。
「木戸天音・・・・俺をイライラさせるし、でも温かくさせてくれる不思議な子」
「木戸天音」
意味ありげにぽつりとそう呟く麟の様子を見た明斗が眉間にしわを寄せた。
「どうかした?」
「あ、いや・・・どこかで聞いた名のようだったが、気のせいだ」
微笑む顔はいつもの麟だ。だが違和感は拭えない。
「俺の友達の天都の双子の妹だよ」
「木戸・・・・天都・・・」
明斗に聞こえぬようそっとその名を呟く麟の顔色が白くなった。だが明斗は夕食の支度に取りかかったためにそれに気づかない。そんな明斗の背中を見つつ、麟は青い顔のまま俯くようにしてみせた。
「宿縁なのか因縁なのか・・・・・・・これが運命だとでもいうのか?」
自分を抱きしめるようにそう呟き、麟は明斗に背を向けた。
「それとも・・・私への罰なのか?」
誰に問うでもなくそう呟く麟の表情は無い。ただ息子の幸せを願う、それだけだった。
*
アパートの真向かいにあるマンションの7階の踊り場に立つのは木戸天空である。相変わらずよれたTシャツをだらしなく着たジーンズ姿のまま、ペットボトルのスポーツ飲料を口にする。見つめる先は下村親子の住む部屋だった。
「あの下村博士がこんなところに・・・・それよりも、あの息子、やはりそうなのかねぇ」
そう言う口元が笑みに変化する。もし自分の推測が正しければ、『ゴッド』に対して優位に立てる切り札になるだろう。なにより、自分を生み出した者への復讐にもなる。
「不良品の俺が、完成品の上に立つってのが理想だったが・・・」
そう呟き、より一層笑みを強めていく。
「左右千たちには黙っていよう・・・その方が優位になる・・・・いや、切り札になる」
邪悪なものに変化させた笑みをそのままに、天空はその場を去った。
*
日曜日の朝でも日課は怠らない。だからか、進はベッドに眠る心を起こさないように注意しつつソファから身を起こした。時刻は朝の6時半だ。目覚ましなどなくてもきちんと目覚めるのうはもう習慣だからだろう。もう既に明るい外はカーテンをしていても眩しいほどだ。自分の部屋にはないいい香りを嗅ぎつつソファに腰かけると、静かな寝息を立てている心の様子をうかがった。結局、夜中までいろいろ話をした。恋に奥手で今まで彼氏がいなかったことや、職場でのセクハラ。そして生徒たちからの嫌がらせなど。昨夜の恐怖を払拭しようとしたのか、心は饒舌であり、ずっと進にくっついていた。かといってムラムラもしなかった進はとにかく腫物に触る感じで心に接したのだった。大人の色香や天音にはない大きな胸も気にならない。これがいまだに自分が達することの出来ない『無我の境地』なのかもしれないと思うほどに。深夜になってようやく眠った心だが、それでも何度もうなされて起きていた。その度に進がフォローし、ついには同じベッドに横になったのだ。すると落ち着くのか、心は深い眠りに入った。それを確認してソファに寝た進は寝不足とソファという場所のせいか体がだるい状態だった。
「まさか先生の家に泊まるとは」
心は美人で人気もある女性教師だ。狙っていた男子も多く、そして男性教師もまた然り。そんなマドンナ教師の家に泊まった生徒は、いや男は自分が初めてなのだ。しかも恋愛経験も男性経験もない心の寝姿を見たのは自分ぐらいなものだろう。そう思うと優越感がこみあげてくるが、やはり昨夜の取り乱した心を思い出せばそんなものは泡となって消えた。
「今後もフォローとケアしてやんないとなぁ」
だからといって心とどうこうなろうとは思わない。自分は子供の頃から天音を好きでいるのだから。しかしそれは叶わない恋でもある。
「いっそ乗り換えられたら・・・・・いや、不謹慎だ」
心の傷は深い、それを知っていながらの発言に自己嫌悪した。そのまま再度ソファに転がる。その可愛い寝顔をスマホで写真に収めたのは変な気持からではない。進はそのままうとうととし、気付けば9時になっていた。のっそりと身を起こせば、寝転んだままの心と目が合う。驚く進を見てくすくす笑う心に苦笑し、それからソファに座った。可愛いと思ったのを悟られないようにそっぽを向きながら嘘の欠伸をしてみせた。
「佐々木君、可愛い顔して寝てたよ?」
その言葉に先生もな、と返す。
「・・・・・・・いつ見たの?」
「朝早くに目が覚めた時」
「・・・そっか」
「だらしなく涎垂らす姿にムラムラした」
冗談っぽくそう言うが、心は顔を赤くしながら怒った顔をする。冗談だよと返し、進は座ったままで背伸びをした。やはり背中が痛い。そんな進を手招きした心に首を傾げたが、ベッドまで行くとそこに座ろうとした矢先、心に手を引っ張られてバランスを崩したせいかベッドに倒れこんだ。自分に覆いかぶさるようにした進をぎゅっと抱きしめる心。
「佐々木君にこうされると落ち着く」
「いやいや・・・生徒にこれはまずいでしょ?」
「恩人だからいいの」
「なるほど」
苦笑混じりにそう言うが、今は心の好きにさせてやる。倫理とかどうでもいい。少しでも心を癒せるのであれば何でもよかった。
「明日からは元気出す・・・だから、もう少しだけ一緒にいて」
「姫の仰せの通りに」
その言葉にクスッと微笑んだ心は再度進を強く抱きしめた。夢でも連中に襲われた、その恐怖はまだ拭えない。けれど、こうしているとその恐怖も和らぐ。心にはもう自覚があった。ああいう状況を救ってくれたから、そのせいだとも分かっている。そして教師が生徒に抱いてはいけない感情。自分は進に恋をしてしまったのだと。
*
何故テストが火曜日からなのだと思う。憂鬱な気分の天音とは違い、もはや開き直った感じの進とゲーム談義をしつつ前を歩いている天都を羨ましく、そして妬ましく思う。結局、勉強会でどうにかこうにかそこそこの成績は取れそうとはいえ、やはり不安は常にあった。今も英語の単語ノートを見つつ改札に来たほどだ。
「あんた余裕そうだけど、大丈夫なわけ?」
不意にそう言われた進は肩をすくめるも、それでもどこか余裕のある表情を浮かべていた。
「まぁ、英語はどうにかなる。国語もまぁ、それなりに得意だし・・・今日は余裕かな」
「あんた英語、苦手じゃん?」
「ま、ヤマが当たる感じかな」
何故か余裕を見せているところがあやしい。だが深く追求せずにやってきた電車に乗り込んだ天音は単語の暗記に余念がない。対する進は一昨日、英語教師の心から勉強を教わっていたこともあって余裕があったのだ。それもテストに出る箇所を重点的に。助けてくれたお礼として、教師としてはギリギリのラインでヤマを張らせてそこを反復させたのだ。テストを作った本人からのレクチャーとなれば、それはもうカンニングに近い。それでも、心はここが出るとは言わずに教えてくれたのだ。進としては嬉しいが、どこか反則的だと自分を戒めてもいた。だが英語が好きになりそうな自分がいる。心の個人指導はわかりやすく、それでいて楽しかったからだ。また今度、そう言って別れた際の心の言葉を信じて英語だけは頑張ってみようと思ったほどだ。元々国語は得意なせいか、今日のテスト2科目に至っては余裕がありすぎた。その分、明日の数学に備えて今日は猛勉強となる。やがて電車が駅に到着し、3人は改札を出た。単語に集中する天音をよそに、進は友達と会って雑談しながら歩く中、天都は不意に横に並んだ人物を見てぎょっとした顔になった。
「おはよう」
「あ、うん・・・おはよう」
どこかぎこちのない挨拶を交わす2人。それは仕方がないかもしれない。天都の横に並んだのは七星だったからだ。あの事件以降、徹底的に無視されていたというのに、何故、七星から近づいてきたのかを思案する天都が緊張した顔を前に向けるのが精一杯の中、七星は少し俯き加減になりつつもゆっくりと口を開いた。
「・・・・ごめんね?」
「え?」
突然謝られた天都は驚き、わけがわからないといった間抜け顔を七星に向ける。七星はそんな天都を見つつ、鞄を持つ手に力を込めた。
「無視して、ごめんなさい・・・・天都君が悪いわけじゃないのに」
「・・・助けなかったのは事実だし、気にしてないよ」
それは嘘だ。助けなったのは自分の信念を守ったからだ、後悔などない。だが、七星に無視されていることは心に痛みを与えていた。好きな子に嫌われたショックは大きいのだから。
「でもね、本当は、天都君に助けられたかったのかもしれない」
「え?」
意味がわからずうろたえる天都を見つめる七星の目は真剣だった。可愛いというより綺麗だと思うその顔が少々赤みを帯びていた。それを見て思わずドキッとしたが、七星が明斗を好いているのを知っているだけに変な期待などない。そこは現実的な天都だけに、しっかりと理性が働いていた。
「まぁ、ああいう場合は男が助けるもんだしね・・・でも、僕より天音の方が強いから」
「天都君も、強いよね?」
その言葉に一番ドキッとする。どういう意味かと探るものの、動転しているせいか思考が働かなかった。
「だって天音ちゃんのあの技って、お父さんから習ってるんでしょ?だったら天都君も習ってるでしょ?」
「そうだけど、それでも天音の方が強いから、さ」
「私のわがままで傷つけたかもしれないから、だから、ゴメンね?」
「もういいから。気にしてないよ、僕。だって、僕が何もしなかった、天音に任せたのは事実だから」
「・・・うん」
土曜日の天音の言葉を思い出し、本当は昨日ちゃんと謝るつもりだった。その勇気が無くて今日になったのだが、やはり天都は自分を責めることはしない。それがわかっていて甘えているのかもしれないと思う。無視したことはいけないことだと思う。軽蔑したのは仕方がないことだとしても、それでもそれをずっと引きずって無視をしたことはダメだと思っている。でも、どうしてああまでイライラしたのかはわからず、こうして謝ることで少しだけ理解できた。
「今度・・・・」
「ん?」
「今度同じようなことがあったら、その時は、天都君が助けてね?」
「・・・そうだね」
自分しかいない場合は、そう言えず、天都はそう言うのが精いっぱいだった。
「約束、ね?」
「うん」
できない約束はするものじゃない、そう父親から教わっている。なのに自分は約束をした。だから、今度七星を守るのは自分なのだ。たとえそれがどんな結果を招こうとも。悲壮な決意をした天都の心情など知らず、七星の心もまた揺れていた。自分は明斗が好きだ、それは絶対だ。いや、絶対なはずだった。だが今は揺れている。なんでも話せるただ1人の男の子の友人、それが天都だ。天音たち女子にも言えない明斗への想いを、天都には素直に話すことができた。それは恋愛対象ではないからだろうと思っていたが、本当にそうなのか疑問に思う。本音を言えるほど親しいのは、実は一番自分の心に近い位置にいるのではないか。だから天都が自分を助けようとしなかったことに腹が立ったのかもしれない。元々弱いと思っている天都に助けられたかったと、何故そう思ったのか。天音に助けられた、天都は恐怖で動けなかった、それでいいはずなのに、それを理解しているはずなのに。だから七星は前を見たまま歩く天都の横顔を見るのだった。
*
品川恭治の今朝のテンションはマックスである。何故ならば、駅を出たところで心と出会ったからだ。美人で巨乳、それだけで品川のドストライクな心は嫁にしたい女性ナンバーワンだった。だからなんとしてもお近づきになりたいのだが、まだただの教師仲間としてしか思われていないのが苦痛だった。とにかく一歩関係を進めたいと思う。そこで品川はテスト終了後の教師内の打ち上げで心と2人きりになろうと画策していた。とにかく、まずは自分をアピールしなくては、そう思っていた。過去に彼氏がいなかった事実も知っている。そういう情報源は他の女性教師であり、なんでもよくしゃべるその女性からいくらでも情報は引き出せた。だから、あとは行動するのみだ。幸いにも好きな人もいないらしく、これはチャンスでしかないのだから。だから饒舌になる。そして心も笑顔をくれていた。手応えはあった、確実に。
「おはようございます、先生」
そう、目の前に進が現れるまでは。
「おう、佐々木、おはよう」
「お、おはよう・・・」
何故かはにかむ心にぎょっとした。生徒に対してはいつも毅然な態度を取っていたのは心の方だ。女性だから馬鹿にされたくない、容姿だけだと言われたくないという気持ちからそうしていたのだ。なのに今の心の表情は女であり、教師のそれではなかった。
「英語、いい点取るから!」
進はそう言うと昇降口に向かう。教員の出入り口は生徒昇降口の左奥にあった。進が右腕を上げてそう宣言するのを見た心の表情は完全に乙女のそれだ。じっと進の背中を見つめる心を見た品川は動揺を隠すことが出来ず、それでも務めて冷静に心へと顔を向けた。
「さあ、行きましょう」
「はい」
返事はするが視線は進へ向いている。歩き始めた心に話しかけてもどこか上の空なのを知った品川の中にどす黒い感情が鎌首をもたげてきた。心を自分のものにしたい、邪魔者は排除したい、そんな気持ちを。だが、それでも教師であるという信念があるせいか、その黒い欲望は抑え込まれる。そもそも教師が生徒に恋するなど、あってはならないのだ。もしそうだった場合にこそ付け入るチャンスがある、そう考えた。だからか、品川の笑みに余裕が出てきた。心は抱いてはいけない気持ちに揺れながら、校舎に入ったと同時に気を引き締め、今は進のことを頭の中から消しにかかるのだった。