弟
直子と喜多は片倉景重の屋敷に移った。
景重は直子をとても大切にし、二人は仲は睦まじかった。
喜多に対しても、景重は我が子同然に大切にした。
親子三人の幸せな生活が始まったのである。
「喜多、今日はこのような書物を預かってきたぞ。」
景重は永井荘八幡宮の神職の役を仰せつかっていたので、普通ならあまり手にすることのできない書籍に触れる機会が多かった。
「これは八幡宮の縁起を記録したもののようです、父上。」
「うむ。しばらく、預かることになっておるので、また写本を頼む。」
コピー機はおろか印刷機もないこの時代、書物は手書きで複製を作るしかなかった。
「かしこまりました。」
喜多は手習いも達者であったため、景重の手伝いもかねて学問に励むことができた。
景重は、神職の身でありながら、どちらかといえば武の人であった。
普段から、景重は、武芸の稽古を怠たらず、自分の技を研いていた。
それゆえ、喜多にも武芸の練習を勧めた。
「武術は日頃の鍛錬が大切じゃぞ。」景重の口癖であった。
喜多は喜んでその言葉に従った。
「えい、えい、やぁ」
喜多の澄みわたった声が、片倉家の庭からよく聞こえてくるのであった。
片倉景重には、亡くなった前妻との間に男子がいた。
だが、その前妻が亡くなって程なく、その男子も死んでしまっていた。
この時の景重には跡取りがいなかったのである。
景重が直子と再婚し、直子と喜多を片倉家に引き取ってから、周りの縁者の態度がすぐさま変わってきた。
この頃、喜多の実父、鬼庭良直は片倉家が拠点とする永井郡にて川井城の城主となっていた。
それにより、鬼庭家はその地域における最も有力な存在となっていたのである。
その鬼庭良直の長女が、片倉景重のもとにいる。
しかも、その片倉景重には跡取りがいない。
このままの前提では、娘の喜多が婿を取って、その婿が片倉家の跡取りとなるはずである。
その婿の座というものは、鬼庭良直とのつながりでもあり、片倉家の家督でもあるということになる。家中においては見逃すことのできない地位であった。
この好機を前に悠長に構えている場合ではない。遅れをとってはいけないと、あからさまに喜多の縁談話を片倉家に持ち込む者が増えてきた。
養父、片倉景重はそのような人の心に鈍感な男ではなかった。
「人の心とは浅ましいものだ。」
景重は直子に述懐した。
「されど、喜多に縁談話が来ていることはよいことでございます。」直子は言った。
「喜多にいい婿を探してやってくださいませ。」
景重は表情は明るくなった。
「そうだな。この話を持ってくる者のすべてが、欲得尽くとは限らない。中には本当に喜多を好いてくれる者がきっといるはず。」
「はい。」直子もにこっと微笑んだ。「そんな婿殿を探してやってくださいませ。」
片倉家の一族に藤田という者がいた。
藤田には男子が二人いて、景重も子供の頃から見知っており、人となりは素直な好感の持てるものであった。
その藤田家の次男からも縁談の申し出があった。
年も喜多より2つ3つ上くらいである。
「藤田の二郎殿はおれも子供の頃から知っている。喜多と会わせてみたいと思うが、どうだろう。」
「あなたがそう思われるのなら、よろしいのではありませんか。」
「自分の縁談より、ずっと気を遣うものだな。娘の縁談というものは。」景重はしみじみそう感じた。
暖かい日差しに包まれた春の日、喜多は藤田二郎と見合いをした。
『この方が私の夫となる人。』喜多はそっと藤田を見て、心の中で思った。
何か体の奥で、熱い感覚がわき起こるのを自覚した。
相手の藤田は無口な男であった。
喜多以上に緊張していたのかもしれない。
喜多と藤田の結婚は決まったのも同然であった。
だが、誰もが予想していなかったことが起こっていた。
「あなた」直子が景重にそっと、話しかけた。
「どうした、直子」
「・・・ややこができたようです。」
「!」景重は息を飲んだ。「まことか、それは。」
直子は大きく頷いた。「間違いありません。」
直子が妊娠したのである。
それは、景重も思ってもみないことであった。
だからこそ、喜多の縁談を、片倉家に婿を迎える、養子を取る前提で進めていたのである。
「そんな、」景重は動揺した。
「喜多になんと言えばよかろうか。」
景重が最初に思ったのは喜多のことであった。
動揺する景重を、直子はじっと見据えた。
「喜多には、わたくしから伝えます。」
直子は知っている。
喜多は、それが自分にとって厳しい事態となるとしても、人の道に適うのであるなら、迷うことなく、それを受入れ、選択するということを。
「あなたには、お願いしたいことがあります。」
「なんだ。それは。」景重は尋ねた。
「藤田家にお話に行っていただかねばなりません。」
「あっ。」景重には直子の意図が理解できた。
景重が更に深刻な顔つきになった。
「そうだな、藤田家に行かねばならないな。」と小さな声でつぶやいた。
喜多との縁談に対して、藤田がどのような思惑であったかは定かでないが、二郎を養子とすることは、保留にすべきであった。
もし、生まれてくる子が男子なら、その子が片倉家の跡取りとなる。
そうなれば、養子を取る必要はなくなる。
また、もし、産まれてくる子が女子なら、やはり養子を迎える必要があるが、それでもその後に、男子ができる可能性もある。
男子ができなくても、その娘に養子を取る選択肢があり、喜多が他家に嫁いでもよいのである。
とにかく直子に子ができたことにより事情が全く変わってしまったのである。
景重は、日を改めて、藤田家に説明とお詫びに行った。
当然、藤田家は不快な反応を示し、喜多の縁談は破談とはならないまでも、保留ということになった。
景重にとっては、藤田家にきつく言われること、自分が悪く思われること、そんなことより何より、それによって取り決められるすべてのことが、結局、喜多にのしかかってしまうことが最も辛かった。
縁談が延期になるのは、景重の縁談ではなく、喜多の縁談であった。
自分の行為の結果が、すべて喜多の人生にふりかかってしまうことが、何よりも辛かった。
「済まぬ。」
景重は、喜多を前に詫びた。
「父上。」喜多は微笑んで返した。直子からは事情は聞いていた。
「お顔をあげてください。
ややこができたことは、めでたいことでございます。
そのことに『済まぬ』も何もありません。
ねぇ、母上。」
横で付き添っていた直子に喜多は声をかけた。
「喜多、ありがとう。あなたにそう言ってもらえれば、私達は救われるわ。
父上の、気持ちもわかってあげてくださいね。
本当に、あなたに申し訳ないという気持ちでいるのですから。」
「わかっています。
だからこそ、もうよいのです。」喜多はきっぱりと言い切った。
「ありがとう。喜多。」景重は喜多に感謝した。
その夜、部屋で独りになった。
喜多は思った。
『おそらく、今度の縁談の話はなくなってしまうのだろう。』
そして、お見合いの日のことを思い出した。
あの時、感じた胸を高鳴りを思い出した。
お腹の奥が熱くなった感覚を思い出した。
『あれは、なんだったんだろう。』
一筋の涙が喜多の眼からあふれ、頬をつたって落ちた。
『わたくしが、馬鹿だったのね。とんだ思い違いだったわ。』
喜多は顔をあげて微笑もうとした。
だけど、涙は止まらなかった。
笑顔になろうとすればするほど、どうしても涙があふれてきた。
それは、春の終わり、風に誘われ散る花びらの、吹き積もる音さえも聞こえそうな、静寂に包まれた夜だった。
時がたって、その年の末、直子が男の子を出産した。
弟だった。
片倉家の跡取り。
その後、間もなく、藤田家から正式に縁談はなかったことにするという、破談の通告が片倉家に届けられた。