本沢家
喜多は母直子と共に、直子の生家である本沢家に戻った。
本沢家は直子の兄が家督を継いでいた。直子の父と母、つまり喜多の祖父母もまだ健在であった。
母、直子は見るからに失意の中にあった。
そもそも直子は、まさか、自分が夫と別れ、本沢家に戻って暮らすことになるとは思ってもいなかった。
鬼庭良直と離縁に至ったことは本沢家の人々にとっては、不本意極まりないことであり、直子の父、隠居の本沢真直ははっきりと、今回の仕置きに「納得がいかぬ。」と声を張り上げていた。
他の本沢家の人々も大なり小なり、真直と同じく鬼庭良直の行動に批判的な立場であった。
だが、二人が離縁したことは、直子と良直が相談して決めたことであった。それは望んでしたことでは決してないが、鬼庭良直の立場を配慮しての二人の結論でもあった。それゆえ、本沢家の人々の良直に対する批判に直子は同調できなかった。
「致し方ないこと。」「わたくしはやむを得なかったのだと思っております。」
直子は、このように答えるのであった。
そんな直子に本沢家の人々の矛先が次第に向いて、「お前が男子を産まないからだ。」とか「そんな弱気なことでどうする。」と言った容赦のない言葉が浴びせかけられるのであった。
直子は、それにじっと耐えるしかなかった。
ただでさえ、失意の中にある直子へ、実家の人々からの悪態が直子に更に肩身の狭い思いをさせるのであった。
そんな母、直子の姿を見て、喜多はせめて自分だけは笑顔を見せて、母を元気づけなければと思った。
「母上、今日は気候もよいので、久かたぶりに武芸の稽古でも致しとうございます。」
ある晴れた日に喜多は直子に向かって笑顔で言った。
片手には木刀のなぎなたを持っていた。
「エーイ、ヤー、エイヤー」喜多は母の前で稽古を披露した。
母、直子も喜多の元気な様子を見て、微笑んでいた。
その声を聞きつけた隠居の本沢真直が、駆けつけてきた。
直子は父親の登場に頭を下げて、お辞儀をした。
「何をしておるのじゃ。」真直が喜多に尋ねた。
「はい。」喜多は屈託のない笑顔で祖父に答えた。
「体が鈍ってもいけませぬゆえ、武芸の稽古をしておりました。」
「馬鹿者が!」真直は突然、大声で怒鳴った。
喜多はびっくりして、心臓が飛び出しそうになった。「えっ」
「女が武芸など、する必要はない。」真直は断言した。
喜多はそれまで受けてきた教えと違ったため、反論したくなった。
「戦国の世では、女も武芸をたしなまなければなりませぬ。」喜多は確信をもってきっぱりと言い切った。
思わぬ喜多の反論に、真直は低い重い声で尋ねた。
「誰が、そんなことを言ったのじゃ。」
喜多の心は、もう自分では止めることはできなくなっていた。
「父上です。」
「喜多、」母、直子が喜多をたしなめようとした。
喜多の答えは、真直の怒りの火に油を注ぐことになってしまった。
「なんだと!お前が鬼庭家の女でいたいのなら、すぐさま、ここを出て行け!ここは本沢家だ。この本沢家に鬼庭家の者のいる場所などない!さぁ、出て行け!」
喜多はうつむいた。喜多の眼から涙があふれ、それがいく筋も頬を伝って落ちた。
「喜多、木刀をしまって、部屋に戻りなさい。」直子がやさしく、声をかけた。
喜多は涙を流しながら、その場を去った。
「父上、申し訳ありません。」直子が真直にわびていた。
「まったく、父親が父親なら、娘も娘じゃ。」真直があてこするように大声で叫んでいた。
喜多は部屋に戻って、ひとり泣いた。
直子は鬼庭良直と夫婦だっととはいえ、離縁をすれば、血のつながりのない他人である。
だが、鬼庭良直が喜多の父親であることは、どうあろうと変わらない。血のつながりのある父と娘である。
喜多には、本沢家の血が流れているが、鬼庭家の血も流れていた。
本沢家の人々が鬼庭良直の行動に批判的であったとするならば、当然、その血を引く、喜多に対しても、決してこころよくは思っていなかったのである。
喜多はそれをはっきりと思い知らされた。
この本沢家では、祖父母から孫娘として可愛がられる、あるいは、おじおばから姪として可愛がられる、ということはないとわかったのである。
悲しいことだった。
自分が身内に疎まれていることを受け入れなければならないことは。
だが、それで、喜多が泣いているというわけではなかった。
それだけが理由ではなかった。
喜多は自分の選択で鬼庭家を捨てた。
それは、母、直子の心の支えに、少しでもなれるのなら、という思いからであって、この本沢家に来たのである。
だが、それが逆に、自分のせいで母を更に苦しめてしまっているように思えた。
自分の存在のせいで母の立場を更に悪くしているように思えた。
自分が馬鹿みたいだった。
それが、悔しかった。
それが、情けなかった。
だから、泣いた。
本沢家には、喜多の居場所はなかったのである。