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「由夏、久しぶり。元気だった? 」
「元気だよ。しょっちゅう電話で話していたじゃん」
金曜日の夜、最終の飛行機でやってきた彼氏は、迎えに行った私に嬉しそうに話しかける。ああ、遠距離になってすぐはこうだったなぁ。いつの間にか、会えない週末が当たり前になって、お互いの忙しさがわからないからって連絡も減って、ぶつかるのが嫌で本音を言わなくなり、一人の空間を居心地がいいと感じる頃には、隣に彼がいないことに慣れていった
あの頃は、彼を本当に失くす勇気もなかったのに。
じゃぁ、今は?
自分の頭に浮かんだ思考を慌てて押し出す。
「あの、さ。前に俺の家から帰るときにいった事、考えてくれた? 」
ぐ……。
考えた、気もします。なんて言い訳、通じるかなぁ。
「本当に、仕事が嫌なわけじゃないの。仲のいい友達もいて、社内もいい人ばかり。だから、まだ全部捨てては、行けないかな」
理由をつけて、ごまかしているのは自分でもよく分かる。それでも、今はこれ以上の言葉は出てこない。この人と一緒に暮らす未来を、考えなかったわけじゃない。それでも、今行ったなら、それはただの逃げだ。
「そう」
静かに、穏やかに笑う顔は、少し寂しそうで、ホッとしているようにも見える。
きっと、一緒に穏やかに年を重ねていける人。緩やかに、穏やかに、私の望んだ私でいられるだろう。
でも、それは、仕事にも友達にもケリをつけて、先に進むことを選んだ私が得られるもの……。
土曜日、映画を見に行こうと言われて着替えれば、彼がぽかんと私を見ていた。
「なんか、好み変わった? そういう服、苦手じゃなかったっけ? 」
「……最近着るようになったの。ほら、愛衣がいつも可愛い恰好しているから、影響受けたのかな? 」
「……そう、か」
納得したのかしていないのか、可愛いよ、と一言誉めてそのまま先に部屋を出ていった。
そうだよね、今までとは全然違う服。彼の家に置いてある服は、去年買った服ばかりだし、化粧品も最低限しかもっていかないから、変わった私を見るのは初めてだ。少しずつ増やしていったつもりだったけど、彼にとっては突然の変化。何かあったかと、勘ぐることも、あるよね。
「やっぱり、人が多いねぇ」
当たり前だけど、土曜日の昼過ぎ、映画館は混んでいる。、見たい映画は夕方まで満席。
「先に、ご飯食べようか」
遅く起きた私たちは、結局なにも食べずに家を出てきた。昨夜夜中まで食べてたし、映画見ながらポテトとかポップコーンとかでいいんじゃない? なんて思っていたけど、夕方まで時間があるなら、ちゃんと食べたい。
「うん」
家を出てから、明らかに彼の口数は減っていた。それが、昨日の話のせいか、私の服装のせいかわからないけど、目を合わせてもくれないことに少しショックを受けていた。
彼が、言いたいことをのみ込むのは初めてかもしれない。
当たり障りのない会話をしながらの食事なら、一人で食べる方がよっぽど美味しい。
暗い映画館、会話が無くてもいいことにホッとするものの、時折聞こえる溜息は、私の集中力を完全に奪い、楽しみにしていた映画の内容は、全然頭に入ってこない。
一人で、来ればよかったのかも。
「久しぶりに、やってみるか? 」
映画館を出た所にあった、ファミリー向けのゲームコーナー。隅に置かれた2台のエアホッケーを指して彼が笑う。あ、ちょっと機嫌直ったかも?
「いいね、ほんと久しぶり」
本当は、ちょっと恥ずかしかったけど、結構大人になってもやってる人、いるよね。と自分に言い聞かせて小銭を入れる。
勝負は、私の圧勝。付き合う前に何度かやったけど、私一度も負けたことない。一時、これはまったんだよね。
「やっぱ由夏強いよなぁ。なぁ、手加減とかしないの? 」
「手加減して、勝ってうれしい? 」
「まぁ、そうなんだけどさぁ。やっぱ由夏だよなぁ」
何が言いたいのかはよく分からないけど、とりあえず機嫌は直ったみたい。彼が行きたいという店まで電車で移動する。駅からは少し歩くと言われ、彼について黙って歩くが、少しずつ彼の背中が固くなるのが伝わってきた。ってか、この辺、私知ってる。
「ここ」
ここ、は。合コン会場で、クラス会の会場で……。
一瞬、足が止まる。知ってる?
「入ろう? 」
偶然、だよね?
相変わらずお洒落なダイニングバー。予約をしていたらしく、窓際のボックス席に通されて、席に着くと同時に出てきたビール。なんで?
「予約なんて、していたんだ」
基本、横着なヤツだし、私もお店にこだわりがある方でもないので、二人で行くのに店の予約なんてしているのは初めて見る。嫌な予感しかしないのは、私の罪悪感からか。
「前に俺がこっちに来た時に、会ったヤツ覚えてる? 」
「ええと、3人いた。けど、顔とか名前は、微妙かも……」
私は人の顔と名前を一致させるのが苦手だ。自分がじっと顔を見られるのが苦手なので、相手にもしたくない。それじゃ、覚えられるわけないよね。
「その中の一人、ここで働いているんだ。あいつは、由夏の顔しっかり覚えてる。初めて俺が紹介したときから。由夏は、覚えていないんだろうけど、何度か会ってる」
そうなんだ。人の顔覚えられない彼女でごめんね。
ってか、きっとそうじゃないよね。私の顔を覚えているって、はっきり言っているってことは、やっぱり……。
「由夏が、俺のところに来ていたのは、罪悪感? 」
怒ったような、悲しんでいるような、瞳。これは、浮気を疑われている?
凍り付いた空気の中、私は全然見当違いの事を考えていた。
彼は、私の事が好きなんだろうか。好きだから、他のオトコといたのが我慢できなかったの?それとも、自分のオンナだと思っていたの、別のオトコと笑っているのが許せない?ただの、独占欲?
私は、どっちだったら嬉しいんだろう。私は、この人が私を欲しいと思ってくれて、嬉しいんだろうか。
ああ、もうダメだ。もう、わからない。
「ごめん」
何に対しての『ごめん』なのか、自分でもわからない。彼氏がいるのに合コンに参加したこと?それとも、他のオトコに惹かれた事?
二人、無言でビールをあおる。あっという間にジョッキは空に。運ばれてきたお代わりビールまですぐに空になった。
「ごめん、なの? 」
不貞腐れているような、泣き出しそうな声。ああ、こんな声、初めて聴いた。それでも、彼を慰める言葉は、浮かばない。
何一つ、切り捨てる勇気もない癖に、切り捨てられるのも怖い。




