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作者: 実茂 譲

 それは確かに唄だった。でなければ、清らかな音の流れだった。煤けた人々は出鱈目に唄っていた。海のような色の空を頭上に仰ぎ、体のうちから湧いてくる熱情を口から迸らせていた。それは愛の唄だった。労働者たちは心の底から愛を唄っていた。もちろん鉱山を占拠していた。工場も占拠していた。野菜市場も占拠していた。バリケードをつくっていたし、男たちは弾薬ベルトを腰に巻き、水平二連式の散弾銃を肩に背負っていた。それでも彼らは撃たれない自信があったのだが、それは自分たちが同士愛を唄っているからに他ならなかったわけだった。兵士たちは同志だ。彼らは我々と同じ貧乏人の出だ。女たちは金だらいを叩いた。子どもたちは紐に結んだハエを振り回した。高らかな愛の唄。兵士たちよ、おれたちと組もう。おれたちは同じ貧乏人じゃないか。



 それは確かに発砲命令だった。電話越しに聞こえたサンティアゴ将軍の声ははっきりとしていた。無政府主義者に対して発砲せよ。サラザール大尉は訊きなおした。

「威嚇発砲ですね?」

「無政府主義者に対して発砲せよ、と命じたのだ」

「閣下」サラザール大尉は異端審問会にかけられたガリレオ・ガリレイのように額の汗をぬぐい、やっとのことで言葉を吐き出した。「群衆のなかには婦女子もいるのです」

「大尉、もう一度言う。無政府主義者に対して発砲せよ。ストライキ参加者は全て無政府主義者とみなす」

 電話は切れた。電話室の蒸した空気を小窓からの風が涼しくした。風のなかには彼らのために唄われた愛の唱が流れていた。



 それは確かに銃声だった。でなければ断末魔の流れだった。侯爵は丘の上の庭園からそれを見ていた。街路に満ちていた労働者たちの黒い流れが白煙にあおられるようにして掻き消えていく。泣き声が聞こえた。ムーア人騎兵部隊が細い路地まで黒い背広の無政府主義者を追い回していた。最前列で黒旗をふっていた男だ。確かイタリア人だったはずだ。彼は筋金入りの無政府主義者はたいていイタリア人かロシア人なのだと思っていた。侯爵はその無政府主義者を個人的には全く知らなかったにもかかわらず、そして彼とその思想が相容れるときは永久に訪れないとわかっていたにもかかわらず、彼の命をいとおしみ、なんとか助けてやりたいという思いにかられた。だが、侯爵の願いとは別に無政府主義者の命は風前の灯だった。彼は閃き突き出されるムーア人の曲刀の一撃をきわどいところで逃がれながら、街路を走っていた。白い背の高い建物の二階の搬入口に飛び込もうとしているのがわかった。そこまで外階段が伸びていたからだ。無政府主義者は走った。あと数歩走れば階段というところで足がもつれて彼はうつ伏せに倒れた。馬が棹立ちになり、そして前足で無政府主義者は踏み潰された。

 侯爵は目をそらした。高い空に鳥が舞っていた。侯爵にはそれが何の鳥か分からなかった。だが、その鳥の姿に一瞬心を打たれ呆けたように口を開け全ての人間が鳥のように自由だったらと思った。だが、考え直した。鳥は鳥で鷲や猟師の心配をしなければならないのだ。結局、命とは束縛され苦しみぬく定めに生まれついているのだ。



 街路――怒声。猟銃をかけた男たち。武装する労働者。血塗られた植字工のスモック。女たちの国王を呪う声。キリストを呪う声。司祭を殺せ。政府を倒せ。首相を殺せ。ブルジョアどもに思い知らせてやれ。

 野菜市場――舗石や石畳をはがすもの、それを積み上げるもの、家から家具什器を持ち出すもの、それを積み上げるもの、野菜をかじるもの、それを積み上げるもの――バリケードができあがる。銃を持った労働者たちがその陰に隠れている。

 鉱山――最後の拠点。黒い旗が立っている。



 サラザール大尉の中隊は辻から辻、街路から街路へと武器を持った労働者たちを掃討しながら占拠された鉱山へ近づいていった。通りの雨水溝に血がたまっている。赤く引きずった跡が残る。通りにはジプシーたちの木賃宿が並んでいる。バルコニーから罵声――「ケダモノ! 人殺し!」。伍長が発砲すると植木鉢が飛び散った。甘い土と朱色の破片が兵士たちの真っ白な軍帽に降りかかる。

 気温が増す。空気がじっとりと嫌な動き方をする。兵士たちの顔は使い古された銅貨のように赤黒い。汗が浮かぶ。暑いからだ。

 本当にそれだけだろうか? 兵士たちは撃つ前にためらった。手つかずの小麦畑を前にした収穫人のように。まるで自分たちが金色の海を根こそぎにしてしまおうとしているのが分かっているかのように引き金を引くのをためらった。サラザール大尉は無作為に選んだ兵士のこめかみにピストルをつきつけて命令した。「撃て、撃たんか、馬鹿者!」

 いま自分たちは無政府主義者の残党を追って、鉱山へ向かっている。本当にそれだけだろうか? 彼らのなかには女子どもがまだ残っているはずだ。彼女たちも鉱山に追いつめているのだ。

 サラザール大尉は自分が死んでいることを確信する。自分はもう死んでしまった。死なねばならない。撃てと命じたあの瞬間から自分は死んでしまったのだ。



 かつて愛を唄った労働者たちは野菜市場の北、東、南で銃を持ち、兵士たちが西の入口から入ってくるのを待っている。兵士たちは並べられたカリフラワーや芽キャベツを蹴散らし、踏み潰しながら、市場の中心部へ近づいていく。日よけ布が外れ、野菜はカラカラに乾いている。先頭をゆく騎馬の士官が逃げ遅れた労働者を見つける。逃げる背中に三発の銃弾を撃ち込む。士官は笑う。「見事命中」

 三十発の散弾が士官を馬の鞍から吹き飛ばす。士官は空中でバラバラになり、ニンジンやキャベツや洋ナシのつまった箱にふりそそぐ。すぐに兵士たちが反撃する――見事な伏せ撃ちで。

 北と東と南から嵐のような銃弾が全てを破壊する荒々しい牡牛のごとく襲いかかってくる。兵士たちは立ち上がると、牛に追い立てられる闘牛士のごとく物陰に飛び込む。兵士の一人が撃たれ、伏せたまま自分の脳みそをかき集め、割れた頭に戻そうとする。兄弟らしい男が銃を捨て、軍服が血で汚れるのも構わず、崩れかけた頭を抱きかかえる。

 フアニート!――男は叫ぶ――フアニート!――フアニート!――ああ、なんてこった、フアニート!



「交換です」

「市外へ。カルメロナのオリバーレス・ホテルを」

「少々お待ちください」

 ………………

「オリバーレス・ホテル、フロントでございます」

「わたしはイスパニョーラ出版のフローレスというものだ。そちらにデオドロ・オリヴェイラという男が一人宿泊していると思うんだが?」

「少々お待ちください……はい、確かに。オリヴェイラ様は当ホテルに滞在しておられます」

「いまの音は?」

「なんでもございません。その、ただの銃声でございます……」

「銃声とはただごとならぬね」

「ご安心ください。市内の騒乱はもはや鎮圧され、残すはホテルとは真反対の地域のみに限定されてございます。念のため、お客様には外出を控えていただくよう申し上げておりますが……」

「オリヴェイラは?」

「はい、オリヴェイラ様は……申し訳ありません。オリヴェイラ様は今朝方外出されたと」

「そういう男だ、あいつは。戻ったらすぐ連絡をよこすよう伝えてくれ。こちらの番号は……」



 ムーア人騎兵隊が野菜市場の労働者たちの側面をつこうとアルバレス通りを大きく回り込んだが、すでに通り沿いの建物の窓や屋根に陣取った男たちがムーア人のターバンを狙って散弾を撃ち込み、前進を阻む。ムーア人たちはカービン銃を抜いて、開け放たれた窓に撃ち返す。

 ムーア人たちは壁にぺたりと背中をつけている。騎兵隊長は胃を絞られるような悔しさを覚える。「我々には大砲がない」。一日は二十四時間しかないとでも言うような口調だった。「我々には大砲がないんだ!」

 目の前に薬局がある。一階には通り抜けできる広い通路があって、そこに弾や水を運んでいる女たちの黒いスカーフが見え隠れしている。薬局の扉はテーブルで塞がれていて、銃眼のようになっている。七十五ミリ砲が一門あれば、薬局の通り抜け廊下をふさぐバリケードは木っ端微塵できる。それで野菜市場の背後をつける。サラザール大尉の中隊と連絡できるのだ。



 師団司令部のある町から特別列車が出発する。ずんぐりしたフランス製の機関車と士官用の車両、輸送車両に満載された百二十名の兵士たち、そして、七十五ミリ砲をのせた貨車。

 士官用車両には将軍、それに参謀将校たち。ひろげられた地図にはカルメロナの町が広がっている。地図の端には『カルメロナ鉄道観光協会』。縮尺は三万分の一。建物は赤く、街路は白く、そして教会には十字架の印が打ってある。



 豆を炒るような音が聞こえてくる。銃声だ。デオドロ・オリヴェイラ博士はずりさがってきた眼鏡をかけなおして、画板の紐を肩にかけなおした。サラザール大尉は憔悴している様子だった。オリヴェイラ博士は初めて大尉を見たときに感じたあの印象がどこにいってしまったのか、いつそれを見失ってしまったのかを思い出そうとした。どうしても思い出せなかった。あの力強い、精悍な、美しさ――服や花ではなく研ぎ澄まされた剣に付随する、見ているものの心を引き締める特殊な美しさが手から砂が零れ落ちるようにみるみると失われていったのはなぜであったのか考えれば、それはあの発砲命令に行き当たる。

 城壁の陰で物思いにふけっている大尉に言葉をかけると、大尉は、

「なにも言わないでください、先生。わかっています。愛を殺したのです。さっきまで世界はあんなに涼しく愛の唄に溢れていたのに。わたしが殺してしまったのです。もはや世界には憎むこととやけつく暑さがあるのみです。わたしは自分の兵士を死の淵まで率いなければならない。わたしは死なねばならない」

「あなたは軍人としての責務と人間としての愛とのあいだで揺れ動いた。その動きだけでも生きた証といえるのでは?」

「結末が重要なのです。わたしは発砲命令を自身の犠牲と引き換えに握りつぶすことができた。だが、それをしなかった。愛を唄いながら我々を抱こうとした友人たちをわたしは殺したのです。それだけでも万死に値します。ほら、見えますか。ロマーネス鉱山です。黒い旗が立っているでしょう。彼らの最後の砦です、いまは野菜市場で持ちこたえていますが、それも時間の問題です。ムーア人騎兵部隊が側面をつき、治安警備隊が戦闘地域への通行を一切封じています。あとは大砲があれば、カタがつく。労働者たちはやがて野菜市場を放棄して、鉱山へ逃げ込むでしょう。わたしはそこで死ななければいけない」

「わたしになにかできることは?」

 大尉はまぶしそうに目を細めて笑った。「最後まで記録してください」

 サラザール大尉は十人の兵士を引き連れて野菜市場の最前線へ戻っていった。開け放たれた城門から銃弾が飛び込んでくる。一頭の軍馬が内臓をまき散らしながら屋台に突っ込んだ。サラザール大尉は持っていたモーゼル・ピストルでとどめを刺してやると、街路を散開して相手の出方を探るように射撃をするよう部下に命じた。労働者たちの占領地域から轟音がしたのはそのときだった。



 火がステンドグラスを食い破り、煤けた黒煙を撒き散らしながら空へ立ちのぼった。側壁で分けられた区画からも勢いよく炎が出ている。

 大聖堂から火が出ると侯爵は思わず、ああと嘆き二度十字を切った。罪深いことが行われた。望遠鏡を覗く――火をつけたのは……労働者だ!



「火をつけたのか?」

「ああ」

「どうして?」

「おれたちが飢えたとき、やつらは何をした? 手を差し伸べてくれたか? むしろおれたちの手をつかんでその血を吸い上げたじゃないか?」

「司教たちはどうなった?」

「死んだよ。聖具室に立て篭もったところにダイナマイトを放り込んだ」

「これでおれたちは死ぬしかなくなったな。政府と教会はおれたちを皆殺しにするだろうよ」

「そうだな、お前、地獄を信じてるか?」

「いや、坊主たちがおれたちを山に縛りつけるためにつくったたわ言だと思っている。侯爵や司教みたいな連中は人間が無制限の自由を得ることが神に対する忘恩だと思っている。だが、地獄があるとしたら、いまおれたちが生きているこの場所こそが地獄だ。ロマーネス鉱山こそ本物の地獄だ。パンの値段が二倍に上がっても給金はもとのまま。かきださなきゃならないボタ石はそれこそ穴の奥にごまんとある。もう一振りだってつるはしも振れねえ。それほどおれたちは追いつめられているって訴えたとき、やつらは言葉でごまかそうとした。言葉じゃ腹はふくらまねえよ。神さまなんてくそくらえさ。でも、兵隊たちは? どうして兵隊たちはおれたちを撃った。あいつらだって同じ人間だ。同じ貧乏人だ」



「……同じ貧乏人だ。おれたちの生まれとやつらの生まれ、どっこいどっこいだ。なのになぜおれたちはあいつらを撃ったんだ?」

「大尉の命令だった」

「大尉はどうしてあいつらを撃てだなんて命令したんだ」

「知らねえよ、そんなこと」

「おれたちは大きな間違いをしてるんじゃねえのか?」

「どうだろうな。やつらは結局武装してたわけだし、現にいまも教会も吹き飛ばしてるじゃねえか」

「教会を吹き飛ばしたのはよくねえことだ。よくねえことだ……」



 太陽はぎらついていた。雲が蒸発し、市街は油を敷いた鍋のように熱く、光はマグネシウムのように眩かった。街路では全てが白く輝いていた。血や銃すらも白く見えた。



 野菜市場の時計塔に機関銃が据えられた。マキシム製で二百発の弾薬ベルトがついている。

 タッタッタッタッ。

 機関銃はバリケードを速射し、労働者を、女子どもを容赦なくなぎ倒していく。

 タッタッタッタッ。

 漆喰が飛び散り、扉がはじけ飛ぶ。

 野菜市場の南門で爆発が起こる。大砲が到着したのだ!

 サラザール大尉は自動拳銃の挿弾子を詰め替え、前進命令を出す。「三歩ずつ距離をとれ」

 野菜市場には負傷者と死者が転がっている。

 甲高い喚き声。ムーア人騎兵が北のバリケードの生き残り目指して刀をふりまわして突っ込んでいく。

 タッタッタッタッ。

 機関銃が柱廊から労働者たちを燻し出す。よろめき出たところをムーア人がすくい上げるように斬り殺していく。

「前進だ」サラザール大尉は叫び声をあげた。「このまま鉱山まで追い込め!」

 ムーア人部隊がその前衛を務める。うずくまったり、白旗をあげた男たちを見て、せせら笑う。かたことのスペイン語でののしる。「ムセイフシュギシャメ」

 赤いフェズをかぶった白髭のムーア人が銃剣で労働者の胸をえぐる。他のものも真似して、捕虜の白旗を奪ってそれでぶちのめし、喉笛を掻き切っていく。スペイン人の少尉が即席裁判で次々と労働者を銃殺していく。そのなかに高名な無政府主義者でコロ教授を見つける。コロ教授は白いハンカチをふりながら、降伏を要求している。「これが返事です」少尉は教授の太鼓腹に挿弾子一つ分の銃弾を撃ち込む。ムーア人騎兵隊のオロスコ大尉はもうじきカタがつくと勇躍している。「鉱山で一網打尽だ」

 オリヴェイラ博士は全てを手帳に記録している。

 ロマーネス鉱山までの白い道に赤い血たまりが点々と残っている。その道をサラザール大尉は進む。「おれは死なねばならん、おれは死なねばならん」



 到着したばかりの将軍を侯爵は駅で出迎えた。

「これは侯爵閣下。よくぞご無事で。我々が来たからにはもう無政府主義者どもの好きにはさせはしません」



 増援部隊と七十五ミリ砲がサラザール大尉の部隊を補強し、一気に攻勢をかける。一軒ずつドアを蹴破り、武器をもったものがいないかを確かめる作業がつづく。隠し持った武器を生き残った老人や女子どもは素直に渡す。錆びたリボルバー、果物ナイフ、ふしくれだらけの棍棒。

「ライフルは?」増援部隊のマゼラス大尉ががなりたてる。「散弾銃は? 爆薬は?」

「みんな山のなかだよ。最後までやるやつがもっていってしまったよ」老婆が言った。

 マゼラス大尉は軍曹を呼び、壁に並ばせた労働者たちのうち誰か一人を射殺しろと命じた。

 軍曹は言った。「大尉殿。兵士たちは戦いにおいてはまったく欠けることなくその勇気を示してくれますが、処刑となると自信はもてません」

「おれが自分でやる」

 大尉は並んでいるうちで印刷工のスモックを着た十七、八歳の労働者を撃ち殺すことに決めた。大尉はスモックをつかんで道の真ん中に引きずり出すと、泣きながら命乞いをする印刷工の額に銃口をあて、引き金を引いた。

「まだ武器を隠し持っているものはいますぐ出て来い。次は二人処刑する」

 住民はあわてて出てきて、武器になりそうなものを震える手で軍におさめた。待ち針。はさみの欠けたもの。フライパン。

 マゼラス大尉は先ほどと同じスモックを着た若者を二人引きずり出し、額に狙いをつけて撃鉄をあげた。

「何をしている!」サラザール大尉が戻ってきた。「これはいったいどういうことだ」

「不良分子の抽出ですよ」マゼラス大尉は言った。「武器を隠し持っているんです」

「武器などここにはもうない。みなロマーネス鉱山に持ち出された」

「あなたはわたしが嘘をつかれてるとでも」

 マゼラス大尉の目がうつろに光りだした。サラザール大尉はホルスターのボタンを開けて、後ろに一歩下がった。軍曹はどちらについたらよいのかわからず手をぶらりとさげたままにしている。

「武器の抽出は完了した」最初に口を切ったのはサラザール大尉だった。「あとはロマーネス鉱山だ。そこで決着がつく。死ぬのが怖くなければな」

 マゼラス大尉の顔が一瞬こわばったがすぐ柔らかくなり「ロマーネス鉱山」といった。「ロマーネス鉱山」

「そうだ、ロマーネスだ」

「このままで済むと思わないでいただきたい」

「そんな気は微塵もない」サラザール大尉は言った。「おれはあそこで死ぬのだ」

 マゼラス大尉の顔に初めて動揺が見えた。



 城門外の居酒屋に一人の物書きが現れる。デオドロ・オリヴェイラ博士だ。博士はなにかキツい酒とじゃがいもを揚げたものを注文した。客は他に誰もいない。

「市内で銃撃戦ですからね。営業してるだけでも珍しいくらいでさあ」

「コロ教授が」

「はい?」

「コロ教授が殺された。スペインを代表する政治学者のアウグスト・コロ・イ・フェルナンデス教授がまるで野良犬のように」博士は火酒をあおり、咳き込み、空気を吸うとまた言った。「やつらはケダモノだ」

「ムーア人はケダモノですよ」

「違う違う、スペイン人だ。コロ教授を殺したのはスペインの若い少尉だった。そいつが笑いながらスペイン最高の頭脳を持つ男の腹に鉛玉をあびせ続けた」

「そのスペイン最高の頭脳とやらも無政府主義者で?」

「ああ、あの場にいたのだから間違いない。くそっ。それでも他に」

「ありゃしませんよ、旦那」

「なに?」

「この町からは愛が消えた。唄も消えた。あと残るのは銃と爆薬だけでさ。この二つを前にしちゃ国王も教授も関係ありやせん」



 サラザール大尉は自ら一人を撃ち、残る三人を壊走させた。鉱山施設の入口は目の前だった。銑鉄の巨大な門。そのわきに負傷した兵士が一人止血帯をかみながら、右腕の出血を必死に抑えようとしていた。彼岸の距離は二十メートル。機関銃は少しずつ前進し労働者たちを坑道に追いつめている。

「おれはあそこで死ぬのだ」

 ぽっかり口を開けた黒い入口を穴が開くほど強く睨み、サラザール大尉は前進を開始する。



 駅のプラットホームに降り立った将軍はこれまでの戦闘経過を事細かに記した報告書に素早く目を通し、満足する。将軍は駅のバルコニーへ歩き出す。参謀たちもついていく。将軍は小柄だ。胸板は厚いが顔が細く口髭と顎鬚も白くなり老人の印象が拭えない。彼はまだ五十一に過ぎないのに。

 右手、丘の上に庭園がある。「あれは?」

「はい、閣下。あれはロマーネス侯爵の庭園でございます」

「あそこを司令部に使おう」

「はい、閣下」



 坑道内では銃撃戦が始まっている。顔を黒くした労働者たちは太陽の光に浮かぶ兵隊の姿に散弾を見舞っていく。

「うわあ、はらわた、おれのはらわたが」

 労働者は小さな小部屋にこもって徹底抗戦する。深入りするとどこから発砲されるか分からないのだ。

 マゼラス大尉が名案を思いつく。ダイナマイトをのせたトロッコを送り込んでやるのだ。この作戦が採用されると穴が次々と崩れ、労働者も女も子どもも生き埋めになった。マゼラス大尉の部隊は崩れた土の上を前進し、生残者を射殺していく。

 もっと奥にいるだろう。マゼラス大尉は小さな穴を不用意にのぞく。猟銃が業火を噴き出す。マゼラス大尉の両目と鉤鼻が八方に飛び散っていく。



 サラザール大尉は第一鉱区まで進撃した。放棄されたトロッコ。ツルハシ。半分が水につかっていて、無政府主義者のパンフレットが束になっていくつも浮いていた。部下も労働者も全員戦死していた。

「おれはここで死ぬ」

 大尉は膝まで水に浸かり何度も顔を水に浸した。

「おれはここで死ぬ」

 労働者が一人生き残っていた。手には導火線が燃えるダイナマイト。

「おれはここで死ぬ」



 将軍は仮眠をとっていたところを起こされた。

「閣下、叛徒は完璧に鎮圧されました」

「そうか」

「申し上げにくいのですが、サラザール大尉とマゼラス大尉が戦死されて……」

「彼らのことは十字勲功章に推薦しておく。よくやってくれた」



 数日後、真夏の太陽がぎらついていた。

 人々は兵隊たちの監視の下で通常どおりの生活を営もうとしている。

 侯爵は自身の領地で馬を駆った。いくつかの椰子の並木道を通ると坂を駆け上がり、あのいまわしい鉱山の入口までやってきた。支配人が近づいてきた。「なにか、御用ですか?」

「自分の持ち物を確認しにきただけだ」

「何一つ問題はございません。ストライキも終わり、反抗的な労働者は一掃され、通常通り操業しております。何一つ異常はございません」

「だが、唄が聞こえるではないか」

「は?」

 蒼ざめた顔の侯爵は、立ち入り禁止となっている第一鉱区の入口を指した。

「唄だ、間違いない。あれは確かに唄だ。でなければ、清らかな音の流れだよ」

                                      (了)

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[一言] いつも楽しく拝読しております。このお話は難しいです主人公がいな、くはないですが。 主人公の使命に忠実な模範ではない。物語の趣旨は複数の人物の行動によってバラバラに伝えられるのですね。組み立て…
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