本番の輪郭
「江川っ!江川っ!江川っ!」
スタンドから響く歓声に、江川は特にはしゃぐまでもなく、口元を緩ませて右手を上げた。駆け寄る仲間にも照れくさくタッチに応じるだけだった。ベンチに駆けてきた江川に、普段は選手以上にはしゃぐバドマン監督も、静かに手を差し出した。
「グッジョブ!これからも頼む」
「はい。頑張ります」
がっちり握手をかわし、賛辞を送る指揮官に江川は笑顔で頭を下げた。その落ちついた振る舞いは、貫禄すら感じさせた。
「彼は非常に面白い。わずかながら、中盤の輪郭が見えてきたね」
バドマン監督はそう呟いた。
奮起していたのは江川だけではない。バゼルビッチに代わって起用された沼井は、強みである視野の広さと判断の早さで相手の反撃の芽を摘んでいた。
(俺には他の人と比べて背がない…。だからしっかりクレバーなプレーできるとこ見せないと。…生き残ってやる)
鹿島との試合は、非常に白熱したものであった。本番が近いこともあって、選手たちの本気度が違う。その中で和歌山の選手たちは、鹿島の選手たちの激しいプレスに手を焼いた。特にディフェンダーが仕掛けるタックルやスライディングが、J2の時のそれらと比べて激しいのに粗くない。ラインコントロールのレベルも高く、この試合はオフサイドをとられることが多かった。
「げえっ!これオフサイドかい。やんにくいなあ〜」
オフサイドで試合が止まるたび、剣崎は愚痴をこぼす。それでいて息が上がらないのはさすがの馬力だ。一方で、野口は序盤から飛ばしたツケが来て、足が止まる時間が増えた。
「剣崎って…何食ってこんな身体になってんだ?強いし速いしバテないし…」
野口が呟いたことは、ベンチのマッケンジーフィジカルコーチの思考と同じだった。
『全く、奴は化け物だ。一人だけ背中にバッテリーを繋いでいるかのような持久力だ。あれだけ激しくマークされても動けるのは、世界レベルでもそうはおらんな』
『だろう。私は彼がプレミアのピッチに立つ姿が容易に想像できるのだが、君はどう思うかね?』
そこにバドマン監督は自慢気に剣崎の才能を語る。マッケンジーコーチはため息をついて、淡々と答えた。
『お前と意見が合うとは珍しいな。だが、確かに奴はプレミアでも通じる。むしろスペインに投じれば、歴史を動かすかもしれん』
『ほう。そのココロは?』
『レアルとバルサの2強政権にケリをつけるだけの資質を感じる。いつか奴が世界に挑む姿が見たいものだ』
前半は1−0で折り返す。後半に向けては、野口に代わって竹内、栗栖に代わって矢神が出場した。
後半、この男のギアが上がる。前半は相手のマークに苦しんだ小宮は、相手の癖を見抜いたか一歩早い判断でかわすようなる。
「さあてパスを出せるようになったんだ。貴様ら合わせろよ」
右に左にパスを散らす小宮。その中で桐嶋に初めてパスが通った。
(あっぶねえ…。シャクだけど、あいつの考えがわかってねえとパスのタイミングがあわねえ。脳で汗かけってこういうことか)
ドリブルで攻めながら、桐嶋は頭を動かす。これまでは自分が動くことでコースを作っていると考えていたが、実際はパサーの求めるところには走れてはいない。お互いの意図を合わせることで初めてパスが通る。前半、小西の動きを観察することでなんとなくそう感じた。
実際、桐嶋は小宮からパスを受けたあとは得意のドリブルで、思い通りに攻め込めた。相手ディフェンダーの対応が一歩遅かった。しかし、自分が速いというより、小宮が求めていたコースを走ったらそうなった。成り行きで攻め込めたあたり、小宮の俯瞰性を物語っていた。
そのまま桐嶋はゴール前にアーリークロスを打ち上げる。ドンピシャリの体勢で、剣崎がゴールに叩き込んだ。
その瞬間、桐嶋には新たな疑問が浮かんだ。
「あれ?剣崎はそういうの…考えてできてんのか?」
「くっ!」
友成が懸命に伸ばした左手の先を、ボールが横切りゴールネットを揺らした。
剣崎の追加点で火がついたか、鹿島のセルジオ監督は次々と攻撃的なカードを切ってきた。その効果は早いうちに出た。途中出場のFW豊原のシュートのこぼれ球を近藤が押し込んだのが今のゴールだ。
「あー向こうの圧力強くなってきやがった…」
「J1ってやっぱりすげえんだな。ベンチにああいう選手がゴロゴロいるんだな…」
その後も続いた猛攻に、和歌山サイドのゴール裏からため息が漏れてきた。
「ばかやろうっ!サポーターがあきらめてどうすんだっ!」
そう一喝したのは、サポーターグループのリーダー、ケンジだ。トラメガを片手にスタンドのサポーターに檄を飛ばした。
「今年俺たちはJ1で戦うんだぞっ!いまからそんな泣き言抜かすなっ!ピッチの選手たちはこれから未知の世界に挑むんだ。そんな中でスタンドの日常を保つのが俺たちの仕事だっ!いいか、もっかい声出すぞぉっ!!」
太鼓が響き、手拍子をしながらサポーターが「和ー歌やっまっ!!」と連呼する。それをスタンドに無料招待されていた子供たちが真似しだした。その中からお調子者の中学生が見よう見まねで音頭を取り出した。
いつもより大きな声援が選手に送られた。
「ははっ!こんだけ声援あって、負けたらカッコ悪いぜ。小宮っ、クリは下がっちまったからな。頼むぜっ!」
そう言って剣崎は動き出す。対して小宮はあきれ笑う。
「おいおい誰に向かって命令してんだ?ゴール決めれなかったらただじゃおかねえぞ」
そう言いながら、小宮は一本のパスを出す。剣崎だけが扱えるような特別な難易度のボール。それを剣崎は、ゴールではなく竹内の足元に落としたのだった。竹内は一瞬驚いたのだが、それを実に理想的なシュートで仕留めた。その瞬間、剣崎は竹内を指差して立てた親指を胸に当てた。
「俺のお陰だぜ?」
そう言っているようでもあった。
「よう、とりあえず」
試合はその後1点返されたが3−2で勝利。その中で桐嶋は小宮に歩んで手を差し出した。
「手打ちってやつか?まあ、パスを拾えたことに免じてやるか」
上から目線の悪態をつきながら、小宮は応じてタッチをかわした。
「なあ小宮。剣崎ってお前の考えてること、わかってプレーしてんのか?」
「んなわけねえだろ。あいつは丸出し単細胞。ただ単にゴールに突っ走ってるだけ。俺もそれに合わせて適当に出してるだけだ」
「はい?」
自分の考えを鼻で否定され、桐嶋はがくりとくる。
「ま、ひとつ言えるのはあいつと同じ次元でプレーできるのはごく一部。お前が及ぶ次元じゃないから、凡人は大人しくベスト尽くすのに徹しとけ」
そう言って小宮はピッチを後にする。
「やっぱあいつとはやってらんねえわ…」
立ち尽くして桐嶋は愚痴をこぼした。




