第五話 『力を手に入れた者、意地を貫く者』
ジンが箱に拳を叩きつけ、その外装を破り、なんでも良いからと内側の部品を引きずり出した瞬間、ジンは頭の中が真っ白になった。
どういうことかと考えることすらできなくなり、四肢の感覚も無くなって、体全体に衝撃を感じたことで、初めて階段下の床へと落ちたことがわかった。しかしその感触も、頭を埋め尽くす記憶に埋もれて行く。
いったいどんな記憶か。それはこの記憶の氾濫が終わってみなければわからない。そもそも終わることはあるのだろうか。景色の記憶。触覚の記憶。知識としての記憶。無意識の記憶。それらがすべて合わさり、色の無い白という感覚。その白さはジンの意識をすべて洗い流すかの様に美しく、このままそれに染まれば、どれだけの快楽だろうかと思えてくる。それは眠りへの誘惑に似ていた。自分だけの記憶など、この白い記憶に比べれば酷くちっぽけだ。そうだ、自分はこの白い記憶を―――
(ずっと待ってたんだ!)
いくら溢れる記憶と言えども、取捨選択できなければ意味は無い。そうしてもし手に入れることができたのなら、それは新たな力となるはずだ。
ジンは白い記憶の中で自分の維持しようと奮闘する。
(はっ。何が船の記憶による苦痛だ。そんなもんで、俺の頭を埋め尽くせると思うな!)
本音は非常に苦しい状況であったが、これに自分が耐えられなければ、この状態でずっといたカナはどうなるというのだ。自分がこれを乗り切ってこそ、カナも助かるというものだ。
そんな良く分からぬ希望を持って、ジンは手を伸ばした。白い記憶の中で、自分のための記憶を手に入れるために。
その伸ばした手が握り返される。
(なんだ?)
手の感触から、徐々に体全体の感覚が戻ってくる。視界も同様だ。目に映るのは、不愉快な顔をしたブライト・バーンズ。彼がジンの手を握っていた。
(仲直りでもしようとか?)
そんな美味い話は無い。老人はジンの手を自分側へと引く。結果、倒れているジンは、上半身だけ無理矢理起き上がることとなった。
「ふん!」
まるで力任せに老人がジンを投げた。前々から思っていたことだが、老人は素の力も途轍もない物を持っているらしい。投げられたジンは、ほんの少しだけ浮いた後、すぐ近くにあったクロガネの足へ叩きつけられた。階段から床に落ち、さらには巨大な足にぶつかる。2度の大きな衝撃のおかげで、ジンは記憶の海から漸く意識を現実へ戻すことができた。気分は最悪だったが。
「うえっ、吐きそう………」
鎧姿でなければとっくに吐いていたことだろう。頭がくらくらし、視界は未だに歪んでいる。手足に至っては、支えが無ければ立つこともできないだろう。今はクロガネの足に縋っている状態だ。
「気分が悪いのはこちらもじゃぞ? まさか躊躇無くあれを壊されるとは思わなんだ」
不機嫌そうなのはそれが理由か。ならばこちらとしては大成功と言ったところだ。カナもクロガネ胸部の空室で苦しむことはあるまい。
「いい加減、そっち有利で事が運ぶことも無くなったってことさ。運はこっちに転んできた」
「ほう。随分とダメージを受けている様じゃが、まだそんなことを言えるのか。事実、わしの狙いを潰せたが、あの装置の代わりなら、また用意すれば良いだけじゃ。邪魔者を潰してな」
「言ってろよ。俺をここに連れて来たのはあんただ。つまりこの結果は、爺さん、あんたが呼び込んだんだよ。不機嫌な理由はあんた自身にある」
そしてもっと不機嫌な状態にしてやろう。三半規管のブレが直ってきたところで、ジンはクロガネの足に縋る手を離す。まだ床が揺れる様な感覚が続くものの、まあ立てる。
「かもしれんなあ。じゃから、余計な好奇心は動かさんことにするよ。若いの、今すぐにおぬしを殺す」
ブライト・バーンズの死刑宣告。それを聞くだけで体が震えそうだ。彼の手がこちらに向けられているというのなら尚更である。
今までは対象を縛る魔法と、体術だけでジンと戦ってきたが、手加減をしていた故のことだろう。目の前の老人は魔法使い。本気での戦いなら魔法を使う。
「あの世があれば、また会おう」
その言葉と共に、ブライトの手が輝く。輝きはそれこそ光の速さでジンに届いた。というより、輝いた瞬間にジンの鎧が湯気を上げた。超高熱の魔法。それだと気が付くのは、それを防御した後のことである。もし防御が遅ければ、ジンは数秒間程魔法を浴びた後、丸焦げになっていたかもしれない。しかし、あくまでもしもの話だ。恐らくはとても威力のある魔法なのだろうが、ジンはそれを防ぐことに成功していた。
「………妙な奇跡を手に入れていた様じゃのう。どこでそういう力があると気が付いた」
ブライトは魔法を一旦止めた。おかげで周囲にもうもうと上がる水蒸気が晴れて、ジンの視界が広くなった。そうして映るのは、自分が手に持った丸い盾だ。黒く、盾とは思えぬ程に小さい。だが、やはりこれは盾なのだ。これのおかげでブライトの魔法を防ぐことができた。
「鎧の奇跡ってのは、本来、鎧の他に、こういう盾やらを出現させることができるらしい。どこでってのは、ついさっきとしか言えないけどな」
ジンは盾を持たぬ方の手で、自分の頭を叩く。金属を叩き合わせる様な音が部屋に響いた。
「………船の記憶から、自分の奇跡の知識を手に入れたじゃと?」
「あんた自身の研究だよな? この鎧の奇跡と黒い船は無関係じゃあないってのは。俺はそれに賭けたのさ。あんたに対抗できる奇跡の成長を、この船の中で手に入れるってことに」
可能性は低かった。しかし成功した。今、ジンの頭の中には、これまで以上に鎧の奇跡を使うための知識が詰まっていた。
「船から記憶を手に入れるなどと、あの装置の説明を聞いてそんなことを思い付いたのか」
「この船が、どうにも知識を伝えてくれてるってのは、前々からそうなんじゃあないかと思ってはいたんだ」
「以前、黒い船に捕えた時か。夢を見たな?」
ジンは頷いた。初めてこの黒い船を見つけた時、ブライトに敗れて船の内部に捕えられた。気絶したままの状態で運び込まれた自分だが、その時、空の彼方をさまよう様な夢と、黒い鎧を着こんだ自分が、今まで以上の鋭い動きで動く夢を見た。
後者に関しては、自分の願望が夢に反映されたものかと思っていたものの、カナがフェンリス魔法学校で見つけたブライトの研究資料のおかげで、別の考えがジンに浮かんだ。鎧の奇跡が黒い船と無関係で無いとしたら、以前に見た夢は、黒い船が伝える、鎧の奇跡の使い方だったのではないかと。
「夢は夢さ。結局はあまり意味の無いことだと思っていたが、この船に乗り込んでみる気にはなったよ」
運がこちらに向いてきたというのはそういうことだ。思い付きや低い可能性に賭けた黒い船への侵入だったが、賭けには勝ったかもしれない。今のジンには、今まで知らなかった鎧の使い方が幾つも頭に浮かんでくる。
「で、新たに得た知識の中には、わしを倒せるものがあったかの?」
「さて、試して見なきゃあ分からねえな。この盾も、あんたの魔法に耐えられるかどうかは正直分からなかったんだ」
ジンは手に持った黒い盾を見る。小さな盾だ。魔法どころか、普通の攻撃にすら防げそうに無いそれだが、その実、相手の攻撃や魔法を曲げる力を持っているらしい。
「鎧の奇跡は、奇跡所有者に頑強な鎧を与えるだけでなく、その鎧に合わせた道具も与える物じゃったというわけかのう。中々に有用な奇跡じゃ」
「奇跡なんて呼ばれてる物の殆どはそうなんじゃあねえか? 使い方を知らないだけで、本当はとんでもない力を秘めている。あんたを倒せるくらいにな」
盾を左手に持ち、次に右腕で虚空を掴む。何も無いはずのそこから重さを感じ、それは現実の物となって現れる。
盾を出したのなら、次は剣だ。ただし見た目は円錐状のランスに近い。長さは槍程に長く無いため、剣には一応見えなくも無い。この盾と剣、そして鎧がジンの奇跡の正体だった。道具の形状を思い浮かべて掴む。それだけの動作で現れるというのに、道具が現れるということを知らなかったため、今までは鎧だけが奇跡の全容だと勘違いしていた。
「俺の奇跡の本質はこの武器だったんだ。この武器を使うために鎧がある。こんな風にな!」
ジンは右手にもった剣の先端をブライトに向ける。剣の先端からは盾と同様の曲げる力が放出される。その力は、盾が所有者への危害を避ける様に曲げるのに対し、剣の曲げる力は、対象を抉る様に曲げる。力の進行方向にある物も空気も、曲げて壊しながらブライトを襲った。
「こりゃあ厄介じゃな」
あまり厄介そうには見える様子のブライトだが、ジンの攻撃を防ぐための魔法を使っていた。どうやら周囲の大気を圧縮し、空気の層を作ったらしい。塵も集まっているためか。ブライトの前方だけが薄く灰色に染まっている。曲げる力は空気の層のぶつかると、その進行を一旦止めた。
「飛び道具でしかも威力もあるときた。防ぐのも………難しいか!」
ブライトの魔法の壁は、ジンの攻撃に長く持たないらしい。空気の層で攻撃の進行を止めている間に、ブライトはこちらの攻撃方向を避ける様に移動する。そのすぐ後にジンの攻撃は空気の層すらも曲げて、その向こうの壁まで届いた。剣の力がぶつかると、壁が凹み、歪む。ヒビが壁全体に広がって想像以上の範囲で壁を破壊した。
「おっどろいたなあ。手加減とかできるのかね、これ」
壁の破壊状況はジンの想定外であった。一歩間違えれば、今いる部屋ごと壊してしまっただろう。部屋の向こうが外の可能性だってあるため、気を付けなければなるまい。ここは今、ハイジャングの遥か上空なのだから。
「手加減の方法については、おぬしが一番知っとるんじゃあないか? そのための知識だってあるだろうに」
「多分そうなんだが、どうにも頭がこんがらがったままでね。上手い具合に思い出せないんだよ。まあ、船が壊れたら許してくれ」
「そう簡単にはさせんさ」
再び相対し合うジンとブライト。両者共に、敵に致命的なダメージを与える方法を持っている。ジンは新たな奇跡、ブライトは魔法と、黒い船の力も未知数なところがある。
(今使っている奇跡以外で使える物は……無いな。というか、鎧の力ってのは今の状態がもっとも万全ってわけか。となれば、どう戦うかだ)
ジンはブライトに飛び掛かる。単調な攻撃かとブライトはその場に立ち、魔法でジンを宙に浮かそうとしながら、接近された場合に備えて戦闘態勢を取る。一方でジンの体は、最初の魔法の時点で自由を奪われている。空に浮いたままでは地に足が着かないので、魔法にあがなう術が無い。奇跡以外は。
「この盾にはこういう使い方もあるらしい」
宙に浮かせる魔法は、ジンの自由を奪う効果はあるものの、体の動きを縛る物では無い。例えば盾を持った左手を横に向ける程度のことはできる。そうして盾の機能を発揮した。盾は敵の攻撃を曲げることができると同時に、その力を使って、所有者の進行方向をも曲げることもできるのだ。宙に浮いたままでも重力は働き続ける。その重力を曲げ、収束させれば、魔法の呪縛を抜ける程の移動速度を出しながら、宙を飛び回れる。
下へ向かう重力を横に向けて、体ごと横に飛んで行く。勿論それでは老人から離れるだけなので、途中で軌道を変えて、老人を翻弄する様に周囲を回りながら、徐々に近づく。時には上下に、時には左右にブレながら、地面に足を着く時もあれば、さらに飛ぶ高度を上げる時もある。そうして老人がこちらを伺うための視界から、自分を見えなくしようとする。
「ここだ!」
遂には完全な背後を取った。盾の力を前への推進力に変えて突き進む。そうして老人に触れる前に右手の剣を突出し、破壊的な力を放出した―――が。
「来るなら背後から。それくらいわかっとるわい。なら、目で追えなくとも、防ぐ方法はある」
「ぐおっ!」
ジンの体が焼かれる。超高熱を放つ魔法か。先ほどと違うのは、それが老人の手からでなく、背中から放射されていることか。
その魔法が鎧を焼き尽くす前に、盾の力で進行方向を横にして、魔法の射線から逃れる。防ごうとも思ったが、手を前にして魔法を曲げている間に、自分が焼かれてしまうと思った。避けるだけなら盾の方向を少し傾けるだけで済むのだ。
「間一髪ってところかよ」
「やれやれ、こっちの台詞でもあるな」
老人がこちらを向く。彼の髪の左側面が千切れている。魔法の反撃で、こちらの剣による攻撃は大きくズレたものの、ほんの少しだけだが老人の体を掠めたらしい。老人の後方には、やはりひび割れた部屋の壁が存在した。
「死んでも生き返ってくる癖に、良く言うよな」
「確かに船の力で生き返ることはできるが、それでも限りがあるのでな。まさに限りある命というわけで、無下に失うのは惜しい」
口の減らない爺さんだ。異常な事を言っているというのに、この会話にも慣れて来た。危険な兆候である。
(俺も自分の奇跡にあてられてるな。ばかすかと奇跡の力を無暗に使えば、まるで自分が化け物になったとでも思い込んじまう)
事実、今の自分は人外の力を手にしている。空を飛び、攻撃を曲げ、大砲クラスの攻撃を自由に扱える。だからと言って上等な人間になったわけではない。ジンの性格はジンのままで、ただ単に、偶然と運とほんの少しの知略が合わさって、この力を手に入れた。それだけのことなのだ。
(自惚れるなよ。少しでもこの力の使い方を誤れば、痛い目を見るのは俺や俺の周囲だ)
今の自分は、赤ん坊が火掻き棒を持った様な状態だ。振り回せば凶器になるが、迂闊に触れれば大火傷をしてしまう。
「まあ、身に余る力を使いこなすってのも問題が無いわけでも無いか」
「力を危険無く自由に扱えるというのは、良いことに思うがのう」
「あんたみたいになるのが嫌なんだ」
目の前の老人は、圧倒的な力を使いこなして、馬鹿みたいな目的のために動いている。これも身に余る力を手に入れたが故だ。
「力を使うのは最小限に留めることにするよ。こういうのはあまり使わない方が良い」
この老人を倒すことだけに剣と盾は使う。そう決めると視野が広がった様な気がしてくる。今までは手に入れた力だけで敵を倒そうとしていたが、何も直接的に道具を使わなくても良いのだ。
「道具を十二分に使わず、どうすると言うのじゃ。普通の状態ではわしを倒せぬから、その力を手に入れたのじゃろう?」
まったく持ってその通りだ。ジン一人の力では、どう足掻いても老人に敵わぬから、新たな力を手に入れようとした。そうして実際に手に入れて、老人と互角に戦えている。しかし、もし別の倒し方があるのなら、そっちも利用するべきだ。
「俺一人なら、暫くこうやってやり合う必要があるだろうな。部屋もボロボロになっちまう。だけど、良く考えてみると違うんだよ。俺はあんたを倒したいけれど、別にそれが一番の目的じゃあ無かったんだ」
ジンは話しながら、左手にもった盾を老人の居る方に向ける。
「カナを苦しめるあの箱を壊した時点で、俺の目的は達成していたんだ。その後に手に入れた力は余計な物さ。あんたをわざわざこの力で倒す必要すらない」
「そうは言っても、わしはおぬしの行動を邪魔するつもりじゃぞ? まさか、ここで和解しようとは言うまいな」
「それこそまさかだ。ただ、邪魔なあんたを倒そうとするのは、何も俺だけじゃあ無い」
「………そういうことか!」
天上を見上げるブライトだが、もう遅い。クロガネが動き出し、巨大な拳を老人に叩きつけた。避ける暇さえなかっただろう。衝撃はジンまで届き、部屋全体に轟く。ジンの新たな力が壁にヒビを走らせる物だとしたら、クロガネの一撃は床に大きな穴を開ける。その直撃は、老人の体をコナゴナに砕いたはずだし、部屋自体にもダメージを与えていた。
ジンがその衝撃に耐えることができたのは、盾で自身の防御に専念したからだ。
「箱を壊した時点で、クロガネを縛る物は無くなってたんだよな。後はカナがクロガネを動かせる様になるのを待って、俺は盾の力で避難すれば良い」
ジンは、床に拳を振り下ろした状態で停止しているクロガネを見上げた。ジンが箱型装置を壊してから、ブライト・バーンズと戦っている間のどこかで、カナはクロガネの視界からこちらの戦いを見ていたのだろう。そうして、ジンを巻き込まずにブライトを倒せる隙を狙っていた。
ジンがそのことに気が付いたのは、一旦奇跡の力を自制しようとし、部屋全体を見渡した時だ。ジンがクロガネの顔付近を見るのと同時に、クロガネの方も少しだけ顔が動いた。
(動かせる様になったって合図なわけだ。短い間で俺の奇跡の力についても察知したみたいだし、大した観察眼だよ、まったく)
言外のチームワーク。ジンとカナがやったのはそれであり、その立役者こそカナ・マートンだった。
(っと、あいつもさっきまで変な箱で苦しまされてたわけだから、大丈夫かどうか確認しとかないとな)
一瞬だけとは言え、箱から流れ込む船の記憶は、正直、苦痛以外の何者でも無かった。長時間、その状態に晒されたカナはもっとだろう。今さらになり、心配になってきた。クロガネを動かした以上、ある程度の正気は保っているのだろうが。
(とりあえず確認しとくか)
ジンは床に刺さるクロガネの腕から、クロガネの胸部まで登り、そこを叩く。すると反応があった様で、胸部空室への扉が開いた。
中にはクロガネを動かすための杖と、それに縋る様に立つカナの姿がある。
「おいおい、酷い顔色だな。大丈夫か?」
カナの顔色は真っ青を通り越して白い。杖に縋りつく手も震えており、立つのが精一杯と言った様子だった。
「あ………ジン……先輩。助けに……来てくれたんですよね? ありがとう……ございます」
礼から入るとは律儀なことだ。だが、そんなことよりも、さっさと休ませてやりたい。例えそれができない状況だったとしても。
「船の記憶に関しては大丈夫だったか? 俺も体験したが、かなりキツいだろ、あれは」
「そう……ですね。けど、途中から、今まで流れていた記憶が忘れ去っていく感じがして………それからは楽になりました」
「へえ………」
どう見ても楽そうには見えないが、致命的な一線を越えなかった様ではある。恐らくは本能か何かの力で、パンクしそうな記憶を次々と忘れようとしたのだろう。船の記憶を個人がすべて手に入れるなど、到底不可能なのだ。不可能であるからこそ、人間の肉体は生きるために、記憶を忘れるという方法を取った。
(最初っから、爺さんの願いは叶わない物だったってことか)
無駄な行為のために、幾らもの人を巻き込んで、周囲を苦しめたわけだ。どう考えてもブライト・バーンズは犯罪者だった。
「楽だなんて言ったが、結構疲れてるだろ。すぐにここから逃げるぞ。あの爺さんがまたすぐにやってくるだろうからな」
「あの……ブライト・バーンズなら、私が確かに潰しましたよ?」
可愛い顔をして怖いことを言う娘だ。だが、真実の言葉である。
「どうにも、船の力で生き返ることができるらしいんだ。俺はそれで一杯喰わされた」
「………生き返る? それってもしかして………」
首を傾げるカナ。老人が生き返るというジンの言葉は確かに謎だろう。しかし、カナは何か思いついた事があるらしい。
「なんだ? あの爺さんが生き返る理由でも知ってるのか?」
「知っていると言うか、船の記憶を流し………込まれた……時………」
「待った。今はそれ以上考えるな。話はここを逃げ出してからだ」
何かを思い出そうとして、また顔色が悪くなっていくカナ。頭を働かせるのは、また後にするべきであろう。
「けど……逃げると言ってもどうやって? できればクロガネも黒い船から脱出させたいんですが………」
「クロガネもかあ……難しいが、とりあえず出口なら知ってるぞ」
「出口ですか? どこに?」
「床を殴ったクロガネの拳をどけてみな。別に爺さんの死体が残ってるわけじゃあないぜ?」
カナはジンの言葉に頷くと、恐る恐るクロガネの拳をどけた。その先にあるものは、凹んだ床と潰れたブライト・バーンズで無く、上空から見たハイジャングの景色だった。
どうやら現在いる大部屋は、黒い船の船底であり、クロガネはそこに穴を開けたのである。