第七話 『状況は漸く動き出す』
フライの顔に血飛沫が飛ぶ。その不快さに顔を歪めるフライだが、体に痛みは感じない。怪我などしていないのだから当たり前の話だ。
傷付き血を流しているのは、フライを襲おうとしたギャリウスの方である。自ら崩した壁の破片を手にし、肥大化した腕。その頑丈そうな腕の半分が裂け、辺りに流血を撒き散らしていた。
怪我を負わせたのはフライでは無い。フライはそんなことができる程の力は無い。彼の周囲でそういうことができるのはジンくらいだ。
「よう、うちの室長の話はまだ途中じゃねえか。最後まで聞いてやれよ」
黒い鎧姿のジンは、裂けたギャリウスの腕にクロスボウを当てながらそんな言葉を口にする。そう、ジンがフライを襲うギャリウスを、火薬を使ったあの新式クロスボウで撃ったのだ。
「ぐうおおおおおお!!!」
だまし討ちされたことに対する怒りか、腕の大怪我による痛みへの叫びか、ギャリウスは雄叫びを上げる。それは声だけでなく行動にも現れ、無傷の左腕までもが肥大化し、自分を傷つけた相手であるジンを叩こうとする。
ただし大振りだ。ジンとて騎士団で訓練を受けた身であるから、もっと細緻な動きでなければ、どれだけ威力があろうとも躱されてしまう。
そうしてジンはそれを躱すどころか恰好の隙と見た様で、相手の巨大な腕を掻い潜り、鳩尾目掛けて、鉄の拳を打ち込んだ。
「ぐうっ………うぅ」
空気の抜けた様な息を吐き、膝を床に突くギャリウス。ジンはさらにその状態のギャリウスに対して、丁度良い場所に来たとばかりに足で蹴り上げた。前屈みの姿勢から顔ごと体が反転し、仰向けに転がる。その後は動かなくなったので、気絶したか、もしくは死んだか。
(できれば生きていると良いなあ。証言者は多い方が後になって楽だ)
倒れたギャリウスを見てそんなことを考える。事はもうその後をどうするかという段階であろう。ミハエルはフライを仕留めることができず、暗殺は失敗した。後はどれだけの責任を彼に負わせるかだ。
「最初から彼を隠していた!? 態度に余裕があったのはそれが理由か!」
今さらになって驚くミハエル。だから人の話を良く聞く様にと言っただろうに。
「丁度良く部屋に荷物を入れる袋があってね。そこに隠れてもらっていたのだよ」
そう。ジンはずっと部屋の中に隠れていた。カナ・マートンがクロガネに乗らず、執務室に待機していた時も、彼女が部屋を出て行った後、ミハエル達が尋ねて来た時も、ずっとだ。良くもまあそれだけのあいだ待機してくれた物だと思う。特にカナ・マートンがフライに啖呵を切った時などは、何時飛び出してもおかしくは無かった。
まあ、彼女が自分の仕事をすると言い切ったおかげで、彼も自分の仕事を全うしようとしてくれただろうから、最終的には良かったのだろう。そんな彼に笑われぬ様に、フライも何時来るかわからぬミハエルを、姿勢を正しながら待っていたわけだ。
「卑怯とは言わんでくれよ? 君はその腕にある奇跡を持っていたということは、部屋に私以外もう一人いると気付ける余地があったわけだ。その奇跡について聞かされた時は、どうしたものかと冷や冷やしたが………」
暗殺を奇襲で返す。そんなフライの作戦は、ミハエル側の油断もあり、まんまと成功したわけである。
「魔奇対はあなた以外出払っているはずだった………」
「マートン君は今も戦ってくれているよ? しかし、このジンという男は、本来の仕事をほっぽりだして、ここでずっと待機していたというわけだ」
ジンに与えられた本来の任務は、黒い船との接触である。しかし、残念ながらその仕事についてはサボった形になるだろう。
「黒い船への接触任務について、別にやらなくても良いって言ったのは室長でしょうに」
半眼で睨んでくるジン。彼の言う通り、本来の任務で無く、特事の暗殺対策にジンの手を借りる事に決めたのはフライだ。
黒い船への接触はどうせ失敗する仕事なのだし、失敗したところでデメリットも少ない物だから、もっと優先順位の高い仕事を任せることにした。
これはジンとフライの間だけで取り交わした仕事であり、女王陛下ですら知らない。ただひたすらに研いだ爪を隠し、特事への反撃に活用することだけを目的とした物だった。
「直接戦闘に引き続き、情報戦もこちらが勝ち。さて、君には何が残るね」
一組織を裏で管理し、正式に国へ認可させる。それだけのことをした時点で、組織運営の才能はあっただろう。ただしやはり経験が足りない。若さはやはり若さだけの代物だ。慎重さが無く、おかしな度胸だけが存在すると言っても良い。メリットとデメリットを考えて、メリットが大きければデメリットを受け入れてしまうのだ。そのデメリットがたとえ命取りになったとしても。
「………ギャリウスの手当をお願いします。かなりの怪我だが、彼の奇跡は彼の生命力も増加させている。すぐに傷の処置をすれば、死ぬことはありませんから」
「ふん?」
ミハエルの言葉は、事実上の敗北宣言だった。もう既に自分自身に手は無く、ただ部下を気遣う上司の姿だけがそこに存在する。
「室長、どうする? もしかしたら、まだ何かを企んでるのかもしれないぜ?」
ジンの言うことももっともなのだが、何故だか今のミハエルの姿を見て、命だけは助けてやろうという気分になってしまった。両者共にこちらの命を狙ってきたのだから、許す必要は無いのであるが。
「ジン。とりあえず、そこのミハエル君を縄か何かで捕縛した後、倒れた男の方の応急処置をしてやれ。その後は国防騎士団に引き渡す」
「なんだよ、手心を加えてやるってのかよ。こいつらは、カナの親を殺した奴の仲間だぞ」
ジンは特事に対して重い罰を望んでいる様子だ。気持ちがわからぬでは無いが、ここはフライに従ってもらいたい。これでも彼の上司なのだし。
「見る限り、現状に対する諦めを感じてくれた様子だ。となれば、尋問すれば容易く情報を漏らしてくれるだろう。マートン君の関係者を殺した者の仲間。ではなく、それそのもの、ブライト・バーンズの情報をな」
フライはミハエルの顔を見る。やはりまだまだ若い。潔さだけがその表情にあり、意地汚く生きようとする気概を感じさせられない。そうしてその若さを見て、死ぬには早いとも思わせる。
「そこに倒れた大男を助ける見返りとして、君にはブライト・バーンズに関する情報をすべて、そう、すべて話して貰う。そうすれば命だけは助けてやろう。その後については、国防騎士団に暗殺の事実を伝えた上で引き渡すつもりだがね」
フライの言葉に頷くミハエル。彼にもプライドがあるのだろう。敗北した以上は、勝者に従うというプライドが。まあフライであれば、彼の立場になったのとしても、勝者側に対する嫌がらせは絶対に止めない。潔い誇りなんぞ若い頃、生ごみと一緒に捨ててしまった。今頃、どこかの海で魚の餌になり、そのまま糞として垂れ流されているだろう。そこらの感情についても、やはり経験の差が出たというところだろうか。
「さあ、ジン。とりあえずそこの男に応急処置だ。話の途中で死なれては、こちらも目覚めが悪い」
「………ったく。わかりましたよ、室長」
不満がありながらもこちらの言うことには従ってくれる。まあ、こちらの信頼というのもそれなりにあると思いたい。
部下との信頼というのなら、今でも戦っているカナ・マートンはどうだろうか。
「なんというか不安だな。部下を信用していないわけでは無いのだが………」
「俺も同じですよ。まだ、戦いは続いている様ですし」
カナ・マートンに関する評価については、フライとジンで共通の物だ。ここからは戦うクロガネの姿は見えない。だが、微振動を続ける町を見れば、未だにクロガネが戦っていることが、嫌でも分かってしまった。
「危ないかも………」
戦いが続く中で、カナはそんな言葉をクロガネ胸部空室内で漏らす。現在クロガネは、迫る三体の玉型ゴーレムからなんとか距離を置こうとしている。
玉になって転がれば、棍棒で弾かれると学習したらしい敵のゴーレム達は、四肢を伸ばした状態のまま、少しずつクロガネを追い詰める方法に戦い方を変えていた。
「何度も魔法の炎と棍棒で叩いているから、幾らかはこっちも被害を与えてると思うんだけど………」
玉型ゴーレム達は、至る所に凹みが出来ている。カナとクロガネが付けた物であり、若干ではあるが、その動きに支障が出始めている様子だ。だが、いかんせん、こちらの限界がもっと早く近づいて来ている。
幾らかはマシになったとは言え、クロガネに魔法を使わせるのはカナの疲労になり、予想より早くクロガネを動かせなくなりそうだった。
(戦いを長引かせるわけにはいかない。だから、敵の強靭な装甲を素早く破壊しなきゃ)
現在、クロガネを中心として三方向からゴーレムが迫っている。単純な戦い方では駄目だろう。単に棍棒で叩くだけでは敵の装甲を打ち破るのに時間が掛かる。
(工夫して戦うとなれば、魔法だよね。クロガネには私が使える魔法すべてが使えるってことなんだから)
敵へ試すための方法はカナが使える魔法の数だけありそうだ。だが残念ながら、そう色々と試す程の余裕がカナには無かった。
(試せて一つの魔法。それで三体のゴーレム全部を倒さなきゃいけない……どうしよう)
自分が一番得意な魔法を試してみようか。得意と言えば、物を触れずに動かす魔法だ。では玉型ゴーレムを吹き飛ばしてみるか。
(吹き飛ばしても、まだ動いて近づいて来るよね、きっと)
頑丈な上、転がればそれなりの速度を出せるため、短時間で再び接近してくるだろう。吹き飛ばしても、ほんの少しの時間稼ぎにしかなるまい。
思わず無理だと叫びたくなる。しかし迫る三体のうち一体がすぐ近くまで来たので、そうも言っていられない。
「このっ!」
左斜め前から迫る玉型ゴーレムが、玉から迫り出した手にあたる部分を伸ばしてくるので、その手を棍棒で弾く。すると牽制のつもりで放った一撃で、敵ゴーレムの手が千切れた。どうやら何度か叩くうちに耐久限界がきて脆くなっていたらしい。明確なダメージを与えられたことが嬉しい。しかしまだ本体は残ったままである。
「でも、これはもしかして………あっ――しまっ!」
玉型ゴーレムが、無事な方の腕でクロガネを掴んできた。それだけならば振り切ることもできただろうが、何時の間にかもう一体の玉型ゴーレムまでもがクロガネに接近しており、同じく背後から組みついてくる。
「大変……このままじゃあ」
二体のゴーレムに組みつかれた結果、クロガネの身動きがしづらくなった。片方のゴーレムはクロガネの左半身を、もう一方が背中に組みつき、大きく動けなくなったため、揺すっても外れない。これでさらにもう一体に組みつかれると、本当に身動きが取れなくなる。
(相手の目的はクロガネを捕まえること!? だったら、このままじゃあいられない。一か八か!)
カナは先ほど、ふと思い付いた方法を試してみようと思った。効果があるかはわからない。やってみるならこういう方法だろうという直感でしかない。しかし、今は他を考える時間さえなかった。
「ちゃんと、効いてよね!」
クロガネの棍棒へ魔力を通す。クロガネの体と棍棒。二つの魔力増幅機能が合わさり、少量の魔力でも莫大な物となっていく。カナはその魔力を調整し、魔法として空間に変化を引き起こした。起こる効果はもっとも得意な魔法、物を動かす魔法だ。
(普通なら効かないだろうけど、これなら!)
物を動かすだけなら、玉型ゴーレムを押したり引いたりする程度のことしかできないだろう。だが、動かす物と動かし方を工夫すれば、また違う結果になるはずだ。
カナが動かすのはクロガネが手に持った棍棒。その柄よりも上の部分。そして動かした方は―――
「なんとかぶつける!」
玉型ゴーレムに組みつかれず、まだ動かせるクロガネの右腕。そこに持つ棍棒を、左半身に組みつく玉型ゴーレムにぶつけた。
さきほど片腕を吹き飛ばした相手であり、今度はその胴体を狙う。姿勢が姿勢のため、それ程の威力は期待できそうにもない。しかし予想と現実は少し違っていた。
「わわわわ!!」
クロガネ全体が揺れる。大きな揺れで無く振動に近いそれは、左半身に組みついたゴーレムから流れて来た物だ。そして揺れの根本は敵ゴーレムにぶつけた棍棒だった。
カナは物を動かす魔法を棍棒にかけ、その動かし方は、柄より上の部分が微振動を繰り返すという物に調整していた。
微振動を繰り返す棍棒を敵にぶつければ、何度も棍棒をぶつけていることになるのではという発想だ。何度も棍棒で叩いた結果、壊れて吹き飛んだ敵ゴーレムの腕を見て思い付いた。
本当に単なる思い付きであったのだが、その効果はどうだろうか。
「思ったよりも………上手く行ったみたい」
クロガネの顔を動かし、左半身に組みついていたはずの玉型ゴーレムを見る。力が抜けた様に手を離しているゴーレム。その後、力なく地面に倒れたそれは、まるで死体の様だ。そういう意味では、クロガネ用の棍棒は致命的なダメージを敵に与えることができたらしい。棍棒をぶつけた胴体の玉の部分が、丸く削れていた。
「棍棒の素材は頑丈。芯に柔軟で固い竜骨が使われてる。だから上手く行ったのかも………」
竜骨自体は金属質で固いのに、柔軟性に富む。さらに形状をある程度保とうとする性質があるらしく、カナの魔法で揺らした結果、揺れては元の形に戻ろうとするを繰り返した様だ。結果、カナが想定した以上の速度と回数で棍棒は振動した。さながら細い竹の棒を指で弾いたかの如く。それに加えて棍棒自体の頑丈さ。敵を叩くどころか、削り抉ることができるほどに威力を増した棍棒は、頑丈なはずの玉型ゴーレムを、容易く壊すことができたのである。
「これなら他の二体もすぐに倒せる!」
次にカナは、背中に組みつく玉型ゴーレムを、自由になった左半身も使って大きく横へ揺らすことで振り切る。おかげでなんとか敵ゴーレムは腕を離してくれた。細かな動きはクロガネの方が早い。素早く振り返り、振動する棍棒を胴体にぶつける。
ガリガリと言う音が聞こえてきそうな程に気分良く敵ゴーレムの体が削れていく。横から薙いだ様な形で叩いた棍棒は、そのまま玉型ゴーレムを真っ二つにする勢いだ。
しかし実際は、半ば程で敵ゴーレムの踏ん張りが無くなり、棍棒を振る方向へと跳んだ。そうして地面に倒れたまま動かなくなる。
「あと一つ! あれ?」
倒れたゴーレムは二体。残る玉型ゴーレムは一体。だというのに、三体のゴーレムが何時の間にか倒れていた。つまり敵が全滅している。
「ちょ、ちょっと待って。残り一つはまだ動いてたはずよ!?」
倒した覚えのない残り一体の敵ゴーレムを見る。棍棒で何度か叩いたため、目に見える傷はあるものの、動けなくなる程の物には見えなかった。
「な、何かの罠だったりして」
怪しい敵ゴーレムにクロガネを少し近づけて、観察を続ける。やはり目立った傷は見当たらない。実は内部が故障している可能性も無いわけではないだろうが。
「罠……とかじゃないよね」
死んだふりをしてこちらの油断を誘おうとしている。そんな風にも考えられる。ではカナはどうすべきか。
「とりあえず……止めは刺して置かないとね」
不審だろうとなんだろうと、本当に動けなくなる傷を負わせてしまえば良い。そう結論付けたカナは、震える棍棒をクロガネに持ち上げさせ、倒れたゴーレムに叩きつけようとする。その時、視界が少し暗くなった。
「雲?」
丁度、太陽に雲が掛かった様に周囲が暗くなった。なんだろうとクロガネの視界を出来るだけ上空に向かわせる。そこで映った光景に、カナは開いた口が閉まらなくなった。
「なんで……黒い船がここに!?」
太陽とクロガネの間には、雲でなく黒い大きな船が浮かんでいた。町と黒い船の間にはまだかなりの距離があったはずだ。クロガネが玉型ゴーレムと戦う間に、町のすぐそばまでやって来られる程の速度ですらなかった。
「そうか、最初からクロガネが目的だったのなら、ノロノロと進む必要すら無かったんだ!」
迂闊だった。敵は玉型ゴーレムなどで無く、町へ近づく黒い船だったのだ。次にどんな手を打ってくるか。
カナは暫く黒い船を睨み付けていたが、そのせいで気付くのが遅れてしまう。倒れたフリをしていた最後の玉型ゴーレムが、再び起き上がり、真正面からクロガネに組みついて来る。
「しまっ―――えっ」
組みついたゴーレムは爆発した。いや、カナにはそう見えたが、クロガネが無事のままだった以上、正真正銘の爆発では無かったのだろう。爆発の際の煙は赤や黄などカラフルであり、襲ってくるはずの衝撃も感じない。爆発の後にはひらひらとした紙切れが幾つも落ちて来て、真剣なこちらを馬鹿にしている様ですらあった。
「な、なんなのよ、これ」
漸くカナは腹立たしさを感じる。今、カナは完全に虚を突かれた。死を覚悟すらした。だというのに、結果は意味の無い煙が出ただけで、煙を出し終えた敵ゴーレムは、クロガネから手を離して、また地面に倒れた。
ただし、事はそれで終わらなかった。倒れた敵ゴーレムの上に、何時の間にか一人の老人が立っていたのである。先ほどの煙が出た瞬間に現れたのだろうか。だとしたら、倒れるゴーレムに巻き込まれても、姿勢を崩さず無事なままという可笑しな状況になるが。
老人はこちらに向けて何かを喋っている。そうしてこちらに辞儀をした。いったい何をしているのだろうか。良く見れば、老人の顔には見覚えがある。フェンリス魔法学校の封蔵図書内にあったブライト・バーンズの肖像画そっくりなのだ。
「え、じゃあ、あれが私達の敵?」
立っている場所と現れ方さえ考慮しなければ、ただの老人だ。笑顔で愛想が良くも見える。その姿が不気味だった。彼はカナの師であるフレア・マートンを殺した相手であるはずなのに、そうは思うことすらできない。そのことが尚更カナに奇妙さを感じさせていた。
「なんで………そんなに普通なの?」
老人の姿はいたって可笑しなところが無く、飄々としている。玉型ゴーレムが転がり、戦いの跡が辺りに残る場所で、巨大ゴーレムのクロガネが老人を見下ろしているという普通では無い状況だというのに。
「ふざけないで!」
いい加減怒りも湧いてくる。仇であり敵である相手が、こうも余裕を持っている姿は見るに堪えない。このクロガネの拳を叩きつけてやろうか。そんなことを考えた時、カナは自分の身に起こる違和感に気が付いた。
「何? 視線が高く………嘘っ!?」
老人を見るクロガネの視線が高くなっていく。いったい何が起こったのか。自分の身長でも伸びたのかと、カナ自身の願望が混じった考えが浮かぶが、そうではない。クロガネが宙に浮いていた。クロガネの巨体が地面から離れ、どんどん空へと浮かび上がっていることにカナが気付いたのと、クロガネを自由に動かせなくなっていることを察知したのはほぼ同時である。
「まさかあの黒い船が!? 大変、なんとか……脱出………しな…い………と………」
クロガネを意地でも動かそうとした時、カナの頭に鈍い痛みが走る。頭がどうにも重いとは、ずっと前から感じていた。魔力の過剰使用による反作用だ。魔力の行使は精神的な疲労を伴い、クロガネを動かす程の魔力となればもっとだ。今回はそれに加えて、魔法の使用と長時間の戦闘という物もあり、頭の重さは頭痛となってカナを襲う。
それだけでは無い。痛みならまだ耐えられるのだが、問題は意識まで失いかけていることだ。頭の痛みはさらに酷くなり、それに比例してカナの視界は徐々に狭まってきた。
「こんな………とこ…ろ………で……」
カナには既にクロガネを動かす力が無い。ただ空へと昇るクロガネの視界が目に映るのみである。それも、カナからの魔力供給が無くなれば映らなくなるだろう。
意識が飛ぶ。その瞬間に見た光景は、仰向けの姿勢で空へ運ばれているらしいクロガネが見た、黒い船の船腹であった。