第四話 『老人は笑う』
竜骨集積場という名前が付いたハイジャング西区の一角。巨大な竜を燃やした後に残った頑丈な竜の骨を集めたこの場所は、復興を始めたハイジャング西区でも、もっとも賑わっている場所かもしれない。何故かと言えば、集められた竜骨を販売している場所だからだ。
ドラゴンの骨というのは総じて頑丈である。巨体を支える骨というのは頑丈かつ柔軟にできており、様々な道具を作成するのに優秀な性質を持つ材料と言える。
特に骨格の真中を支える、人間で言えば背骨にあたる部分の骨は、他の部分よりもそれらの性質が強く、さらに金属質の光沢を持っているため、材料の他にも観賞用の道具として重宝されている。市場に流れた際の値段は、物によるが同質量の金と同等になる場合すらあった。
ブラックドラゴンのその骨の価値はと言えば、かなりの物である。ドラゴンの中でもなお巨大なドラゴンを支えていた骨。しかも大量にそれが存在しているのだ。それを目当てに集まる商人に、持ち運びする労働者。集積場の管理などの仕事も生まれ、皮肉にも西区を襲ったドラゴンの死骸のおかげで、その集積場は賑わっている。
「この中から老人一人を見つけるってもな。ちょっと難しいか」
露天市の様な光景になっている集積場と人ごみを眺めながら、ジンは頭を掻いてぼやいていた。
ジャイブの情報提供により、ここで奇跡を用いる事ができる道具を老人から譲り受けた事がわかったものの、そこから先の進展が無い。既に集積場で人探しを始めてから2日経っていた。
「ジャイブが咄嗟に嘘を吐いた可能性だってあるんだよな……まあ、あの状況で嘘を吐けるんなら相当な芸達者だが」
ジャイブの恐怖は本物だったと思いたい。小悪党であるが、他人を威嚇することに慣れた人間があれほどに恐れる人物。謎の老人とはいったいどんな人間なのか。
「一度どころか二度も会ってるってのが歯がゆいな。あの時、あの爺さんを問い詰めていれば………って、んなこと考えたって仕方無いけどな」
ジンは集積場の人ごみを掻き分けながら歩く。こうしたって目当ての人間が見つかる可能性は低いだろうが、他に何か別の事を思い付くわけでも無かった。
(ジャイブがこの集積場に居たのはわかる。ここは儲けを考える人間にとっては、一攫千金のチャンスが少なからずあるだろうからな。爺さんの方がどうしてここへ?)
老人は何を目的としてこの集積場にやってきて、ジャイブに黒い杖を与えたのだろうか。
(この集積場にはドラゴンの骨くらいしか………いや、確かあの爺さん、巨大ドラゴンに興味を持ってなかったか?)
だとすればここに来る理由もドラゴンの骨に関わる物だろう。そうして、興味があるのなら骨を購入しているかもしれない。
「ちょっと、竜骨の販売をしている商人に聞き込みをしてみるか」
ちなみに販売している商人は、ドラゴンの死骸処理に対して資金を投じた商人か、国からの雇われであるかの二つである。
死骸処理に関わってもいないのに、竜骨を勝手に販売するというのは違法取引としてしょっ引かれるだろう。竜骨で利益を得たいというなら、ドラゴンによって被った害の何割かを自分達で引き受けなければ。
「なあ、ちょっと良いか?」
立ち並ぶ露店の内近くにある物を選び、その店番に話し掛ける。大小混じる骨の破片がバラバラに並んでいる露店を見るに、竜骨での商売で言えば、それほど大きい権益は持っていない様子である。
「なんだい? 小さいのなら幾つか安くできるぜ」
どうやら客だと思われているらしい。しかもあまり金を持っていない部類の。
「悪いが竜骨を買いに来たわけじゃあ無い」
「なんだよ冷やかしか」
露骨に顔を歪める店番。他の人間だっているのだろうから、そういう顔は店の評判に傷が付くだけだと思うのだが。
「一応、これでも国の騎士でね。人探しをしている」
「騎士? あんたがかい? 悪い冗談は止めてくれ。商売の邪魔もな」
なんでこう、いちいち否定から入る奴らばかりなのだろう。わざわざ騎士の身分を騙って悪さをする理由も無いだろうに。
「こっちも仕事なんだよ。聞く事を聞かない内はここから退けない」
「………んじゃあさっさと聞いてくれ。有料じゃあ無い以上、ちゃんと答えられるかどうかはわからんがね」
有料だったら知らない情報でもちゃんと答えるつもりなのだろうか。それはそれで面倒なことになりそうである。
「老人を探している。背が低くてかなりの高齢だ。見た目の特徴はだな…………」
ジンは自分が探す老人の特徴を店番に伝えていく。似顔絵でも書ければもっと楽に済むはずだが、ジンには絵心が無かった。
「悪いが心当たりは無いなあ。老人なら何人か客として来たが、いちいち顔を覚えてないんだよ」
「そうかい」
ここは外れだ。では次の店はどうだろうと隣の露店に移るがそこも外れ。3度目の正直と選んだ店で、漸く知っているかもしれないと答える店番が居た。
「見たことあるのか? どこで、どんなことをしていた?」
「いや、そう聞かれても、店の前を通っただけだからなあ。何か買うわけでも無くキョロキョロと挙動不審にしてたから覚えているんだよ」
この場所に老人がいた可能性はこれでかなり高まるが、有用な情報とは言い難かった。
(そもそも老人の正体があのカルシナってんなら、公人も混ざってるこの集積場の露店に顔を出す自体が結構危険かもな。それでもここに来る必要があるというなら、それは竜骨が目当てであるんだろうさ)
だが露店の店番達は老人が竜骨を買っているところは見ていない。では老人はどこで骨を買おうとしたのか。
(謎の老人は裏社会に良く接触するって話だったっけか。となると、こういう場所にもそういうのはあるよな)
ジンは目の前の店番に、別の事柄を聞いてみることにする。
「なあ、やっぱり竜骨の販売に許可がいるとなると、そのルールを破っている奴とかもいるのかい?」
「はあ? 知らないよ。俺はね」
それはどうだろうか。許可制の商売がある場合、無許可で不当に安くそれらを販売する店というのはどうあがいても存在する。店としての信頼度は勿論底辺に近い店であるが、それでも需要を持つ客層が無くならない。所謂闇市という奴である。
「さっきも言った通り、俺は騎士だ。もしそういう店があるのなら、取り締まる必要だって出てくるんだが………」
「………その騎士って話。本当か?」
店番は喰いついて来た。正式に許可を得て商売をする店にとって、無許可で営業をする店などというのは邪魔以外の何物でも無い。もし潰す機会があるとなれば、積極的に協力を申し出てくるはずだ。なにせ販売しているのが、限りの見えるドラゴンの骨なのだ。不法に販売されて、予定より早く物に底がつけば店に不利益が出る。
「さっきからどの店も信じてくれてないってのがあれだが、本当だよ」
この言葉で信じてくれるかどうかは不安だが、相手にとっては別に闇市について話したってデメリットの無いことである。そういう考えになってくれれば良い。
「この集積場の東端辺りに中年で髭面の男が立ってる。その男が、骨を買うに買えない理由を持ってそうな客を見つけて、呼び込みをしてるって話だ」
「その客の判断はどうしてると思う?」
「ここらをずっとうろうろしてるのに、骨を買わない奴ってのはだいたいそういう客層だろう?」
つまり店番が話す男の回りを、骨を買わずにうろついていれば、向こうから話しかけてくるだろうとのことだった。
「時間を取らせてすまんな。聞きたいことはこれで終わりだ」
次にやることが決まった結果、ジンはその場を離れようとする。
「おい、本当に闇市を潰してくれるんだろうな」
どうやら店番はジンにそんなことを期待しているらしい。
「さあな。あんたが俺を騎士だって信用するくらいには、そう信じたって良いんじゃあないか?」
どっちとも取れる言葉を残してジンは立ち去った。後ろから話が違うぞという言葉が聞こえたのは、少々悔しい話だ。
闇市への誘いは思った以上に早くやってきた。話に聞いていた髭面の男のすぐそば一度通ってみたところ、何故かすぐに話し掛けて来たのだ。
「兄さん。骨が割高で困ってないかい? 良い店を知ってるんだが」
そんなありきたりな誘いだ。問題はこちらの顔を見た時点で男が迷いなく近寄って来た点だが、気にしないでおく。
現在ジンは髭面の男の後を追っている。闇市は集積場から離れた場所にあるらしく、建物と建物の間を潜り抜ける様な、入り組んだ道を進む。少し気が散れば迷いそうだ。闇市の正確な場所を分かり難くしているのだろう。
「こんな離れた場所に闇市を作ろうなんて良く考えたな」
目的地に着くまでは暇だ。ちょっとした世間話程度でも情報を得ることができるかもしれないと、ジンは前を歩く髭面の男に話し掛ける。
「骨と客さえあればどこでだって商売ができますわ。店の管理者が、ドラゴンの骨まるまる一本をちょろまかしたから、まだ骨の量には余裕がありますぜ」
怪しい話だとジンは思う。商売をする以上、本物の竜骨は当然存在しているのだろうが、その幾らかには魚やただの爬虫類の骨が混じっていたとしてもおかしくは無い。というか、かならず偽物でかさ増ししている。だからこその闇市だ。
「客層はどんな感じの奴が多いんだ? 俺みたいな奴とか?」
「ははっ。兄さんは特別ですよ。どうせ内の商売を聞きつけて、顔見せでもしておこうって魂胆でしょう? で、どこの組から?」
男が聞いて来る組織とやらは、きっとヤクザな組織を想定しているのだろう。ここで実は国で臨時騎士をしていますなどとのたまったら、どう反応するだろうか。
少し試してみたい気分であるものの、今の目的は闇市で謎の老人の目撃情報を集めることだ。無暗に場を荒らすのは得策では無いだろう。
「わざわざ自分の後ろ盾を明かす奴なんてなかなか居ないさ。うちよりあんたのところがデカかったらどうする? 幾らかやれるってところを見せておいて、お互い知らぬ振りをするのが吉さ。別に商売を邪魔するつもりは無い」
「違いない話でさあ。いやいや、兄さんなかなか慣れてらしゃる」
そう。随分と慣れた物だ。昔は周囲の人間とこんな話ばかりしていた。今もそうであるというのが少々悲しい。
「客層の話でしたっけ? まあ、金の無いのに金儲けをしようとしている連中や、これまた金の無い職人なんかが多いですな。竜の骨で作った道具なんてそれだけで売れ筋ですし、本当の材質がなんなのかなんて職人本人も気にしてないんでしょうが」
暗に竜骨に混ぜ物をしているのを認めている。まあ、闇市という場所で道具の材料を買っている時点で買い手側も同罪だ。
「金の無さそうってことは、若い連中ばっかか?」
「だいたいは。ああ、でも、偶に爺さんが出入りしてるなあ。ありゃあ同じ人間でしょうな」
「爺さん? 珍しいな」
重要な情報だった。その老人こそがジンの探している相手かもしれない。
「でしょう? しかもうちらみたいなのを相手に随分慣れた様子で話していましてね。きっとその筋の人間でさあ。この前なんて、こっちで扱う竜骨の所有量まで聞いてきましてね?」
「………それは答えたのか?」
「さて、俺はしらねえんで上に聞いてくれと答えると、じゃあそうするって返事でしたよ」
「じゃあもう既に聞き出してるかもな」
「は?」
なんのことかわからない様子の男。その老人の狙いが竜骨なのだとしたら、そして欲する量の竜骨がもし闇市に存在すると知ったら。
「目的地ってのはここらへんになるのか?」
人通りが少ない裏路地の奥。いやに薄暗い場所であるが、一つの大き目な建物があった。周辺住民の会館として用意されるが、殆ど利用されずに忘れられ放置された。そんな感じの建物だ。
「ええ、この中で竜骨の販売をしていやす」
「随分と静かだな。この建物は防音機能でもあんのか?」
男の案内が正確なら、この建物なかで非合法な商売が行なわれているのだ。中はそれなりに騒がしくなっていないとおかしい。
「あれ? おかしいなあ。何時もならこうやって近づくだけで中の音が聞こえて………え?」
建物の扉に近づく男は何かを見たらしい。その視線の先をジンも追って見ると、そこには体格の良さそうな別の男が倒れている。武装しているところを見るに、闇市の門番の様な役割だったのだろう。そんな人間が倒れている。
「お、おい。どうしたんだよ。そんなところで……ひっ、し、死んでる!」
髭面の男が倒れている男を手で揺すったが、そこにはべっとりと血のりが付いていた。そうなるはずだ。倒れている男の腹には、こぶし大の穴が開いていたのだから。もし髭面の男が注意深ければ、焦げた様な臭いが倒れている男からしているのにも気が付いたはずだ。
「思った以上に核心に迫ってたみたいだな。おい、邪魔だ。そこをどいてくれ」
腰を抜かして尻もちを突いている髭面の男の横を通り、建物の中へとジンは入ろうとする。
「ま、待ってくれよ! なんだよこれ。なんでこんな」
「これからそれを探りに行くんだ。ああ、着いてこない方が良いぞ。多分、中はもっと酷い」
言わなくてもその場を動けないでいる男を背中に、ジンは建物に入る扉を開いた。
「………ちょっとキツイな」
門番が死んでいる時点で予想していたことだったが、扉を開いた時点で建物の内部から濃い血の臭いにむせ返りそうになる。
中に居る人間は全滅だろうか? ならばその下手人はどこにいる。既に逃げたか、それともまだ犯行の最中か。
「どっちにしろ、中に入るしかないか」
嫌々ながらもジンは建物内部に入る。細長い廊下を歩き幾つか扉を見つけるが、とりあえずは道の通りに前を進む。すると大きい広間が見えてきた。
恐らくはここで竜骨の闇市を開いていたのだろう。机やら御座やらが敷かれ、その上に細々とした骨らしき物が乗っている。それを販売する人間に買う人間。広間内部はそれなりに賑わっていたのだろう。それらの人間が生きていればの話だったが。
(………深く考えるのは後にした方が良いな)
広間は血の赤によって至る所を染めている。それらの原料になったはずの人間達は、体のどこかに大きな穴を開けて絶命していた。
直視すべき現場では無いだろう。吐き気をすこしでも覚えればこの場から動けなくなる。そう考えて、赤い色と死体を意識の外に追いやろうとする。
「た、助けてくれ! 誰か!」
意識から惨たらしい光景を追い出している内に、耳から人の声が聞こえて来た。生きている人間の声だ。どうやら広間の奥にある部屋かららしい。
(まだ犯行の最中ってことか!)
ジンはその部屋に走る。悲鳴はすぐに叫び声に代わり、そのまま聞こえなくなる。つまりすぐ先に人を殺した誰かがいるはずだった。
部屋への扉を開けるジンの目に飛び込んだのは、驚いた様子でこちらを見る老人の姿である。その姿は忘れようが無い。ここ最近、なんども頭の中で思い出していた顔。ジンが探していた謎の老人その人だったのだ。
「………なんじゃ若いのじゃあ無いか。どうしたこんな場所で」
世間話でもするかの様に話し掛けてくる老人。その手にジャイブが持っていた黒い杖と良く似た物を持ち、それをつい今しがた悲鳴を上げたはずの男へ向けている光景さえ無ければ、確かに世間話であったはずだ。
「てめえ、何してやがる」
「何とは………ふむ。人を殺しておるの」
少し考える素振りをした老人は、今度は杖の先端をジンに向けた。
咄嗟にその杖が向けられた先から逃れようと横へ飛ぶジンは、予想以上に体が跳躍した事で、自分が鎧姿になっていることに気が付いた。
(やっぱりあの黒い杖に反応してるのか!)
そんな事を考えている内に、ジンが避けた場所から破壊音が響く。床に拳大の穴が開き、穴の周囲は焦げて煙を上げている。あの杖を使って、建物内の人間を殺害したのだろう。
「ほう。その鎧は………なんとも奇運なことじゃのう」
目の前で明確に人を殺そうとして、尚且つその相手が鎧姿になったというのに、その程度の台詞で済ます老人。
「あんたは危険だ。抵抗しないなら命だけは助けてやるが、無理だろうな」
そう言ってジンは老人へと向かう。勿論、真っ直ぐ進めば杖から出る光線の良い的だ。動きに緩急を付け、左右に進行方向をブレさせながら当たり難い的として老人に近づく。
その間、老人は杖の先端をジンの動きに合わせて移動させるものの、撃つべき瞬間を見定められずにいる。その隙に、老人までもう手が届く程までにジンは近づくことができた。
ジンはそのまま老人を腕で掴もうとするも、空を切る。一瞬の内に視界から老人が消え去り、直感的に上を見たジンの目には、なんと空でも飛んだかの様に高く跳躍した老人がいた。
老人はそのまま宙で反転し、天井に足を付ける。そして天井を足場にして、ジンの背中側へと飛ぶ。
(どんな運動神経だ!)
ジンはその場で振り向き、老人が着地した方向へ。既に老人が黒い杖を構えているのを視界に収め、咄嗟に体を屈めて防御の姿勢を取る。それと同時に強烈な衝撃がジンを襲い、一瞬の浮遊感の後に、背中側から再び強い衝撃を感じた。
どうやら黒い杖からの光線に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられたらしい。二度の衝撃は体の芯まで響く様で、吐き気を感じる。視界がくらくらと揺らめき、壁から地面へとずり落ちそうになる体を支えるのに必死だった。
(こ、これでも相当頑丈だってのに)
黒い鎧を着込んだ状態で明確なダメージを負ったのは何時以来だろうか。以前、巨大ドラゴンを攻撃した後に、ドラゴンの頭付近から地面へと自由落下した際は足を折ったが、今回も体のどこかを痛めたかもしれない。鎧自体も表面が焦げたのか薄らと煙が出ている。
ジンは吐き気を抑えつつ老人に話し掛けることにした。再びこちらに杖を向けようとしている老人に対して、なんとか時間を稼ぎたかったのだ。
「その杖……なんで爺さんが持ってる」
「ふん? 昔から使っている愛用の武器なんじゃが、持ってちゃ悪いか?」
老人が人を簡単に殺せる武器を持っている時点で大いに悪い。それで本当に人を殺しているのならもっとだ。
「その武器は今、国防騎士団が保管しているはずだ」
「そりゃあわしが持つのとは別もんじゃろう。同じ物が幾つかあってな」
「ジャイブが持ってたのはその同じ物をあんたが与えたのか!」
「ああ、知っとるのか。その通りじゃよ」
少なくとも謎が一つ解けた。本来希少なはずの奇跡を起こす道具を、ジャイブの様な人間が持っていたのは、この老人が原因だったのだ。
「何が目的だ。何でジャイブの様な人間にそんな道具を」
「それはじゃな………いや、話はこれくらいにして置くかの。なにせこれ以上時間稼ぎをされるのも癪じゃ」
老人はこちらの意図を読んでいたらしい。こちらに向いた杖の先端が光る。
「もう十分なんだよ!」
既に動けるくらいに体を立て直したジンは、左斜め前に跳んだ。さらにそこから右斜め前へ。再び老人に接敵するが、やはり老人は身軽にジンから離れようとする。老人の肉体は常人のそれではないのだろう。
だが避けると知っているのならやり様がある。老人が身軽だろうと、鎧姿のジンの比では無いのだ。ジンは老人を掴もうとする手を引っ込めて背後へ跳んだ。
「む!?」
驚くのは老人だった。馬鹿の一つ覚えみたいに同じ行動でジンの背後へ回ろうとしたのだろうが、後ろへ跳んだジンにとっては、わざわざ自分に突っ込んでくる的でしか無い。
体ごと落ちて来た老人の服を掴み、そのまま地面へ叩きつける。普通の老人なら、この衝撃で死んでもおかしくは無いだろう。ジンも死ぬならそれで仕様が無いという覚悟でそれを行ったのだ。
しかし地面に倒したはずの老人は笑っていた。ジンは老人が手に持った黒い杖を特に気を付けながら、老人を地面へ押さえつける。笑っていられない程に強く。
だというのに、老人はまったく苦しむ素振りを見せなかった。
「やりおるわい。若いの。あんた、その年齢で良く体を鍛えとるのう。感心するぞ」
世間話をする余裕すらみせる老人。ここまで来て、ジンはこの老人に恐怖し始めていた。この男は何者なのだ。
「するのは感心だけかい? これからあんたの命を奪う可能性もあるんだが」
「感心だけじゃあ無いわい。そうさな。何か商品を上げたい」
「何?」
「大方わしを探しとったんじゃろう? 昨今起こる奇跡が関係する事件にわしが関わっとると考えて。正解じゃよ」
あっさりと答える老人。追い詰められているはずの人間がこうも喋るのは理由があるはずだ。
「何を考えてやがる」
「だから褒め取るんじゃよ。若いのを侮っとった。歳を取ると、若い奴なんぞはみんな自分より愚かだと考えがちになるが、反省せねばなるまい」
「わかった。話にならない。とりあえずは動けなくしてやる」
ジンは左腕で老人を抑えつけたまま、右腕を振り上げる。体に一発食らわせば、さすがにこの老人でもダメージを受けるだろう。
「だから良い話を聞かせてやろうと言うておる。3日後。ハイジャング南門から出て行われるゴーレムの公開演習で、面白い催しを考えておってな、楽しみにして―――」
ジンは老人の顔に拳を振り下ろした。ジンの拳は建物の床を貫き、穴を開けた。
「そんなこったろうと思ったよ」
ジンは老人を抑えていたはずの左手の感触が無くなったことを確認する。先ほどまで目の前にいた老人は、今や建物のどこを見渡しても存在していなかった。