第七話 『枯れた木』
土地が移り変わる。拓けた草原地帯から、なだらかな下り坂が続く土地へ。草によって緑に染まる土地では無く、土の地肌が見える黄土色の場所へと変化していく。
そんな土地の性質が変わる程度の距離をジンは走り続けている。勿論、動く森から逃げているのだ。
動く森から適度な距離を保ちながら、首尾良く目的の場所まで誘導して行く。そう、作戦は順調に進んでいる―――とは言い難かった。
「くそっ。足が痛みだした」
以前に折れた右足が、度重なる酷使によって悲鳴を上げ始めた。我慢できないほどなのかと言われればそうでも無いが、我慢していたとしても走る速度は遅くなる。
ジンの走る速度は、恐らく森が動く速度を下回り始めている。そのことを確認するかの様にジンは後方を見た。
(さっき見た時より、明らかに近くなってるよなあ)
森との距離が少しずつではあるものの縮まってきている。追い付かれるのも時間の問題だろう。
(うん? ちょっと待て、なら今はまだ余裕があるってことか?)
森が動く速度はこちらの想定よりも速かったはずだ。そんな状況でジンの走る速さが遅くなれば、すぐに追いつかれてもおかしくは無いはず。
(森の方も移動速度が遅くなっている? なんでだ? また地面の中に根でも張っているのか?)
地面を確認するものの、根がまた這い出てくる様子は無い。となると別の問題か。
「はっ。つまり、森の方も体力切れってわけか。良い傾向だ」
ジンが土地を移動するに従い、草地が少なくなった。それはつまり、植物が自生するには辛い場所になっているということだ。
森はジンを追ってここまで来たが、自分が失態を犯していると気が付いていない。あたりまえだ。何故なら、普通の植物は動いたりなどしないのだ。ましてや土地を短時間で移動することも無い。
森には移動するということに対する経験がまったく無いのである。恐らくは、土中や周囲から栄養を得やすい土地へと移動を続けていたのだろうが、ジンを標的にするうち、そのことを忘れる。自分達にとって安全な土地が、想像以上に少ないことを知らずにいるというのに。
「動物ってのは土地を移動するだけで、生きるか死ぬかの賭けを繰り返してるんだ。お前らも動くってのなら、その賭けに乗って貰わないとな」
あざけりの言葉を口にして、ジンは森へと振り向いた。森が疲労する様な土地だと言うことは、目的の場所まであと少しだ。
ジンは森がこの土地でバテてジンを追わないという選択をしない様に、尚且つジンが森から逃げられなくなる状況を避けるため、最後の一手を打つことにした。
「ま、こういうことしかできないんだけどな」
ジンは背負った槌に引っ掛けていた小袋を手に持つ。片腕で納まる程度の小さな物であり、中には火打石と乾燥した葉っぱが入っていた。
動く森が相手であるからと、急遽用意された装備の一つであったが、使う機会があったのはジンくらいだろう。
ジンは袋の中の葉に火打石で火を付けて燻らせると、それを袋ごと森へと投げつけた。別に火で森を焼こうとしたわけでは無い。火での攻撃は森に対してさほどの効果も無いことは承知している。
狙いは葉から出る煙だ。
「さて、どんなもんかな」
煙を放つ袋が、こちらへと迫ってくる森の木へとぶつかる瞬間。木々はその侵攻を止めた。正確には、煙をとっさに避けようとしたのだ。
本能的に理解したのかもしれない。それが毒であるということに。
「よっし。効果はそれなりってところか」
木々の侵攻が若干遅くなるのを確認したジンは、再び逃亡を開始した。森の方もすぐ追ってくるだろう。毒はそれほど劇的な効果は持たない。
その毒とは煙草の煙である。大半の生物にとっては毒物であり、除草効果を持つ煙草の煙は、そういった物に敏感な植物に有効だった。狙い通り、少しの間であるが森は進むのを止め、再び進みだす頃には、ジンを猛然と狙いだすだろう。
(森はあの程度の煙でどうにかならない。ただ、俺が挑発してることには絶対に気が付いたはずだ。相手の考えを読むなんてことにも慣れてないだろうし、直情的に挑発に乗ってくるだろうなあ)
小さな毒に挑発されて、もっと大きな毒を見落とす。例え動ける様になったところで、少しの油断が命取りとなる自然界の掟は変わらない。新たな力を手にしたところで、その力によって自分が滅びることもある。そのことを思い知らせてやるのだ。
奇跡の力は奇跡を所有する者にとって、危険な物であることが殆どなのだから。
「さあ、追って来いよ! この先がお前の墓場だ!」
既にジンは、向かうべき土地が見えていた。
太陽に照らされて、白く輝く砂丘。それがどこまでも続くかと言えばそうで無く、向こうには空の青さと同じく青色に染まる場所がある。海だ。
ジンはアイルーツ国の北端に存在する海岸線を目指して走り続けていたのである。この海岸線こそが、森を倒すための土地であった。この場所に森を誘導するため、森の進行上でもっとも海に近い場所に人員を配置したのだ。
ジンは走り続けた先で、漸く砂丘まで辿り着く。足場としてはそれほど優れた場所とは言えないその土地に辿り着いた結果、ジンの進行速度は当然ながら落ちる。森はと言えば、ジンの挑発に乗ったからか、幾分か速さを増しているため、一秒毎に互いの距離が縮まっていく。そもそも目指す先にあるのは海である。逃げ出すにもそこが行き止まりだった。
必ず森はジンに追いつくだろう。そんな状況だと言うのに、ジンは不敵に笑った。自分の勝ちを確信したからだ。
足に海水がかかる程の距離まで海に近づくのと、森がジンに触れそうな距離まで近づくのはほぼ同時だった。
まるで森に肩でも叩かれたかの様にジンは振り返り、再び森を見る。森の進行は完全に停止していた。きつい緑色に染まっていた森は、今ではその葉を黄色や赤色に変えていた。中には枯れ始めた木もある。
「砂浜にはなんで植物が生えないと思う? そこじゃあ生きていけないからだ」
砂地は容易く土中の水分を奪ってしまうし、根で吸える栄養も少ないだろう。太陽の光はいくらでも降り注いでくれるが、降り注ぎ過ぎて葉を焼く。
森はそれらの害を回避するため、貪欲に周囲から栄養や水分を補給しようとするだろう。それが可能な機関を動く森は備えている。他の植物よりも周囲の環境から自らの栄養を得ることに優れているのがこの森だ。
だが、その力が仇となる。この場所で得られる物と言えば海水なのだ。多くの植物にとって過剰な塩分は毒である。ただでさえ栄養の乏しいこの海辺で、毒をその体に取り込むのは致命的だ。煙草の煙など比では無い。だというのに、森はその海水を普通の植物よりも多く摂取してしまう。
「あれだけ大量で柔軟な根っこだ。どれだけの範囲に広がってる? もしかしてこの海辺の先にまで伸びてたりしてな。おっと、海水が毒だなんて、お前らは知らなかったんだよな。水分を吸収しようとして、まさかそれが自分の体を蝕んでるなんて思いも寄らない」
周囲の栄養を得るための機関が、今では毒を効果的に吸収する存在になっていた。森の木々は海水に汚染され、急速に枯れ始めていた。既にこの場を動く力さえ無いだろう。
「お前らが海藻みたいに海水と相性が良い体だったら、俺なんかは一溜りも無かったんだろうさ。まあ、内陸の森に対してそんな物を望むのは無茶だわな」
ジンは目の前に存在する枯れた森に言葉を向けながら、目の前に存在する森へ、さらに一歩近づく。その瞬間。動かないと思っていた森の全体が大きく振動した。
「おお……っと」
ジンの目の前にある木の一本が地面から迫り出して、ジンの顔のすぐ横へ根を伸ばした。ほんの少し位置がズレていれば、ジンの顔面を強く叩いていたことだろう。
「惜しかったな………」
その一撃は、森が放つ最後の叫びに思えた。事実、それ以降、森が動き出すことは無い。すべてが終わったのだ。
そうして考えてみれば、森は別に何かを害そうと思って動きだしたわけでは無いだろう。ただ自分が生きやすい生き方をしただけに思える。
それが今ではこんな場所にまで誘導され、自分の力で自分の首を絞めることとなった。戦いが終わったからだろうか。ジンは少しこの森が不憫に思えて来た。最後の一撃くらい、受けて置いてやるべきだっただろうか。
「まあ、そういう世知辛い世の中にお互い生きてるんだ。お前の方の運が悪かったってことで宜しく頼む」
顔の横にある木の根をジンは手の甲で叩く。コツンという乾いた響きが、寂しく海辺に響いた。
動く森を退治したという一報は、瞬く間にハイジャングへ届いた。その情報が町中に広がるのも、それほど時間は掛からない。というか、国側が積極的に情報が市中へと出回る様に工作をした節すらあった。
「町を防衛する役目を負った組織が出て、町に直接被害を与えず事を収めたという功績は、出来る限り広めたい物だろうさ。なにせ、町をドラゴンに襲撃されたという失態がその前にあるのだからね」
動く森討伐作戦から数日後。魔奇対執務室にて、ジンはフライ室長から今後の方針について話し合っていた。具体的に言えば、魔奇対が今後どう動けば、森退治の功績を自分達の物にできるかと言ういやらしい話である。
「うちとしては、森退治ではクロガネがまた活躍し、何を言っても俺が森の誘導に貢献したんですから、それなりの対価が欲しいところでしょうね」
ジンは自分の足を手で擦りつつ話す。森との鬼ごっこのせいで、足の怪我が悪化した。完治までの期間が半月程伸びたのである。怪我の悪化の見返りくらいは欲しいと思う。
「そんなの、どこの組織も同じじゃないですか? みんな、自分がいなければ作戦は成功しなかったって思ってますよ」
ジンの要望に茶々を入れるのはカナだった。彼女としては、作戦に関してクロガネを動かす役目を担っていたが、それほど疲れる物では無かったらしく、魔奇対が森退治の功績について口煩くするのには反対な様子である。
「ドラゴンの件に関しても、魔奇対はむしろ名前を上げることに成功したんですから、今回に限っては作戦に参加した分の功績だけを喧伝するべきだと思いますよ」
森の襲撃とその討伐成功という事項が発生した以上、国家は奇跡が起こす事件とそれに対処する組織に対して、予算の増額を既に決定していると聞く。それがどれ程の規模で、どの組織にどれだけの額が配分されるかは未定のままである。その事に関して、カナは作戦に参加した国防騎士団。ハイジャング警備隊。そして魔奇対と、それぞれの組織に予算が争い無く順当に配分されることを望んでいるわけだ。
正しい意見かもしれないが、それでは欲が無いとジンは考える。
「作戦の成功に関わる功績なら、貪欲に行くべきだと俺は思うね。どうせ他の組織も、自分のところがもっとも優秀で有能だって上にアピールするんだ」
「そうやってみんな自分が自分がって言うから話も纏まらないんじゃないですか」
「あー。盛り上がっているところ悪いが、既に予算配分に関しては会議で大まかな部分は決まっている」
話に完全な水を差したのは、他ならぬフライ室長だった。
「ちょっと待ってくださいよ。てっきり作戦の成功から予算の増額や俺達の昇給話を聞けると思ったのに。そうでないとしたら、俺達はいったい何のために呼び出されたんですか」
白けたムードになったとジンは感じる。執務室内の手近な椅子を持って来てそれに座り不貞腐れてしまう。
「だから今後の方針についてだと言っているだろう。それと、予算に関しては貰える分は貰って来たよ。昇給に関しては無しだが」
ジンにとっては一番肝心な話が通らなかったことになる。がっかりだ。こんな職業に就いている理由の大きな一つがそれなのだから。
「今後の方針というのは、要するに次の任務がどうなるかと言うことでしょうか?」
やる気が無くなっているジンに代わり、カナはフライ室長に尋ねる。彼女とってはそれなりに興味のある話題だったらしい。
「そうだな。それに関わることで前もって言っておくが、私達は森の討伐作戦においては、大きな活躍をしなかった。クロガネを動かした程度の活躍ということになっている。君らもそれを承知して置く様に」
「はあ? やったことを喧伝するどころか、控えめに言うってことで? 何の意味があって………」
ジンにはフライ室長の意図が読めない。予算配分の会議が終わったと言うことは、本来貰える分も遠慮して貰っていないということだ。文句はいくらでもある。
「次を考えると、あまり目立つ動きをしたくないという物があるのだよ」
「次……ですか? それはジン先輩の話の?」
フライ室長の考えについて、カナには心当たりがある様子だった。
「いったい何の話だ?」
「だから、あれですよ。ジン先輩が会ったって言うお爺さんの」
「爺さん? おいおい。またあの話か」
森討伐作戦が終わってすぐ、フライ室長はその作戦をどうやって思い付いたのかと問い質してきた。
クロガネの整備テント近くで会った、奇跡を研究するという老人に作戦のヒントを貰ったと答えたのだが、それがどうにも懸念すべき事項だった様だ。
「そうだ。なんども聞くが、その老人について、君は前に話した通りのことしか知らないのだね?」
「ああ。奇跡の研究をしていて、クロガネにも興味を持っていたな。老人なんだろうが、やっぱり年配の人間ってのは年齢が良くわからないから、詳しくは言えませんが………」
外見の特徴についても既に伝えてある。あの老人について知っていることと言えばそれくらいだ。
「ジン。私はだな。その老人が、森の一件と大きく関わっている様にしか思えないのだよ」
「あの爺さんが? そんな大それたことができる様には思えなかったけどなあ」
ジンはあの飄々とした老人を思い出す。確かに只者では無いとは思ったものの、感じたのはそれくらいだ。森を動かす様な力を持つとは思えない。
「事実。大それたことをしているじゃないか。君に助言をするだけで、結果、森を討伐することができた」
「それは、俺が爺さんの助言を聞き入れたからでしょう」
「大きなことをしでかす連中というのは、最小限の労力で望む結果を得る連中が多い。謎の老人は、君に助言をするだけで、自分の望みである森の討伐を成功させたとも言える」
どうにもフライ室長は疑い深い性質だ。小さなことを大袈裟に考えてしまう人種である。それが的外れであるという確証が無い以上、無視するわけにはいかないのが面倒だ。
「考えすぎな気もしますけどねえ。カナ。君はどう思う?」
「私ですか? 私はそのお爺さんに会ったことが無いですから、なんとも………」
どちらかと言えば、カナもジンの意見に近い様だ。老人は老人であって、とんでもない存在では無いだろうと考えている。
「私も、この考えが杞憂に終われば良いと思っているよ。しかし、キナ臭い状況になってきたのは確かだろう。ブラックドラゴンと動く森は共にブッグパレス山から現れた。そこには何かがあるのだろうし、裏で動いているかもしれないその老人についても気になる。魔奇対の今後の方針というのはそれだ」
フライ室長は、左手を机に置いたまま、もう一方の手でこちらを指差してくる。
「つまり、前回の事件と今回の事件。怪しいところは全部詳しく調査をしてみようって話ですか」
ジンは合点がいったと頷く。予算配分の会議で、魔奇対が目立たない様な形で収めたのはそれが目的かと。
「ああ。裏取り調査はあまり目立たず行うのが基本だ。今回の件で大活躍をした組織などが行う物じゃあないだろう? 丁度、組織としてはまだあまり目立っていない我々が適任だと思うのだよ」
上手く行けば、ドラゴン襲撃と森の侵攻。二つの事件に関わる大きな手掛かりを得る可能性すらある。そうなれば、結果的には大きな成果を手に入れたことと同義だ。
「そう上手く行く物なんでしょうか? それに目立たないって言っても、クロガネを運用している組織って、市中じゃあちょっと有名になっている気もしますけど」
どうにもカナは消極的だった。彼女の目からすれば、フライ室長もジンも、狸の皮算用でもしている様に思えるのだろう。
「それなりに名が通って来ているのは承知しているが、君の言う通り、一般人にはクロガネを運用する組織としか思われていないよ。それならば、我々の方は動きやすい。元々、クロガネ抜きで動いていた組織なのだから」
クロガネさえ動かさなければ、目立たないままの組織だと言うことだ。まあ、それが喜ばしいことなのかはジンも知らない。
「とにかく、事件の裏側には何かあるかもって話でしょう? それにあの爺さんが関わっている可能性もあると。良いじゃないか。色々と探ってみようぜ。そういう仕事の方が面白そうだ」
不謹慎な言葉であることはジンも分かっている。ただ、大掛かりで大勢を要する事件というのはジンの性に合っていない。こういった細々とした調査の中でこそ、自分の力が発揮されると考えていた。
「その調査。私も関わることになるんですか?」
「そうだな。マートン君もクロガネの整備と並行して、ジンの手伝いをしてくれ。私もこういう仕事ならそれなりに動ける。それぞれ、出来る限りの伝手を頼り、事件の全容を解明して欲しい。頼めるかな?」
フライ室長の言葉に、ジンとカナが頷く。断る理由は無いだろう。彼の命令は久しぶりにまっとうな仕事に思える物だったのだから。
こうして魔奇対は、動く森に関わる騒動も冷めやらぬ状況で、新たな仕事に乗り出した。それがどれほど大きな事件に関わって来るのかを知らないままで。