お姉さんの誘惑みたいなもの
「あ、緊張してる?」
水が向けられた直後、右手が僕の胸の上に置かれた。位置としては、心臓の真上。
「お、すごい。心臓ドキドキじゃない。興奮してるの?」
いや、これは十中八九恐怖によるものです――とは、言えなかった。
というより、口に出すのを頭が拒否した。それを告げたら、どうなるかわかったものではない。
「いや、これは……」
「そうね、ごめんね」
静奈さんは右手を離し謝った。苦笑混じりの顔を見せ、僕へ言う。
「そうだよね、ごめん。唐突だったもんね」
申し訳なさそうに言う静奈さんに、僕は安堵した――が、それも一瞬のことだった。
「いきなり隆也君の服を脱がせようとするのは、いくらなんでもやり過ぎよね」
「……へ?」
僕が間の抜けた声を上げた直後、いきなり静奈さんはワンピースの裾を掴んで、持ち上げようとした――
「ちょ、ちょっと静奈さん! 何を!?」
「え、何って……私がエスコートしようと、先に服を脱ごうかと」
「いやいやいや! しなくていいですから!」
喚く僕。そんな方向に話を持っていくとは、いくらなんでも予想外だ。
「え、じゃあ着たままで……?」
「そういう話じゃないです!」
半ばヤケクソ気味に、僕は叫んだ。
「何もしなくていいですから!」
「放置プレイ……?」
「そういう方向に話を持っていかないでください!」
と、そこまで言うと突如静奈さんの表情が変化した。あ、まずい。
「ふむ……そう。でもなぁ」
静奈さんは頬を膨らませ、僕を見据える。ヤバイ、このパターンは危険だ。
「でも……隆也君は目の前で寝ているわけで」
いや、あなたが麻痺させたからでしょう――と言い掛けて口をつぐんだ。言ったら間違いなく終わる気がする。
「うん……決めた」
唐突に、静奈さんは呟いた。結論が出たらしい表情を見て、僕は顔を強張らせる。
「じゃあまず、スキンシップから始めよう」
軽快に告げ――先ほどベッドの僕にダイブするように抱き寄せる。
「し、静奈さん待って――!」
「待たないよー。そうやって誤魔化す隆也君も可愛いけどねー」
完全にいうことを聞かなくなった。一度不機嫌になると自分の思った通りにしか行動しないようになる――それが静奈さんの性格の一つ。気付くのが、一歩遅かった。
静奈さん胸元に顔を埋めながら、僕はどうにか逃れる術を考える。そこで、香水の匂いに気付いて思考が止まる。駄目だ、されるがままになってしまう――
その時、突如部屋のドアが開いた。
「隆也君、遅いけどどうし――」
彩水だった。彼女は部屋の光景を見て――言葉が止まり、固まる。
「お、お姉ちゃん……な、何やってるの?」
構図的には、僕がベッドで寝かされ、それに覆いかぶさるように静奈さんがいる。
僕はその瞬間、いや、違うと弁明したい気持ちになったのだが――ふいに、彩水の視線が揺らぎ、あっと声を上げる。尻尾に気付いたらしい。
「お、お姉ちゃん……その尻尾」
「ああ、これ?」
笑いながら、静奈さんは尻尾を揺らす。自発的に動かせるらしい。
「すごいでしょ? 宗佑さんから聞いていたから詳細は知っているけど、サキュバスになったんだよ」
「そ、そうなんだ……と、とりあえず隆也君から離れて。ね?」
「どうして?」
静奈さんは聞き返した。さらに僕を強く抱き寄せ、頬を摺り寄せる。その行動に彩水は呻くと同時に、さらに告げる。
「い、いいから……とりあえず離してあげて」
「……ふーん」
静奈さんは納得しない様子だったが、ベッドから降りる。
僕は解放され心底安堵すると共に、体を動かせるか試す。先ほどよりは麻痺が少なくなっているのか、上体を起こせそうなまでには回復している。
けれど、その素振りを見せると静奈さんにまた麻痺させられる可能性がある。とりあえず確実に難を逃れるために、完全に動けるようになるまで静観したほうがいいだろう。
そう決断した直後、彩水が改めて口を開いた。
「お姉ちゃん、帰って来てから様子が変だったけど、能力が原因?」
「うん、そうだよ」
こくこくと静奈さんは頷いた。そこで彩水の目が僕を見た。なんだかすまなそうな顔つきだった。
理由を僕はなんとなく推測した。静奈さんはサキュバスに変化してしまった。彩水はその悪魔がどういった能力なのか詳しく知らないが、「男性を誘惑する悪魔」という内容だけは知っている。きっと姉がその力に従い動いていたため、迷惑を掛けた、という認識だろう。
「とりあえず、一度降りよう。一階で少し落ち着こうよ」
彩水が提案する。部屋に押し込めていると何か問題がありそうだというのが、提案の根拠だろう。
だが静奈さんは、首を横に振った。
「やだ」
しかも、なんだか子供のように。
「え?」
拒否されるとは思わなかったのだろう。彩水は静奈さんの顔を見た。すると、
「だって、隆也君と一緒にいたいし」
この場を微妙な空気にする、一言を呟いた。
「……え?」
困惑した面持ちで、彩水は聞き返す。言われた僕もまた、静奈さんを見て黙り込む。
「何? 何かおかしいこと言った?」
言いました。僕は胸中呟きじっと視線を送る。しかし静奈さんは僕を歯牙にもかけない様子で、彩水を見ている。
「お、お姉ちゃん……もう、冗談ばっかりやめてよ。そういう能力だから変になっているんでしょ?」
「そう見える?」
小首を傾げ、静奈さんは言った。その声はどこか強い意志を秘め、先ほどまでの空気を一変させるものだった。
途端に、彩水は固まった。僕の視点からは彩水の表情しか見えないのだが、その驚愕の顔は、姉妹故に何か感じるものがあるのだろうと推測できる。
そして、彩水はなぜそういう顔つきなのか――事の推移を見守っていると、静奈さんが声を発した。




