見事に一服盛られました
その日、僕は致命的な油断をしてしまった。その相手は全世界、いや全宇宙の中で最も警戒していなければならない相手だったにも関わらずだ。
「あ、おかえり。隆也」
学校から家に帰って来た時、リビングで出迎えてくれたのは大学生にもなる(なぜか)白衣姿の兄、宗佑だった。僕は「ただいま」と適当に返しつつ、鞄をソファに置くと、冷蔵庫に足を向ける。
「学校、どうだった?」
兄はリビングにある椅子に座り、テーブルに頬杖をつきながら訊いてくる。
僕は少し不審に思いながらも、冷蔵庫を開け、中に入っている紙パックのオレンジジュースを取り出した。喉が渇いていたので、一刻も早く飲みたかった。
「授業らしきものはもうないよ。来週、夏休みに入るから」
冷蔵庫を閉めながら問いに答えると、兄は即座に返答した。
「そっか。中学はもう終業式か。だから今日も午前中で帰って来たのか?」
「うん。明日から土日を挟んで、来週には終業式だ」
「そうかそうか」
兄はニコニコしながら話す。怪しい。僕はそう思った。
この目の前で笑っている相手こそ、僕が警戒しなければならない最大最凶の人物。こんな風に語りかけてくるなんてそうそうあり得ないため、何か企んでいるに違いない。
だがその時、僕は確かに油断してしまっていた。理由はいくつもある。夏休みが近く、少し浮かれ気味になっていたこと。さらに両親と旅行に行く約束をしていたため、その準備や予定を考えていたこと。さらに新作のゲームが手に入り、その攻略をどうしようか考えていたことなど、色々だ。
しかし本来は話し掛けてくる兄に対し、注意しなければならなかった。だけど――
「宿題とかは、地道にやるよ。兄さんはどうなの?」
言いながら、僕は食器棚からガラスのコップを取り出し、ジュースを注ぐ。
「俺もテストが終わって夏休みに入るよ」
「そっか」
適当に相槌を打ちながら、ジュースを飲んだ。一気に飲み干すと、ジュースを冷蔵庫にしまい、兄を見る。
「そういえば旅行、日程決まったけど、準備とか――」
そこまで言った時、兄を見て固まった。なぜなら、兄が喜悦の笑みを僕に向けていたからだ。
そして――馬鹿兄は僕を見て、告げる。
「飲んだな?」
「え……」
慌てて空のコップに目を向けた。飲んだ。確かに僕は飲んだ。ジュースを飲んで少しは体が冷えたはずなのに、全身から嫌な汗が出てくる。
「兄さん……何か、したの……?」
「……ふっふっふ」
怖い笑みを僕へ向けてきた。まずます汗が伝う。
「何を……したの……?」
「安心しろ。大したことじゃない。一服盛っただけだ」
とんでもないことを言い出した。僕は自分の体を見下ろす。何か変化はないか。
「ああ、効果が出てくるのは二時間後だ」
「……は?」
思わず聞き返した。こんな生殺しみたいな状況を二時間も?
「それまでは、ゆっくりしているといい」
語ると馬鹿兄はおもむろに立ち上がりリビングを出て行った。階段を上る音が聞こえたと同時に、哄笑のような声も聞こえてきた。
僕は恨めし気にコップを見た。喉が渇いていたため、ジュースを飲んだ。ある種浮かれていたため、ジュースを何の気なしに手に取ってしまった。兄がリビングにいる時点で、警戒してしかるべきだったはずなのに。
二時間――仕方があるまい。部屋に戻り待つことにした。これまでこういう事態に陥った場合、とりあえず部屋にこもることにしているのだ。それなら、誰の迷惑にもならないから。
「さて、どうなるんだろうなぁ……」
死ぬほど不安を覚えながら、階段を上って自室に入る。ベッドと勉強机、本棚のある小さめの部屋の中で、僕は静かにため息をついた。