第二話
目が覚めて、痛いなと思ったので左手を見たら、案の定火傷していた。ただ赤くなっているだけで、触ると少し痛い程度だったのだが、不安になって、すぐに洗面所に行く。水で冷やす。今更こうしても遅いのだろう。しかし冷やしていれば痛いのが収まるような気がしたので、しばらくそのままでいて、やがて冷やしただけで治るわけがないと気が付いた。
時間が経てば治るだろうか。それとも念のため医者に診てもらった方がいいだろうか。
「どうしたの?」
香耶が後ろから話しかけられてしまう。水を出しっ放しにしているのだから誤魔化せそうにない。素直に言おうと思ったら、香耶は先に左手の甲に気が付いた。
「あ、これもしかして」
「うん。その、昨日」
香耶のせいで火傷したのを彼女に言わなくてはいけないのが申し訳ない。「ごめんね」と謝られてしまうとどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
「いや、平気だから」
そう言われても無理だろうとわかりながらも「気にしないで」と言ってしまう。そして案の定「気にするよ」と返される。
「ちょっと痛いだけだから、そのうち勝手に治るよ」
彼女の頭に手を乗せてみる。
「わかった」と言いはするが、いまいち伝わっているような気がしなかった。彼女の熱のように、もっと的確に伝わらないものか。だけど火を出すことはできない。
アパートを出て、人通りの少ない道へ、車も通らない道へと歩いていく。交差点を通る度に道は狭くなってきて、やがて歩道と車道の区別がされていないような道を通ることになる。横断歩道や歩行者用の信号が無い場所も多くて、生身の人間が通るべきではないのかもしれないと思わされる。そういう道の端っこを前後に気を付けながら歩いていると、非常に細い歩道が復活して、その横に川が流れているのが見える。それを眺めながら歩いていると、今度は畑が見えてくる。その傍にある木造の小屋に顔を出す。
田村はまだ来ていないようで、武本さんしかいなかった。年の離れた人と二人でいるのは落ち着かない。
「今日は何すればいいですか?」
まだ仕事を始めなくてもいい時間なのだけど、そう言って仕事熱心な振りをして、一人になるのである。
野菜を作る。魔法を使って収穫できる段階まで一気に育ててしまうので、作ると言うのがぴったりな仕事だ。手を野菜の方に向ける。念動のつもりで。あるいは自分の手から不思議な栄養を照射するつもりで。すると野菜は投げかけられた透明なもので飢えを満たそうとして身を乗り出すがごとく急速に成長していく。
仕事を楽しいと思うことは少ない。だけどわくわくする。とにかく早く作る分と、多少時間をかける分と、魔法を使わずにじっくりと育てる分。前の二つで早回しをするように育っていく姿を見ていると、ゆっくりと成長していく野菜を収穫する日が待ち遠しい。時間をかけた方がおいしくなる。魔法では十二分に養分を蓄えさせるのが難しい、というのがその理由であるのだけど、時間をかけた方がおいしくなる、という理屈の方がやはりするりと頭に入ってくる。もし魔法で味を完璧に再現できたとしても、料理人とかは時間をかけて作ったやつを買うのではないか。そういう意味では、イメージと違わず時間をかけた方がおいしいというのはいいことなのかもしれない。
今日は大根を作っては引っこ抜いている。ある程度溜まったら小屋に運ぶ。それを繰り返していると自分が機械みたくなって、その機械の自分から切り離されたがごとく自分の中に残っている人間の部分が延々とくだらないことを考え続けるのである。
できればずっとこうしていたい。日中は黙々と誰と話すこともなく野菜を作っているだけ。それがいつの間にか出荷されていて、お金はきちんと振り込まれていて。その間、今しているこういう空想以上にくだらないことを考え続けるのだ。空の気持ちになったり鳥の気持ちになったりしながら。そしてたまに香耶が遊びに来て雑談するのである。
そんな生活が羨ましい。カプセルトイのような生活。中に入っているのは自分と香耶だけ。ただそれだと生活ができないから、カプセルに空いている小さな穴からお金や野菜などをやり取りするのである。
「おおい、そろそろお昼にしよう」
武本さんにそう呼びかけられたので、僕は仕事を切り上げた。大島さんは僕の二倍以上生きていて「年を取ると辛いな」とよく言うのだが、暑さにやられている僕よりも足取りは軽い。十分若いじゃないか、と思った矢先「よっしゃ、飯だ」と僕と同じくらいの田中が叫んで、小屋へ走り出した。
お茶をいれる。一人で落ち着ける時間で好きで、この役目を獲得した。お湯を沸かして、それを一度湯飲みに注ぐ。急須に茶葉を入れて、湯飲みのお湯も入れる。ちょっとの間ぼうっとする。お茶の味を想像しながら待つこの時間。これが大好きだ。いざお茶を入れる時は、最後の一滴を自分の所に入れる。この最後の一滴には味が凝縮されているらしい。どうせ混ざってわからなくなるけれども。
三つの湯飲みを運んで座ると、武村さんが僕たちに話しかけてきた。武本さんは僕たちの会話に自然と混ざることができるのである。見た目も中身も年齢より若い。そんな印象。
「昨日のテレビ見たか?植物職人のやつ」
「ああ、見ました。凄かったですね、あれ」と、僕と同期の田村が言った。
「あの年になっても衰えないっていうのは素晴らしいね。ほら、年取ると能力が使えなくなるって、よくあるわけだから。職人のプライドなのかねえ」
「憧れちゃいますね。俺もああいうのになりたかったんすけどね。結局何も開花しませんでしたよ」
僕も田中と同じだったので「本当に」と言うと、田中は「お前は可愛い彼女がいるだろうに」と言ってきた。「それ関係無いから」と返す。「はっは」と武本さんは笑った。
「いやいや諦めるのはまだ早いよ。俺も三十過ぎた時にさ、結婚して子どもが生まれたら新しいの使えるようになったよ」と言って、武本さんは子どもを喜ばせるために玩具を作ってみたら上手くいったことを話し始める。最初は木で出来た人形のようなもので、それが赤ちゃんの機嫌を取るのにかなり役立ったのだという。
「でも子どもが中学生になって、反抗期になってさ、どんなに頑張っても喜ばなくなってなあ。それでやらなくなったんだが、そうしたらいつの間にか使えなくなってたよ」
今では人形を作ることさえできないらしい。不思議だよなあ、と武本さんは首を叩きながらこぼして「ま、とにかくさ、そういうわけだから君たちにもまだチャンスはあるよ」と言った。
「特に山下君はさ。綺麗な彼女がいるんだから」
「武本さんまでからかわないでください」
香耶が弁当を持たせてくるようになってから度々いじられる。左手の火傷に気付かれないかどきどきする。
「でもやっぱり、自分で一から植物作れるっていいっすよね。儲かりそうですし」
「しかし食べ物となるとあまり売れないらしいね」
「そうなんですか?」と田村が聞くと「ああ。どんなのを作っても変り種って扱いを受けるらしい」と武本さんは答えた。
「新しい物って皆にとっては見慣れてない物だからね。食べ物となると、やっぱり馴染み深い物がいいからね」
「なるほど。確かにそうですね。だとするとやっぱり、なるならハンターですね」
田中がそう言うと、年は随分と離れているのにお兄さんとか先輩とかいう印象の強かった武本さんの表情が、父親らしい苦笑いに変わった。
「あはは。そうだね」
「早く才能が開花してハンターになれねえかなあ」
武本さんの目尻の皺が増えていく。やはり年というのはどうやっても取るものらしい。
「そういえば昨日、うちの近くにモンスターが出たみたいです」
武本さんだって若いままでいたいだろう、と思ったので言ったのだが、田中が「本当か」と食い付いてきた。
「見たわけじゃないけど。なんか雷みたいに外が光ったから」
「そうか。そりゃすげえな」
田中がはしゃぐ。今度は僕の年齢も増える。
「モンスターは怖いね」
「そりゃそうでしょう。モンスターなんですから。襲われたら怖いですよ」
護身のために何かを習っていようと手に負えない通り魔。それを恐れない人なんていない。ハンターでもない限りは。
「ああ、いや、それとはちょっと違うんだよ」
そう言って武本さんは笑う。すぐに眉が寄った。
「息子がちょっと荒れてしまってね」
武本さんは額を叩きながら言った。
「このまま悪化してモンスターになってしまうんじゃないかと思うと、怖いんだよ」
額を叩いていた手が湯飲みを持つ。ぐい、と傾けると武本さんは、はあ、と溜め息を漏らした。
「大丈夫ですよ。ただの反抗期ですって」
「そうそう。俺も中学とか高校の頃は親に酷いこと言いまくりましたよ」と田中も、おどけているのか本気なのかわかりかねるフォローをする。
武本さんは「ふふ」と笑って「そういうものなのかもね」と言った。とりあえず暗い表情でなくなったので安心できた。しかし新しい不安、それもさっきのより遥かに大きいものが、入れ替わるようにして心を占拠した。
「そっか。知ってる人がモンスターになるってこともあるんですよね」
あるいは自分がなるかもしれないのだった。どうやったら抗えるのだろう。そう考えても、答えは途方も無く遠い所にある気がして、届かない。