SS-1-2:柚原美里
たまに哲学的な本を読んだりすると、現実ってなんだろうと考える。
人が人を殺すという、忌むべき同族殺しの蔓延した世界。
わたしにとっては、堪えがたい恐怖をもたらすものだ。
いつだったか、文芸部の友達が冗談めかして言ったことがある。
−−化け物が人間を殺すぶん、ファンタジーの世界のほうがマシかもしれないね。
本気でそう思うほど、二年前のあの事件は、わたしの心に深い傷を刻んでいた。
けれど、ただ被害者であったわけではない。
わたし自身も一人の女の子を殺してしまったのだ。
ずっと知っていたはずだけど、それを自覚してはいなかった。
始まりは、現実と非現実が交差した日。ふたりの少女との出逢い−−
* * *
初めて彼女に会ったときから、どことなく陰があるようにはみえた。べつに表情や態度に出ていたわけではない。なんとなく、そう感じただけだった。
快活そうな外見とは裏腹に、一言でいってしまえば−−おとなしい子だった。口数も多いとはいえないし、微笑みも控えめで、感情の起伏が少ない子ではあった。けれども、ごくふつうの女の子だった。
他人と違うところがあるとすれば、一週間のうち二日−−ずっと見かけないときもあったが−−学校を休むことだろうか。
遅刻・早退・欠席はあたりまえ……なのに、容姿端麗・成績優秀・運動神経も抜群ときている。そのせいか、妬みや僻みの対象にもなっていた。
クラスの女の子たちは、そんな彼女と親しくなろうとは思わなかったらしい。
まあ一般論から言っても、学校に来られない子はどこでもそんな感じだ。たいてい孤立していく。だけど、本人は気にしていないようだった。
不自然だとは思っていた。
欠席の理由としては風邪が多いけど、翌日に治ったのかと聞くと、一回きょとんとしてから思い出したように返事をするのだ。でも、嘘をついているときのような焦りとか、そういうものを彼女は感じさせなかったから、お母さんが過保護なのだろうと、そのくらいにしか思っていなかった。
本当に不思議な子だ。
なぜ彼女に惹かれたのかは、いまいちわからない。気がつけば毎日、彼女の様子を見に行っていた。進級してクラスが変わっても。
たまにしか会えないのに、彼女のことがどうしようもなく好きだった。些細なことにも耳を傾けて笑いかけてくれると、ふかふかで温かく包まれているような、くすぐったい感じの幸せな気分になれる。
わたし自身は友達が少ないわけじゃない。むしろ、多いほうだと思う。だから周りの友達からも、なんであんなのと……なんて言われちゃったり。
そうすると、なんでこんなのと……なんて考えてしまう。欠点はないけど、特別に長所があるわけでもないから。
けれど、結局わからなかった。理屈じゃないのだ。ずっと一緒にいたい、もっと知りたいという欲求みたいなものは。
きっと、わたしの初恋だと思う。共学校なのに変だけど。
文芸部で小説に昇華していたのは、そんな一途な恋心だった。
* * *
春が終わろうかという五月のある日。前触れもなく、突然それは姿を現した。
学校の帰り道でのこと。いつもと同じように、おしゃべりをしながら歩いていたわたしたちは、こちらをにらむ野良犬の群れと遭遇する。
道路の真ん中を占拠して動こうとしないのを不審に思って、恭子ちゃんに話しかけた。すると恭子ちゃんは、なぜか驚いたようにわたしを見た。
野犬の群れが吠えながら向かってくると、恭子ちゃんは身を硬くしたわたしの腕を引いて走り出した。
凄い速さで、半ば引きずられるように、恭子ちゃんと住宅街を駆けていく。握られた手から伝わるぬくもりに、不謹慎だけど、少しどきどきしていた。
息を切らせながら必死に走っていても、追ってくる野犬の唸りは全然小さくならない。
「あっ」
わたしはかすかに声を発した。T字路で恭子ちゃんが選んだ道は、行き止まりだと知っていたから。
「そんなっ!?」
すぐに恭子ちゃんの絶望的な声がして、わたしたちは足を止めた。
行き止まりで立ち往生、袋のねずみ。ずっとつないでいた手を離して、恭子ちゃんはわたしをかばうように前に立った。
「−−目を閉じて、耳を塞いで、そこから動かないで。わかった?」
「……うん」
恭子ちゃんの手に握られた剣を見て、困惑しながらも頷いたけれど、わたしはそれほど聞き分けのいい子じゃない。
興味があったのだと思う。いままで知ることが出来なかった、恭子ちゃんが学校で見せるのとは違う一面に。
この時点でわたしは、それが非現実への入口だったのだとは気づいていなかった。
恭子ちゃんの低い呟きを耳にして、わたしは、そっと扉を開いた。
瞬間−−真紅の輝きが視界を埋め尽くした。その熱く感じるほどの眩しさに耐えられずに、光を閉ざしてしまう。
しばらくして薄く目を開けると、そこには初めて見る少女が存在していた。冷たい氷の仮面を張りつけて、襲いかかる動物を明らかに敵視している。
野犬を相手に真剣を振るう女の子。次々と頭部を、胴体を斬り捨て、その剣には肉片がこびりつき、蒸発する。見るに堪えない、ふつうの神経なら吐き気を催す、異常な光景。
だけど、わたしには恭子ちゃんの華麗な剣の舞しか見えていなかった。
(−−きれい)
無駄な動きのない演舞に、わたしはすっかり心を奪われていた。野犬の群れがまとめて消えたことに、なんの疑問も持たず。
恭子ちゃんが息をついたとき、はっと我に返って、慌てて顔を伏せた。
「もう……いいよ」
恭子ちゃんの言葉におそるおそるといった感じを装いながら、両耳を塞いだ手を下ろして、目を開いていく。演技は−−人を騙すのは意外と得意だった。誰もそんなこと思わないだろうけど。
恭子ちゃんは申し訳なさそうに、後ろめたそうに、暗い表情で目をそむけていた。
−−何か言わなきゃ。
そう思って、自然と零れ出したセリフは−−
「……怪我、してない?」
「え?」
恭子ちゃんと一緒に、わたしも驚いていた。違う意味で。
その言葉は確かに本心から出たものだと思う。けれども、なんだか心がざわついた。
(いい子ちゃんぶってるつもり?何をやってるの、わたしは……)
その訳もわからず、自己嫌悪に陥った。
黒塗りの車が目の前で止まって、それにわたしが乗るのだとわかったとき、ようやく気がついた。もう、非現実の世界に足を踏み入れてしまっていたことに。
「すみません。迷惑ばかり掛けてしまって」
「別にいいわよ。ちゃんと誘導できなかった私たちにも非はあるしね」
黄金色の髪の女性は、そう言って恭子ちゃんに笑いかけてから、運転手の人に話しかけた。社会人にしては若いような気がするし、大学生にしては立ち振る舞いが堂々としている。
「それじゃあ、お願いね。私の部屋に通していいから−−ええ、すぐに行くわ」
この道が一方通行だとは思っていなかった。このときはまだ、戻ってこられると思っていたんだ。
* * *
「しばらくの間、こちらでお待ちいただけますか?」
「は、はい……」
小さく返事をすると、案内してくれた女性は穏やかな微笑みを浮かべ、廊下の向こうへ歩いていった。
大仰に目隠しをされてまで連れていかれたのは、なんの変哲もない商業ビルのようだった。ただ、どこにも窓がなくて地下にいるような感覚を覚える。すぐ近くで市内のはずだけれど、何度か違う道を走ったみたいで、右とか左とかは分からなくなってしまった。
学校の教室にあるような横滑りの扉を開いた先は、質素な装飾の個室だった。デスクとベッドがあるだけで、狭くはないが広いわけでもない。詰め所のようなものかと思う。まさか、ここに住んでいるわけではないだろうし。
壁に掛けられた時計を見やると、学校を出てから、まだ二時間も経っていなかった。
どれだけ待てばいいのだろうか。ぼうっと立っているだけというのも、結構疲れる。わたしは手近にあった椅子を借りることにした。
外からは、わずかな物音も届いてこない。完全な静寂だった。
(なんで、こんなところにいるんだろ……)
ひとりで頭の中を整理していると、ふと思った。
確かに、わたしは恭子ちゃんのことを知りたい。だけど、わがままかもしれないけど、付属するその他もろもろと関わりあいにはなりたくないのだ。いまは、あくまでも傍観者の立場。もし同じ立場になるのだとしても、それは全部を知ってから。わたし自身がそう決めたとき。とにかく、この状況には不快感があった。
通ってきた廊下には、ほとんど人がいなかったみたいだし、もしかして意外と楽に外に出られるかもしれない。
椅子から腰を上げると、閉めたばかりの扉の前で立ち止まって、深呼吸をする。
(恭子ちゃんに怒られるかな……)
不安というか、心配というか−−大きな悩みの種も浮かんできたが、はやく行動に移さないと決心が鈍るような気がした。
きっと、大丈夫のはずだ。わたしは望んでここにいるわけじゃないし、恭子ちゃんのあんな姿を見たからといって彼女を避けるはずもない。今度だって、何も知らないように普通に接すれば、恭子ちゃんなら解ってくれる。逃げるんじゃない、帰るんだ。
自分のなかで正当な理由を作って、納得させる。わたしは卑怯なんかじゃない。
そんなことを一生懸命に言い聞かせていると、不意に扉のほうから勝手に開いた。
「あ……」
扉の向こうには女の子がいた。ここに来るまでに何回か見かけた、少女には不似合いの灰色の制服を着て、頭には置いてピンで留めるだけの帽子が飾られている。
ぱっと見では気づかなかった、けど−−
「また、見捨てるの?」
ぽつりと呟いた。たったそれだけなのに、肩がびくんと震えた。一気に噴き出した汗で全身が冷たくなり、静かな迫力に押されるように後ずさる。
「か、加奈ちゃん!?」
動揺にうわずった声が発せられる。
(−−なんで!?あのときの子が、なんで!?)
わけがわからなかった。頭が真っ白だったのは一瞬で、すぐにパニックになった。
碧眼の少女は室内に入ると、扉を閉じて逃げ道を塞ぐように目の前に立ちはだかった。そうして、まっすぐに射抜くような視線を向けてくる。
たった数日いっしょにいただけだが、忘れられるはずもなかった。もっとも、思い出したのも久しぶりだが。
「自分だけ逃げるんだ?」
「わたしは巻き込まれただけだよっ!」
まるで全てを知っているというような口調で、少女は嘲笑する。
「でも、彼女の友達なんでしょう?友達なのに、逃げるの?」
話の流れがどこからくるのか、いきなりで脈絡がないように聞こえるが、言葉の断片だけでも、鋭い刃のように心に突き刺さる。そして、痛い。
「あのとき、友達になってくれるって言ったよね?」
過去と現在をつなぐ魔法のように、少女の独白はわたしの記憶を鮮明に甦らせようとする。
「やめて……おねがい、いわないで……許してよぉ……謝る、から……お願いっ!」
年下の女の子に赦しを乞うのは、みじめだった。けれど何を言われるのか解っていて、それでも受け入れたくなかった。汚い人間なのだと、自分が嫌悪する現実の住人と同じなのだと、認めたくなかった。
「それなのに、一人で逃げちゃった」
「いやぁぁっ!」
罪悪感はなかった。逃げれると思った、だから逃げた。本当にそれだけだったんだ。苦しくなったのは、警察に保護されたあとだった。
「絶望だったよ。気がついたら友達はいなくて、ひとりぼっちで。美里ちゃんが逃げちゃったときに、私はもう死んじゃったの。だから、そのあとは全然つらくなかった。どうしてか、わかる?」
「わ、からない……うくっ」
「目的ができたから。それで私はここにいるの。すごくひどい目にあって、本当に死にそうにもなったけど、ここにいるの。なんでだと思う?」
「や……わから、ない……よぉ」
「−−貴女を殺すために決まってるでしょ!」
激昂して声を荒げた少女は、無造作に腕を伸ばして、わたしの首を掴んだ。
「あ、うぐっ……かな、ちゃ……」
見つめた青い眼に、負の感情以外、何も見いだすことは出来ない。
どれほどの力が、怒りが、憎しみが、その細腕から生まれているのだろうか。片手だというのに、首筋に強く指が食い込んだ。
わたしにだって加奈ちゃんの行動は理解できるつもりだ。恨まれても仕方ないと思う。自分が助かることしか頭になかったのは、紛れもない事実だから。逃げる以外に方法はなかった。わたしは弱いから、何もできないから。死にたくなかったんだ。
だけど、過去に見捨てた少女に殺されようとしていて、なんだか悲しかった。死にたくないと、あのときのように強くは思えなかった。わたしが誘拐犯の男に抱いたものを、この女の子に抱かれているのだと思うと、とてもつらかった。
結局、わたしはどこまでも偽善者なのだろう。恭子ちゃんに対してもそう、加奈ちゃんに対してもそう。
もう口にできない、いえなかった謝罪の言葉を胸の中でつぶやいていた。
(ごめんね、加奈ちゃん……)
荒々しく扉が開かれる音と−−
「加奈っ!」
遠くで聞こえた女のひとの叫びを最後に、わたしの意識は暗い海の底に沈んでいった。
* * *
「ぅん……んんっ」
息苦しさを覚えて、拡散していた意識が急に収束していくのがわかった。
「お、気がついたみたい。えと、なんて名前?」
「……美里ちゃん、です」
「おーい、美里ちゃん。大丈夫かぁ?ちゃんと意識があるんだったら、右手を上げてくれる?できれば、なくても上げてほしいんだけど」
「……先生、めちゃくちゃです」
「だって、はやく寝たいんだよ。昨日も徹夜だったんだからさ」
誰かがわたしを呼んでいる。どうやら学校らしいけど、保健室の先生はこんな人だったろうか。それに、聞き慣れないが懐かしい声も混じっていた気がした。
「んっ……」
身じろぎをするのが精一杯で、腕とか足とかが麻痺したように動かない。
「ありゃ、だめかな。まだ、朦朧としてるのかも。覚醒剤でも打つ?」
「……やめてください」
一緒にいる女の子は元気がないようだった。その小さな声が、何故だか胸に痛い。
学校の保健室とか病院でおなじみの、つんとした消毒液のにおいが鼻をつく。けれど、ここは本当に学校だろうか。何か大切なことを忘れてしまっているように思う。そもそも、なんで寝ているのだろう。
「あー、ちなみに言っておくとだな、ここは学校じゃないよ。むろん、病院でも家でもない」
わたしは何をしていたんだっけ。どうして、こんなに首が痛いのだろう。というか、意識がはっきりしてくるにつれて、激痛になってくるような。
「美里ちゃん。残念だけど、あなた死んだのよ?」
「先生っ!」
極めて真剣な女性の言葉に重ねて、女の子の悲痛な叫びが耳に響く。
死んだ?誰が?
「怒んないでよ。軽いブラックジョークでしょ?」
そうだった。わたしは死んだんだった……なんで、意識があるの?
思考がとりとめもなく錯乱している。
なんで死んじゃったんだっけ。えっと−−
息ができなくて−−誰かに首を絞められて−−そうだ。女の子が−−
がばっ!
「−−ごほっ、ごほっ!けほっ!」
思い出して、勢いよく起き上がったけれど、痛みと苦しみが同時に襲い掛かってくる。
「こら、急に起きちゃだめだろ!右手を上げなさいって言ったのに」
「大丈夫!?」
慌てて、二人が崩れかけたわたしの身体を支えてくれる。
「ほら、ゆっくり息を吸って。下を向いちゃだめだからね!」
白衣を着た女性が、わたしの背中を優しくさすりながら言う。女の子はぎゅっと手を握ってきた。
鈍い痛みがある首に空いているほうの手をやると、大げさなほどに何重にも包帯が巻かれていた。これでは、動かそうにも動かない。
けど、本当に痛い……
少しずつ呼吸が落ち着いてくると、わたしはきょろきょろと部屋を見渡していた。かなりの広さがあって、いくつもベッドが置かれている。そのうちのひとつに寝ているわけだが、周りには、いろんな薬品や薬物が納められた棚があったり、見たこともない機器の数々が並んでいたりする。
「あ、れ?なんで、わたし−−」
死んでない。そのことが不思議で、複雑な気持ちになる。
両手でわたしの左手を包み込んでいる女の子は、つらそうに顔を歪めて俯いていた。
「……加奈ちゃん?」
怯えるように、びくっと肩を震わせる。黒瞳の双眸が、ひどく揺れたようにも見えた。
「もう、平気?」
加奈ちゃんの様子を気に留めてか、横から医者とも研究者ともわからない格好の女性が声を掛けてくる。
適当に梳いているのがありありとわかるショートヘアが印象的。そのわりに整った顔立ちをしていて、美人といって差し支えないかもしれない。年齢は……不詳。三十代といわれても、大学生といわれても、どっちでも納得できてしまう。
「はい。意識はしっかりしてます」
−−状況は把握できてないけど。
「そう、よかったわ。一応、自己紹介をしておくと。あたしは、佐倉涼子といいます。この子と−−しばらくは、あなたの主治医にもなると思うけど。とりあえず、よろしくね」
微笑みかけられても困ってしまう。挨拶を返せずに、わたしは聞き返した。
「主治医……ですか?」
「念のため、よ。ちょっとした検査を定期的に受けてもらうだけだから」
「はあ」
釈然としないものが残る。けど、そんなことはどうでもよくて。
「さっき何か聞こえたと思うけど、冗談だから。死んでないよ、わずかに黄泉の階段を上ったくらいだし」
あくびを手のひらで隠しながら、平然とそんなことを言う。
「いま、何時ですか?」
目を覚ますと時間を確認したくなる。それは普通に寝ていても、気絶しようが昏睡しようが同じことだろう。場所も場合も関係ない、習慣のようなものだ。
「んと……夜の十一時になるところね。安定したのはついさっきだから、まだ寝てなさいよ。あたしですら笑えないほどだったんだから。祐里がいなきゃ、どうなってたことか」
「祐里さん?」
「うん、風見祐里。ここの副司令官なんだけど……って、言っていいんだっけ?」
「……大丈夫だと、思います」
加奈ちゃんは力なく答えた。どうして、こんなに沈んでいるんだろう。
−−わたしを殺し損ねたから?
脳裏をよぎった考えに自嘲する。助かったのに、蒸し返してどうする。
「会ったでしょう?」
「え?」
じっと加奈ちゃんに見入っていたら、反応できなかった。
「迎えにいったひと」
三秒くらい考えて、そういえばと思い当たる。名前は聞かなかったけど、恭子ちゃんと親しそうにしていた、あの綺麗な女性だ。
「祐里が、わざわざ運んできたわけよ。まっさおな加奈もセットで」
「…………」
「もう、ずっと泣いててさ。大変だったわよ。祐里は緊急だとかで司令室のほうに戻っちゃうし、あなたはいつまでも死神とランデブーでしょ?」
面白いたとえをするんだなぁと、頭の隅っこで文芸部員として感心したのは、さておき。
加奈ちゃんが、泣いてた?あんなふうに怒りをあらわにして、わたしに掴みかかったこの子が?そういえば、ちょっと目が赤かった気はする、けど……泣いてくれたの?
「誤解を解くために言っておくとね。あなたが会ったのは、加奈であって、加奈じゃないわけよ。よくわかんないだろうけど」
「先生!」
弾かれたように顔を上げて、加奈ちゃんが抗議する。
(−−えっ?)
いまごろ気づいたけど……目の色が、違う?
「なによ、自分で言えるの?」
「そ、それは」
祐里さんの部屋で会ったときは蒼い眼だったはず。これは間違いない。なにもかも見透かされるような、吸い込まれるような恐怖を感じたから。
でも、いまは−−
「加奈ちゃん、その瞳」
「−−っ!」
驚いたように、澄んだ黒真珠がわたしを見つめた。
「あれ、気がついた?」
愉快そうに涼子さんは目を細める。
「まあ、この子にもいろいろあってさ。なんていうか……特異体質、かな?好ましくない感情が大きくなると、スイッチが入るっていうの?見た目で区別できるのは、瞳の変色くらいなんだけどね」
適当な言葉を探しながら説明しているみたいで、わたしにはどうにも理解しづらかった。
「簡単にいっちゃうと、二重人格って思ってもらえればいいのかな?」
「二重人格……」
とてもわかりやすかったけど、それは何か違う気がした。なんとなくだが。
「厳密には……ってか、本当はそんなんじゃないけど、あとは本人に聞いてちょうだい。ま、聞かないでおくのも優しさだけどね」
そういって涼子さんが視線を送っても、加奈ちゃんは何も喋ろうとはしなかった。肯定も、否定もしない。
わたしは苦しんでるだけの加奈ちゃんを見かねて、何か声を掛けたいと思った。それなのに何も浮かばなかったから、結局さっき伝えられなかった言葉を口にしていた。
「−−ごめんなさい!」
「えっ!?」
いきなり傷つけた相手に頭を下げられて、加奈ちゃんは困惑しているようだった。
「なんで、美里ちゃんが謝るの?」
「二年前のこと、わたし−−」
加奈ちゃんが息を呑んだのがわかったけど、言い訳になるってわかってるけど、言わなきゃいけないと思った。
「わたし、加奈ちゃんと友達になれて嬉しかった。ひとりじゃないって思えて、心強かった。本当だよ?……でも、やっぱり怖くて、死にたくなくて。だから逃げだしたとき、ほかのこと何も考えられなかった。信じてもらえないと思うけど、見捨てたんじゃないの。ただ、余裕がなくて……保護されて助かったとき、すごくつらかった」
自分を弁護するうえで必要なことは全部いったはずなのに、言葉がとまらない。
わたしのちっぽけな良心が黒いものを許さないみたいに、感情が昂って勝手にすべてをさらけだそうとする。
「−−けど、加奈ちゃんが死んじゃうかもしれないって思ったとき……かわいそうって、それだけだった。それよりも、自分が助かってよかったって。わたし、こんな汚い人間なんだよ!加奈ちゃんに恨まれて、当然だよっ!なんで……なんで、わたし生きてるの?ねえ、なんでなのっ!?こんなの、おかしいよ……わたしなんか、死んじゃえばよかったのにっ!」
だんだん何を言っているのか、何が言いたいのかわからなくなって、泣き出してしまう。
卑怯だってわかってた。ここで泣いたら、誰も責められない。だけど、溢れだす涙は止まりそうになかった。
そんなふうに気持ちを吐き出したわたしの手を握ったまま、加奈ちゃんは慈しむように慰めてくれようとする。
「謝らないで。美里ちゃんは悪くないよ……だって、美里ちゃんはふつうの女の子だもん。年上だとか、そんなの全然関係ない。怖いものは怖いよね。それに、しっかりしないといけないのは私だったの。だから、いいんだよ。泣かないで……私なんかのために、泣かないでよ」
「そんなことないよ!わたしのせいで−−」
「いいの……ごめんね……ごめんなさい、ごめんなさい」
それから日付が変わるくらいまで、わたしたちは泣きながら謝りつづけていた。
特別そのこと自体に意味があったわけではない。
加奈ちゃんがわたしを赦すというのはありえないことだし、あってはいけないと思う。けれど、お互いの心のなかの何かを解りあえたような−−そんな気がしていた。
* * *
気高い慈悲の天使、恭子ちゃん。
彷徨う薄幸の堕天使、加奈ちゃん。
一緒にいたいと想えるひと。そばにいてあげたいと想うひと。
それは、恋とは呼べないかもしれない。けれど「好き」という気持ちが、たしかに心の温かい場所にあった。たぶん、嫌われても嫌いにはなれない。
とりあえずは−−その笑顔を、その涙を信じたいと思う。どんな明日が来ても、二人がいてくれれば大丈夫な気がするんだ。
だけど、どちらかを選ばなきゃいけなくなったとき、わたしは恭子ちゃんを裏切れるのだろうか。加奈ちゃんをまた見捨てることができるのだろうか。
いまはまだ、何もわからない。そう、先のことは何も−−
美里が、ただの恭子の友達ではなく、組織と接点があるという設定。サイドストーリーで初めて登場した、神代加奈ちゃんが実は凄い重要。
第二章が書きたくなりました。読んでくださる方は、気長に期待してください。