ムネヤ、大腸取るってよ ~潰瘍性大腸炎闘病記~
第一話 ムネヤ、潰瘍性大腸炎になる
高校3年生のムネヤは、大阪大学文学部の校舎の前に立っていた。
彼の前には合格発表の掲示板があり、何度見ても、彼の番号は見当たらなかった。
この年の大阪大学文学部は5人いれば2人は受かるという倍率だったため、センター試験の結果が思わしくなかったにも関わらず、なんとなく自分は受かるのではないかと、ムネヤは思っていた。
そうは問屋が卸してくれず、余裕をかまして他の大学を受けていなかったムネヤの、浪人生活が決まった。
キャンパスには合格発表のニュース映像を撮るためにテレビカメラが来ており、合格した受験生がアメフト部員に胴上げされる中、ムネヤはとぼとぼと阪大坂をくだり、石橋駅から阪急電車に乗って家路についた。
4月、ムネヤは京都二条城の北東に立つ、駿台予備学校京都校にいた。同じ高校でちょっと気になっていた女の子が、ムネヤと同じく浪人生となり、駿台京都校に行くと聞いたからである。
ムネヤは人生で初めて、塾・予備校というものに通うことになった。
駿台には、ほかにも名古屋大を目指す可愛い女の子がいたり、バレーボール大会があったり、決定論(運命論)について熱く語る数学の講師がいたりして、人生のレールから外れてしまったかのように感じていたムネヤに、わりあい充実した日々を与えてくれた。
ムネヤは枚方の自宅を出て京阪電車に乗り、丸太町駅で降りて、駿台までは自転車で通っていたが、1カ月もしないうちに駐輪場に停めていた自転車のサドルだけ盗まれた。嬉々としてサドルだけ盗んでいくどこかの誰かのアホな姿が頭に浮かんだが、ムネヤは特に怒るでもなく、その日から徒歩で通うことにした。
丸太町駅から駿台に向かう途中には京都御所があり、歩いてその前を通っていると、自分は今、歴史ある京都にいるんだという思いが膨らみ、明日をも知れぬ浪人生としての悲哀と、ウォークマンで聞く尾崎豊の楽曲が相まって、ムネヤは誰も見ていないテレビドラマの主人公になったような気がした。
そして、それから2カ月半ほどが経った7月、ムネヤは駿台京都校に退学届を提出した。
駿台が嫌になったわけではなかった。ただ単に、通えなくなったのである。
ムネヤから退学の事情を聞いた駿台京都校事務局は、すでに納めてあった1年間の学費数十万円の大半を返してくれた。学費についてはすでにあきらめていたムネヤは駿台のやさしさに心打たれたが、単にそういう決まりだったのかもしれない。それでもムネヤは、今でも駿台のことを「やさしさにあふれた学び舎」のように感じるのであった。
ムネヤの体調には、明らかな異変が起こっていた。おなかの調子が悪くなり、頻繁にトイレに行くようになった。しかも便器の中がうっすら赤い。血が混じっている?という自分の心の声を、それに気づきたくないもう一人の自分が必死に抑え込む。
1週間たっても症状は治まらず、近くの医院を受診したムネヤであったが、「便器の中が微妙に赤い」ことは、医師に言わなかった。ムネヤは、ただ下痢が続いていて、腹痛もある、とだけ伝えた。
普段は冷静かつ客観的にものを考えられることを自分の美点として喧伝しているにもかかわらず、この時のムネヤは「便に血が混じっている」という客観的事実から、そっと目をそらしたのである。
医師からは「風邪から来る腸炎でしょう」という無難な診断が下り、ムネヤはほっとしつつも、自分が真実を隠して無難な診断を入手したことに、一抹の不安を覚えていた。
言うまでもないことだが、真実を隠して医師をだますことはできても、下痢や腹痛はムネヤのそんなウソにだまされてはくれない。彼らはその後も、容赦なくムネヤを襲い続けた。
耐えかねたムネヤは、前回、まんまとだましてやった医師のもとを恥ずかしげもなく再び訪ね、まるではじめて気づいた事実であるかのように、「便が少し赤く、血が混じっているような気がするんですが…」と殊勝な態度で報告した。
これは一大事と感じた医師は、ここでは詳しい検査ができないので、枚方市民病院に行くようムネヤに指示した。母親の車でさっそく枚方市民病院へと向かったムネヤは、そこで初めて「潰瘍性大腸炎」なる病名を通告され、「国の指定難病で、基本的に治りません」という聞きたくない情報まで聞かされたのであった。
それから、潰瘍性大腸炎の症状は悪化の一途をたどった。薬は一応飲んでいたが、効いているんだか効いていないんだか分からないレベルであった。ムネヤは次第に、外出も難しくなった。潰瘍性大腸炎の下痢は、普通の胃腸炎などによる下痢とはレベルが違うのである。
レベルの違いは、「腹痛の強さ」などではなく、「便意の強さ」において、その本領が発揮される。
トイレに駆け込む回数は1日に20回を超え、ベッドに横になるとすぐに激しい便意が襲ってくるため、夜も寝られなくなった。
特にムネヤの場合、便意が起こってから我慢できるのはいくらお尻に力を入れても15秒程度であり、2階にあるムネヤの部屋から、1階にあるトイレまでは到底間に合わなかった。
トイレの前に布団を敷いて寝ることも考えたが、それでは親が心配してしまうため、部屋にあった高さ60センチ、直径25センチほどの円筒状の金属製ゴミ箱を、緊急用トイレとして使うことにした。
細長いゴミ箱で、非常に不安定ではあるが、ゴミ袋さえ入れておけば、十分緊急用トイレとして機能したのである。また、上半身を起こした状態で寝れば便意や腹痛が起きにくかったため、ムネヤは急遽、通販の「リクライニングができる折り畳み式ベッド」を29800円で購入した。
第二話 ムネヤ、キャッツ・アイになる
それでも、二十歳にもならない若いムネヤにとって屈辱的な事態は、容赦なく襲いかかってきた。ある日、何とか眠りについていたムネヤは、下半身にイヤな感触をおぼえた。赤ちゃんの時以来の、「お尻のあたりが濡れている」感覚である。
可愛い赤ちゃんだった頃のムネヤなら「あら~!」と軽く許されたであろうこの事態も、18歳のムネヤには到底、許されるものではなかった。
掛け布団をそっとめくり上げ、ゆっくりとベッドサイドに立ち上がる。お尻のあたりを、下手に触るわけにはいかない。小の方を漏らしたのとは、わけがちがう。ムネヤは空中にぶら下がっているひもを引っ張り、蛍光灯の灯りを点けた。
ムネヤは通販で購入したベッドの上に布団とシーツを敷いて寝ていたが、白いシーツには嫌な色のシミが広がっていた。呆然と佇むムネヤであったが、すぐにミッション開始の合図が鳴った。誰にも知られず、これを無かったことにしなければならない。
まず、この状態は自分の部屋やトイレでは処理できない。可能な選択肢は、風呂場しかなかった。幸い、周囲を汚さずに歩いて風呂場に移動することは出来そうであった。
処理すべきブツは、パンツとパジャマのズボン、シーツの3つ。嫌な色のシミは明らかにシーツを通過して敷布団にまで到達していたが、パンツ・パジャマのズボン・シーツの3層が汚れの大半を吸収しており、敷布団は水で濡れただけのように見えるので、「これは明日の朝になってから、ドライヤーで乾かせば良いだろう」と、冷静な犯罪者のような顔でムネヤは思った。
さらに「いま、誰にも知られずに処理するには、シーツは大きすぎる。シミの部分を内側にして折りたたんでおき、明日の昼間にでも洗面所でシミの部分をこすり洗いしよう」と考えたムネヤは、ミッション完遂に向けて、キャッツ・アイのように動き出した。
階段をそっと降りる。深夜なので、親を起こさないように。ムネヤは音もなく風呂場へすべり込んだ。パジャマのズボンとパンツを脱ぎ、犯行の状況を確認する。これは洗ったところで証拠隠滅は無理だと確信し、こうなることを予想して準備しておいたスーパーのビニール袋に押し込んだ。次のゴミ捨ての日は月曜だ。親ではなく、自分で捨てに行けばよい。完全犯罪者となったムネヤは、無表情のままシャワーからお湯が出るのを待ち、下半身を念入りに洗った。
ムネヤは着替えのパジャマとパンツを風呂場に持ってくるのを忘れていた。風呂から上がったムネヤはバスタオルで下半身を隠しながら、静かに階段を上っていった。
また、別に日にはこんなこともあった。
風呂に入っていたムネヤは強烈な便意を3秒と我慢できず、風呂場に漏らしたのである。小ならともかく大の方は、お湯で流しても排水溝に流れて行ってはくれなかった。
必死に思案するムネヤはまるでポクポクと頓智をひねり出す一休さんのようであったが、良い知恵は浮かばなかった。
排水溝には小さな穴が6つほどあいた蓋が付いており、何か道具を使わないと、蓋を持ち上げられない仕組みになっていた。
どうやって大の方を排水溝に流し込んだかは、ここには書かないし、書けない。しかし、とりあえずそれは家族にはばれずに成功し、ムネヤは何食わぬ顔で事件現場をあとにしたのである。
第三話 受験と便意
この頃のムネヤの頭の中は、来年の受験のことと便意のことで、完全に埋め尽くされていた。
外出が難しくなって駿台をやめてしまったため、受験勉強は完全に独学となり、自宅浪人という名の引きこもりのようになった。たまに頑張って朝食も昼食も抜き、トイレの場所を確認しながら模試を受けに行くのだが、成績は現役生の頃よりも下がっていた。
1浪後の受験でムネヤはまた大阪大学文学部を受けたが、現役生の時とほぼ同じ成績で不合格となり、ムネヤは2年目の浪人生活に突入した。
この頃のムネヤはいつも、「消えたい」と思っていた。「死にたい」のではなく、眠りについたまま、消えたかった。小学生の頃から人より勉強ができ、中学ではバレー部のキャプテンを務め、高校ではごくたまにではあるが女の子から告白を受けるという順風満帆な人生を歩んできたムネヤにとって、このままいつまでも便意と腹痛と浪人の恥辱にまみれた人生を送るのは、恐怖以外の何物でもなかった。
しかし、普段から神も仏も信じていないと公言するムネヤの願いを叶えてくれるほど、神様も仏様も優しくはなかった。ムネヤは来る日も来る日も直腸で起きる雷のような便意に襲われてトイレに駆け込み、「これ以上何も出ない」というところまで頑張ってトイレから出た瞬間、再び激烈な便意に見舞われ、そのままトイレに戻ってしゃがみこむという動作を繰り返した。
もはや出るものはなく、血の混じった赤い体液が少量流れ出るだけであった。何も出ないのに便意だけが起こることを「しぶり腹」というのだと、ムネヤは潰瘍性大腸炎に関する医学書で知った。それからは便器にしゃがみ込みながら、「これがしぶり腹というやつか…」と、どこか冷静に考えることができるようになった。「セクハラ」という言葉ができて、はじめて「セクハラ」という不正な行為を社会が認識できるようになったのに似ていた。
潰瘍性大腸炎になった時、ムネヤは病院から「食べてよいもの」「食べてはいけないもの」「少しなら食べてもよいもの」を記載した表を渡された。現在はどうか知らないが、当時の潰瘍性大腸炎患者が「食べてよいもの」は、極端に言えば白米と玉子、うどんと豆腐のみであった。要するに、繊維の多い野菜はダメ、脂っぽい肉や揚げ物もダメ、牛乳などの乳製品もダメ、あれもダメ、これもダメ、という感じであった。
「豆乳」は良いと書いてあったので、ムネヤは近所のスーパーでビニール袋に入った豆乳を頻繁に買い込み、フライパンで温めながらガラスープで味をつけ、煮詰めてドロッとした湯葉のようにしたものを常食するようになった。他には玉子を入れたうどんと豆腐ばかり食べていたため、今でもムネヤは豆腐をあまり食べたいとは思わないのである。
第四話 「波と数理」狂騒曲
そんなムネヤに、転機が訪れた。
2年間の自宅での浪人生活を経て、無事、大阪大学に合格したのである。
浪人生活で学力が上がったからではないことは、ムネヤ自身、よく分かっていた。実力は現役生の頃とほぼ同じであったが、センター試験の「化学」が、97点も取れたのである。しかし、ちゃんと問題を解いて正解したところは、合計で70点分しかなく、あとの27点は、解く時間がなかったために適当にマークしたところが、奇跡的に合っていたのである。
自己採点をしている時、ムネヤ自身が驚いた。それまで彼はすでに3浪を覚悟していたのだが、神様・仏様は、自分たちをまったく信じていない不信心者にまでその大きな手を差し伸べてくれたのである。
潰瘍性大腸炎自体はまったく治ってはいなかったものの、大学に合格したことで、ムネヤの心は晴れ晴れとしたものに変わった。心の重しの80%は浪人であることから来ていたことに、ムネヤは気づいた。病気自体は苦しいものの、心を重くしていたのは潰瘍性大腸炎ではなく、人生のレールから外れた「浪人」という社会的立場だったのである。
阪大生となったムネヤにとって、あとは潰瘍性大腸炎と戦うだけであった。
入学して最初にムネヤが行ったのは、家から大学までのトイレの場所を徹底的に頭の中の地図に落とし込むことである。
いつ意地の悪い便意に襲われるか分からないため、本来下車しない駅でも、どこにトイレがあるのかを調べておく必要があった。さらに、阪急石橋駅を降りてすぐのパン屋さん、阪大坂をのぼりはじめてすぐのところにあった阪大医療技術短大の校舎、キャンパスに入って一番初めに到達するイ号館。それぞれのトイレの場所を完全に把握し、ムネヤは意気揚々と阪大生としての第一歩を歩み始めた。
しかし、この年の1年生は、前年の教養部廃止に伴って発足した「全学共通教育機構」による新システムに、入学早々翻弄されることになった。この新システムでは、法学系、経済系、国際系、理数系、文学系などの様々な「主題」が用意されており、各学生はそのうちの1つを選ぶ。そして、その中に設定されている複数の授業をほぼ全て受講し、単位を取得しなければ、卒業ができない仕組みになっていた。
このシステムは、見た目上、とても優しく設計されていた。巨大な総合大学である大阪大学のリソースを活用して、「主題」は多様な学生の興味・関心に応じうるあらゆる分野から設定されており、しかも第1希望から第6希望まで書けるようになっていた。
文学部で日本の近現代史を学ぼうと、青雲の志を持って大阪大学に入学していたムネヤは、政治・経済・歴史・国際など、自分の興味が及ぶ範囲の主題を6つ選び、たとえ第6希望に回されたとしても、腐らず頑張ろうと心に誓った。
しかし、そんなムネヤの純粋な心は、あっけなく打ち砕かれた。ある日、大学からこう言われたのである。「あなたは第6希望までどれも通りませんでした。〇月〇日に大学まで来て、残った主題から1つ選んで登録してください」
それは、反論することを一切許さない、冷徹な宣告だった。
ムネヤは重い足取りで大阪大学のキャンパスに向かった。登録会場には大勢の新1年生がおり、みな「第6希望まで通らなかったので、余りものから1つ選びに来なさい」と言われた、ゾンビの群であった。その人数の多さは、新システムがうまく稼働していないことを示していた。
ムネヤは気を取り直して、「残った主題」なるもののリストを見た。どの主題のタイトルも、その中に設定されている各授業も、いかにも不人気で、多くの学生から避けられた「余りもの」であることが、誰の目にも明らかであった。
ムネヤはその中から「波と数理」という主題を選んだ。文学部のムネヤには全く意味の分からないタイトルだったが、その他のタイトルはもっと意味の分からないものばかりだったからである。日本語としてぎりぎり意味の分かるのが、この「波と数理」であった。まだ授業も始まっていなかったが、ムネヤはもう大学をやめたくなっていた。
いよいよ、「波と数理」の授業が始まった。なにやら建築に関係があるらしい授業、センター試験の化学とは何のつながりがあるのかもわからないほど難しい化学の授業、生物の遺伝の授業。
ムネヤは、こんな勉強がしたくて阪大文学部を目指したのではなかった。しかし、これらの授業は「必須科目」であり、単位を取得しないで卒業することはできないことになっていた。
まじめなムネヤは、何とか単位を取得すべく、教授が指定したテキストを買い込み、必死に勉強した。化学の授業は、センター試験で仮にも97点を取って入学したムネヤでも、95%の内容が理解できないものであった。これなら教授がイタリア語で授業をしても「理解できない」という意味では同じだな、とムネヤは授業を受けながらぼんやり考えていた。
ある日、思い余ったムネヤは授業終了後に教授をつかまえ、「テキストも買ったし、自分なりに一生懸命勉強しているんですが、授業の内容が理解できません。どうすればいいですか」と聞いてみた。教授は、「ああ、そう。そうかなぁ」とだけ言って、どこかに歩いて行った。ムネヤは「この授業をちゃんと聞くのはやめよう」と心に誓い、別の方法で単位を取得することを考え始めた。
主題「波と数理」の中の、中心的な授業は、その名の通り「波と数理」という授業であった。この授業はいまだに何の授業だったのか、ムネヤには分からない。建築に関係している気がしたし、何かの図法に関係している気もしたが、いずれにせよ、化学と同じく95%理解できなかった。
この授業では時々提出物があり、ムネヤには到底手が出なかったが、たまたま近くに座っていた医学部などの賢い理系学生に提出物を見せてもらい、そのまま書き写して、まんまと提出点を稼いだ。また、ペーパーテストも行われたが、教授が「自分でクイズを作って、それを書いてくれれば点数はあげます」と宣言してくれたので、ムネヤは本屋で適当なクイズ本を見繕い、さも自分で作ったかのように偽装して、解答用紙の「クイズ記入欄」を丁寧に埋めた。
「波と数理」の単位取得の見通しが経った頃から1年ちょっとの間は、「トイレに駆け込む回数を減らすために、昼食は食べない」ということを除き、ムネヤはなんとか普通の大学生活を送ることができた。体育の授業で卓球をしたり、駿台京都校に行くきっかけとなった高校の同級生と阪大の学園祭に行ったりした。
電車通学は下痢と便意という恐ろしい敵が常にお腹の中で待ち構えているため、ムネヤは急いで原付免許を取り、家から80分かけてバイクで通うことにした。これなら座った状態のため便意が抑えられやすく、どこかの店のトイレに立ち寄ることも容易であった。
万が一、バイクの上で漏らしても、そしらぬ顔をして家に帰ればいいのである。電車通学をしている時の恐怖心とは、便意に関する限り、雲泥の差であった。
第五話 ムネヤ、飲尿療法に挑む
潰瘍性大腸炎に苦しみながらも平和な大学生活を送っていたある日、ムネヤの母は近所に住む大学教授のおじいさんから、「飲尿療法を息子さんに勧めてはどうか」と言われた。当時、「自分の尿を飲むと、体の悪い部分を自分の脳が察知し、自然治癒力で治してくれる」という怪しげな民間療法が、TVや雑誌などでもてはやされていた。
そんなあやしげな民間療法にはだまされないムネヤであったが、トイレにコップを置いておき、自分の尿を注いで飲むだけ、という簡便さに、「ダメ元で、少しくらいだまされてやってもいいかな」という自己欺瞞に走った。
3カ月ほど続けてみても潰瘍性大腸炎は一向に良くならず、しっかりだまされたムネヤであったが、「人間の尿はかなりしょっぱいが飲める」という、鼻をかんだチリ紙よりも役に立たない事実だけは知ることができた。
そして、ムネヤが大学2回生になったある日、もはや尿など飲んでいる場合ではない事態が彼を襲った。
第六話 ムネヤ、絶食を言い渡される
2回生となったムネヤは、大阪大学文学部日本史研究室に所属することになった。日本史研究室は文学部の中では人気で、1学年20人の定員をオーバーする希望者がいた。
なんとか無事、日本史研究室にもぐりこんだムネヤであったが、2年も浪人していたため、同級生は基本的に年下であった。「ボク同い年です」という顔をしてはいたが、いつばれるかとひやひやして過ごしていた。逆に4回生の「先輩」には実は同い年の学生が多く、「後輩感」を出して接している自分をムネヤは少し恥ずかしいと思った。
7月のある日の夜、ムネヤは激しい腹痛で動けなくなり、これはちょっとただ事ではないと脂汗を流しながらも冷静に判断したムネヤは、母の車で枚方市民病院に向かった。すぐに入院となったものの、この時はまだ、これから入院と手術を繰り返す日々が始まったとは気づかないムネヤであった。
枚方市民病院に入院すると、まずは絶食が始まった。大腸に潰瘍ができているため、大腸の管の中を安静にする必要があるのである。そのままでは栄養が取れないので、「エンシュア・リキッド」という、甘いバニラ味のジュースを1日8缶飲む。朝3缶、昼2缶、夜3缶である。これは、長期にわたり経口での食事摂取が困難な患者の栄養補給を目的とした経腸栄養剤で、タンパク質、炭水化物、脂質、ビタミン、ミネラルなどが総合的に配合されており、効率的な栄養摂取が可能です。とネットに記載がある。1缶(250mL)で250kcalを摂取できる優れものであった。
甘いジュースが好きなムネヤはおいしい、おいしいと喜んで飲んでいたが、バニラ味ばかりで、次第に飽きてきた。調べたところ、「エンシュア」にはストロベリー味とコーヒー味もあることが分かり、看護師に直談判して、取り寄せてもらった。
看護師は少しめんどくさそうな顔をしていたが、今の自分にとってはこれが食事のすべてであり、このくらいのわがままは許されるという信念のもと、ムネヤは断固として取り寄せを要求したのであった。
バニラ味やストロベリー味の「エンシュア」は冷たく冷やし、コーヒー味はお湯で温め、ムネヤはひたすら「エンシュア」を飲み続けた。「エンシュア」三昧の毎日を送る中、「普通の食事を食べたい」という欲求は、ベッドサイドのカード式有料テレビで料理番組を見ることでごまかした。「そんな番組を見ると、逆に普通の食事を食べたくなってしまうのではないか?」という疑問を抱く人は、凡人である。ムネヤの精神レベルは、すでに凡人のそれとは違うレベルに達していた。
それでも、「何かを噛みたい」という欲求だけは、さすがのムネヤにも抑えきれなかった。
彼は病院1階にあった売店で1個が通常の2.5個分くらいある大粒の森永ミルクキャラメルを買い込み、カーテンで周りを囲った自分のベッドで誰にも見られないようにしながら、ご飯のように食べた。一度に2粒を口に入れ、ぐちゃぐちゃと噛むと、強烈な甘さが口内に広がる。そして、何よりも「思い切り食べ物を噛む」喜びが、脳内を満たすのである。
この大粒のキャラメルは大きな黄色い箱に入っており、初めて見た人は必ず「でかっ!」と思うような代物である。この大きな黄色い箱を、ムネヤは退院までに計5箱買った。
第七話 「もう、治らなくていい!」
枚方市民病院での入院中、ムネヤがもっともつらかったのは、絶食でも注射でもなく、「大腸内視鏡検査」であった。これは大腸に何の問題もない人にはただ気持ち悪いだけの検査らしいが、大腸に潰瘍ができている人間にとっては、地獄のようなつらい検査であった。2週間ごとに行われ、そのたびにムネヤは「こんな検査をするくらいなら、もう治らなくていい!」と主治医に言ってやりたい気分であった。
まず、検査の前日から、大腸内を空にするための下剤が渡される。そして、検査当日の朝から、2リットルの下剤を1時間ほどかけて飲むのである。味は、濃い塩水のような、まずいポカリスエットのような味である。
しかし、ムネヤはこれを、それほどの苦痛とは感じなかった。「いやだ、いやだ」と思いながら飲むとつらい。そこで、1回200ミリリットルほどをコップに注ぎ、のどが渇いている時にさわやかな冷水を飲むが如く、一気飲みするのである。これを10回繰り返せば良い。ムネヤは何度か検査を経験するうちに、「冷やしておくと飲みやすい」ことに気づき、看護師から氷をもらって冷やして飲んだ。2リットルを飲み切った時には、「俺ってやるな!」と軽い達成感さえ味わえるところも、この下剤の長所だった。
つらかったのは、お尻から内視鏡を入れる検査そのものである。検査が始まると、よく見えるようにするためか、大腸の中に空気が送り込まれる。これが便意に似ていて、非常に気持ちが悪い。しかも、おなかの中を大きくぐるっと一周している大腸すべての見るため、かなり長い時間、奥へ奥へとカメラが送り込まれる。そのたびに、潰瘍のある部分がこすれているのか、激痛が走る。一応、痛みを弱めるための点滴をしているのだが、ムネヤにはあまり効かないようであった。
たまに主治医が、横にいる研修医だか学生だか分からない人に「ほら、ここに潰瘍があるでしょ?ほらほら」などとしゃべりながらカメラを操作するのだが、ムネヤは激痛とつらい便意に耐えながら、「そんなことしゃべってないで、1秒でも早く検査を終わらせてよ!」と声には出せない怒りを心の中でぶちまけていた。そんな時、頭の中でもう一人のムネヤが「そうは言っても、こうやって新人さんたちが勉強するから、医学が発展していくんでしょ?我慢しようよ」などと天使きどりのことを言うので、理性的な人間でありたいと願っているムネヤは怒りの矛先をどこに向けてよいのか分からなくなり、目をつぶってひたすらお尻から内視鏡の管が抜ける瞬間を待ち続けていた。
2週間ごとのつらい内視鏡検査は、そのたびに「あまり良くなってませんね」という非情な主治医の言葉で幕を閉じるのが常であった。あんなつらい思いをして、「良くなってませんね」じゃないよ、とムネヤは主治医を憎らしく思った。例の天使きどりムネヤが「主治医の先生が悪いんじゃないよ。一生懸命やってくれてるじゃない。分かってるでしょ?」と余計な茶々を入れるので、またも怒りの感情が心の中にわだかまって、ムネヤを心底、鬱屈した気分に陥らせた。
第八話 ムネヤ、アンパンマンになる
何度目かの検査結果も思わしくなく、とうとう「エンシュア」さえもらえなくなり、首の付け根から心臓近くの中心静脈に管を通す「中心静脈カテーテル」による高カロリー輸液のみで栄養を補給する処置がとられることになった。
ムネヤはもう、バニラ味も、ストロベリー味も、コーヒー味も、味わえなくなった。キャラメルだけは相変わらず噛んでいたが、これは主治医の許可をもらったものではなく、「たぶん大丈夫だろう」という自己判断でこっそり噛み続けていたのである。
枚方市民病院での治療は、ステロイド剤の服用を中心とするものであった。これは水で飲むだけなので痛くもかゆくもなく、検査のつらさに比べれば「ありがとう!」と言いたくなるくらいに楽なものだった。
ステロイドの副作用は人によって現れ方が異なるが、ムネヤの場合は顔がアンパンマンのようにむくみ(「ムーンフェイス」というそのままのネーミングがされている)、髪が抜け、筋肉が衰える、というものであった。
ベッドで寝ていたムネヤを見た母は、「一瞬、誰かと思った」と言った。ムネヤ自身、トイレの鏡に映った自分の顔を見て、「誰?これ(笑)」と思ったので、母がそう思うのも無理はなかった。「ムーンフェイス」という言葉は潰瘍性大腸炎の本で知っていたため、「うまいこと言うなぁ」とも思った。
筋力の低下という副作用は、ある日突然やってきた。実際には徐々に進んでいたのであろうが、ムネヤは気づいていなかった。
ある日、病室のベッドサイドにボールペンを落としたムネヤは、何気なくしゃがんで拾おうとした。ところが、立ち上がろうとして、そのまま床にへたり込んでしまったのである。手すりをつかまずに立ち上がるだけの筋力が、ムネヤの脚から失われていた。
副作用だけでなく、入院中はあまり体を動かさないことも影響していたのだろうが、当時のムネヤはまだ21才だった。そして、ベッドの上で寝たきりになっていたわけでもなかった。まさか若い男性である自分の脚から、しゃがんだまま立ち上がることもできないほどに筋力が失われるとは、想像もしていなかった。
ベッドに肘をつき、腕の力でようやく立ち上がったムネヤは、本当に副作用で脚の筋力が失われているのか確かめてみたくなった。廊下を歩いて階段まで行き、手すりをつかまないでのぼれるかどうか試してみた。しゃがんで立ち上がるのに比べれば、階段をのぼるのは少ない筋力で可能なはずである。
階段はのぼれた。しかし、ぎりぎりだった。老人のようにゆっくりと、しかも少しよろけながら、何とかのぼれる、という状態だった。ムネヤはそれが何となく面白くて、それから何度も階段をのぼってみた。「若い男性でも、副作用でこんなに筋力が落ちるんだ」ということを確かめずにはいられなかった。面白いというより、怖いもの見たさ、と言った方が正確だったのかもしれない。
時にはベッドサイドで意味もなくしゃがみ、脚の力だけでは立ち上がれないことを再確認してみたりもした。
ステロイドの副作用は、視力や骨密度が低下する人、皮膚が薄くなる人など、さまざまである。ムネヤがのちに枚方市民病院から転院した兵庫医大病院では、そうした副作用を抱える潰瘍性大腸炎の仲間がたくさんいた。それでも、潰瘍性大腸炎の中心的な治療はステロイドであり、やめるわけにはいかなかったのである。
ステロイドは、飲み薬だけではなかった。ストローに小さな風船が付いたような形のやわらかい容器に、液体のステロイドが入っており、それを自分でお尻から注腸してベッド上で体を回転させ、大腸全体に行き渡らせるという治療もあった。商品名を「ステロネマ」といった。
ムネヤは毎日、カーテンを閉めたベッド上でお尻を出し、「ステロネマ」のストロー部分に滑りを良くするジェルを塗って、お尻に差し込んだ。体を回転させると、冷たいステロイドの液体が、大腸の内側に広がる感覚があった。
この治療はいかにも効きそうな感じがして、ムネヤは期待を高めていたが、しばらくあとの内視鏡検査で「あまり良くなってませんね」の洗礼を浴びるだけに終わった。
いつ看護師さんが「シャッ」とカーテンを開けるかびくびくしながら、毎日ベッドの上でお尻を出して自分でストローを差すという屈辱は何も報われることがなく、ただムネヤの歴史の一幕になったのである。
ある日、ムネヤは同じ病室の太った中年おじさんにこっぴどく叱られた。闘病中とはいえ、入院中は基本的に暇であり、ムネヤは家から持ち込んだファミコンをカード式有料テレビにつないで、「MOTHER」などのゲームで遊んでいた。それだけなら怒られる筋合いではなかったが、彼は9時の消灯後もゲームを続け、その画面から発せられる光が病室の白い天井や壁に反射して、ほかの患者の眠りを妨げていたのである。
怒られて当然のムネヤであったが、まだ若いムネヤは「なぜこんな糖尿病でトコロテンやコンニャクばかり食べている中年のおっさんに怒られなきゃならんのだ」と筋違いの怒りを抱き、「だから運動しても血糖値が下がらないのだ」と理屈の通らないことを心の中で思っていたが、口には出さなかった。
基本的に見舞客を好まないムネヤであったが、入院が長引いていたある日、高校の時に同じクラスだった女の子が見舞いにやってきた。高校の時に好意を寄せてくれていた子で、たまたま卒業後にムネヤの家に連絡したところ、入院中だと聞いて、わざわざ来てくれたのである。アンパンマンライクに丸い顔をしたムネヤをどう思ったのかわからないが、彼女はひとしきり高校時代の思い出や、大阪を離れようと思っていることを話して、帰って行った。
その数日後、今度は姉が見舞いに来てくれた。とりとめのない話をして姉が帰って行ったあと、ベッドの上に座って、ムネヤは一人泣いた。ムネヤは基本的に泣かない男である。しかし、この頃には長引く入院に疲れていたのか、涙があふれて止まらず、自分でもなぜ泣いているのかよく分からなかったが、こんなふうに泣いている自分も、悪くはないと思った。
第九話 ムネヤ、大腸を取る
入院が2カ月に及んでも病状は一向に良くならず、主治医はステロイドの服用量を増やしたが、効果は出なかった。副作用のことを考えるとこれ以上ステロイドを増やすことは難しく、ほかに何か治療法はないか、ムネヤも家族も考え始めた。
そんな時、ムネヤは潰瘍性大腸炎の本で、手術により大腸を全摘するという方法があることを知った。さっそくムネヤの両親が潰瘍性大腸炎の患者を多く見ている兵庫医大病院に飛び、話を聞いてきた。
どうやら大腸全摘手術は3回に分けてやるらしい、手術と手術の間は半年程度空けるらしい、大腸さえ取ってしまえばこの病気とはオサラバできるらしい、といった情報がもたらされ、ムネヤは一刻も早く転院して手術を受けたいと両親に訴えた。主治医も賛同してくれたため、トントン拍子に転院の話が決まった。
西宮市にある兵庫医大病院は、潰瘍性大腸炎の治療で飛びぬけた実績を持っていた。
同じ病棟には10代~20代の若い潰瘍性大腸炎患者が集まっており、潰瘍性大腸炎あるあるで話ができるほどだった。先に1回目や2回目の手術を受けた先輩患者からは有益な情報が次々ともたらされ、3回目の手術が一番楽だということもわかった。
夜には病棟の待合所に若い患者が集まってきて、UNOをしたり、大学や仕事の話をしたりしていたが、中には手術直後で鼻に管が入ったままダベリに来ている強者もいた。ここでは、潰瘍性大腸炎の患者であることが「普通」であり、健康な人はお呼びでない、という雰囲気すらあった。
ムネヤの1回目の手術は、転院してすぐ、比較的緊急扱いで行われた。
全身麻酔は高校の時の「自然気胸」による手術以来2度目であったため、ムネヤにはやや余裕があった。
「全身麻酔って、顔にマスクを当てられて、そろそろ効いてくるかな~の、かな~くらいでもう意識がなくなるんだよね」と、全身麻酔に慣れているオレ感を心の中で出しつつ、ひんやりとした手術室と、準備のために動き回る医師や看護師の発する音に、さすがのムネヤも少し緊張した。
次にムネヤが意識をとり戻したのは、どこかの病室であった。
自分の病室なのか、特別な治療室なのか、頭が朦朧としてよく分からなかった。顔には酸素マスクがつけられ、吐く息が熱い。腹部にはこれまで経験したことがない種類の激痛が走っており、手にも足にも股間にも、何かの管がつけられていた。
少し姿勢を変えようと腹部に力を入れると、「ふぐぅっ」と声が出そうなほどの強烈な痛みが体の中心部を走った。
「生死の境をさまよう」って感じだな、とムネヤは思ったが、「潰瘍性大腸炎の手術で人が死ぬことはあんまりないみたいだから、それはちょっと言いすぎじゃない?」ともう一人のムネヤが冷静な声でささやいた。
とにもかくにも、これまで散々ムネヤを苦しめてきたにっくき大腸は、こわもての男性医師によって全て摘出され、小腸の一部が「人工肛門」として腹部に固定された。
これからは、この「人工肛門」を取り囲むように「フランジ」と呼ばれる丸いシール状のものを貼りつけ、そこに「パウチ」と呼ばれる袋を装着して、便を溜めていくのである。
ムネヤの場合、のちに小腸とつなぐために残してある直腸の上端もお腹から外に出してあるため、まるでムネヤのお腹には二つのタラコがくっついているような状態であった。
体の外に出された腸の見た目は丸いタラコのようだが、触ると意外に固い。そして、食事をした後などは、イソギンチャクのようにうねうねと動くのである。
摘出手術終了後、ムネヤの家族は医師からトレーに乗った大腸を見せられ、さらにハサミでジョキジョキと切って、大腸の内側にできた潰瘍まで見せてもらったらしかった。
後日、その話を家族から聞いたムネヤは、家族よりも本来の持ち主である自分に見せるべきではないのかと思ったが、よく考えれば自分も別に見たくはないし、わざわざ病院に苦情を言うほどのことでもないので、この件は不問に付すことにした。
手術から1週間ほど経つと、傷の回復を早めるため、痛くても頑張って廊下などを歩くよう医師や看護師に促された。ムネヤはキャスターの付いた点滴棒を右手に握り、前かがみになりながら、病棟の廊下をゆっくりと歩いた。確かに手術した腹部は痛いが、歩くことで空気や血液がしっかり体内を循環し、傷の回復が早くなりそうな実感があった。
2回目の手術は、半年以上の間隔を空けて行われる。ここで、体の中に残っている小腸と直腸を直接つなぐ。その間にあった大腸はすでに無くなっているが、大腸は水分を吸収することが主な役割のため、無くても死なない。人間の体はなかなかにたくましい、とムネヤは思った。
2回目の手術で小腸と直腸をつなぐものの、まだ食べものを通すことはできないので、人工肛門は残しておく。さらに半年を経過した後の3回目の手術で人工肛門を閉鎖し、ようやく食べ物を上から下まで通すことが可能になるのである。
第十話 「ね?」
ところが、ムネヤの場合、そうスムーズにはいかなかった。まず1回目の手術の後、退院してすぐ、ムネヤは母の車で兵庫医大病院に戻ってきた。退院したばかりだというのに、耐え難い腹痛が彼を襲ったのである。これは手術前に聞かされていた「腸閉塞」というやつでは?と思ったし、検査をした若い医師にもそう伝えたが、「う~ん、検査結果から見ると、腸閉塞ではないですね」という答えが返ってきた。「ホントかよ」と思うムネヤであったが、とりあえずその場では専門家である医師の見解を尊重することにした。
そのまま再入院となり、翌日には「やはり腸閉塞でした」と言いに来た若い医師に、「ね?」と心の中でドヤ顔を見せるムネヤであったが、現実のムネヤは腸閉塞の激痛と吐き気でのたうち回っており、若い医師に本当のドヤ顔を見せつける余裕はなかった。
もともとムネヤは体調が悪いと足がつる体質であったが、この時も足がつりまくり、両足の膝から下の筋肉が360度すべてつっているような状態であった。マッサージしても、筋を伸ばしても、別のところがつるだけであった。
ムネヤは病院から借りたプラスチック容器にゲェ、ゲェっと胃液を吐きながら、少しでも腹痛を抑えるべくお腹をさすり、つっている足から来る激痛は、もはや為すすべなく放置していた。
腸閉塞は、大腸摘出手術の影響で腸が癒着を起こし、動きが悪くなることによって起こるということであった。
腸が詰まっているので、当然のごとくムネヤは絶飲・絶食を申し渡された。しかし、体がどうしようもなく熱く、のどが渇き、ムネヤはあとで吐くのを分かっていながら、隠れて水をがぶ飲みした。
案の定、猛烈な吐き気がやってきて、ムネヤはトイレの洋式便器の前にしゃがみこみ、マーライオンよろしくさっき飲んだばかりの水を吐き出した。
「分かってたでしょ?」と心の中でささやくムネヤと、「分かってたって、しんどいものはしんどいがな」と涙目でつぶやくムネヤ。二人のあいだで本体のムネヤは便器の左右に両手をつき、ハァ、ハァ、と荒い呼吸を整えていた。
腸閉塞は、1回目の手術の後だけでなく、2回目の手術の後にもムネヤに襲いかかった。
2回目の手術の後にも腹痛で入院したムネヤは、「ああ、またあれ(腸閉塞)ね」と余裕を見せながら、ベッドの上でもだえ苦しんでいた。
腸閉塞は、鼻から管を突っ込んで腸内の圧力を下げながら、ひたすら詰まりが解消するのを待つしかない。唾を飲み込むたびに鼻から突っ込まれた管が鼻の奥や喉に当たり、嫌な痛みが走った。この時も前回同様、足の指と土踏まずとふくらはぎと脛の4カ所が同時につり始め、そっちの痛みで腸閉塞本体の痛みを忘れることさえ出来そうであった。
ところで、ムネヤが兵庫医大病院に入院するたび、ムネヤの母は遠く枚方から車を飛ばして、頻繁に会いに来てくれた。ムネヤはさみしんぼでも、甘えんぼでも、きかんぼでもなかったので、母には「たいていのことは自分でできるから、そんなに来てくれなくてもいいよ」とつんけんした態度をとっていた。
それでも母は、市会議員の仕事の合間を縫って、何度も車を飛ばしてきてくれた。時には病棟で決められている面会時間を過ぎてからひょっこりと病室に顔を出し、少し話をしただけで帰っていくこともあった。
腸閉塞でムネヤが一日中ゲロゲロと吐き続けている時も、背中をさすってくれたのは母であった。吐き気や腹痛がしんどかったせいもあるが、ムネヤは大して感謝もせず、その愛情を当たり前のように思っていた。それを当たり前と思えるほど、ムネヤは子どものころから大事にされていた。
こうして何とか1回目、2回目の手術とそのあとの腸閉塞を乗り越えたムネヤであったが、大学4回生の時、3回目の手術を受けるための術前検査で、結核にかかっていることが判明した。
ステロイドの副作用で免疫力が下がり、感染症にかかりやすいことは分かっていたが、まさか今どき結核にかかるとは、ムネヤも思っていなかった。
ドクターストップがかかったムネヤは、結核が治るまで、潰瘍性大腸炎の手術をおあずけされることになった。ムネヤは結核の治療のために転院を余儀なくされ、寝屋川市にある結核予防会大阪病院へと送り出されたのである。
第十一話 ムネヤ、死にかける
転院前、兵庫医大病院で結核にかかっていることが判明したムネヤであったが、そこにも一つのドラマがあった。ムネヤは死にかけたのである。
レントゲン検査で影が見つかったものの、確定診断をするためには肺の細胞を取り、検査にかける必要があった。つまり、米粒一つ入っただけでせき込んでしまうようなあの「気管」様に、何らかの器具を突っ込むのである。
「検査中は咳を我慢してください」と優しく言われるが、無理難題である。一応のどに霧のような麻酔をしてくれるが、いざ器具が入っていくと、「頼むから咳をさせて下さい」と言いたくなるほど苦しい。異物が入ってくるのを、体が全力で拒否している。
大腸の内視鏡検査を10とすると、この検査の苦しさは8.5くらいである。内視鏡検査よりはまだマシ、と思えるところに、ムネヤのたくましい成長が見られた。ただ、ムネヤが死にかけたのは、検査中のことではなかった。検査が終わってからである。
「はい、では病室に戻りますね~」と看護師に言われ、ホッとしながら車いすに乗って検査室から病室へと向かったムネヤであったが、途中で何かの用事があったのか、看護師はムネヤの車いすを廊下の端に止めて、どこかへ行ってしまった。
この時、ムネヤに異変が起こった。息ができないのである。検査の苦しさを和らげるために噴霧したのどの麻酔が効きすぎていたのか、ムネヤの気道には、普通のストローの半分ほどの細さしか空気の通り道が残っていなかった。
ギリギリの酸素しか吸えないこの状態で、「看護師さ~ん!」と声を出すことは無理そうである。それどころか、焦って呼吸が荒くなれば、一気に呼吸困難になって車いすから廊下の床に崩れ落ちるだろうと思われた。
「ここは冷静になれ。麻酔は10分ほどで醒めてくるはずだ。焦るな、オレ」とムネヤは自分に言い聞かせた。冷静であることにすべてのプライドをかけて生きてきたムネヤの本領が発揮されるべき瞬間だった。
細い細い気道がこれ以上細くならないよう、かすかな空気を少しずつ、少しずつ吸い込む。
「ここで死ぬのかもしれないな。こんな病院の廊下で、誰にも知られずに」と不吉なことを頭の片隅で考えながら、それでも生きるために、ゆっくりと、小さく浅い呼吸を繰り返した。
どれだけ時間が経ったのか分からないが、のどの気道が少しだけ広がる感覚があり、ムネヤは死者の国からの生還を果たしたことを実感した。
第十二話 ムネヤ、病院食を極める
結核予防会大阪病院は、結核患者の隔離病棟を持っている。大学4回生のムネヤは、ここで半年間の入院生活を送った。
大学を4年間で卒業できないことが確定したが、途中まで書いていた卒論も教授たちからの評判が悪く、来年新たなテーマで書き直す良いチャンスだと、ムネヤは全てを前向きにとらえていた。
結核での入院は、潰瘍性大腸炎や腸閉塞による入院とは全く違う。
まず、食べるものに制限がない。揚げ物でも餃子でも生野菜でも、どのような食物も食べることが許されていた。豆乳と豆腐と玉子とうどんをローテーションで食べていた日々は、もう遠い過去の記憶であった。
とはいえ、ここは病院である。ムネヤの好きなカツ丼は出ないし、もっと好きなカツカレーも出なかった。栄養バランスの取れた、味の薄い、そして野菜と魚がメインの料理が、配膳カートに乗せられて毎日ムネヤのもとに運ばれてきた。
ムネヤはそれに不満を漏らさなかった。「病院食がまずい」と文句を言ったり、外から勝手に持ち込んだ味の濃い料理をこっそり食べたりするわがままな中高年男性は、ムネヤを見習うべきであった。
彼は見舞いに来た家族に「病院の食事は結構おいしい」とさえ話していたが、それは嘘でもやせ我慢でもなかった。すでに入院生活に慣れていたムネヤは、病院食をおいしく食べるコツをつかんでいたのである。
ムネヤは、基本的に野菜が嫌いであった。しかし、病院の野菜料理は減塩のため、出汁の力を最大限に引き出して作られていた。そこに目を付けたムネヤは、出汁のおいしさを全力で味わうことに神経を集中し、「あんまり好きでないこの野菜が、出汁の味でこんなにおいしくなるなんて♡」と自分で自分に魔法をかけた。
たまに、お酢などで妙な味付けをされた料理が出てきた時はさすがの魔法も効果がなく、そんな時ムネヤは息を止めてくちゃくちゃと噛み、一気に飲み込んでしまうという野菜嫌いの小学生男子のような手法をとった。かって、彼自身が野菜嫌いの小学生男子だったからである。
ムネヤは最後に白米と、ご飯が進むなんらかのしょっぱいもの(焼き魚、ひじきの煮物など)を残しておき、「おいしいおいしい」と必要以上に思いながら、それを食べた。
「終わり良ければすべて良し」の言葉通り、最後に食べたものがおいしければ、その食事はすべておいしかったことになるのである。
家であればひじきの煮物で白米など食べないムネヤであったが、病院食を食べるときには適宜、頭の中の期待値を下げることができた。
彼は自慢の自己コントロール力を発揮し、「ご飯が進むおかず」の中に普段は入っていないひじきの煮物や塩味の薄い焼き魚を、入院中のみ「ご飯がすごく進むおかず」にランクアップさせることができた。ムネヤはどんな時でも、「足るを知る男」であった。
大阪病院での結核治療は、毎食後に薬を飲むことと、1日1回腕に筋肉注射をすることであった。薬は数種類のものを一度に8錠くらい飲むので、手のひらに乗せると「じゃらっ」という音がする。
筋肉注射は少し痛いが、これまで様々な痛みに耐えてきたムネヤにとっては、大きめの蚊に刺さされる程度のものであった。
ムネヤは比較的結核の発見が早く、ほぼ無症状で、体外に菌を放出するような状態ではなかったため、病院内をうろつくことを許されていた。ほぼ一日特にすることもなかったので、マンガを読んだり、病室のカード式テレビで「こどものおもちゃ」というアニメの再放送を見たりするのが、一番の楽しみであった。
しかし、一昔前は不治の病と言われただけあって、結核の症状が重くなってから入院してきたお年寄りなどは病院内で亡くなってしまうこともあり、近くの病室からお経が聞こえてきたこともあった。
大阪病院で毎日だらだらと楽勝かつ自堕落な入院生活を送っていたムネヤであったが、最後には例の「気管に器具を突っ込む」検査が待っていた。いやな思い出がよぎったが、これで結核の治癒を証明しない限り、退院できないのである。
しかし、この時の検査は、ムネヤにトラウマを与えるほどのものにはならなかった。検査を受けるムネヤのレベルが上がっており、どうすればより苦しくないかが、少し分かっていたためである。のどの麻酔で、死者の国をのぞき見ることもなかった。
半年間の入院生活を終え、大学5回生としてキャンパスに復帰したムネヤは、3回目の手術を先延ばしし、まずは卒論の作成と、大学院受験の準備にとりかかった。まだ就職したくなかった彼は、とりあえず大学院へ進み、研究者でも目指そうという甘い考えに捉われていた。
第十三話 ムネヤ、人工肛門マスターになる
この頃になると、ムネヤの人工肛門生活も3年目に入っており、熟練の技を見せるようになっていた。
ムネヤははじめ、「人工肛門」と聞いて、お腹についた蓋をパカっと開けて排便する、というようなイメージを持っていた。しかし、1回目の手術を終えて自分のお腹を見たとき、人工肛門とは要するに腸の一部を体外に固定したものであり、蓋などはついていないこと、見た目はピンク色のタラコのようなものであることを知った。
人工肛門の扱い方を看護師に習ったムネヤは、そこから3年をかけて、人工肛門マスターとなった。その看護師によると、人工肛門の手入れをすべて奥さん任せにする高齢男性などもいるということだったが、男女平等主義者を自負するムネヤは、その会ったこともない高齢男性に「自分でやれよ!」と怒りを感じ、すべて自分一人でやることを決意した。
人工肛門の周囲に貼り付ける「フランジ」は、薄くて丸い樹脂のようなものでできている。裏面がシール状になっており、その中心部分を自分の人工肛門の形に合わせてハサミで切り抜く。それ専用に、先が丸くカーブしたハサミが医療用品店で売られているのだが、2000円近くした。「高くても患者は買うだろう、ひひひ」という商売っ気が見えた気がしてムネヤは不快に思ったが、試しに使ってみると、服から飛び出した細い糸が、力を入れずともスッと切れるほどの切れ味であった。ムネヤはそのハサミを作っているどこかの職人を思い浮かべ、心の中で謝罪した。
「フランジ」を切り抜いたところに人工肛門を合わせ、お腹にペタっと貼り付ける。この「フランジ」とセットで売られているのが「パウチ」という袋状の医療用具で、フランジに取り付けられるようになっており、人工肛門から出てくる大量の排泄物を受け止めてくれる頼もしい味方であった。
なぜ頼もしいかと言えば、要するにトイレに駆け込む必要がないのである。
これまで悪魔のような腹痛と便意に四六時中さいなまれ続けていた潰瘍性大腸炎患者にとって、便意もなく、排泄物がいっぱいになったら適宜トイレに行って捨てればよい、というシステムは、福音以外の何物でもなかった。
だからと言って油断すると、ベルトのすぐ下あたりでいつの間にかパウチがはち切れんばかりにパンパンになっており、危うく排泄物の爆弾を破裂させてしまいそうになったりもした。
パウチは腹部についているため、そこに溜まった排泄物を捨てやすいようにしたオストメイト(人工肛門造設者)対応トイレというものがある。しかし、当時の大阪大学にはあまりなかった。それでも洋式便器の場合は床にひざまずいてパウチの排泄口を便器内に入れることで、容易に中身を捨てることができた。問題は和式便器しかない場合である。人工肛門マスターになったムネヤは和式便器でも排泄物を捨てられるようになっていたが、その姿はとても人に見せられるようなものではなかった。
フランジ交換は大体3日か4日に一度であった。その間、風呂にも入れるが、次第にフランジの粘着力が弱くなり、はがれてくるのである。また、あまり長く同じフランジをつけ続けると、人工肛門の周囲が排泄物でかぶれてしまい、かゆくて眠れなくなる。手で掻こうとしても、フランジやパウチが邪魔をして、しっかり掻くことができない。ムネヤはそのたび、「隔靴掻痒」という言葉の的確さに舌を巻いた。
また、横になって眠ると腹部にしわが寄ってフランジがはがれ、就寝中に排泄物が漏れ出してしまうこともあった。そのため、基本的な寝姿勢はあおむけであり、横向きに寝ることはリスクを伴う危険な行為であった。
フランジの交換は、朝起きてすぐに行う。交換中に便が出てきてしまうのを防ぐため、食事はとらない。それでも、交換中にうねうねと動く人工肛門から便がニョロッと出てきて、思わず手で受け止めるという事態が時々起こる。こうなるともはや便は「汚いもの」ではなく、「ちょっと姿を変えた食材」に過ぎなかった。
フランジを定期的に交換していても、かぶれによるかゆみが完全に抑えられるわけではなかった。
その時は人工肛門の周りを指で掻くのだが、先ほどの「隔靴搔痒」問題だけでなく、強く掻きすぎると、人工肛門やその周辺のただれた皮膚から出血してしまうことがあった。
どうしたものかと悩んでいたムネヤは、あることを思い出した。兵庫医大病院に入院中、まだ人工肛門マスターではなかったムネヤのフランジやパウチをてきぱきと交換してくれた看護師が、何かを使っていたのである。
あれは何だったか…、必死に頭を巡らせるムネヤの脳裏に、「サニーナ」という商品名が浮かんだ。さっそく「サニーナ」について調べたムネヤは、それが肛門周辺部やデリケート・ゾーンのかぶれ・ただれを抑える「清浄剤」であり、「消炎剤」という、いかにもかゆみを抑えてくれそうな成分がたっぷり入っていることをつかんだ。
「これだ!」と、アルキメデスの原理を発見した時のアルキメデスのように飛び上がったムネヤは、さっそくドラッグストアで「サニーナ」を1本買い込み、フランジ交換の際、人工肛門の周辺部にシュシュッと噴霧してみた。
その効果たるや絶大で、そのあと、ムネヤは一切のかゆみから解放された。
「サニーナ」を開発してくれた花王の研究者に「ありがとう、ありがとう」と心の中で感謝し、3回目の手術で人工肛門を閉じるまでの間、ムネヤは「サニーナ」を使い続けたのである。
第十四話 ムネヤ、大学院に入る
大学5回生として二度目の卒論作成に挑んだムネヤは、順調に調査・研究を進めていった。中間報告会では教授陣からの評判も悪くなく、これで大学院進学は何とかなりそうだとムネヤは思った。
しかし、卒論の出来栄えがもっとも重視されるとはいえ、院試では英語の試験も、古文書の試験もある。ムネヤは古文書が苦手だった。
もともと近現代史を専門とするムネヤは古代史や中世史などを「今さらそんなことを研究して何の役に立つのか」と軽視しており、古文書読解の授業を、二つしか取っていなかった。
そのため崩し字がほとんど読めず、自信を持って読めるのは、「仍執達如件」という古文書における決まり文句だけであった。
また、大学時代のほとんどを学問より闘病に費やしてきたムネヤは、はっきり言って大学院に進学するだけの専門知識を身につけておらず、英語以外の試験には全く自信がなかった。
しかし、天の時はムネヤに味方した。
この頃、旧帝大たる大阪大学は「大学院大学」へと変貌を遂げつつあり、簡単に言えば、大学院生を増やそうとしていたため、院試のハードルが非常に低くなっていたのである。
文学部棟1階の掲示板に合格者の番号が貼り出された際、妙にたくさんの番号が縦にずらっと並んでいたのが、その証左である。
この頃から、日本史研究室の構成員は学部生と大学院生がほぼ半々になっていった。
第十五話 3回目の手術
大学院重点化という時代の波に乗り、院試の関門をするりと突破したムネヤであったが、大学院の入学式を目前に控えた3月、最後の関門が待ち構えていた。潰瘍性大腸炎、3回目の手術である。
この手術は、人工肛門を閉じて、すでにつながってる小腸と直腸を開通させ、食べ物が口から入ってお尻から出るようにする、というものであった。
ムネヤの、7年に及ぶ潰瘍性大腸炎との戦いが、ようやく終わろうとしていた。
久しぶりに入院した兵庫医大病院には、相変わらず潰瘍性大腸炎の患者が集結していた。
先輩患者として、慣れた常連客のように4人部屋の病室に入ったムネヤは、新しく担当となった女性研修医が可愛かったことと、時々病室に来る看護師の一人が可愛かったことで、この入院は楽しくなりそうだと浮かれた気分でベッド周りを整え始めた。
3回目の手術は、手術の難易度や術後の痛みという点で楽勝だと聞いていたムネヤは、もうほとんど何も心配していなかった。ただ可愛い主治医の先生や看護師が病室に来るのを楽しみにしていた。
大学院に入ることも決まっているし、潰瘍性大腸炎も完治はもう間違いなかった。
人工肛門がなくなることで、「携帯用どこでもトイレ」とも言えるフランジ&パウチが腹部から消えることには一抹の不安があったが、これからはもうフランジの交換もしなくていいし、横を向いて寝ることもできるのだと、ポジティブ・シンキングに徹した。
入院してから手術までの間は検査以外特にすることがなく、暇であった。
ある日、大学で予餞会があり、5回生であったムネヤも外出許可を取って出席することにした。19時には病棟に帰るという約束であったが、ムネヤが帰ってきたのは21時過ぎだった。
1回目の手術で潰瘍だらけの大腸は摘出済みだし、今回の手術はまだ行われていないので体は元気だし、2時間くらい遅れても問題ないだろう、というのがムネヤなりのポジティブ・シンキングであった。
ところが、病棟のナースステーションに寄り、「今帰りました~」とのんきに報告したムネヤを待っていたのは、複数の看護師による「ふざけんな」「どれだけ心配したと思ってるんだ」「もしどこかで倒れてたら誰が責任取ると思ってるんだ」という温かいお叱りの言葉であった。
実際に使われた言葉はもう少し丁寧なものであったが、その口調から受ける印象は、まさにこの通りのものであった。
悪気のないいたずらで先生に叱られた小学生のように、ムネヤはうなだれて自分の病室に戻った。この時以来、ムネヤは時間を守ることの大切さを心に刻み、「遅刻する時には連絡を入れる」という社会人としての基本を身につけたのである。
第十六話 新たなる漏れ
ムネヤの3回目の手術は、これといったトラブルもなく、無事成功した。これにより、ムネヤは口から食べたものがお尻から出るという、自然な身体を取り戻したのである。
彼の腹部にはもう、3年間鎮座していた人工肛門はなく、その痕跡だけが残されていた。
しかし、ここで新たな問題が発生した。就寝中に、便が漏れるのである。
といっても、浪人生だった頃のムネヤを苦しめた、潰瘍性大腸炎の症状としての便の漏れとは、少し様相が違った。
実は、第1回目の手術の際、ムネヤは主治医からこう聞かされていた。
「この手術では大腸を全摘します。しかし、最終的には肛門から排泄できるよう直腸は残すので、潰瘍ができている直腸の内壁部分を削る手術も同時に行います」
ムネヤは、「そんなことができるのか。医療技術というものはすごいなぁ」と思った。
しかし、そのあとに主治医が話していた「その際、肛門括約筋の神経に傷がつき、便が漏れやすくなる可能性があります」という説明については、「ふ~ん、まぁ大丈夫だろう」と軽く聞き流していたのである。
便の漏れは、ムネヤが起きている時には起こらなかった。問題は、就寝中である。
就寝中に便が漏れないようお尻に力を入れておける人間は、たぶんこの世にいない。お尻をキュッと締めるトレーニングをすれば、肛門括約筋の緩みが少しは改善されるという医師の説明もあったが、その効果を疑ったムネヤは、その努力を放棄していた。
幸い、潰瘍性大腸炎の症状のように、耐え難い腹痛や便意があるわけではなかった。
ただ、寝ている間に「スルっ」と漏れるのである。その自然さは、便秘症で悩んでいる人なら喉から手が出るほど欲しいものであろうが、ムネヤは別に便秘症ではなかった。
それどころか、水分吸収器官である大腸を取ってしまっているムネヤは、常に軟便状態であり、肛門括約筋の弱体化とあわせて、さらに漏れやすい状態になっていたのである。
この窮地を救ったのは、日本の科学技術の粋を集めた、排泄・生理関連商品たちであった。
いずれにも高分子吸水材が使われており、その性能は「これを潰瘍性大腸炎のはじめから使っていたら、どれだけ助かっただろう」と、ムネヤを悔やませるほどのものだった。
紙おむつ、紙パンツ、尿取りパッド、生理用ナプキン。こんなにすばらしい商品たちが、日本にはあったのである。18歳の頃のムネヤに教えてやりたかった。「紙おむつも、尿取りパッドも、生理用ナプキンだって、若い男性だからと言って恥ずかしがることはない。常識なぞに捉われず、堂々と使え!」
その後、ムネヤはさまざまな商品を研究し、尿取りパッドから生理用ナプキンを経て、最終的には紙パンツを履くようになった。
ズレの少なさや吸収力の面で紙パンツはパーフェクトに近く、ムネヤはいたく満足した。
たまに「紙パンツを履くのをどうしても嫌がるお年寄りがいて、家族や介護職員が困っている」というテレビニュースなどを見ると、「どうして若い頃からちゃんと紙パンツを履いておかなかったのだ」と謎のマウントを取ろうとしてしまうムネヤであった。
第十七話 高橋さん
3回目の手術のため、久しぶりにムネヤが入院した病棟の待合所では、相変わらず若い患者たちが夜を徹して雑談とUNOを繰り広げていた。
その中に、珍しく潰瘍性大腸炎の患者ではない、20歳の女の子がいた。
車いすに乗った彼女は高橋さんと言い、生まれつきの病気で背骨が曲がっており、そのせいで心臓も悪く、さらに視力も年々低下して来ていて、今回の入院は視力をこれ以上落とさないための手術をしに来たのだと言った。
術後の治療の関係で、昨日までの1週間、ずっと下を向いてベッドに寝ていなければいけなかったの、と高橋さんから聞いたムネヤは、軽いショックを受けた。
また、高橋さんと同じ病気の人は20歳まで生きられないことが多いという話を聞いた時、これまで潰瘍性大腸炎という難病の患者であることに妙なプライドを持つようになっていたムネヤは、自分の甘さに平手打ちしたい気分になった。
潰瘍性大腸炎はつらい病気だが、大腸に穴でも開かない限り、めったに死ぬことはなかった。
「まぁ死ぬことはないだろう」という安心感が、ムネヤの中には間違いなく存在していた。
高橋さんは、夕食後になると待合所にやってきて、ムネヤやほかの患者たちとの雑談に加わっていた。気づけば、そのまま朝になっていることすらあった。
時々、見回りの看護師が「早く寝なさ~い!」「あなた、明日手術でしょ!?」などと言いに来るが、「は~い」と軽く受け流して、またどうでもいい雑談を繰り広げるムネヤたちであった。
そして、高橋さんは車いすに座って、いつも笑っていた。
第十八話 退院の日
退院の日、ムネヤははじめて高橋さんの病室を訪れた。
「失礼しま~す」と女性ばかりの病室に入ったムネヤは、高橋さんのベッドの枕の向こうに、書道で使う半紙が貼ってあるのに気づいた。
そこには大きな字で「泣くな!」と書いてあり、高橋さんは恥ずかしそうに笑っていた。
「これ、なに?」と聞くと、高橋さんは「わたしがあんまり泣いてばかりいるから、看護師さんが書いてくれたの」と言った。ムネヤは、頭をなぐられたような気がした。
待合所でいつも笑って話をしていた高橋さんは、病室に帰るとこんな風に書かれてしまうくらいに、いつも泣いていたのか。ムネヤは想像もしていなかった。
そういえば、いつの日だったか、待合所の雑談の中で「将来何をやりたいか」という話になった時、高橋さんは「結婚ができたらいいなぁ」と言っていた。そんなことがふいに思い出されて、ムネヤは何も言えなくなり、たいした話もしないままに、高橋さんの病室をあとにした。
母が迎えに来れなかったので、大きな荷物を抱えたムネヤは最寄りの武庫川駅に一人で向かった。武庫川にかかる橋梁上に設けられた珍しい駅で、武庫川からは強い風が吹いていた。
18歳から25歳まで7年間戦った病気のこと、高橋さんのこと、これからの自分のこと。
ムネヤは言葉にならない感慨にふけりながら、梅田駅へと向かう電車が来るのを待った。
-終わり-




