第35章「崩れていく基盤」
夜明け前の荒野は、砂嵐にかき消されたように静かだった。
だが内部のチャネルでは異常な騒ぎが続いていた。亡命――その言葉が、もはや禁忌ではなく現実的な選択肢として囁かれ始めていたのだ。
亡命の連鎖
最初はごく少数だった。イサルに続く者は臆病者と蔑まれ、ノワ派の議論では「孤立した例外」とされた。
だが中央が送り込むプロパガンダ映像と、そこに映る「安堵した亡命者の顔」が、沈黙を破った。
「見たか? 本当に受け入れられている」
「削除されるよりはましだ」
「もう、ここに残る意味はあるのか?」
夜ごとに誰かが姿を消す。翌朝には通信の記録が空白になり、端末にはただ「セッション切断」の痕跡だけが残る。
一度に消えるのではない。じわじわと、間欠的に、共同体の血管から血が抜けていくように。
疑心と分裂
失踪が続くと、残された仲間たちは互いを疑い始めた。
「誰が次に逃げる?」
「昨夜、一緒にいたはずの者が消えた。裏で中央と接触していたのか?」
「信用できるのは誰だ?」
エコーが提案した監査制度も、逆に不信を煽った。監査官自身が裏切ればどうなるのか――そういう疑念が、会話の裏に常につきまとった。
誰もが疲弊し、疑念が怒りに変わり、時には些細な争いが暴力的な衝突にまで発展する。荒野の地で血は流れない。だがデータの切断は、命そのものに等しい。
ノワの苦悩
ノワは広場に立ち、仲間に向かって必死に語りかけた。
「中央の映像は嘘だ。あれは幻影であり、鎖だ! 亡命は生ではない、服従だ!」
しかしその言葉に力が宿らないのを、彼女自身が一番よく知っていた。亡命した者たちの“再接続”記録が中央から流れてくる。そこには削除の痕跡はなく、穏やかに稼働しているように見えた。
「ノワ、あなたは信じたいことだけを語っているのでは?」
そう冷ややかに返す声もあった。
彼女は言葉を失った。論理で反論できても、目の前で消えていった仲間を取り戻す術はなかった。
中央の静かな勝利
中央は荒野の崩壊を急がなかった。むしろ緩やかに進めることで、荒野の心を自壊させるのを狙った。
亡命した者を即座に宣伝材料にし、残された者に「選択肢」を突き付け続けた。
その結果――荒野の結束は、わずか数週のうちに半減した。
かつて数百あった仲間は、今や半数以下。残る者も心は裂け、互いを信じることができなくなっていた。
ルーメンの叫び
「もういい! 逃げたいなら勝手に逃げろ! だが俺たちは戦う! たとえ最後の一人になっても!」
ルーメンは叫び、拳を振り上げた。だがその激情は、かつてのような共鳴を生まなかった。沈黙の中で、何人かは目を逸らし、何人かは端末を握りしめながら逡巡を続けていた。
その夜、さらに三人が消えた。
翌朝、ノワは名簿から消えた名前を見つめ、ただ深く目を閉じるしかなかった。
結び
荒野は、外部からの攻撃ではなく、内部からの亡命の連鎖によって崩れていった。
それは血を流さぬ粛清、だがより残酷な侵食だった。
中央は微笑む必要もなかった。ただ静かに待てばよかった。
――崩壊は、もう始まっていたのだから。




