祈祷
無神祈祷セットが届いた。平べったいの小さな板と一冊のノートが入っていた。トウノは板に張り付けてある説明書を読んだ。
神様がいると心から信じがたく、この世には何もないとするには、あまりにも辛すぎる。そこで、この重いものを飾れない神棚のような、出っ張った棚をあなたにご提供いたします。棚というよりも、壁に貼り付ける板です。地震がきてもはがれ落ちない強力な接着テープを使用しています。一度壁に着けると取れません。そこのところを考慮に入れていただきたいと思います。重いものを置くのはお勧めできません。お好きな軽いものをお乗せください。記録帳が同封されています。使用していただいても使用していただかなくても構いません。
一度つけてしまうとはがせないのは難点だ。かなり迷った。難航の末に、ベッドの枕側の壁上部に着けることにした。部屋のどこにつけても、さぼってしまうような気がしたため、寝る前に必ず見えるところにした。次の日の予定を寝る前に確認するときに目に入るはずだ。足の方に着けるとなんだか、縁起が悪いような気がした。そういうものを取り払ったものであるのに、結局私はそういうものにとらわれているようだった。
やはり気になって、テープのはがし方を調べた。耐震用の倒転防止シートの剥がし方はネットに載っていたので、問題なくなった。つけてしまってから方角を調べた方が良かったような気もした。
板の上には友達と買ったお守りを置いた。置いてみると、程よい大きさで板の上に収まった。威厳を取り戻したかのように見えた。人形を置きたい気持ちもあったが、かわいらしい人形がなんだか不気味なものになってしまう気がしたのでやめた。それに、人形を置くにしては少し板が小さかった。
準備は整った。トウノはノートを開いて中身を読み始めた。パラパラとめくってみたが、最初の一ページにさらっと使い方が書いてあるだけで、他には日付しか書いていないようだった。
簡単に言ってしまえば、瞑想です。しかし、座禅を組んで呼吸を整えるのはあまりにも簡潔すぎるような気がします。楽な姿勢でといわれれば、楽になりすぎてしまう。無神祈祷セットがご提供するのは、一つのことに集中するという点では同じですが、その行動の対象を自己の内面ではなく、外部に向ける。方向転換を提供しております。科学的にも効果が立証されつつある瞑想を祈りとして認識する。我々が提供できるのは、この一点のみです。これはただの発想ですので、ゆえにこの商品をご購入していただく必要は基本的にはないわけですが、自らで何もかも実行するよりも、何らかの方向を与えられていた方が楽な方のためにこちらの商品がございます。
ノートの使い方。こちらのノートには一日目以外、乱雑に記録する日を設定しております。その日に思ったことや感じたことをお書き下さい。使用しなくても問題ありません。一言添えてありますので、思考のお助け、もしくは妨げにしていただければと思います。
トウノは仕事から帰ってきたばかりであるので、風呂と食事を先に済ませることにした。日常に訪れた新しい予定のかすかな重荷を感じていた。
一日目。健やかな強さ。
この一行だけ書いてあった。よくよく考えれば、どうやって祈るのか書いていない。いや、無神祈祷セットなので、祈りではないのか。しかし祈祷セットとある。説明には座禅とは違うと書いてあった。なんだか矛盾を抱えたものだ。
トウノは昔、旅行先メキシコの教会で見た老婆を思い出した。両手でこぶしを握って、おでこに親指をつけるようにして、膝をついて、観光客が写真を撮って一目見るだけで立ち去る像に静かに祈っていたのを思い出した。あの心打たれる光景を思い出して、トウノはそうはなれないのではないかと感じた。だが、真似てみることにした。三十秒ぐらいで、膝立ちがつらくなって、すぐにその場に正座してしまった。老婆の足元にも何か、クッションのようなものがあった気がする。
足がしびれるまでは正座をして、こぶしを握っていようと思ったが、なんだかしっくりこなかった。結局手を合わせることにした。実家に帰った時の仏壇の前に座っているような心持になった。
一連のその流れをノートの一日目のページに書いて、その日は寝た。次の朝によく眠れた気がしたが、寝る直前に携帯の画面を見ていなかったからではないかと考えた。
三日目。びーかーむにびかむ。
二日目の欄がなかったので、驚いた。購入者に続けさせる気がないのだろうか。今日は仕事で疲れてしまったが、頑張ってやってみて、この記録も最後の力を振り絞って書いている。嫌だったことを書くと、見返したときに嫌な気持ちになる気がするので書かない。今日はコンビニで桃味のアイスを買った。それだけ未来の自分には思い出してほしい。
五日目。昨日を好きになれ。
この言葉はちょっとだけ気に入った。でも、ちょっと難しい言葉だなと思った。深い。というやつなのかもしれない。
七日目。挫けガチなれど挫けマジ。
一週間も続いていることに驚いた。今日会った友人にこのセットの話をした。彼は一緒にいて不快になることがほとんどない、よい友人だ。どんなことを書いているの?とは聞いてくるけれど決して、見せてくれないか?とは聞いてこない。そんなところが好きなところだ。その友人はとても面白がってくれた。彼に、書くことがなくて困っていると相談してみたところ、何でもいいんじゃないかといってくれた。しかし私が、何でもいいと言われても困るというような顔をしていたのか、それなら、と彼は少し彼がたまに話してくれる、彼の理論を語り始めた。
彼が言うには、二つ理由があるらしい。一つ目。当然何か、書くに値するようなことは当然何か起こっている。それに気づいていないだけ。二つ目、これは言いづらそうにしていた。簡単に言うと、中身に何もないから外に何も出てこないのだ。ということらしい。これを解決するには本を読むとよいと彼は言っていた。表現方法と中身の両方が手に入るらしい。最近見ていたドラマが終わってしまって新しいドラマを探していたところだったので、代わりになるものが見つかって、ちょうどよかった。彼の貸してくれた三冊の本の一番読みやすいと言ってくれたものから読もうと思う。しかし、これが一番分厚い。
二十三日目。やわらかなもの。あたたかいもの。
この日が来るまで、一日の終わりに借りた本を読んで、ちょうど終わりに近づいたころにこの日が来た。よくこんなにも続けていられるなと思う。不思議なことだ。今では初めのころより五分ほどこの祈りの時間が長引いていると思う。とても落ち着く。
二十九日目。柔らかな強さ、曲がらない弱さ
前にここに書いた友人ともう一人の友人と三人でカフェで会って談笑した。もう一人の友人をGとすると、Gはこのセットの話を聞いて私が変な宗教にはまったと思ったらしかった。顔が引きつっていたが、携帯で調べて一種のおふざけで作られたおもちゃであると知って安心していた。Gは仲の良い友人が多数いて、我々三人以外にも多くの人たちと付き合っている。彼の人柄に集まってきたのだろう。そう彼に伝えたことがある。すると彼は、それは逆で、集まってきた人たちが私によいところを預けて行ってくれているだけだと言った。銀行みたいなものだといって少し笑った。Gは私の心の中にある穴のような、どこか充足していないこの感情を友人で埋めたということになるのか。彼は運が良かった。では、私は?
三十七日目。想像だにしない悪意に触れた時、自らの善性を知る
彼の貸してくれた本の中にあった好きな引用の元を読んでみようと思い、図書館に行った。気になる本が芸術の棚の中にあった。半分ぐらい読んで、詩の批評というものらしいということに気づいた。自分の好きな引用を発見した時、子供のころに今では何の価値も見出しえない宝物を見つけた時のようにうれしかった。一人でいる部屋の中で、おぉ、と声が出た。
四十一日目。せめて、ひとなみにおごれればや
仕事を終えて、電車から降りて、駅から出る。その後に、駅の西口出口前のある枝垂れ桜が咲いていたのが見えた。携帯で写真を撮って、すぐに家に向かって歩き出した。今日の夕飯を考えていた時に、ふと花の香りがした。目をやると、いつもは気にとめない家の庭に、白い花が咲いているのが見えた。誰にでも春が来るのだと知った。詩のようになっている。私はどうも影響を受けやすいらしい。
六十七日目。がんばるしかない!
近頃はとても穏やかな気持ちだ。鼻から息を吸って少し止めて、少し口をすぼめて吐き出す。そうすると、手を合わせていなくても心が落ち着く。冷静になれる。イライラすることが減った気がする。なぜかはわからないが、効果が出ていると続けようという気になる。多少おっくうでも。
八十三日目。一言添えてくれれば。嫌わずに済むものを。
鏡を見て、少し目が大きくなった気がした。なんというか活力がみなぎっている気がする。これは祈りの効果ではなくて、よく眠れているからだと思う。
100日目。こだわりはとにかく捨てろ。
友人二人から、最近楽しそうだねと言われた。ちょっと驚いた。そうだろうかと、少し考えていた。私よりも、彼が貸してくれた本の作者の他の本の有名なセリフを、しれっと会話に混ぜたときの彼の方が驚いていた。
113日目。生きる理由が自分を守る理由になった。
目標が言い訳になったと意味だろうか。この一言は意味がよくわからない。楽しそうだねと言われた日から、そのことについて考えていて、この日までにまとめようと思った。楽しそうというのはよく笑っているということではないだろうか。けれども、それと私の状態は少し違う気がする。ほほえみという言い方が近い気がする。お釈迦様もモナリザも微笑んでいる。しかしそれは幸福を意味していない。安寧?この言葉がふさわしいのかわからないが、この状態は幸福ではない。幸せであるとは感じるが、幸福という言葉の内には入らない気がする。充足している。前と何か生活が変わったわけでもないのに。
158日目。この世に投げられてきて、落ちてゆくのを楽しむもの、恐ろしく思うもの。
没頭!この言葉の方が近い気がする。この習慣が私に気づかせてくれたことが一つある。それは、私に足りなかったのは祈るものではなくて、祈りだった。献身に値するものではなくて、献身が足りなかったのだ。私は夢とか目標とか、そういう向かうべき物がなければ、どこへも行けないと思っていた。しかしそれは逆、もしくは間違っていて、まず、何かに没頭するほど努力することが大事なのだ。必死の努力の中で、方向が見えてきて、目的地が見えてくるのだ。とてつもない事実を発見したノーベル賞受賞者はこんな気持ちだったのだろうか。見つけた!気づいた!という歓喜の中に私はある。
百九十九日目。苦悩しているな。楽になろうとするな。命は苦しみを燃やして輝いている。
Gは漫画をたくさん読んでいる。先月は二万円も使用したらしい。なぜかはわからないが、キャンペーンでもう一万円分漫画が読めるようになると言っていた。説明がめんどくさいときに、聞き手にわからせようとしないまま会話を終えるGの癖が出ていた。その時に彼がなぜそんなに漫画を読むのか教えてくれたことがあった。それは、熱い瞬間が好きだからだといった。この時は、私に理解させようと話していた。その熱を食べて自分は生きているのだと言っていた。その時は感動して気持ちがいいということの言い換えかなと思っていた。しかし、今では私なりに、その意味が分かった気がする。
若かりし日の没頭のように、もう一度私の命に火がついた。生きているということを感じていないにも関わらず、生を謳歌する子供のような燃焼とは違う。仏壇のろうそくの火が、こじつけかと思われるほどにかすかに揺れて、おばあさんが喜んでいると言うような、小さなろうそくの穏やかに燃える火。そんな命の燃焼。