ショートショートⅠ 「金木犀の香」
私の名前は、鹿沼 香。
両親を早くに亡くした私は兄弟もおらず、一人親戚のところへと預けられ、そこで暮らしている。
私にはとある秘密がある。
誰にも言えない秘密。
高校の放課後、家までの帰り道の途中、大きな川の横に、ひと気の少ない緑道がある。そこは、私にとってとても特別な場所だ。
残暑が和らぎ少し肌寒くなるこの季節、ここでは甘く優しい香りが漂う。
金木犀という、オレンジ色の花の香りだ。
私の秘密とは、この場所でこの金木犀の香りを嗅ぐことで、別世界へと行けるというものだった。
目を瞑ったままその香りを嗅ぐと、目を開ける頃には別の場所にいる。その場所はどこかで見たことのあるような、遠い昔に訪れたことがあるような、そんな不思議な場所だ。
「ここは記憶の中の世界だよ。」
そう教えてくれたのは、何故かこの場所でしか会うことの出来ない青年であった。その青年は私よりもいくつか年上のようだ。
艶やかな短い黒髪に、絹のように滑らかな白い肌。いつも柔らかな表情で、私とのたわいもない会話を楽しんでいるようだった。
けれどその人は、何度聞いても名前を教えてはくれない。いつもただ微笑んではぐらかされる。本当にこの人は誰なのだろうか。
「記憶の中って、誰の記憶の中なの?私?」
その青年は静かに微笑むだけで、何も詳しいことは語ろうとしない。
この記憶の中にはずっと居続けられるものではなく、わずか1時間程で元の世界に戻ってしまう。だからこの短い時間を思いっきり楽しもうと、その名も分からない青年とたくさんお話をして、たくさん遊んだ。
大きな川の河川敷を、2人でサイクリングした。涼やかな風が心地良かった。
餃子のお店がたくさんある地域なので、食べ比べなどもした。様々な種類の餃子があって面白かった。
秋祭りをやっている時もあった。立派な山車が、公道を練り歩く。賑わいを見せているお祭りであったが、この世界の人々には顔が無かった。皆のっぺらぼうだった。
それらの時間は楽しかったが、何故だか自分が自分では無いような、不思議な感覚になっていた。その青年もまた、本当に私に話しかけているのか疑問に思うこともままあった。
それでも毎日、放課後その記憶の世界へと私は足を運んだ。
しかし、その世界に滞在していられる時間が、日に日に短くなっていった。1時間程だったのが、30分、15分、終いにはわずか5分になってしまった。
私はこのまま会えなくなってしまうのではないかと思い、その青年に再度名前を尋ねた。その青年は、まっすぐこちらを見て、少し躊躇った後、ゆっくりと口を開き始めた。
私もまた、まっすぐに青年を見て、耳を傾ける。
「僕の、名前は-」
そこで青年はひと呼吸おき、そして続けた。
「鹿沼 香」
えっ。かぬま、かおる…?
「それって…。」
どういうことなのか、と聞こうとした瞬間、私は元の世界に戻ってしまった。
鹿沼 香…。
私の名前は、鹿沼 香。
これは偶然だろうか。いや、あの躊躇い具合からも、偶然ではなく、何か秘密が隠されているのだろうと悟った。
知りたい。どういうことなのか、謎を解明したい。明日の放課後また来よう、そう心に決めてその日は家へと帰った。
しかし、次の日も、その次の日も、同じように緑道へ赴いても、私はあの記憶の世界へと行くことはできなかった。
そもそも、あの金木犀の香り自体が、ほとんどしなくなってしまっていたのだった。
どうしよう、もう会えないのかな。知りたい。いろいろ知りたいことはたくさんあるのに。
私はいろいろ試してみた。金木犀の香りのする物はたくさんある。金木犀の香りのハンドクリーム、汗ふきシート、香水などなど…。
しかし、どれを試してみても、再度あの世界へと行くことはできなかった。おそらく本物の金木犀の香りでないと、行くことができないみたいだ。
ある日、私はあの青年の名前が気になりすぎて、今お世話になっている親戚のおばさんに思い切って尋ねてみた。
「あの…鹿沼かおるって人、ご存知ですか…?」
それを聞いた途端、夕飯を作っていたおばあさんの手が止まった。そして、少し怪訝そうな顔でこちらを見た。
「あんた、どうしてその名前を…。」
「やっぱりご存知なんですね!?」
知りたい。教えてください。私とどう関係があるのかを。
おばさんは、少し躊躇った後、ダイニングの椅子へと座り、ゆっくりと話し始めた。
「鹿沼かおるってのはね、その…実は、あんたのお兄さんにあたる人なんだよ。」
お兄さん…?でも、私には兄弟などいないはずだ。
「その…これはとても言いづらい話なんだけどね、あんたの兄かおるは…死んだんだよ。あんたの母さんのお腹の中で。」
言葉が出なかった。
「それに耐えきれずにあの人はあんな終わり方に…。」
「あんな終わり方…?」
「…いや、なんでもないさ。もうこの話は終いだ。さ、先に風呂入ってきな。夕飯の準備してるから。」
おばさんは、これ以上はもう言いたくないといった様子で、そそくさと夕飯の支度に戻ってしまった。
どうしよう、更に気になってしまった。母の終わり方というのは、母の死に方という意味だろうけど、一体どのような最期を迎えたのだろうか。
母は、私が物心つく前に亡くなってしまったため、ほとんど覚えていない。親戚たちも話したがらず、幼いながらにそういうものなのだろうなと思ってこちらも聞かずにここまで来た。
しかしここまで聞いてしまったら、自分の親のことを何も知らずに生きていくというのはできそうになかった。
もう一度あの世界へ行って、今度こそ真相を確かめようと心に決めた。
私はまず金木犀について調べた。すると、金木犀には、一度花が咲き終えた後に何らかの影響で再度花が咲く、二度咲きが起こることがあるという。
私はそれに賭け、その後も毎日緑道に通ったのだ。
結果、私はその賭けに勝った。
再度、その緑道には、甘く優しい香りが漂い始めたのだった。
私は覚悟して目を瞑り、大きく息を吸い込みその香りを胸いっぱいに取り込んだ。
目を開けると、そこは何やら小さな遊園地のよう。おとぎ列車や小さなジェットコースター、観覧車などがある。
観覧車はとても小さく、10個ほどのゴンドラしか付いておらず、赤や青などカラフルで可愛い、おもちゃのような観覧車だ。
その観覧車の前に、あの青年は立っていた。
「ねえ!あなた、私のお兄さんなんでしょう?」
私は単刀直入にそう聞いた。
そう聞かれてその人は、薄笑いを浮かべて頷いた。
「そうだよ、僕は君の兄だ。君のかおりという名前は、僕がお腹の中で死んでしまったから、母さんが同じ漢字の別の読み方で、そう付けたんだ。」
「ねえ、母さんに何があったの?親戚のおばさんが、あんな終わり方って、気になる言い方してて…。」
「それはね。」
突然、私の口から、別の人間の声がした。
「私はかおるを殺したの。産みたかったのに、あなたの父親がそれを許してはくれなかった。私はかおるを堕ろすしかなかった。」
誰!?もしかして、か、母さん…?
「そう、私はあなたの母よ、かおり。あなたは私の記憶などほとんど無いでしょうけどね。」
でもこの声、話し方、なんだか温かい。
すると突然、私の体から、一つの魂のような炎がふわりと出てきた。その炎は次第に形を形成し、一人の女性が現れた。
きっと、この人が私の母さんだ。綺麗な女性だったんだな。
母さんは兄さんの横に立ち、話を続けた。
「私はね、あなただけは絶対に産みたかったの、かおり。あなたを産んだ後は必死に育てたわ。けれど、かおるを殺してしまった罪に耐えきれずに、私は自ら命を絶ったの…。それで私はかおるのもとに行けると思ってた。でも、あなたを置いていってしまったことを後悔して、私は成仏できなかった。」
自殺してたんだ母さん…。それは親戚の人たちが言わないわけだ。
「どうしてもかおるに会いたくて、かおり、あなたを利用してしまったの、ごめんね。」
利用?どういうこと…?
「私はね、あなたに取り憑いていたの。それで、かおるに会える機会を伺っていた。あなたが偶然あの緑道を通ってくれて感謝してるわ。金木犀の香りがね、私、とっても好きで。たくさんの懐かしい思い出が蘇ってくる。香りっていうのは不思議なものね。お腹にかおるがまだいる時の、記憶の世界へと行くことができた。それに金木犀には、『幽世』という花言葉もあるみたいで、それであの世にいるかおるとこの世界で会えたのね。かおるを連れて行きたい場所がたくさんあった。ここの遊園地もそう。かおるが産まれたらここに遊びに来ようって思っていたのよ…。」
母さんは話ながら涙を流していた。兄さんがそっと肩を抱きしめる。
「大丈夫だよ母さん。さぁもう行こう。母さんがこれ以上この世に残ってしまったら、地縛霊の影響でかおりを苦しめかねない。この記憶の世界で、母さんが僕を連れて行きたかった場所にいろいろ行くことができて楽しかった。僕は母さんのことを恨んだりしていないよ。だからもう行こう、自由になろう母さん。」
「そうね、私、もう行くわ。かおり、今まであなたに取り憑いて利用していてごめん。こんな母親でごめんなさいね。」
そう言いながら、二人はふわふわと浮かび、消えていく。
え、待ってよ。私のことを置いていかないでよ。この記憶の世界で過ごした時間は楽しかった。家族と一緒に過ごした時間だと知ってちょっと嬉しかった。けど、もういなくなってしまうの?待ってよ、私どうせ一人だし、私も母さんたちと一緒に行きたいよ!
そう叫びながら前に踏み出した途端、目の前の景色が突然変わり、いつもの緑道沿いの、大きな川へと落ちてしまいそうになっていた。
――落ちる、死ぬ。でもそのまま死ねば、私も母さんたちと――。
その瞬間、誰かに右腕を引っ張られて、私は川へ落ちずに助かった。
誰だろう、今助けてくれたのはと、後ろを振り向いたが誰もいない。
しかし、掴まれた腕にはほんのりと優しい温もりが残っているような気がした。
その温もりはまるで、あなただけは生きなさいと、言っているようだった。