シャットダウンメンテナンス
メンテナンスなどの非定常作業の前後は事故が起きやすい。いつもと違う作業をするのために慎重かつ丁寧に気を遣うのだが、非定常作業も同じことを何度も繰り返すと確認を疎かにしてしまうことがある。特に気心も知れた同じメンバーであれば「信頼」が「信用」になり、「彼が作業したことだから間違いないだろう」という先入観も生まれる。「人は誰しも間違いを起こす」ということを忘れるほどに。
インノブ1stは少数精鋭、技術者の誰もが自分自身で考えて最適な行動を取る。イノベーション・エンジン・ラボ(通称:IEラボ)は設立から9年が経ち、メンバーは4年前に入れ替えて以来同じ顔ぶれだ。当然、技術も癖も人となりもわかっている。若い企業なだけに若い技術者が多く、年配者から押さえつけられないことから自主性が強い。手が足りない部署へは気が付いた者が手を貸すのは当たり前。言われたことしかできないような「兵隊」は一人もいない。3人で10人分の仕事をするような精鋭たちだった。
重力線照射装置は高重圧力加工の普及により、かなりの進歩を遂げた。重力線は本来直線にしか照射できないのだが、高重圧力加工強化プラスチックの登場で、重力線を屈折できるようになったのだ。製品名「グラビウムレンズ」。光がレンズにより一点に集中できるように、重力線を一点に集中させることが容易になった。これも「オッドボール」で初めて公開された技術だ。
インノブ1stの研究用疑似ブラックホールエンジン「イボルブ(Evolve)」の重力線照射装置も、望遠鏡のように3つのグラビウムレンズの組み合わせにより重力線をブラックホールの一点に集中照射させていた。重力線はブラックホールに対してx軸y軸z軸のプラスとマイナスの計6方向からの同出力同時照射される。そうすることでウォールカプセル中央のブラックホールを、中央から動かすことのないようにしていた。偏った重力線照射をしたら、重力線に押されたブラックホールがウォールカプセル内壁に接触する恐れがある。
この日の非定常作業は重力線照射装置のレンズ交換を含む、半年に一度のシャットダウンメンテナンス。「イボルブ」の全機能を停止させ、分解交換点検をするメンテナンスだ。
まずは核融合炉から繋がるエネルギーパイプラインを外し、ウォールカプセルをIEラボ内のドックに入れ分解交換点検の準備をする。分解や部品交換などのメンテナンスは機械ではできない。人が工具を使い、手で外したり取り付けたりするのである。ウォールカプセル外壁に接続されたコントロールケーブルや計測ラインが外され、重力線照射装置はユニットごと取り外され所定の位置に置かれた。
一番大変なのがウォールカプセル内壁のメンテナンスだ。中央にブラックホールがある為に、間違っても中央に触れてはいけない。もっともウォールカプセルは直径10mあるので、故意でなければ中央に行くことはできないのだが。ウォールカプセルのメンテナンス用のハッチを空け、安全用のフルハーネスを付けた技術者がウォールカプセル内部に入る。
初めのうちは200トンのブラックホールに恐れ、おっかなびっくりしながらの作業だったが、8回目のシャットダウンメンテナンスともなると必要以上に警戒はしない。例えば工具や部品を内部に落としたとしても、地球上のように落ちるわけではないので慌てる必要はない。仮に部品がブラックホールに喰われたとしても、1kgにも満たない工具や部品は200トンのブラックホールにとっては微小な質量でしかないのである。わずかなホーキング放射をするだけなので、メンテナンス作業者全員が内部から退避してハッチを閉めれば済む話なのだ。
6か所あるメンテナンスハッチから6人の技術者が内部に侵入、各種センサーの交換と内壁の高重圧力塗料のリムーブをする。内壁のヒビ割れ確認は目視と超音波センサーの併用だ。仮に些細でもヒビが確認できた場合は、即座に実験終了である。なぜならインノブ1stは耐久実験をしているためだ。故に内壁メンテナンス作業は緻密となり、かなりの時間を要することとなる。実験ごとに耐久性は調べるものの、内壁を黙視することで新たに発見できる事柄は少なくないのだから。
内壁に異常が見つからなければ、高重圧力塗料の再塗装となる。厚みによって重力軽減効果が変わるわけではないので塗りムラは構わないが、塗り残しだけは厳禁だ。塗り残し部分は重力軽減されないため、重力線が外部に漏れることになるからだ。仮に1GD/sの重力線が外部に漏れると、漏れた部分を支点にウォールカプセルが9.8m/s動くことになる。無重力空間では容易に停止できないので、予想できない動きに繋がり事故の恐れがある。高重圧力塗装の塗り残しだけは絶対にしてはならないことだった。
しかし高重圧力塗装の重要さをわかっていないインノブ1stの技術者は一人もいない。
事故は別の要因に会った。




