仮名
グレイへの憑依実験から3日後、ヴィクトールは「妖精」の最上階にあるプライベートルームのベッドで眠っていた。3日間眠り続けていたわけではない。体には異常がなく健康そのものであり、健康な体は睡眠を通常以上に必要とはしなかった。しかし体には力が全く入らず、ベッドから起き上がることが出来ない。
ヴィクトールがやらなければならない仕事は多いのだが、上体を起こす力も出せないため端末も触れない。仕方がないので、ヴィクトールは脳内で数多の事案を手がけることにする。脳に力が入らないという表現は語弊があるのだが、思考が全く冴えず仕事にならなかった。しかも脳がすぐに疲れてしまい、ベッドに横になっているせいかいつの間にか寝てしまう。今も少し思いついたことをグレイに指示した直後に寝てしまった。
《わかった。やってみるよ》
グレイがヴィクトールの指示にテレパシーで答える。ヴィクトールの霊子を取り入れた影響か、実験の後グレイはヴィクトールとテレパシーが出来るようになっていた。
グレイはアカデミーの元助教授の教えの元で勉強をしていた。仮死状態から目覚めたものの、ESP能力とPK能力を兼ね備えた「物体送信(Asport=アスポート)」は発動させることができないでいる。勉強はヴィクトールを守るために、グレイ自ら望んだことだった。
実験後グレイは子供の頃の記憶だけは蘇っていた。孤児として孤児院で育ったものの、PK能力のため研究組織に捕まっては脱走を繰り返していた。暗殺組織に拾われて辛うじて読み書きができるようになったが、まともに勉強をしたことはなかった。故に勉強というものに興味があった。
ヴィクトールが指示したのは勉強ではなく、勉強の合間の飲み物だ。
《霊子水を飲んでみてください》
霊子水は元々ブラックホールエンジンのエネルギー源として研究開発されたものである。超純水に植物から抽出した霊子を蓄積させたものなので、PNGの正常化に役立つかもしれないと考えたのだ。霊子水は霊子を減少させたヴィクトールにとっても有効かもしれない。
《ゆっくり、おやすみ》
《ありがとう、グレイ》
「グレイ」という名は「Psycho Nucleus-Gray(灰色の魂核子)」から取った仮名である。彼が過去を思い出し、彼の本当の名前を思い出すまでの暫定措置だった。しかし彼は孤児として育ち、暗殺組織という裏社会で生きてきた人間だ。本当の名前を思い出したところで彼の戸籍や市民権など存在しない。表社会で堂々と生きるのであれば、正式な手続きの上で新たな戸籍などの取得をした方が得策に違いない。エクセル・バイオのネットワークを駆使すれば、偽造でなくても新たな戸籍を得ることは容易なのだから。
(さて、どのような名前にしましょうか)
グレイの新たな表舞台の名前を考えながら、ヴィクトールは眠りに落ちていった。