老い
2440年。ブラックホールエンジン理論確立から100年近く経とうとしているが、実用化への壁は未だに高く険しい。従来の普通物では到底足りないエネルギー源を「反霊子」というアンチマター的なものに委ねようとしたのだが、実用化の目途が一向に立たないのである。
ダークマター的な「霊子」が変質し、アンチマター的な「反霊子」になるのだが、どちらも通常の物質とは違い物理的法則も化学的法則も通用しない。特に「反霊子」はアンチマターのように通常物質と触れることで対消滅を起こしてしまうのだ。対消滅で発生するエネルギーはE=mc^2の計算により導き出せるが、1gの対消滅エネルギーは約180兆Jであり、ヒロシマ型原子爆弾約3個分となる。大気も通常物質であるために地球上での「反霊子」の実験は自殺行為に等しく、実験は必然的に宇宙空間に限られた。これまでの理論や思考実験により、ある程度の有効的な案はいくつか上がっている。しかし検証実験が滞っているのが実情だった。
宇宙に関わることは実験も含め、ほとんど全てをISCOが取り仕切っている。国家や団体、企業が勝手な実験を行い、失敗した場合には自分たちで損害を補償しなければならないが、ISCOが公認したことについては全ての補償をISCOが肩代わりしてくれるからだ。ノーリスクで危険な実験を肩代わりしてくれるのだから、豊富な予算を有する大国家であってもISCOには渋々ながらも従っている。
ISCOのクワメ・アビオラCUEO(Chief Unified Executive Officer=最高統一責任者)はもうじき80歳を迎える。本来ならば後進に託して仕事は引退する年齢であった。しかし彼の内臓はクローンからの移植によりまだ若いままだ。自分自身のクローンなので拒絶反応も起きることがない。とはいえ、やはり年齢による体力減少は否めない。宇宙での施設への移動は重力との戦いと言っても過言ではなかった。居住区の有重力から宇宙港の無重力へと行き、シャトル発進の高重力に耐えなければならない。肉体的負担が大きいのだ。
クローンへと憑依転生し若返るのが一番の良策なのだが、男性クローンへの憑依転生の成功例はまだ無い。死に瀕した状況ならばギャンブルに出るのも一つの手だが、幸か不幸か体力は落ちたものの体は元気だ。リスクを犯す必要がアビオラには無かった。
できることなら若返りたい。誰でも思うことではあるものの、アビオラにとっては切実な願いだ。女に生まれていれば良かった、とさえ思うことがあるぐらいだった。
来るべき「宇宙時代」へ向けて、ISCOのCUEOとしてやるべきことが多すぎる。調整役として、舵取りとして、まだまだ自身の手でやり遂げなければならない案件が多すぎるのだ。アビオラの過剰なまでの自信からか、安心して任せられるような若手も見当たらない。合議制は保守に走りがちで、革新には向いていないのは歴史が証明している。宇宙時代を切り拓くには、強烈なリーダーシップと利己を求めない公平さが必要だ。ISCOに関わる主要人物の中には、アビオラの後継者になれるような人材はいないと言っていい。
リーダーシップだけで言えば「ヴィクトール・クローネル」の右に出る者はいない。カリスマ性も含めて、アビオラも敵わないだろう。しかし彼女は利己的だ。企業グループのトップならば当然かもしれないが、身内と言える「エクセル・バイオ・グループ」とそれ以外に対して公平とは言い難い。仮に「エクセル・バイオ」と人類の利害が反した場合、恐らく彼女は全人類を敵に回すだろう。
「私が抑止力になると思っていたのだが・・・ここまで命が惜しいと思ったことはない」
アビオラは右手を強く握り、それでいて弱々しい拳を見つめ続けていた。