再実験(1)
ヴィクトール・クローネルの1日はとても忙しい。従業員5千万人を超える「エクセルシオン・バイオメディカル・グループ」を一手に取り仕切る総帥なのだ。ISCOやCROUNなど対外的な交渉や交流だけでなく、支社や子会社の行く末を決めるような重要事項の承認、さらに未来を見据えるプロジェクト管理など、やるべき仕事は多岐に渡る。仕事に縛られるような分刻みのスケジュールは組まないものの、体が空いている時間などほとんどない。
ヴィクトールが体得した「瞑想」を佐藤洋子に教えることになっているのだが、これまでのところ瞑想の指導はテレパシーのみで行なわれていた。言葉だけで体得するのは容易ではなく、佐藤洋子は悪戦苦闘していた。無心になろうとすればするほど、余計なことを考えてしまうのである。佐藤洋子が瞑想を体得しない限り、次の憑依実験は行われない。佐藤洋子は気ばかりが焦り、眠れない日々を過ごす。
見かねたヴィクトールがテレパシーとは別の教え方をした。「冒険者」に帰還した際に佐藤洋子のクローンに憑依し、ヴィクトールの瞑想に入る思考のプロセスを体験させたのだ。何度か繰り返すうちに、佐藤洋子の脳は瞑想への入り方を見出した。他人の思考にも拘らず脳に直接流入する思考なので、脳が自身の成功体験だと錯覚したのだ。数日と立たないうちに、佐藤洋子はヴィクトールの瞑想を体得することとなった。
ヴィクトールの仕事の内容に合わせて、佐藤洋子のクローンへの憑依実験が再度実施されることとなった。前回と同様にヴィクトール、ユリとリリーの3人が佐藤洋子のクローンに24時間憑依するという実験内容なのだが、佐藤洋子にとっては前回よりもさらに厳しいミッションになりそうだった。なぜならユリとリリーもヴィクトールの瞑想を体得していたからである。ヴィクトールは3人の瞑想のタイミングを同じにしないように指示した。このことにより、24時間憑依を継続できることが確実となった。さらに佐藤洋子を除く3人の間でのテレパシーも解禁した。3人のテレパシーでの会話が佐藤洋子にどう流入するかの実験でもある。佐藤洋子が瞑想により、思考の流入を無効化できれば実験は成功となるのだが。
周囲の期待とは裏腹に、佐藤洋子は瞑想できなかった。
絶えず流れ込んでくる3人の思考に気を取られ、集中ができない。成功体験に裏付けされた体得は、逆に言うと条件が揃わないと発揮が難しい。ひとたび条件を崩されると、集中すらできなくなるのである。不安と焦りは佐藤洋子の精神を蝕み、正常な思考さえ侭ならなくなる。
心配する3人のテレパシーにも応えられないほど混乱した佐藤洋子は、一度も瞑想に入ることなく24時間後を迎えた。
実験開始から24時間後「冒険者」の研究室に集まったのは、ヴィクトールとユリとリリーの3人だけだった。佐藤洋子は姿を見せないどころか、テレパシーにも応じない。ただ単純に寝坊しているだけならよいのだが。3人に不安がよぎる。
「ユリとリリーは至急、憑依を解いてください。私はヨーコの様子を見に行きます」
「総帥様は憑依したままなのですか?」
「はい。ヨーコが眠れていないのであれば、この体からヨーコを瞑想に誘えるので好都合だと思います」
「「承知いたしました」」
ユリとリリーが別室へと駆けていく。ヴィクトールは無心で佐藤洋子の部屋へと向かう。過度な心配も悪い妄想も、ネガティブなことは一切考えないように、ひたすら佐藤洋子の部屋を目指した。
非常用の合鍵にて扉のロックを解除する。ヴィクトールが見たものは、真っ暗な部屋の中、ベッドの上で膝を抱えて座っている佐藤洋子の姿だった。