風があった
風があった
明け方には雨が降るだろう。冬を終わらせる雨が。
空が寒いほど青い。
テイブは羊歯を運び出した。冬の内は家の中に入れておくのだ。
寒かった今年の冬。羊歯は刃こぼれした鋸のように先端が枯れている。
その日も白と灰のウインドジャケットを着てマックに鎮座していた。テイブは中年の公的扶助不正受給者だ。他に行く所がない。
ポテト一本で一時間を消費して生ぬるい安コーヒーで流し込む。栄養になる物はほとんど摂っていないのに太っている。腹が出っ張ってきた。
これから食べ終わったらビール一本買って、いつものランニングシャツ一枚になって夜更けまで自分のアパートでちびちびやりながらテレビを見る。
(苦しいよお)キリストの声が聞こえてきた。
そういう時は決まってチョコレートの匂いがする。テイブは鼻をグスンと吸った。
やけに辛い。失恋したように。
(お父さん、そんな悪い人じゃなかったよね?)また母の声を思い出す。口の中に酸っぱいものがこみ上げてきた。テイブは喉をんぐと音も立てずに飲み込んだ。
塩からいポテトをもう一本、いやその半分、口の中に入れてゆっくり噛んだ。
目は外に向けられている。灰色の空の下、茶色い落ち葉が舞い上げられている。表を通る人々はこの自分がずっとこのマックにいることに気付きもしないんだろう。
(けがらわしい!)母の声。テイブは思わず眉間に力を入れて目をぐっと瞑った。
僕に大きな影響を与えたもの。キリスト、母、・・あともう一つは? テイブはテーブルの下で指を折ったが三本目の指はなかなか曲がらなかった。
父親と比較されることで自分も堕落したような気になる。自分も愚弄されてると感じる。そんな自分になったことはいつの頃だったっけ?
口に舌圧子を突っ込まれたように。
煙草と酒だけが慰めてくれる。ところが、このマックは全席禁煙だ、っくそ! かといって、日がな一日する事もない。
夜になって、冷たいビール罐を手にぶらぶら下げて歩いているとまたチョコレートの匂いがしてきた。
(助けてくれえ)人類の全ての罪を背負って死んでいったキリストの声だ。
道路の内側で座り込んでいる女がいた。ワイン色のジャケットを着ている。ニャー、ニャーと頻りに子猫の鳴く声がする。
「この親猫、轢かれてしまったようなんです」と女は言った。
美しい女だった。
「どこかにお帰りで」テイブは肩が固くなるのを感じながら言った。
女はすっくと立ち上がり、子猫をテイブに押しつけるように渡した。
「これから出勤なんです。クラブで・・、申し訳ないけどこの猫預かってくれる? 必ず迎えに行きますから。服に猫の毛が付いてたらマズいのよ」そう言って女は袖口を払った。
押しつけられた真っ白な子猫をテイブは仕方なく抱き上げた。子猫は爪をテイブの腕にかけている。
「私の名前はアマンダ・ブロック。もう少しでアンド・ブラックになる所だったのよ。あなたは?」ブロックは手を差し出した。
テイブは思わず子猫を取り落としそうになりながら、その手を握った。
「テイブだ。悪いけどこの猫は飼えないよ。生活に余裕がないんだ。君が飼ってくれるのならそれまで預かってもいいけど・・」
「それよ。飼ってくれそうな人を探しますから」
何とも無責任な、と思いながらテイブはアマンダの目を見た。吸い込まれそうな青い目をしている。
「僕の家は・・」告げるとブロックは何度か呟きながら「あの角のとこね・・」と覚え込んでいるようだった。
「じゃあ、私、仕事に行かなきゃ。ミャーをよろしく」
もう名前まで付けたんだ、と思いながらテイブはブロックの後ろ姿を振り返った。
生ぬるくなった泡を少しずつ口に含みながら、昨日のベースボールのダイジェストを見ていた。ミャーはテイブのベッドをしばらく揉んでいたがそのまま眠ってしまった。トイレはどこでするんだろう、とテイブは心配でならなかった。
(エロイエロイレマサバクタニ・・)思わずテイブは鼻を覆った。チョコレートの匂いがした。
(オネスティだって!)母の激した声も聞こえてきた。
そんな風に信じられなくなったあなたが嫌いでした。またビールの泡を少し口に含んだ。
あくびをしかけた頃、ドアが鳴った。
出ると、ブロックがバイオウォッシュのデニムの上下で「ハイ」と手を振って、中の様子を覗き見、子猫の姿を見つけると何の断りもなしに部屋に入った。
仕方なしに冷蔵庫で冷やしておいた予備のビール罐を一本、ベッドの下に置いた。ブロックはそれをプシュッと開けると、遠慮もなしに飲み始めた。
「喉がガラガラよ。今夜の客は特にひどかった」
テイブはランニングシャツ一枚だったのでウインドジャケットをその上に羽織った。ブロックは寝ているミャーを起こさないように撫でていた。
「それで、見つからなかった」
「何が」
「飼ってくれる人。今日の客は特にひどくて・・」
「そうか」とテイブは言ったのみだった。
まだ二十代だろう、皮膚が若い。特に首筋の辺りが。
(新しい住まいはゴキちゃんといっしょ、ゴキちゃんといっしょ、ゴキちゃんといっしょ・・)
「それで、どうするつもりだ」またテイブはテレビに向かい直って座った。
「テイブ、テイブでいい? あんたが飼ってくれたら助かるんだけど。猫の費用は出すから。領収書を出してくれれば・・」
何とも勝手な話だ、と思いつつもテイブは言えなかった。
「分かった」
ブロックはこんないい人いるんだ、という目でテイブを見ていた。
「その代わり・・」その時、チョコレートの匂いがして一瞬、黙った。
「その代わり?」
「いや、何でもない・・何でもないんだ」テイブは鼻を触って一回すすった。
ブロックはうっとりするように膝にビールを置いてミャーに見入っている。その様子を肩で見ながら何にせよ、何にせよだ。人生は変わらないんだとテイブは思い続けていた。
ミャーは何も気付かないようで横を向いて寝入っている。
(お父さんはテイブやターメリックがどんないやらしくこと見てるのかも調べてたんだよ)
(あの人、・・ゾンビ、・・サタン・・)
何万回も聞いたよ、母さん! 思わず、テイブは顔をしかめて耳をふさいだ。あなたと話してると体が固くなるんだ。それにブロックは気付かないようだった。ビールを飲み終わると、「お邪魔しました」と言って罐をゴミ箱に放った。
「またたまに来るけど、猫大事にね。名前はあなたが付けていいから」
「あ、ああ・・。気を付けて」
またブロックは今度はテイブに目を向けてニッコリと微笑んだ。
テイブが冷たいドアを閉じて、座り直すといつの間にかミャーがベッドから降りてきてあぐらをかいた足にすっぽり収まって眠り込んでしまった。おしっこの臭いがした。ベッドでやってしまったのだろう。
今夜はこのまま、ここで座ったまま寝ようか、テイブは最後に残った泡を飲み込んだ。
昼間にマックに行くこともやめていた。いつしかミャーはテイブにとってなくてはならない物になっていた。
(ターメリックがお金ごまかしちゃったみたいなんだよね)
ターメリック、あの悪口を聞かなくてよかったね。
(友達少ないでしょ)お父さん、お母さんにそんなこと言わないで!
過去は耳の中でガンガン鳴り続けているが、(祭壇を切ったことも、写真を全部シュレッダーにかけたことも、結婚指輪を棄てたことも)ブロックに時たま会えることは幸せだった。
ミャーの領収書は出さないでいた。また始めた煙草も費用だったが言わないでいた。
バッグの相談をされた時に「革の鞄をかわなきゃ損」と冗談を言ったが、ブロックは全く笑わなかった。
(結婚なんて洗脳)
ああ、そうだね母さん。ブロックは僕の手で汚しちゃいけないんだ。ミャーも。
その真っ白な体は今はじっとブロックを待っているようだった。ベッドに立って。
トイレの躾はトイレでさせた。しそうになった時に持ち上げてトイレに持って行くとトイレでするようになった。今ではしたい時になったらトイレのドアをカリカリ引っ掻いてテイブを見る。今ではなれっこだ。
(私の弱点は人を買いかぶることだ)母の声がした。
(気付かなかった。本当に同情してくれてると思ったんだよ)
テイブは一人で煙草を取り出し、一本を吸った。テレビの中からは「A Whole New World」が流れている。アラジンは一番の宝物が友達だったんだってさ。
空が雲の間に浮かんでるようだ。マックにいた頃は一日が、毎日あきらめと雑踏の中で消えていった。
時間のない部屋で懐かしい闇に包まれながらミャーを横に抱いて眠る時、眼上に白く光る輪を見た。虹だ。虹が出たのだ。
煌々・・。
仮面舞踏会に連れて来たのは誰だろう?
風が粘っこい。空気がもんどりうっているようだ。
ミャーはずっと見守っているように眠っている。ベッドの上で。
煙草を吸い終わり横になって目を閉じた。
白い闇だ。白い闇が埋め尽くしている。
(僕がいなくなった方がいい?)
(昔のアイドルが好きだったことを隠して嫌いだと言っていた父)
マザー、今はあなた自身のことを考えるべきだ。
(私が働いてたことは三人全員気づいてなかったようだけど)
(罰だとは思わないけど。もうそういう風に考えるのはやめたんだ)
景気づけに一杯やりたい程だったがしばらく白い闇に包まれたままにしておいた。
下に野菜、中段冷蔵、上に冷凍。冷蔵庫は今も空に近いままだったがミャーのキャットフードと予備のビールが何本かある。
(苦しいよお)キリストの声。
キリストの声は押しつけがましい非難めいた母のわざとらしい声嘆きの。
年取ってもあの人の目は力強いままだった。
(神は私を孤独に置きたもうた!)いつしか自分の声と交じって口に出していた。
スカーフ柄の服を着たブロックがその夜、訪ねてきた。テイブは中に入れなかった。
「どうしたのよ? ビール持ってきたのに」
「棄てに行ってくれないか。どうしても飼えなくなった」足が凍った石のようだ。
電撃に打たれたようにブロックは目を見開いて固まった。
「ああ、そう。私のことが嫌いだったのよね」
違う、ともそうだとも言わなかった。
押しつけるようにミャーをブロックに抱かせてドアを閉じた。
(太ってた頃は・・)
お母さん、ごめんね。人は前もって死ぬのだ。物語は始まり、そして終わる。
その時、ドアが大きく叩かれて、「バイグッドバイ」とブロックの声がした。
本から文字が落ちた。
光のあるうちに。
「一人で逞しく生きるのよ。もうこんなに大きくなったんだから」
涙で揺れる水面を背にして、若い女性が踵を返した。
夜しかない湖の端で。死にも似た湖。
ああ、朝が明けた。月の光がここまで・・。手の平で覆った時、青い闇が差した。
(・・・・)彼にとっては無音というより、聞こえてくる不気味な音だった。
愛があった。君の愛が。
ホテルのスウィートでコーンポタージュを飲もうがあの日々は帰ってこないんだ。
壁紙の剥がれかけた部屋。
カリカリとミャーがトイレを引っ掻く音が聞こえてくるようになった。
その時、みんな子供だった。
聞こえる頃にはもう踏み込む姿勢をしていた。