08 宇宙服と人工冬眠
手術が終わって、一週間は左手のプロテクターが外せない。
その分、過度な運動とかる訓練が休めるのは嬉しくもあるが、やはり不便には変わりないと、ルーシーは思った。
座学や見学も悪くはないが、短期研修でも必須訓練があり、本来は両手でできる作業訓練も、片手でやらなければならない。
通常は、次の打ち上げに繰越すらしいが、彼女の父親が延期を望まなかった。
「タイムスケジュール上、仕方のない事なんだよ。ほぼ完成状態の宇宙基地に送られる様に手配された親心でもあり、実質的に最後のフライトとも言える」
計画の詳細を知っているらしいライナスが、ルーシーをなだめ応援する。
彼女の知識でも、火星は前回の最接近以降、地球との距離が離れていく。
公転による距離の変化と言う話ではなく、地球との公転角度の違いにより、最接近時の距離が開くのだ。
2067年5,934万km
2069年 7,812万km
2072年9,416万km
2074年1億120万km
2076年9,835万km
大接近と呼ばれた2067年と、2074年では最接近時でも、その距離は倍になる。
飛行距離が倍になれば、飛行事故や人工冬眠のトラブルは四倍になると言われているので、ルーシーの父親が、2067年や2069年に子供を送りたがるのは、当然と理解ができる。
「なぜ、ライナスさんは前回のフライトに調整されなかったんですか?」
「『ライナス』でいいよ。『さん』付けはいらない」
彼は視線を宙に飛ばし、回想する。
「向こうでの、指揮系統を担う関係上、政界で統率者の真似事をさせられてね。お陰で大学もギリギリの卒業。卒業したら軍に放り込まれて指揮官の真似事をさせられた。」
「御父様は二期連続でしたからねぇ。政治家の子供は大変ですよ」
ルーシーも頷く。
「最初は、父の跡を継ぐ為だと思っていたけど、軍に入って計画の事を聞いてから、納得はしたけどね」
「宇宙植民地計画を推進する為の、体のいい人柱ですけどね」
「えっ?あ、ああ。そうだね。でも、これは人類の未来の為には必要な事だよ。君も、そう思うだろう?」
ルーシーは、眉間にシワを寄せる。
「頭では、わかっているんですが、どうしても『なんで私が?』って思っちゃいますよね?」
彼女の返答に、ライナスが苦笑いをする。
「あぁ、あと、フランクから小惑星帯の安全性について聞いたよ。あれは私も専門外で心配していたんだ。ありがとうルーシー」
「保証はできませんよ。事故に遇っても、私を責めないでくださいね」
「はははは、心外だな。確率論に対して、そこまで心は狭くないよ」
ルーシーは、一応は安心する。
人は窮地に陥ると、自然災害でも誰かに責任転嫁してストレスを発散させよとするのだ。
その一週間、ルーシーに対してライナスが相談やアドバイスをしに、適度に接触してきた。
共に親を知っている事や、ライナスの方が若干の歳上だか、同世代と言う事で、話しやすかったのも確かだ。
ルーシーの左腕のプロテクターが外されると同時に、彼女の人工冬眠テストが行われる。
医療体制の充実した所でテストし、適応力を調べたり調整したりする為だ。
「コネクターの接合性は良好みたいですね。炎症や拒否反応は無いみたいだ」
「もう、ほとんど違和感はありません。
一週間も洗えなかった左手首を洗浄してもらい、きれいになったのを見て、ルーシーは医者に答える。
「これから一週間、人工冬眠を行ない、問題がなければ従来の訓練に復帰できます」
「問題が有ったら?」
「薬剤で体質改善をして、再度のテストを行います。最悪、フライトは中止の可能性も有りますから、御了承下さい」
この人工冬眠は、軍においては『月基地で不慮の事故が起きた時に、救助がくる迄の間に生命維持をする為』と言われていると、ルーシーにライナスが教えていた。
ルーシー個人としては、中止になって欲しいのだが、余程の事がないと、そうもいかない。
人工冬眠に使われるのは、通称『ドラキュラの棺』と呼ばれる箱だ。
ルーシーも研修で入ったことがあるが、今回は検査器具の付いた別物を使用する。
ルーシーは、更衣室で全裸になり、訓練で行った手順に従って宇宙服を着る。
宇宙服は、通常はアンダースーツを着てから着装するが、人工冬眠の場合は異なる。
更にはアクアラングのボンベマスクの様な物を口にくわえて、左手首のコネクターを宇宙服に接続するのが特徴だ。
近年の宇宙服の特徴は、各間接にパワーアシストが付いていて、力量不足を補助してくれる。
しかし、人工冬眠の時は、身体が凍る訳ではないので、各部を定期的に運動させないと間接が固まってしまう。
今回パワーアシストは、それを強制的に動かすのにも使われる。
これは、植物状態の患者や、寝たきりの患者にも使われている医療技術の一つだ。
また、昔の人工冬眠は、液体窒素などを使って肉体を凍らせる方法をとる物もあったが、近年は熊などの冬眠の様に、代謝機能を落とす物が実用化されている。
病人には使えず、冬眠期間も短いが、宇宙開発の為に作られたと言えば合点はいく。
一時期は、かなりシンプルにまでなった宇宙服だが、人工冬眠システムが導入されてから、各部にいろいろと付いている。
宇宙作業用と、人工冬眠用の二つを用意する余裕は、宇宙には無い。
宇宙服を着込んだ彼女は、更衣室からテストルームへと向かい、テスト用のカプセルへと入った。
宇宙服の各所に付いているコネクターを箱の内側に接続し、身体を動かして運動に支障がないのを確認する。
続いて、ルーシーの名が書かれた胎盤と呼ばれる機械を箱の内側にセットして、宇宙服の左手首にケーブルを繋ぐ。
このプラセンタには、冬眠時のルーシーの個体情報が記録され、薬剤や酸素量、栄養バランスなどを調整する機材だ。
企画統一された冬眠カプセルと、企画統一されていない個人の中継調整役を果たしている。
通常の宇宙服には必要ないが、冬眠時にのみ必要とされる物だ。
動力も内蔵し、スタンドアローンでの運用が可能な冬眠カプセルの中で、更に宇宙服を着ているのは、事故などの外的要因でカプセルが壊れた時に、即死しない為の安全処置だ。
宇宙服には、液体酸素を使ったボンベと、炭酸ガスを吸着させて丸二日の呼吸を可能にさせるリブリーザと言う装置が内蔵されている。
カプセルに異常が生じた時には、先のプラセンタが各種の作業と覚醒作業を行ない、脱出などの生命維持を助ける様になっている。
ルーシーは、カプセル内の確認ランプ四つがグリーンになっているのを確認した。
「準備は良い様ですね?そちらのタイミングで注水して下さい」
宇宙服内に、医者の声が響く。
ルーシーは頷いて、カプセルの内側にある注排水ボタンを押す。
宇宙服の内部に液体が流れ込むが、ルーシーは呼吸用のマスクをしているので、潜水訓練と同じように苦しくもなく、慌てる事もない。
ただ、自分の呼吸音が、やたらと響くだけだ。
この液体は、衝撃吸収と共に、体温の調整や洗浄に役立つ物だ。
五つ目の確認ランプがグリーンになり、パワーアシストがテスト運行を行ない始める。
六つ目の確認ランプがグリーンになると、ルーシーの意識は静かに夢の中へと沈んでいった。
医療ブロックの別室で、この様子を見ていたライナスとフラクリンは、ルーシーが眠りについたのを見て、モニターを切った。
「本当に、彼女の事は良いんだな?」
「くどいぞ、ライナス。やっぱり、パートナーは同じ黒人の方が良い」
「それって、一つの人種差別だぞ、フランク」
「昔は、けっこう騒がれたが、実質には人種差別を騒いでいる奴が、一番に人種差別しているんだよ。個々の利益問題を人種差別にすり替えていただけさ」
「私の口からは、コメント出来ないな」
「ライナスは国単位で動かす人間だからな」
ライナスは、一つ咳払いをして、フラクリンの方へ向き直した。
「じゃあ、以後は必要以上にルーシーには手を出すなよ」
「約束するよ。ライナス」
二人は苦笑いをしながら、特別に用意されたモニタールームを後にした。