2: 初コンタクト
この今までに経験のない、ありえない事態に。
恐怖はないのかといえば嘘になる。好きな男に組み敷かれているのならば話は別だけど、今生の中で未だそんな目にあったことはなかった。
今の自分に歳相応の恋愛感情を抱いてくれる人なんて皆無に等しい。自分が一番良く分かっている。まして今は弟の男子学生の制服を着ている、つまり男装している状態だ。双子の弟と入れ替わっている理由は、あくまで趣味で。
でも。頭上の主は数分経ってもこれといった動きがないのだ。
相手は下から聞こえる上級生の声と気配に気を張っているのか、身動きすらしていない。
フェニオス(仮)が自身の俯せに近い姿勢の下に居る事さえ気にしていないようだった。
自分をすっぽりと覆えるほどの体格の持ち主を相手に暴れてみても無駄だろうし、相手は自分を意識していないのは嫌でも読み取れた。かえって落ち着いてくる。無駄にいろいろな経験を積んできたオバサンだった頃の記憶を持っていない、こういう時は相手の出方を待った方がいいだろう。こちとら何人かの男と恋愛経験ある元オバサンだ、余裕余裕。
確かに見た目すごく全体的にちっちゃいけど! めちゃくちゃ16歳とは思えないほど背が低く、成育も遅れているけれども!
この人が男を組み敷く趣味の奴かとも思ったが、そうでもなさそうだし。小さい子が好きだという感じもしない。
こうなってくるとだんだんと恐怖心が溶けてなくなってしまうよなぁ。
それにしても、今視界を阻むのは筋肉がしっかりと付いた胸板。鼻先10センチほどしか離れていない。
近い鼻先が彼が纏っている微かな香りを拾い出す。香ってくるのはスパイシーさと甘さが程よく合わさったもの。香水かお香なのか? 少なくともこの学校ではそれなりの裕福層でなければ使わなそうな香りだ。今まで嗅いだ事のないものだから、知り合いという可能性は減ったな。
知り合いにこんな立派な体格の者はいりゃしないけど。
何より。
いきなり振ってわいたとしか言いようもない。
人が近づいてくる気配はこれっぽっちもしなかったのだから。滅多に人の立ち入らない屋上、しかも入口はそうはないし、さっきはいきなり空から現れたように感じたんだけど……。
さすがに休み時間も終わりそうだし、こいつから抜け出したいし。さっきから微動だにしない奴に何か言ってやろうと「あ~……」と声を出そうとしたら。
「……静かに」
と、頭上から思ったより優しい声が響いてきた。高すぎず低すぎず素敵なバリトンボイス!
某有名正義の味方初代ライダーさんの声にも似ている気がする。あれを若くしたらこんな感じかもしれん。
思わず顎を上げて視線を上に移動させると、片手人差し指を口元に当ててこちらを見ている顔をガン見する事になった。
いかせん逆光ではっきりと顔は見えない。でも絶対イケメンだと第六感センサーは感じ取った!
鼻梁が高いのと、掘りがしっかりしてそうだとも思った。
シーッの可愛らしいポーズからも分かるけど、別段こっちの事を忘れていたとか無視していたわけではないらしい。
「おい、どうするよ?」
「先生に報告はしないとまずいだろう?」
「でも、今まで見た事もない奴だったんだ。詳しくって聴かれても、もう姿形なんて覚えてもいないぜ」
「俺も」
「ひとまず、当番の続きやりながら考えようぜ」
「あんなちっこいんだ、何もできないさ。どうせ野犬とかに襲われて終わりだよ」
「それもそうだな」
校舎の側まで来ていたのだろう。
小型魔獣の世話当番の先輩達が大きな声で話しながら、また来た方向へと戻っていくようだ。森を進む音が遠ざかって行く。
フェニオス(仮)は聞き耳をやめた。
でも肝心の視界が戻る様子がない。しびれを切らして小さい声で抗議する。
「おい! いい加減にどいてくれないかな」
「…………」
まだ警戒しているのか?
彼は顔を上げて様子を伺っているようだ。
ため息をつきつつ、香りにも慣れてきて結構好きなブレンドの香だと鼻をクンクンとしていると。
開けたシャツの隙間から、ヌッと小さなモノが顔を出してきた。
今度こそ驚いて声を上げそうになるも、フェニオス(仮)の顔面にボテッとそれは落ちてきた。
「あぁ、すまない」
やっと男が起き上がった気配がするが、顔面に生暖かいもふもふなモノが乗っかっていて眼を開けられそうにもない。なんじゃこれは? という疑問符が頭を巡って、両手を胸元で震わせていると。
そっとそれがフェニオス(仮)の顔からどかされた。
ガバリと半身を起こして(眩暈が消えたのは助かったな)と思いつつ顔を両手で撫でる。別段変わったところはなさそうで良かった。
安心してから視線を脇にやると。
正直変な組み合わせだなとフェニオス(仮)は思った。
脇でチョコンと胡座をかいて両手でもこもこの白い毛玉らしきモノを持っている美丈夫がいる。褐色の肌にちょっと長めで所々跳ねている射干玉色の髪の毛。思ったより幼さも含んだ顔だがやはりイケメンだ。その瞳の色は……。
思わず自分の顔を相手のそれに目一杯近づけた。
「……ほ~~。綺麗な朱金色の瞳。朱色に虹彩は金色かぁ。虹彩色が混ざり合う? あんた魔力持ち?」
がっしりとした肩に手をかけて、まじまじと瞳の色を見つめてしまう。今まで見た事もない赤味かかった瞳の色。明るい朱色に金色の虹彩があるが、その光が自分で瞬くように煌めいて見える。まるでファイアーオパールとか、スタールビーみたいだと美しさに見入ってしまう。
フェニオス(仮)が好奇心いっぱいの瞳をした顔を、今さっきまで自分を押し倒すような形でいた不埒な相手の瞳に数センチの近さで迫っていた。その状態の変化に驚いたように一瞬だけ彼の瞳が見開いたけど、すぐに戻るとさっと顔をそらした。
心なしか頬が紅い気もする。
やはり掘りが深い造形な上に、鼻も高い。切れ長の目元も涼しげで良い男だわ~。フェニオス(仮)がイケメンは何をしても許される持論に心の中で頷いていると、彼の引き結んでいた唇が微かに開いて言葉を紡いだ。
「こ……」
「こ?」
「怖く、ないか?」
耳にとっても良いお声で今さら何言ってんだ、こいつ?
「あのなぁ。ついさっきまで同性に押し倒されたみたいになっていて、挙句の果てに変な物顔に乗っけられて、怖いもくそもないだろうがぁ!」
ふんと鼻息荒くフェニオス(仮)は勢いよく立ち上がり、腰に手を当てながらふんぞり返るように見下ろしながらやっと文句を言ってやった。ざまあみろだ。
彼は依然として表情は変わって見えなかったが、ちょっと不思議そうな不審そうなオーラを醸し出している。
「……なんで、お前は、ここに、居る?」
表情を1ミリも変えないまま、どちらかと言えば無愛想に聴いてきた。
見慣れない顔だし、よく制服を看れば左腕に着いている学年を表すバッジは1年の赤色だ。こんなにでかく育った男は自分の後輩だったのか!
身長は余裕の180センチは越えているだろう。
今年上がってきたのか移動してきたかは知らないけど、自分の事を知らないようだった。この学校ではそれなりに分かっている人は多いのに。
「僕は、この通りちっこくって小学部に通っていてもおかしくなく見えるだろうけど、これでもれっきとしたお前の先輩、高等科の2年生だ。病気で成長がすごく遅いだけで……中身はちゃんと年相応だからね」
「いや、そっちの事でなくて……」
「……どっちの事でもいいけどさ。手元のそれ、怪我してない?」
二人の目線が大きな両手に挟まれた白い毛玉に落とされる。
毛玉が微かに震えていて、ちょこっとだけ毛先から出ている前足、そこからポタポタ赤い滴が落ちている。
「やはり俺の回復魔術は弱い」
ぼそりと呟いた彼は毛玉を優しく撫でている。
「もしかして、その子がさっき下で先輩達が言っていた小型の魔獣?」
確認したからどうなるでもなかったが、フェニオス(仮)の言葉に彼は静かに頷いた。じっと見つめて経緯を求めるように顔を近付けると、彼はため息を一つつくとボソッと話し出した。
「森の中が一番落ち着く。魔獣も嫌いじゃない。休み時間にはいつも様子を見に行くから……」
そうしたら今まで見たことも無い白い毛むくじゃらが餌を食べていた。他の元から居た小型魔獣達も普通にそれを許している。それこそ譲ってまで餌を食べさせて居る感じだった。
すぐに血の匂いを感じた。怪我を負っているのに襲われていないのも不思議だった。
そこに係の先輩達が現れた。自分は木の上に移動して(ちょっと待て、そんな簡単に出来るのか? と突っ込みたいのを一先ず我慢するフェニオス(仮))様子を見守る。
白い毛玉は結構目立った。
すぐに見つかって捕まえようとする先輩達に追い回される事になる。すばしっこく上手く交わして逃げ回るも怪我のせいか動きが鈍って来る……のを見過ごせなくて。
「先輩達の目を眩ませてこいつを掴んで木の上に戻った。簡単な治癒魔術をかけようとしたけど、こいつ暴れるから中途半端なまま服の中に突っ込んだ。そして……君を下敷きにしてしまっていた、すまない」
「しれっと謝ってくれてますけど、端折ってるよね? あんた、空飛べるの? ジャンプ能力持ち? 魔術でブーストしてんの?」
思いつく限りの方法をいろいろと聴きながらまた詰め寄るが、彼の表情は別段変わらないように見える。見えるけれど瞳の中の揺らめきが増えたので、内心知られたくはない、むしろ突っ込まれたくないって処なのかもしれない。息子の嘘を見破るとかよくやっていた身の上としては、何となく判るんだよねぇ。
「まぁいいや。それより、その子の傷を治しましょう」
フェニオス(仮)は内心(しめた!)と思った。せっかく作った『回復魔術付加宝石』それだと長いので通称『回復石』を使ってみるチャンスだ。
「……すごく不安を持っているぞ、コイツ」
彼の視線が毛玉を見つめている。毛玉の魔獣もフェニオス(仮)の嬉々とした変化に怯えているようだ。
「あんた魔獣と意思疎通できるタイプなんだね。……精霊魔法の系統持ち?」
何気ないフェニオス(仮)の言葉に彼は一瞬息をのんだ気がする。毛玉の前足をそっと指先で摘まむと痛みと警戒から「ぴゃ~」という気の抜けた声を上げたが、大きい手にしっかりと抑えられていて身動き取れずフェニオス(仮)のされるがままになる。両前足がさっくりと切れている。罠にかかったのか、鎌鼬的な攻撃を受けたのか。あまりにも綺麗な傷口だ。
正直掠り傷くらいしか見た事もないから、多めに出てくる真っ赤な血には少しゾッとするけど、ちゃんと検証するのなら最初の状態を確認するのは大事な事だった。
フェニオス(仮)が制服のポケットから石を一個取り出す。
「それは……治癒の魔力が込められている」
「一目見て分かるんだ。やっぱりあんた魔力強いね。さっき精霊系って言ったのは魔獣とか動物と意思疎通できる猛獣使いとかは、大概精霊魔法の能力が少なからず備わっているって母さんに聞いたことあったんだよね」
「君の、母君」
「そう、ほとんど傭兵の仕事で家にいないけどね」
フェニオス(仮)の母親は剣士であり、かなりの腕前だ。そこいらの奴らなら一人でけちょんけちょんに出来る。兄も母親と一緒に今は傭兵家業に身を置いている。
つうか、「母君」発言からして、こいつやっぱ良い所の出身だ。庶民的な匂い全然しないもんな。
「その子をちゃんと抑えていてね。後、あんた南の国出身かそっちの血筋持ちだろ? だったら精霊魔法発祥の地なんだから、そういう魔力持ちって思われるの当然じゃん?」
『回復石』を使う用意をしながら何気なく会話を続けていると、彼は訝しげな表情を強くしていた。なんか間違った事でも口にしたかな? とちょっと喋りすぎたかとフェニオス(仮)が思っていると……。
「……君のその情報、あまり外で口にしない方がいい。魔術に、その系統、今あまり公にされないようになっている」
あぁ、なるほどね。フェニオス(仮)は彼の警戒の意味を理解した。
魔術歴史書によれば。
数百年前に精霊魔法は魔術に劣る、原初的信仰から発生したものでしかなく、それを扱える者は皆文明から離れた場所で過ごすから、学術的価値はない……。
ようは、『田舎者のくせに生意気なんだよ。魔法使い的な生まれ持っての能力持ちだなんて、そんなもん魔術の勉強してもっと素晴らしいもの作ってきたこっちと比べものにもならないもんね!』っていう、負け惜しみ的な情けない対抗意識からくる競争からの結果論である。
魔術もある程度の素養がないと勉強しても使えないものだけど、南の国の人とかは結構普通に精霊魔法を使える人がいるらしい。生活の中で精霊と意思をつないでその能力を借りれるっていう。
それが面白くないという子供じみた浅慮からの論争が起こった。
もちろん、精霊魔法が使えるから魔力も高いのだけれども、それを魔術にも使える物かと言うとそうでもなくって。シャーマン的な能力であるため、土地とかの風水的な条件が必要になったりするため、どこででも力を発揮できないなど問題点も多かった。
そういったことから、両者でいがみ合うことが長く続いていた。
結果的に南の国はあまり中央国に干渉しなくなり、もちろん中央国も疎遠になっていった。
でも中央国を護る国の一つであるし、、皇族に連なる者が治める国でもある為仲を戻そうとの努力を他の国も力添えの元行われ、今は何とか国交も戻りつつあるはず。
ここで不文律として魔術系統、並びに出身国に対しての差別等はご法度になったのである。
実際血の混じりは普通であり、肌の色も髪の色も当然瞳の色もこだわりなく、いろいろな人種が住んでいる国なのだ。それこそ獣人も少数存在しているし、交流もある。
だからこそ本人から告げられる出身地や魔力の系統など以外は、突っ込みを入れるのはタブーだし、噂話も基本してはいけないとなっている。小さい時から注意されている事なので誰もが守っている、法律に近いものになっていた。実際警察機構に撮っ捕まることもあるのだから。
彼の忠告は正しい。
「ごめんなさい。ついはしゃいじゃって、ほんとごめんね」
フェニオス(仮)は素直に謝った。実際二度と顔を合わさないと言われてもおかしくないところだ。母や白いあいつに聞いていた話に近しい人を初めて目の前にして、どうしてもテンション上がったまま話を続けてしまっていた。二人っきり(プラス一匹)だから不文律を忘れてしまっていたのだ。
「別に、もういい。……お前になら、いい」
ふっと。
彼の口元が一瞬だけ微笑んだように見えた。
……イケメンが微笑むと破壊力高いな~。
「そ、そか。ありがとう」
思わずフェニオス(仮)は感謝してお礼を言うと、何となく和んだ空気が二人の間に流れ出した。
「くぴぷ~~~」
その間を破るように魔獣が苦情の声を上げる。
「あ、悪いわるい。じゃあ、いくよ」
フェニオス(仮)は『回復石』を右手に持つと魔獣の両前足を左手で支えて石を近づけた。
「ヒール!」
解除の言葉を唱えると、石はカシャン! と小さな音を上げて砕け、黄緑色の光の粒子がキラキラと輝きながら、左手で支えている毛玉の両前足の傷に流れ込んでいく。
「おおっ!!」
フェニオス(仮)は感動の声を上げてしまった。