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道徳について

作者: 夏川安

このサイトで、道徳について書かれてあるものを読んだ。

要約すると、道徳は人間のご都合主義だ、というものであった。


専門的に勉強してきた身として論じたい。


人間を殺めてはいけない。

動物を食すことのみにおいて殺めていい。


では、人間を食すために人間を殺めるのはどうか?

これはダメである。


結局、道徳というのはご都合主義なのだ。


と、これが私が読んだ小説(?)の主張であった。


私は大学時代に教育学および教育哲学を専攻としており、

無理矢理に教科で例えるのであれば「道徳」である。

このような立場から、一筆させていただく。

もちろん可謬性があることは否定できないが、それでもどうか

目を通していただきたいと思う。


そもそも道徳とは何か?

これに即座に答えることができる人はどのくらいいるだろうか。


私なりに答えを出すなら、それは

「〈自由の相互承認〉の感度を高めるものである」と答える。


〈自由の相互承認〉とは何か。

それは字のごとく、〈自分と他者、お互いにお互いの自由を認め合いましょう〉ということだ。


この思想は、ヘーゲルの『精神現象学』からきているものである。

この思想に至るまでにヘーゲルは、弁証法を通して見事なロジックを

打ち立てるが、ここでは割愛する。


ヘーゲルによると、この〈自由の相互承認〉という精神が

人間の良心であり、絶対知であるという。すなわち、

人間の意識の最高峰であると言っているのだ。


ここで注意しなければならないのが、〈自由〉についてだ。

私達は〈自由〉と聞くと、どうしても自分勝手、あるいは自己中心的というものに

結びつけてしまう。しかし、ここでいう〈自由〉とはそのような陳腐なものではない。


〈自由〉とは、〈生きたいように生きる〉ことで、かつ、幸福感が伴っている状態のことをいう。


例えば、金儲けのために詐欺をはたらく、というのは

生きたいように生きれているとはいえないだろう。

そこには、法に怯えたり、罪悪感という縛りが働いたりする。


また、軽いところでは、ジュースが好きでジュースしか飲まない人がいたとする。

確かに、ジュースを飲むその瞬間は幸せかもしれないが、

その繰り返しの結果、糖尿病を患ったとする。

これは自由といえるのか、いや、不自由であろう。


このように〈自由〉とは、やりたい放題にやるということではない。

一見して自由に見えても、その自由は、また別の不自由を生み出してしまう

見せかけの自由なのである。


では、どのようにしたら本当の〈自由〉を手に入れることができるか。

それが〈相互承認〉である。


他者の〈生きたいように生きる〉を認めると同時に

自分自身も他者から認めてもらう。

つまりそれは、他者の自由を阻害しない限りにおいて何をしても構わない、

ということを認め合うということである。


この原理に従うとどうであろうか。

人を殺めるというのは、その人の〈自由〉を奪っており阻害している。

また同時にその行為は、他の人からするととうてい認めてもらえない行為である。

つまり、自身の自由を他者から認めてもらえないという状況を招くのだ。


これでは、殺められた人はもちろん、自身も幸福になることは、

生きたいように生きることはできなくなってしまう。

だから、人を殺めてはいけないのだ。


では、最初に戻って動物はどうか。

動物にも生命があるのに、それを人間の都合で奪っていいのか。

もっともな意見である。

しかしこれは、根本が間違っている。

それは、人間とその他動物を一括りに同じだという認識である。


生きるために動物を殺すことは仕方のないことだと区切りをつける必要がある。

しかし、これでは動物に自由がないではないか、そう考える人ももちろんいる。


だから人間は、「食用」以外で無差別に、

自分の快楽だけのために動物を殺すことを禁じたのである。

いってしまえば、人間の自由のために「最低限」の動物の自由を奪うのは

自然界でいえば仕方のないことである。しかしだからといって、節度なく

動物を殺すのはおかしいと、人間は考えたのである。


なぜ、そのように考えることができたか。

それは、人間に〈自由の相互承認〉という意識があるからである。


しかしながら、誕生した瞬間からそのような意識を持っているわけではない。

意識も体と同じで、成長していくものなのである。


よって、意識も大人たちの手によって育てなければならない。

どうやって育てるか。

道徳である。


したがって、繰り返すが私は道徳をこのように解釈する。

「〈自由の相互承認〉の感度を高めるものである」と。





専門的な話になるが、道徳が教科化される。

これには疑問を感じる方も多くいらっしゃるだろう。

本来、道徳とは、授業として扱うものではなく

生活の中に溶け込むようにして、自然的に存在していなくてはならない。


上記で私が言っている道徳は、学校で、一斉授業で、といった形の道徳を

焦点化して言っているのではないのだ。


本来は、生活を通して学ばなくてはいけないものなのである。

これは、ルソーの『エミール』から論じられる。


また、段階発生という観点からは、道徳はコールバーグの論が群を抜いている。

ヘーゲルとの照らし合わせで、道徳はさらに深いものになる。

また、ルソーの『社会契約論』でも同じようなことが書かれてある。


私は端的に答えを出してしまったが、道徳とは学べばかなり深いものなのだ。


先頭にあったような道徳に対する憤りや不満は、私は発生してもおかしくないと

思っている。理由は、今の学校体制と、教師自身の道徳に対する深い知識の不十分さである。


立場上、学校の教師と話をするのも少なくはないが、

「道徳は何か?」について答えを出せない教師は多くいた。

また、「マナーである」「思いやりである」といった陳腐な回答しかできない

教師もいた。これが現状である。


そういった意味では、道徳の教科化には多少なりとも意味はある。

これを機に、もう一度「道徳」について考えてほしい。



日本の教育改革は急がなくてはならない。

従来の一斉授業や担任制、学年制といった既存システムに

いつまで縛られているのか。


諸外国から学べという。

何を学んでいるのか。


しかしながら、日本でも「きのくに子どもの村学園」のような私塾もある。

希望はあるのだ。もう一度考えよ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 「道徳」というものを「このように」教えているのだな、と知ることができました。 [気になる点] 「ご都合主義」であれば、それ自体をもって何か支障が生じるのでしょうか? [一言] はじめま…
[良い点]  恥ずかしながら私は大学四年間を通して心理学を学んだものの、道徳とは何ぞやという問いかけに対してすぐに提示できる回答を持ち合わせていません。  そんな門外漢に等しい体たらくの私でも非常にわ…
[一言] 道徳がご都合主義というのは酷い解釈とは思いますが、 自由の相互承認は倫理の役割なのでは? と思ってしまいます。 道徳は人間の個や集団の環境を整える規律と考えるなら、学校で教育するものと考え…
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