(6)李子とフルムーン2
さやの携帯が失くなったのは、とある授業のテスト返し中だった。
クラスのムードメーカー、高山純平は、いつも答案用紙を見ながら、仲のいい山本浩太の元へ全力で駆け寄る。テスト返しの名物にもなっているほどだ。これを利用した。
純平が浩太の席へと通る道の間隔を、あらかじめほかの席と席との間隔より広めにしておく。ただ一ヶ所を除いて。純平が通るだろう道の途中にさやの席がある。浩太の一つ前の席と、その左隣のさやの席の間隔だけは、少しだけ狭くしておいた。
李子の名前が呼ばれ、続いて純平の名前が呼ばれる。彼は呼ばれる前から早めに待機し、さやの横を通り過ぎたのは純平が先だった。答案用紙を見ながら浩太ー、と走る純平は、案の定机の角に体をぶつけた。その拍子に、浩太の前の席に座る女子のペンケースの中身を華麗にぶちまけた。
「わっ、悪い!」
慌てて拾う純平が周囲の視線を集めているうちに、李子は答案用紙を落としたフリをして、さやの鞄から彼女の携帯を抜き取った。そして答案用紙でそれを隠しながら、何食わぬ顔で席に戻った。
普段から影の薄い李子が何かしても、クラスで目立つ純平がやらかした直後では、誰も気にならない――いや、できない。笑い声に包まれたチャックの音にも、李子の鞄にしまわれたさやの携帯にも。
誰も、気づかない。
あとは朱音の下駄箱にでも、さやの携帯を隠しておけばよい。
帰りは朱音が持ち帰り、メールの送信履歴から、さやがいたずらメールを送った相手に謝罪のメールを送った。
翌日の朝、朱音と北坂駅で合流した李子はさやの携帯を受け取ると、さやの背後に回って携帯を返却した。絶妙なタイミングと滑らかな手つきにより、さやに違和感を与えることなく携帯は彼女の鞄に収まったのだ。いつも彼女がしているように、キーホルダー部分のみを鞄から出した状態で。
クラスの視線を一気に集めたさやは、すっかり混乱していた。
「じゃあメール見せて」
いたずらメールで北坂駅に呼び出された萩原雄一郎の言葉に、嫌な予感がした。
「もぉー、何やってんのよ、さや。とっとと見せちゃいなよ」
さやと仲のいいグループのうちの一人が、さやの携帯を奪って操作を始めた。
「ちょっ……」
何もないはずなのに、祈らずにはいられなかった。
彼女はさやの携帯を少しいじり、ほらね、と雄一郎に見せる。彼も少しの間操作して、送信ボックスにもごみ箱にも、問題のメールがないことを確認した。
消せる消せないはともかく、とりあえずさやは朱音の携帯を盗んだ犯人だと非難されずに済んだ。
申し訳なさそうにする雄一郎から携帯を受け取ると、メールを受信していたことに気がつく。知らないアドレスだった。
『貴女の携帯、確かに拝借しました。
謝らない人間には、おしおきしなくちゃね!
怪盗フルムーン』
こうして怪盗フルムーンは誕生した。名前は、朱音の「満永」と李子の「鷹月」から一文字ずつ取って満月、それを英語にする。朱音が考えてくれたものだ。
「それにしてもすごいよ李子! よくバレなかったね」
「ね、本当に」
李子自身も改めて驚いた。昔からビーズを使った手芸など細かい作業が得意で、手先が器用なのは自覚していたけれど。
さやの一件が片づいたこの日、授業終わりに二人はこの前のカフェに来ていた。お店の名前は「カフェ三日月」。
「ちょっと運命だよね。満月と三日月って」
「もしかして朱音、これと掛けたの?」
「違う違う! 偶然だよ」
二人は仲良く店の中へ入っていった。
「いらっしゃいませ……あら」
カフェの女性に挨拶をして、李子たちはこの前と同じ席に腰を下ろした。
「この前の作戦は成功した?」
「はいっ! もう李子がすごかったんですよ」
実はあの作戦は、ここで考えたものだった。カフェのマスターである藤光祐が推理小説の類が大好きで、立案に協力してくれた。
朱音は自慢げに一連の流れを報告した。光祐の妻だという琴乃は大げさなくらい褒めてくれた。
ここはとても居心地がよく、李子は朱音とだけでなく、一人でも来るようになった。
朱音という親友、落ち着く場所、楽しい学生生活、怪盗フルムーンという名前、そして一歩大きく踏み出せた自分。李子はたくさんのものを手に入れた。
あの時、朱音の携帯を探すと声をかけてよかった。一人で抱え込もうとしていた朱音に、歩み寄ってよかった。悪びれないさやに対して怒れてよかった。
李子がフルムーンとしてシャーペンの件で返事をしてから三日後、依頼者から了解のメッセージが届いた。どうやらスマートフォンの調子が悪く、メッセージの送受信ができなかったようだ。
李子はシャーペンの入手方法と、依頼者に渡す方法を提示した。
今回の作戦は、シャーペンの持ち主が飲食店などでテスト勉強をしているところを狙う。
明日は彼がハンバーガーなどのファストフードで人気なムックで勉強している時間帯に、李子のバイトが入っているため、結構は明後日にした。李子は彼女が欲しがっているシャーペンと同じものを購入し、来る日に備えた。
そして当日。平日だというのにそこそこ賑わいを見せるショッピングモールの一角に位置するムックに入ると、標的は同じ制服を着た男子高校生と向かい合ってペンを動かしていた。平日夕飯時のこの時間帯は学校帰りの学生などが多く利用する。李子はドリンクを注文して、スマートフォンに転送した画像を確認しながら、学生の間をすり抜ける。目的の人物を捕捉すると、一つ奥の席に腰を下ろした。
情報どおり、彼は四人掛けのテーブルに教科書やノートを広げ、友達らしき男の子とテスト勉強をしている。
一度、彼がシャーペンを置いたタイミングにでもぶつかって、落としたシャーペンを拾うフリをしてすり替えようと試みる李子にとって、今の状況は好都合だった――が、一気に窮地に立たされる。
標的の友達が予定があるからと言って、テーブルの上の物を片づけ始めた。しかも、彼も一緒に帰ってしまおうとしている。
それを見た李子は慌てて席を立った。そして席を立ち上がった彼に勢いよくぶつかった。チャックが開いたままの彼の鞄の中身が床に散乱した。
「ご、ごめんなさい」
李子はさりげなくペンケースを拾い、中のシャーペンを自分が買った物と交換した。
彼にぺこりと頭を下げ、もう一度謝罪すると、彼は爽やかに大丈夫ですよ、と言って笑ってくれた。
そして小走りでムックをあとにした。李子は痛む小指をさすりながらしばらく歩いた。実は鞄のベルトに小指を引っ掛けたので、その時に金具に思いっきり小指の爪が当たったのだ。
すり替えたシャーペンは、この近くの駅のコインロッカーに入れておいて、あとで依頼者が取りに来る予定だ。指定したロッカーを開けると、中には白い紙があり、そこに依頼主からのお礼が書かれていた。
李子はその紙を受け取り、シャーペンを置いた。朱音の案で作成した、オリジナルのイラストが描かれた黄色いカードを添えて。怪盗フルムーンの文字と犬のような、猫のようなイラスト。これを見ると、イラストを決める際、結局最後までお互いに譲らなかったことを思い出す。朱音は犬を、李子は猫を推したのだが。
今回の依頼は恋の後押し。成功することを祈りながら、李子はいつもより視線を上げて歩いた。しかし、雑貨屋さんに置かれた三日月型のクッションを見た瞬間、ふとあの暗号が頭をよぎった。
まずい。解けていない。
この日の夜も解けなかったが、翌日バイトの休憩中、思わぬ助っ人が現れることになる。