序章 ご依頼承ります
2019年7月1日より、書籍が発売されました。
タイトルが「私の×××、盗んでください」より「怪盗フルムーン~私の×××、盗んでください~」に変更しております。
灰色に淀んだ空。木々に囲まれているせいか、都会の喧騒のかわりに聞こえてくるのは葉の擦れる音。さらに先ほどからパラパラと雨音が加わり、重奏になる。
しかしそんなものは、コントロールされたこの環境下では何の意味もなかった。興味のないフリをして目を逸らし、今日も一日を過ごす。
どんよりとした空を背に、鷹月李子はパソコンに表示された画面を見ていた。
『好きな人のシャーペンが欲しいです! それを使って受験したくて……』
何とも可愛らしい頼みだ。ぜひ叶えてあげたいなと思いながら、次の依頼に目を移した。
『会社の鍵忘れちゃった! 明日は朝一番で会社に入らなきゃいけないのに……。セキュリティ会社に連絡したら上司にバレちゃうし、開けるだけでいいから、お願いできない?』
李子に寄せられる依頼ならではの悩みだ。確かにセキュリティ会社に連絡すれば、その一件はこの人の胸の内に留めることはできないだろう。
このように、怪盗フルムーンの元には「困っているけれど、ほかには頼めないという依頼」が持ち込まれる。フルムーンの手で、何とか事を大きくすることなく解決できないか。そう願う人たちはフルムーンを頼る。彼女は無償でそれを叶えるボランティアのようなものだ。もちろん依頼を受ける上で、その内容に問題がないかは確認する。
怪盗フルムーンの正体が李子であるとバレないように、基本的には依頼者と顔を合わせることはないが、たまに対面しないと受けられない依頼がある。そういった場合、フルムーンについて関与しない、他人に漏らさないということを約束させている。
李子はパソコンのキーボードを高速でタイプした。
『ご依頼承ります』
二つ目の依頼に条件をつけ加えて送信すると、すぐに返信がきた。……相当困っているらしい。
『構いません! よろしくお願いします!』
文面から、ぼんやりと若いサラリーマンをイメージする。体をくの時に折って頭を下げる姿が想像できて、思わず面白くなってしまう。
その後のやり取りで詳細を決め終わると、ふうと一息つく。一つ目の依頼についてはいい案が思いつかないので、時間をかけて考えることにした。
朝起きて朝食を食べて、依頼をチェックするのが李子の日課になっている。横にはお決まりの緑茶。
六月も中盤に差しかかり、梅雨前線の影響でこの頃の天気は不安定だ。今日の天気予報も曇り時々雨で、窓を見ると早速降っているのが確認できる。
雨空をぼんやり見つめていると、先ほどのシャーペンの依頼についての解決策を思いついた。
『ご依頼承ります』
一度に二件の依頼は久しぶりだが、こなすのに問題はない。
依頼を受けた日は返信がないかこまめにチェックするのだが、この日はシャーペンの件に関しては返信はなかった。少し拍子抜けしてしまう。
何にせよ、作業は明日の早朝に行うので、李子はいつもより早く布団に入った。
翌朝、メッセージにあった会社の住所へと向かった。今日も曇っていて今にも降り出しそうな様子でも、李子の足取りは軽い。
待ち合わせの時間より早めに会社に着くと、門の前に立つスーツ姿の男性を視認する。かなり若く見える。警察関係者やセキュリティ会社の人という感じはしないが、少しだけ男性を観察してから声をかけた。
「おはようございます」
猫耳のついた黒いパーカーに黒いスキニーパンツ、スニーカー。そして黒いキャップを被り、三つ編み。それが怪盗フルムーンとしてのスタイルだ。
怪盗だからと言って、何もフルムーンだと特定できるような衣装を着るわけではない。どこぞの有名な怪盗のような特別な格好を想像している人には申し訳ないが。ただ一つ、李子としては、普段は身につけることのない黒縁の伊達メガネをかける。フレームの大きいものは可愛く見えて、別人になれるような気がしているのだ。今回は顔バレを防ぐため、マスクも着用した。
声をかけられた男性は、李子を見てきょとんとしている。一瞬状況が理解できていないようだった――が、ワンテンポ遅れて反応が返ってくる。
「あっ、君が怪盗――」
「しっ!」
鍵を忘れて怪盗フルムーンに頼んだ時の文面や、あっさりと怪盗フルムーンの名前を出そうとするあたり、彼は相当抜けているのだろうと思う。李子は項垂れそうになるのを堪えて、首の後ろを掻いた。
李子がそんなことを思っているなんて露知らず、彼はこちらです、と変わらぬ調子で李子を裏手に案内した。
鍵を開ける場所によっては不法侵入になってしまうし、作業に問題はなくとも、そもそも鍵を開けるだけで住居侵入の未遂だ。そうならないためには、これは「合意」であることと、「フルムーンがピッキングを行った」という事実を、この人の胸に納めてもらうことが必要だ。
この会社は、表の通りから入った道を少し行くと見えてくる。少なくともここ数年で建てられたような、真新しさは感じられない。
裏口の防犯カメラは建物内にあるようで、フルムーンの姿が映像に残ることはない。そのことを改めて確認し、ピッキング道具ではなく、ヘアピンを使って作業を始める。
「しっかし、本当に女の子が来るとは……」
怪盗フルムーンが女の子であることは、実際に会って依頼を受けたことがある人しか知らないはずだ。けれど名前の雰囲気から、若い女性であるというイメージを持つ人が多いらしい。それは李子本人も認識済みだ。
依頼者の男性がフルムーンは普段どんな子なんだろうな、と妄想を巡らしているうちに、ガチャッと音がした。
「はい、開きました」
「えっ? もう?」
フルムーンはものの数分でドアノブの解錠をやってみせた。彼は驚いて目を真ん丸にしている。
鍵の形状について男性にあらかじめ聞いておいたところ、「平らな面がでこぼこしているやつ」とあった。つまり、ディンプルシリンダーと呼ばれるものだ。このタイプの鍵は、鍵穴に差し込む部分の側面がでこぼこしているだけでなく、平面にいくつかの丸い窪みがある。
従来の鍵にはディスクシリンダー、ピンタンブラーというものがある。この二つは鍵穴に差し込む部分の側面がでこぼこしていて、住宅の鍵として広く普及しているタイプだ。
しかし、その二つでは防犯性が低く、ピッキングも容易であるために、より複雑なディンプルシリンダーが使用され始めている。
それをパッと見て高校生くらいの女の子が、専用の道具を使わずに、ヘアピンだけでピッキングを行ってしまう。彼にだって、このタイプの鍵穴のピッキングがそれほど容易でないことくらい分かっている。
「いやー、本当に助かった! ありがとうございます」
お礼を言って何度も頭を下げる姿は、取り引き先でミスをしてしまい、ひたすら謝るそれだった。
フルムーンは報酬と呼ばれる類の物は受け取らない主義だ。何とか渡そうと必死な彼には申し訳ないが、李子も何とか丁重にお断りし、帰路につく。
足取りは来る時よりもさらに軽く、気づけば足早になるのを何度も抑えながら歩いた。ひたすらお礼を言われ、腰を折った回数はいくつだったかと思って、李子は時折忍び笑いを隠すように下を向きながら歩いた。役に立てたなら何よりだ。
朝が早かったので、部屋に入った瞬間に眠気が訪れた。大きな欠伸をすると、余計に布団が恋しい。夕方からアルバイトが入っているので、お昼頃に起きれば問題ない。
相変わらず雲は灰色のままで青い空を覆い隠しているが、太陽が昇ってきて、朝よりも明るくなっている。寝る時は真っ暗闇を好む李子は、アイマスクを引っ張り出して布団に入った。久しぶりの早起きに慣れない体は、すんなりと眠りについた。
お昼近くになって、セットしていたアラームが吠える。時計を見ていつもより遅い時間に驚いたが、今日は朝に依頼を済ませていたために二度寝をした、ということを思い出した。
李子は普段、怪盗フルムーンとしての依頼がない時は、書店でアルバイトをして生活費を稼いでいる。家とアルバイト先を往復するだけの毎日だ。
二年間続けているが、アルバイト仲間との連絡は業務的な内容のみ。声も小さく、今でも社員に注意される。……自分では必死に出しているつもりなのだが。
今日の夕方からのシフトも、とても憂鬱だ。
李子はポストを確認するために部屋を出た。二階建てのアパートの二階に住んでいるが、ポストは一階に設置されているため、わざわざ階段を下りなければならない。新聞は取っていないので、入っていても葉書や地味な色の封筒の類――のはずだった。
「何、このピンク色の封筒」
それは明らかにダイレクトメールの類ではない。送り主の名前はなく、しかも宛名は「怪盗フルムーン様」と書かれている。
李子は部屋に戻らずに、気になってその場で封筒を開けた。
中には二枚の便箋。白地に黒い横線が引かれただけの、シンプルなデザイン。そして一枚目の中央に書かれた文字に、少しの間、体の自由を奪われた。
『私の×××、盗んでください』
こんにちは、降矢めぐみです。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
書籍用の修正版をデータで持っておらず、考えた結果、修正したものを一章まで残すこととしました。
続きが気になった方は、ぜひぜひ、書籍購入をご検討いただけると嬉しいです。
ありがとうございました。